第2.5話

 フリー記者、木曽治――という名刺をウエストポーチに入れた、あごヒゲの男、御津寛(みと・ひろし)は築30年ほどのアパートの玄関を開けると、

「たっだいまー!」

 テンション高く言って靴を脱ぎ散らかし、勢いのままロフト付きの10畳ワンルームへとドタドタ走った。

「菱ちゃんなぐさめてー!」

「寛うっさい近所迷惑」

 座椅子に座ってパソコンに 文章を打ち込んでいた少女、御津菱子(みと・りょう)は、ちらりと男のほうを見やると、すぐに視線をパソコンに戻した。

 寛はそんな冷たい反応にもめげず、彼女の頭にあごを乗せるとじょりじょりした。

「菱ちゃんは冷たくなっちゃったなあ……昔はあんなにお兄ちゃんっ子だったのに……これが大人になるってことなのね……」

「まだ中学生なんだけど私。いつの時代の話?」

「三歳くらい?」

「それ見るもの全てに好感を抱く時期じゃない? 寛以外の誰が兄貴だったとしても変わんないよたぶん」

「傷心中に追い打ちかけるのやめて!」

「あーもー重い暑い邪魔タバコくさい! 晩ご飯あっためるからどいて皿出して!」

「はーこれが反抗期ってやつかしら……」

 寛はおよおよと泣き真似をしながら菱子から離れ、キッチンの戸棚へ向かった。

 菱子も廊下と一体化したキッチンへ向かい、ナベの蓋を開けて温度を確認する。まだ作ってからそれほど時間も経っていない。火を入れなおす必要はなさそうだ。

「いつも悪いねえ。作ってもらって」

 寛がふたり分の深皿を渡して言う。

「べつに、趣味だから。今日のは結構うまくできた自信がある」

 菱子はお玉で盛り付けながら、強気に笑ってみせた。

 シチューとサラダとごはんをよそい、ちゃぶ台の上にふたり分並べる。

「おあがりよ!」

 菱子は半年ほど前に読んだ食戟のソーマに影響されてか、よく幸平ごっこをするようになった。

 それ自体は中学生らしくてほほえましいのだが、

「……まっず。なに入れたのこれ」

 創作料理の当たりはずれの激しさまで真似しなくていいと思う。

「えーうそ。いやでも寛は味音痴だからなあ。もぐもぐ……………………ところでパンが賞味期限ギリだったの思い出したし、あとは寛食べていいよ」

 一口嚥下した菱子はちゃぶ台から立ち上がり、冷蔵庫の上に置いてある食パンを手に取った。

「菱ちゃんなんでいつも味見しないの?」

「味見は弱者の理論だもの。料理上手として生まれた私が味見までしたらそれはもう卑怯でしょ?」

「ソーマだけじゃなくてバキからも悪い影響を受けてる……」

 寛はもそもそと食べ進めながら嘆いた。

「ほら、寛お仕事頑張ってお腹減ってるでしょ? おかわりもあるからね? 私ダイエット中だから気にせず食べていいよ?」

「オレに平らげさせようとしてる?」

「ぴゅーひゅるるー」

 そっぽを向いて下手な口笛を吹くと、「そ、それよりさ」パンの袋を留める青いアレをはずしながら、ごまかすように菱子は言葉を続けた。

「私もそろそろスマホ欲しいんだけど」

「だめだめだめ。菱ちゃんにはまだスマホは早いよ」

「いやむしろ寛のほうが早いんじゃない? 絶対私のほうが使いこなせるよ」

「ゆ、ユーチューブ見るくらいならできるし」

「それは使いこなせてるって言わないのよ。宝の持ち腐れだし、絶対私が使ったほうがそのスマホも喜ぶよ」

「スマホ的には今のほうが楽できて嬉しいんじゃない?」

「……たしかに、そうかも」

 納得したように言いながら菱子は食パンにサラダのいろどりを加えると、冷蔵庫からハムを取り出して乗せ始めた。窓の外さえ見なければもう完全に朝ごはんである。

「ていうか寛、いい加減スマホやパソコンの使い方覚えなよ。仕事の原稿やら編集やらメールのやり取りやら妹にやらせるってプロとしてどうなの?」

「いやーマジ助かってる。明日の飯に困らないで済むのは菱ちゃんのおかげだよ」

 名刺に書いた木曽治という名前こそ嘘であるが、寛がフリーの記者という職業に就いていること自体は事実であった。

 そんな不安定な仕事で自分と菱子の生活費を稼いでいるわけだが、いかんせん昔からカタカナが苦手というか機械類がダメで、そのあたりの仕事をすべて菱子に任せていた。

 用語を聞いてもチンプンカンプンだし、テキストを読んでも目がチカチカして頭の方が先にショートしてしまう。仕事先との連絡を取るために一応スマホは持っているが、菱子の言う通りまったく使いこなせてはおらず、たぶんこれなら旧時代の遺物たるガラケーでもなんら変わらなかったと思う。若い子はいいわねえなんて自虐的に言ったりもするが、まだ自分も20代前半だし、なにより高校生のころからこうだった。

 当時の新聞部で、寛の仕事はもっぱら取材と文章であり、記事の作成には一ミリも関わらなかった。

 写真も下手くそだったが、フリーの記者として生計を立てるならばと死ぬ気で技術を磨いて、結果、百枚に一枚くらいは使えそうな写真を撮れるようになった。

 今は手書きでノートにまとめたものを菱子に打ち込んでもらい、写真もデジカメから取り出したものを一覧にして見せてもらい、どの写真を採用するか選択している。

 プロとしてすべて自分でやるべきというのはまさしくそのとおりで、一ミリも反論の余地がないのだが、そうは言っても寛にとって機械を使いこなすのは100メートルを9秒台で走るような無謀に感じられた。

「それで、仕事でなにかあったの?」

 ぼんやりと高校生のころを思い出していると、いつの間にか平らげた食パンの袋をたたみながら菱子が尋ねてきた。

「わかる?」

「なぐさめてって言ってたじゃない」

「それがさ、アポ取ったつもりだったのに取るの忘れてたんだよ。おかげで警備員に全力で止められて」

「自業自得じゃん」

「いやいやいやそこはお互い思いやりっていうか、ほらこう、なんやかんや人情に負けて通してほしいと思わない?」

「……寛たしか24歳だっけ。私はこんな大人にならないようにがんばろ」

「菱ちゃんが養ってくれるならオレも安心だなあ」

「兄として情けなくならない?」

 じとーっと冷たい目を向けられる。

「ていうか、そんないかにも怪しい見た目してたら、警備員だって通せるわけないでしょ。せめてヒゲ剃りなよ」

「あごヒゲってダンディじゃない?」

「寛の場合不審者っぽいかなあ」

 そんな話をしながら、寛はなんとか皿のものを食べ終えた。

「これ残りってまたカレーにするの?」

「そうね。この味を食べたいなら残しておくけれど」

「思い残すことはないからカレー色に染めちゃって」

 ぶんぶんと首を振って言うと、菱子は自分の皿の中身を鍋に戻した。

「洗い物しとくから、菱ちゃんお風呂入っといで」

「いつも悪いわね」

「ほかのことほとんどしてもらってるんだから、これくらいはしないと」

 寛が食器を片付け始めると、菱子は着替えを持って部屋を出て行った。

 その背中――腕から生える葉を見て、寛は拳を強く握った。

 漏れそうになる声を喉奥に押し込み、皿に水道水を溜めて、一旦ベランダに出た。

 日の沈んだ秋の空気は少し肌寒く、低い位置にオリオン座が見えた。

 遠く、シャワーの音を確認して、タバコに火をつける。

 大きく煙を吐き、天を仰いだ。

「……あー、くそ」

 油断していた。それに尽きる。

 味蕾細胞が苦味を訴える。

 病院に連れ込んだ時点で、勝ち確だと思ってしまった。

 ピンクの女を呼び出す手紙も、校舎裏に仕掛けた暗幕も、ウエストポーチに仕込んだナイフも、全て上手く作用した。

 偽物の名刺も、忍び込んで作った病院の鍵の複製も、真偽織り交ぜながら作った"植物人間"に関しての話も、できすぎなくらいにハマった。

 あの女の乱入。それだけが想定外だった。

 あまりに意外過ぎて、彼らが逃げたあとについ追ってしまった。

 それさえなければ、もしかしたらまだ少年が自分を信じるという可能性も残されていただろうに。

 そもそも、どうしてバレたのか。

 もしかしたら発信機の類をつけられているのかもしれないと、家に帰る前に全身確認したが、どうやらそういうことでもなさそうである。

「つうかむしろこっちからつけておけって話か」

 "半・植物人間"と化した……そうさせた少年を完全に見失ってしまった。

 わずか二週間のタイムリミット。

 あの少年が"植物人間"へと完全に変わってしまう前に、なんとか根を引っこ抜かなければならない。

 菱子を、人間に戻すために。

 おそらく彼らはもう学校には来ないだろう。地雷原を手ぶらで歩くようなものだ。

 やはり、学校に忍び込むしかないだろうか。彼らの居住場所は見当もつかない。今は個人情報に厳しい時代だから、なかなか探り当てるのは骨が折れるだろうが、仕方ない。

 もっとも、最悪のシナリオとして、すでにあの少年がピンク女によって殺されているという可能性もないとは言えないわけだが。

 あれだけ派手に助けたのだ。きっと彼女は少年の信頼を得ていることだろう。寝首をかくなど造作もないはずだ。

 そうして彼女が人間に戻ってしまえば、また手がかりを失ってしまう。

 さあ、どうしたものか。悠長にしているヒマはないが、焦りも禁物。

 自分のしようとしていることは、れっきとした殺人なのだから。

 寛の吐いた煙が、煌々と輝く月を曇らせた。

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