第3話

 学校を終えたアマネは、リハビリ二日目ということで、長谷宅でぴくぴくと痙攣しながら小便を垂れ流していた。

 どうせ失禁をするだろうということで風呂場でやっていたのは正解だったらしい。椅子に四肢を拘束されたアマネは、今日何枚目かのパンツを排泄物で汚し、そうしてようやく顔面がビニール袋から解放された。

 ぜひゅっと音を立てながら酸素を取りこむ。鼻から小便のにおいがダイレクトに伝わってきたが、気にする余裕もなく力いっぱい肺に入れた。

「せ、せんせい……どう……すか」

 息絶え絶えに尋ねると、右腕をのぞきこんだ長谷は困ったように笑みを見せた。

「うーん、まあ、そう結果を急ぐものじゃないよ」

 その遠回しな否定に、アマネは声を発する気力もなく、血の気の足りない顔でうなだれた。

「今日はここまでにしよう」

「もう一回、お願いします」

 "半・植物人間"は、わずか二週間ほどで"植物人間"への完全成長を遂げる。右腕に忌々しい芽が生えてからすでに三日目だ。時間はあるようでない。

 結局のところ、試行回数を増やす以外に確率は上がらない。そう思って続行を希望したが、長谷はシャワーを浴びせながら拒否した。

「やめておこう。帰る時間には余裕を持たせたほうがいい」

「けど、先生からもらったライトもありますし閃光弾もありますし」

「しょせん気休め……待って閃光弾持ち歩いてるの?」

 昨日、リハビリ終わりに渡された、イチゴジャムの空き瓶で作られた、お手製の閃光弾。『これを使うと一瞬で"植物人間"へ完全成長できるから、いざというときに使ってね』とのことだった。

「暴発したら大変だよ?」

「家に置いてたらいざというとき使えなくないですか?」

「いや、うーん……そうかも…………いやいやいや、やっぱだめだよ。警察に見つかったら捕まっちゃうし。閃光弾って要するに爆弾だから」

 もちろんアマネとしても、実際のところ使う気はない。体裁上、長谷と会うときは持っておいたほうが良いだろうと判断して鞄に忍ばせていただけだ。まさか本人から諭されるとは思わなかったが。

「ライトも閃光弾も、使わないで済むならそのほうがいい。片づけるから手伝って?」

 ぐぬ、と奥歯を噛むアマネを意に介さず、長谷は手首のロープをほどきはじめた。

「ところで、スズが迷惑をかけていないかい?」

「い、いえ、べつにそんなことは」

 突然の問いかけに、拘束から解放された右手をとっさに振った。相手が長谷でなければいくらでも愚痴を吐くところだったが、どうやら彼はスズと親しくしているらしい。彼女を悪く言うべきではないだろう。

「あの、先生はあいつとはどういう関係なんですか」

 右足のロープをほどいていた長谷が顔を上げて何度か目を瞬かせた。

「最初はただの"植物人間"仲間なのかなって思ってたんですけど、なんか、それも違うような気がして」

「ああ、そういう話。スズからはなにも聞いてない?」

「はい」

 アマネの首肯に、長谷は足元のロープに手をかけて、なんでもないように言った。

「端的に言うとね。あの子が"植物人間"になったのは、おれのせいなんだ」

「先生の……」

「おれがスズと出会ったのは、交通事故現場だった。あの子の両親はもうとっくに死んでいて、後部座席のスズだけがギリギリ生きていた。でも、あまり時間が残されていないことは明白だった」

 長谷の話に、アマネの記憶が呼び戻される。小学三年生のころ、いきなりスズが学校にこなくなり、後日担任から、事故があって転校していったと聞いた。おそらくあのときの話なのだろう。

「だから、おれはあの子に受粉させたんだ。"植物人間"になれば、身体の回復力が大幅に上昇するから。そうしてスズは一命をとりとめた。でも両親を失ったうえに、あんな身体になっちゃったからね。親戚からも弾かれて、行く当てもなく、両親の生命保険で生きるのには困らないけど、孤独な生活を送ることになってしまった」

 頑丈に縛ったロープと悪戦苦闘しながら長谷が話を続ける。

「スズを助ける瞬間はあの子のためにできることをって思ってたけど、どうだったんだろうね。もしかしたらおれは、罪悪感にかられないためにやったのかもしれない。あの子は優しいからなにも言わないけど、あのまま死なせてほしかったと思っているかもね」

 長谷の話に、アマネは言葉を出すことができなくなった。想像以上に重たい話に、適切な返答が思いつかない。万能だと思っていたヘラヘラした笑みが役に立つはずもなく、自嘲的に笑う顔から目をそらすことしかできなかった。

「そうそう、渡君。頑張って隠してくれてるけど、正直、スズのことうざいと思ってるでしょ?」

「えっ」

 突如核心を突かれて声に詰まった。ごまかすように視線をそらし、「いや、そのー……」首のうしろをさすりながら言葉を探す。

「隠さなくていい。そう思うのは当然のことだよ。スズ自身がわざとそうふるまっているんだから」

「……どういうことですか?」

「スズの両親は周囲からすこぶる愛されていたらしくてね。葬式の日には、親戚、職場の人、旧友など、それはもう多くの人が駆けつけたみたい。みんなさめざめと泣いて、悲しんで、スズに同情の言葉を投げかけた。それが、今のあの子を作ったんだ」

「つながりがよくわからないんですけど」

「スズの両親は、あまりに良い人たちだった。そのせいでたくさんの人に深い悲しみを植え付けた。だから、良い人であることは悪である。そう考えて、あの子は他人と関わることを拒絶するようになったんだ。親しくなったら別れが苦しくなるから。あの子は優しすぎるから、他人を悲しませないために、他人にきつく当たるようになったんだよ」

「…………なんすかそれ」

 あまりに馬鹿げている。

 そう思って、呟いて、しかしアマネは、彼女を格好良く感じる自分を否定しきれなかった。

 死後悲しませないために生前他人を不快にしたら本末転倒だろ、とか、自己犠牲的な自分に酔ってるだけだろ、とか、ぶつけてやりたい言葉はポンポン浮かんでくる。

 なのに、彼女の中心を貫く太い幹に、たしかに憧れる自分がいた。

 悔しさか、あるいはべつのなにかか。言葉にしにくい感情に思わず顔をしかめる。

「意味わからんですよ」

「"半・植物人間"の間に殺されかけて、"植物人間"になってからも一回危ないことがあって、そのあとくらいかな。今みたいになったのは。交通事故も含めて三回も死にかけて、生死に対して敏感になったっていうのも大きいんだろうね」

「人間やめてからの話、知らないんすけど」

「あぁ、その話もしていないのか。やばい、怒られちゃう」

 長谷は冗談めかして笑った。

「今の話、本人が言ってたんですか?」

「ううん、あの子の日記に書いてあった。ちなみに読んでるところバレて、それから滅茶苦茶きつく当たられるようになったし日記も書かなくなっちゃった」

「ええ……」

 学校ではしっかりとした先生という印象なのだが、思っていたよりろくでもない人なのかもしれない、と思った。

「スズ、いつも目つき悪いし、遅刻してくるし、授業中よく寝てるでしょ? あの子、夜寝るのが怖いんだよ。寝ている間に死んでしまうかもしれないから」

「それは…………なるほど」

 そういうことだったのか、と得心いった。暴走族で夜バイクで走り回っているなんてうわさ話もあったが、まったく的外れではあるものの、筋としては近かったなと思った。

 椅子の上でうなずいていると、ようやく足のロープをほどききった長谷が「無理を承知でひとつ、お願いがあるんだ」と切り出してきた。

「昔みたいに戻れるとは思っていない。でも、一度でいいから、あの子にまた、笑顔になってもらいたいんだ。渡君は昔、スズと仲が良かったって聞いてる。だからというわけじゃないけれど、お願いできないかい?」

「…………わかりました」

 無茶を言う、と思ったが、口に出せるわけもなく。渋い顔で了承した。

「ありがとう。さて、話が長くなったね。渡君たちも速く帰ったほうがいい。人間は江戸時代に夜を克服したけど、おれたちにとってはまだ死の世界だから」


 ●


 スズは湯船に浸かりながらぼーっと天井を眺めた。

 しんどい一日だった。

 当然学校など行くわけがない。自殺行為だ。そう思って寝ていたら、早朝、制服姿のアマネに叩き起こされた。

 曰く、コツコツ積み上げてきた普通の生活を維持するためには登校しなければならないのだとか。

 彼は脳の病気なのかもしれない。この異常なまでの普通へのこだわりは、きっと、死なないと治らないだろう。

 そもそもだ。スズは指を合わせて思い返す。

 小学生のころの彼は、今とは似ても似つかない変な奴だった。

 町中の自販機を回って小銭を集めたり、各コンビニでおでんのつゆだけもらって味比べしたり、歩道橋の手すりで洗濯物ごっこをして危うく落ちかけたりした。

 好奇心旺盛で、何事にもどんどん首を突っこむ、はた迷惑で破天荒なガキだった。

 トラブルメーカーで、周囲の大人やクラスメイトからは疎まれることのほうが多かった。

 スズも、彼のせいで大きめの怪我をすることもあった。

 しかし、それでも、彼と過ごす日々は、刺激的で楽しかった。

 だというのに、消臭剤でも食べたのか、せっかく高校で再会できたと思ったら、まったくもって味気ない男になっていた。

 もっとも、あのころから五、六年の歳月がたっているわけで、むしろ小学校低学年から変わっていなかったとしたら、そのほうがどうかしているとも言えるわけだが。

 それに、どうせ彼は自分のことなど覚えていないのだろう。昔はスズちゃんと呼んでくれていたが、今は有象無象のクラスメイトたち同様、デコトラ呼びだ。

 もう興味もわかない、どうでもいい奴だけれど、ただなんとなく、イラついた。

「つかれた……」

 ため息とともに呟くと、大きなあくびが出た。

 アマネを"植物人間"にした。責任はなくとも、直接的な原因は自分にあるのだから、彼を守るべきである。そう考えて、学校にいる間警戒の網を張り続けた。

 なにしろ、敵はあのうさんくさいヒゲ一人とは限らないのだ。

 教室の中に、教師の中に、あるいは購買のおばさんの中に、敵が紛れこんでいるかもしれない。

 なのに、当事者たるアマネは警戒心のけの字もない。それどころか、ずっと気を張ってうしろをついて周っていたら、「迷惑だからやめて」と言われた。散々である。

 しかも明日の遠足も行く気満々らしい。きっと彼は地雷原を踊りながら駆け巡ることができることだろう。

 一方的に巻きこんだ立場だから強くは言えないが、それにしてもと思ってしまう。

 ただ、そんな不満を募らせてはいても、あのリハビリは見るに堪えない。自分もかつて経験したことだからわかるが、死ぬ寸前までの窒息を繰り返すなど、拷問以外のなにものでもない。ましてやそこまでしても人間に戻れるかどうかわからないなど。

 昨日あまりに辛かったから、今日は椅子に縛り付けて羽交い絞め役をパスさせてもらったが、終わった後のアマネのげっそりとした表情を見たときは、やはり胸が痛んだ。

 脳裏に彼の顔を思い浮かべ、ぱちゃぱちゃとお湯を顔にかけて追い払った。

 人間に戻るの方向はアマネが頑張るとして、自分が考えなければならないのはもう片方、おっさんの襲撃である。

 協力者の存在については未知数なので警戒するしかないが、タイムリミットまでまだ少しある。だから、おそらく向こうはまだ大きくは動かないだろう。

 手段を選ばないタイプなら、初手で校舎裏などというひとけのない場所を指定するはずがない。人の多いところへ誘導し、"半・植物人間"のストックを増やすのが最適解だからだ。そうしなかったのがあの男の甘さであり、今後差し迫った状況で解禁されうるリスクだ。

 結局のところ、読めない部分が多すぎる。今どれだけ考えたところで最終的には出たとこ勝負になる。その際のリスクを減らすためにもアマネには家に引きこもっていてもらいたいわけだが、まさかあそこまで彼が頑固だとは思わなかった。

 そろそろ上がるか。湯船から身を乗り出して、脱衣所へ足を踏み入れる。ひんやりとした空気が身体を現実に引き戻した。

 鏡に映る青メッシュのピンク髪。内側に入れた金色が張り付く。周囲の人間はみな「おかしい」と言うが、スズからしてみれば余計なお世話としか言いようがなかった。誰かのために染めているのではない。こうして自分の姿を目にしたとき、身体の中心が少し軽くなる感覚を得られるから、髪を染め、ピアスをつけ、身体をいじっているのだ。「親からもらった身体を」と教師陣は的外れなことを言うが、親のために生きているわけではないし、身体をいじることで自分を好きになれるならば、両親もきっと喜ぶだろう。

 バスタオルで身体を拭きながらそんなことを考えていると、廊下のほうから足音が聞こえてきた。アマネのそれかと思ったが、にしてはやや軽く、足早である。

 まさかあのおっさんか? 疑念が脳裏をよぎる。と、その瞬間、静かに扉が開いた。

 思わずバスタオルで身体を隠し、背中を向け、首だけひねって扉のほうを確認。

「…………え?」

 中学生くらいだろうか。見覚えのない少女が着替え一式を手に目を丸くしていた。

 あのおっさんではない。アマネでもない。ではこの少女は? そう考えたとき、ふと答えに思い至った。

「もしかして妹さん?」

 アマネの隣の部屋の、引きこもり。

 そこまで思い至って、現状のまずさに気づいた。

 少女にとって自分はまったく知らない不審者で、勝手に風呂を使っていて、ピンクの頭にゴリゴリピアスで、なにより、背中一面に見事な刺青が咲いている。

 もはやこれで悲鳴を上げないほうが間違っているだろう。

「か……」

「か?」

「かっっっっっっっっこいい!!!!!」

 妹(?)は間違っていた。

「え、ちょ、なに」

 目をキラキラさせて近寄ってくる少女に、スズは思わず数歩さがる。

 が、少女の方は構わずずんずんと距離を詰めてきた。

「かっこいい!! 本物!? 本物の刺青!?」

「え、うん、本物、だけど」

「すごい!! かっこよすぎ!! 映画みたい!! 触っていい!?」

「ま、まって」

 少女のうしろにぶんぶんと振られる犬のしっぽを幻視する。バスタオルのガードはまったくもって頼りなく、そのすきまから向けられるあまりに純真な好意に、全身がぞわぞわと拒否反応を示した。

「いーなー!! わたしも刺青入れ「アマネー!! 助けて!!」

 少女の横をすり抜けようとして、しかし引きこもりとは思えない俊敏さを見せつけられた。左腕を掴まれる。だがもはや気にしている場合ではない。スズは"植物人間"パワーでずるずると引きずってリビングへ助けを求めに向かった。

 スズにとって幸いだったのは、バスタオルが右腕を隠しており、少女に"植物人間"であるとバレずに済んだこと。

 不幸だったのは、右腕以外一糸まとわぬ姿をしていることを、「んぎゃーーーーーーーーー!!」アマネと目が合ってから思い出したことだった。


「妹の渡羽永(わたり・はな)です」

 着替えを終えたスズがリビングへ戻ってくると、予想どおり妹だった少女、ハナは少し肩をすぼめて名乗った。

「えーっと、ハナ。こいつはデコト……囲スズ。ちょっと事情があって、昨日今日とうちに泊まってるんだ」

 アマネはいまだ赤みの残る顔をスズからそらして言った。

 そんな彼をじろりと見やるが、よく考えるとまったく彼に落ち度はないので、怒りを向けるのもお門違いである。

 ではこのやり場のない恥ずかしさをどこに持って行ったらいいのか。悶々としていると、

「スズさん!」

 ハナが身を乗り出してきた。

「その髪の毛、自分でやったんですか!?」

「え、髪?」

 てっきり刺青の話をされるだろうと思っていたので、声がうわずってしまった。

「わたし、髪染めたりピアスしたり刺青したり、そういうのに憧れてるんです」

 ハナは身体をもじもじと俯き加減に語った。

「でも、赤に染めて学校に行ったら、先生にすっごい怒られたし、クラスのみんなにも似合わないって散々に言われて……」

「ふーん? それで黒に戻したの? 意味わかんないね」

「えっ?」

 パッと顔を上げるハナ。スズはつまらなさそうにそっぽを向いて言った。

「やりたいんでしょ? ならやればいいじゃん。アンタの身体のことをなんで他人が決めんのさ」

「じゃ、じゃあ、教えてください! わたしに似合うやつ!」

「いや、話聞いてた? アンタに似合うかはアンタが決めろって」

「だって、わたしじゃわかんないから……」

 ハナは輝かせた顔を再び俯け、両の親指をねじねじとすり合わせた。

 ううむ、どうしたものか。眉根を寄せて脚を組んでいると、黙って聞いていたアマネがふいに、妙に柔和な顔で言った。

「協力してやってよ」

 彼の言葉にハナがはっと顔を上げた。立ち上がり、両の拳を胸の前にもってきて「おねがいします! スズさん!」ふんすと言う。

 キラキラとした目。躁鬱が激しすぎるだろというツッコミは入れないとして、それはもうおねがいではなく了承されてやる気を出したときのポーズだろうと思った。あとアマネの柔らかい表情はちょっとムカツク。

 が、こうしてふたりがかりでたたみかけられると、断るのも難しく、

「は~~~。わかった。少しだけね」

「やったー!!」

 ハナは諸手を挙げて歓喜の声を上げた。

「じゃ、俺は風呂入ってくるから存分に女子トークしといて」

 あとは任せたとアマネが目で語って、さっさと引っこんでいってしまった。

 そういえばハナは先ほど風呂に入ろうとしていた気がするが……と思って彼女を見たが、今はまったく風呂のことなど眼中にないらしい。

 兄妹そろって面倒くさい奴らだ、と思った。

 仕方ない。最低限の知識と自信だけ与えたら満足するだろう。

 我ながら甘っちょろいなと思いながら、ハナの部屋へ向かった。


 ●


 スズ宅で回収してきたライトを設置していると、スズが部屋に戻ってきた。

「悪かったな。面倒かけた」

 思ったよりもげっそりしていて、思わず労いの言葉が出てきた。

「ホントだわ。あの子ホントにアンタの妹? キャラ違いすぎない?」

「あんなにグイグイいくところは俺も初めて見たかも」

 アマネにとっても、先のハナは驚きが大きかった。一年前、髪を赤に染めたときは思春期特有の背伸びだろうと思っていたのだが、まさかこれほどグイグイくるとは。

「まあでも良かっただろ。お前にもあんなに好意向けてくれる奴がいたなんてな」

「……ああいうのは落ち着かない。悪いけど、できればもう関わりたくない」

「別れを悲しませたくないからか?」

 そっぽを向くスズへぼそりと尋ねると、ぎゅん、と彼女の顔がこちらを向いた。

「ハセか?」

 情報の出所が一瞬で特定された。

「はー。あいつ今度シメる」

「お前、余計なこと考えすぎじゃね? 悲しまれようと喜ばれようと、どうせ死んだらわかんないんだから、生きてる間を充実させたほうがコスパいいだろ」

 そっちのほうがハナも喜ぶし、と思う。

 一年ほど前からずっと引きこもり、会話することもほとんどなかった妹だ。あんな生き生きとした顔を見てしまったら、今後もヨロシクしたくなるものだ。

「つうかもう手遅れじゃねえ? 今お前が死んだら、ハナは間違いなく悲しむぞ」

「それは困る」

「あとやっぱ、自分の命くらい自分で守るから、もう明日は来なくていいぞ」

「アンタ戦えないだろ」

「人間に戻れるまで逃げ切ればいいんだろ? 戦う必要ねえじゃん」

「あんな怪しいおっさんをホイホイ信じたくせに?」

 ぐぬ、と言葉に詰まる。

「そもそもお前はなんで俺を守ろうとするんだよ。そんな義理ないだろ」

「責任くらいは果たさないとね」

「……お前、自分は悪くないって言ってただろ」

「悪くないよ。アタシはなにも悪くない。だから謝罪も贖罪もしない。ただ、それでも、直接的にはアタシが原因を作った。だから最低限やることはやる」

「ならもうじゅうぶんだ。長谷先生を紹介してもらった時点でお前の役割は終わってるんだよ。俺の望みは人間に戻ることであって、守ってもらうことじゃない」

「…………死にたがりなのか?」

「そんなわけないだろ」

「なら大人しく守られろって」

「そうしたらお前が死ぬかもしれないだろ。ハナを悲しませる気か?」

「……アンタを守って死んだなら、きっと、悲しみより誇らしく感じてくれるだろ」

「ハナがどう思うかは知らんけど、そんな死に方をしたら、俺はたぶん一生引きずるよ。お前のことは嫌いだけど」

「……………………くっさ」

「やっぱ今すぐ死んでくれ」

 苦い表情を浮かべるスズに、アマネは顔をしかめて早口に言う。少し恥ずかしいセリフだという自覚はあったが、実際に指摘されるとイラっとした。

「ハセはほかになにか言ってた?」

「あとは、夜眠れないって。悪かったな、昨日一昨日と俺だけ先に寝て」

「……いいよ。気を遣われるほうがウザい」

 口をとがらせ、そっぽを向いて言う。

「なあ、なんとかできないのか? お前の不眠症。昼間なら寝れるんだろ?」

「まあ、夜よりはマシだけど」

 スズがきょとんと首をかしげる。

「なら、たとえば布団の中でいくつもライトを照らすとか、懐中電灯を頭に当て続けるとか、」

「待て待て待て。なんだ急に。なにか企んでるのか?」

 両腕で身体を抱えるようにして、身体をそらし、警戒心あらわな目を向けてきた。

「べつに、普通だろ」

「いーや普段のアンタなら絶対小バカにしてくる。ガキかよって笑うとこだ」

 そんな風に思ってんのか、とか、心外だ、とか、いろいろ言いたいことはある。が、それらをこらえて、アマネは呟くように言った。

「感謝してんだよ」

「だからアンタを守ってんのはあくまでアタシが」

「そうじゃなくて」

 彼女の言葉を遮って、アマネは続けた。

「去年、ハナが赤い髪を学校でクソ叩かれた日。俺は本当は慰めるなり励ますなりしてやるべきだったのに、虫の居所が悪くて、つい冷たく当たっちまったんだ」

 言い訳にもならないが、塾で受けた模試の結果が悪く、そのときのアマネは精神状態がおかしくなっていた。赤い髪がいいとは今でも思わない。だが、ハナがそうしたいのならば尊重してやるべきだった。兄として。だというのに、

『そりゃそうだろ。赤なんて普通じゃねえって』

 そんな冷たい言葉をかけてしまった。

 次の日にはハナの髪は黒に戻っていて、その数日後には部屋から出てこなくなった。

 この一年、廊下ですれ違ったりすることはたまにあったが、こちらの姿に気がつくと彼女はすぐに目を伏せた。怖れか、怒りか、失望か。どの感情が彼女の瞳に宿っているのか、読み解くだけの勇気が、アマネにはもう残っていなかった。

「ハナがあんな明るい顔してんの、久々に見たんだ。もう、二度とないかもとすら思ってた。本当に感謝してる」

「…………ふぅん。アンタも案外兄貴してんのね」

 ふっとスズが表情を緩める。まともな兄貴じゃないからこうして一年もの間引きこもらせてしまったわけだが、わざわざ口に出すようなことでもない。胸の内にしまって、かわりに彼女の大きな瞳を見つめて言った。

「だから、なにか返したいんだよ。俺がパッと思いつくアイディアくらいもうとっくに考えてるだろうけど、なにかヒントになることくらいなら言えるかもしれない」

「………………………………なら、その、一つ協力してほしいことがないわけでもないんだけど」

 たっぷり沈黙を挟むと、わずかにそっぽを向いてスズは言った。

「なんだ? 俺にできることならなんでもする」

「……きまくら、に…………」

「ん?」

 ごにょごにょと蚊の鳴くような声。

 スズはそっぽを向いたまま、頬を赤らめ、ぶっきらぼうに言った。

「だきまくらに、なれ」

「…………………………………………………………………なんの話?」

 たっぷりと思考時間を挟んで、しかしまったく理解ができなかった。だきまくら? 抱き枕? 変換間違いだろうか。

「アタシ、小学生のころに親が両方とも死んでて」

 頭上にクエスチョンマークを大量に浮かべていると、両手をもじもじと握り合わせながらスズが話し始めた。

「それまで、寝るとき、いつも親に抱き着いて寝てたんだよ」

 赤く染めた顔を伏せ、たどたどしく言う。

「抱き枕買ったりもしたんだけど、やっぱり人間の身体じゃないからかなんか違くて、落ち着かないっていうか、しっくりこなくて」

 整頓されないまま、言葉を紡ぐ。

「けど頼る人もいなくて、つまり、なんていうか、生身の人間で試したいっていうか」

 顔を上げ、つられて真っ赤になっているアマネへ、上目遣いに言った。

「一回、一回だけでいいから、試しに、抱き枕に、なれ」

「…………………………………………………ハイ」

 そう答えるしかなかった。

 正気か? とか、それはハナにお願いしろ、とか、言いたいことは山ほどある。あるが、首まで到達するほど顔を真っ赤にし、羞恥に耐え、それでもお願いをされては、首を縦に振る以外に選択肢などなかった。

「そ、そうか。たすかる。なら、アタシは歯磨きしてくるから、待ってろ」

 機械のようにぎこちない身体を動かして、スズは部屋を出て行った。

「………………いや、そうはならんだろ」

 一人になった空間でアマネは、ようやくその言葉を口にした。

 すでに歯磨きも終え、寝る準備を整え切っていたアマネは、手持無沙汰に、しかしソワソワとしながら待った。

 そうして十五分ほどして、扉が開いた。

「ま、またせた」

「い、いや。大丈夫」

 お互いにぎこちなさすぎる。初夜を迎えるカップルか、と脳内でツッコミを入れ、一拍おいて「ちがうちがうちがう!」全力で否定した。

「え、どうした?」

「なんでもない。すまん」

 目を丸くするスズへ手を振って、話を打ち切る。

 これはあくまで、スズの不眠症を解消するための実験だ。やましい気持ちもなければ、そもそもスズに対してそういう感情も抱いていない。

 たとえトレーナーと短パンというラフな格好で、豊満な胸が強調されて、すっぴんとは思えないほどに美人で、彼女が初恋相手だったとしても。

「じゃ、その、布団入るか」

 前かがみにこちらへ近づいてくる。少しえりの伸びた服の隙間から、豊満の谷が顔を見せる。やめろやめろやめろ。理性がおかしくなる。

 凝視しそうになる目を顔ごと全力でそらして布団に潜りこんだ。

「なんか、せまいな」

 もぞもぞと入りこんできたスズが苦笑しながら言うが、シングルベッドだし当たり前だろ、と突っこむ余裕すら今のアマネにはない。

「俺あっち向いてたほうがいい?」

「いや、このままでいい。昔からそうだったから」

 向かい合った状態で言う。

「あ、一応言っておくけど、これ『そういうこと』じゃないからな。アンタなら大丈夫だとは思うが、念のため」

「わかってるよ」

「じゃ、しつれいして……」

 スズはそれだけ言うと、顔をこわばらせたまま、わずかに震える右手を背中に回してきた。

 ふわりと柔らかいにおいが鼻腔をくすぐった。うわなんだこれ、と、目がぐるぐるする。同じシャンプーを使ったはずなのになんでこいつはこんないいにおいがするんだ。

 そんな風に戸惑っているアマネに構わず、スズは胸もとに顔をうずめてきた。

「手まわして」

 蚊の鳴くような声が響く。見おろすと、真っ赤な耳が目に入ってきた。

 アマネはおっかなびっくり左手を彼女の背中へ伸ばした。

 指が触れた瞬間、その華奢な感触に思わずひっこめる。

 小さく息を吸って、おそるおそる、もう一度彼女の背中に左手を伸ばす。

 しっとりと汗で湿るトレーナーに手のひらがおさまった。

 心臓が痛いくらいに早鐘を打ち、聴覚はバグったように鼓動の音ばかり伝える。

「ん……おちつく」

 スズの呟くような声も、今のアマネの耳には届かない。

 左手がじわりと汗ばむのがわかる。彼女に伝わってしまっていないだろうか。

 十月の夜ともなるとそこそこ冷えこむ、はずなのだが、今のアマネの身体はまるで熱帯夜のように火照っていた。

 石像のように全身の筋肉を硬直させて耐えていると、まもなく静かな呼吸音が聞こえてきた。

 どうやら眠りについたようだ。ほっと、小さく息をつく。よっぽど睡眠負債がたまっていたのだろう。役に立てたのならば、それは素直に喜ばしい。

 と、そこまで考えたところでふと気づいた。

「……これ、ひょっとして朝までこうなのか?」

 あまり深く考えていなかったが、しっかりと背中まで手を回し、足を絡めた状態でスズは寝入ってしまった。ここで起こさずにひっぺがえす自信はない。

 だが、アマネのほうは全く眠れる気がしない。鼓動はいまだ落ち着かず、身じろぎを取ることもできず、胸もとから無防備な寝息が鼓膜を震わせる。

 とにかく、できることはなにもないし、このまま起きていて変な気を起こしてしまってもイヤだ。スズの信頼を裏切ることになるし、それ以上に、彼女は初恋相手とはいえ、今はむしろ嫌いな女子だ。ここで正気を失ったことをしてしまったら、アマネの中のなにかが音を立てて崩れるような気がした。

 寝よう。それしかない。寝てしまえばこちらの勝ちだ。

 アマネは心の中で言い聞かせ、目を閉じた。

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