第2話

 スズとは、小学校低学年のときに同じクラスになった。

 どうせ彼女は覚えていないだろうが。

 そのころのスズは、髪を染めることもピアスをバキバキにつけることもない、ごくごく平凡で明るい女の子だった。

 一方のアマネは、当時、周囲と調和することが苦手だった。

 我が強く、好奇心旺盛で、危険を理解しない、いわゆるトラブルメーカーだった。

 親や教師から怒られることも多く、教室内でも孤立していた。

 そんな彼と親しくしてくれた唯一の友人が、スズだった。

 誰にでも明るく、優しく、距離感が近かった。

 たまたまふたりの家が近く、登下校で会う機会が多くあり、そうしてアマネが彼女に惹かれていくのは当然の帰結だった。

 当時のアマネは、彼女がいるならばそれで大丈夫だと思っていた。

 だが、そんな幸福も長くは続かなかった。

 ある年の、セミが活動を終えたころだった。彼女が学校に来なくなった。ピンポンを押しても、裏口から庭に侵入しても、人の気配がまったく感じられなかった。

 数日後、転校したことが担任教師の口から伝えられた。

 交通事故に遭い、両親が亡くなり、唯一生き残った彼女が親戚に引き取られていったのだと。

 そこに至ってアマネは、自分の抱いていた感情が初恋だったのだと理解した。

 だから、高校に入学してクラス分けの表を見たとき、目をこすって何度も確認した。

 こんな珍しい姓名の女子がほかに存在するはずがない。

 胸おどらせて教室へ入り、HRが始まる前の初々しい空気の中、スズの姿を探した。

 発見し、もう数度目をこすった。

 ピンク色だった。

 目薬をさして、瞑想して、明鏡止水の境地に至って、再び目を向けた。

 ピンク頭が見間違いでないことを理解した。

 ならばきっと誰か別の人間がスズの席に座っているのだろうと考え、入学式をこなし、教室での自己紹介の時間を経て、

「囲スズです。……よろしく」

 ピアスを装着した唇から放たれたぶっきらぼうな声で、ようやく心から認めるに至った。

 彼女は囲スズであると。

 あの、懐かしくも美しい日々。平凡で可愛らしい少女。

 それらが思い出の向こうにあり、変わり果ててしまったことを理解した。

 知らないほうが幸せなこともあるのだと、その日初めて知った。

 可愛さ余って憎さ百倍という言葉がある。アマネは、かつて抱いていた己の感情にすら、ある種の嫌悪感を抱くようになった。


 茜色の空が半分以上藍色に浸食されたころ、アマネたちはなんとか玄関に転がりこんだ。

 家中の電気をつけながら二階に上がって左側、二つ目の扉を開けると、アマネは入ってすぐ右手のベッドに腰をおろした。

「そのへん座って」

 入口付近できょろきょろしているスズに声をかける。いまさら遠慮するような性格でもないだろうにと思っていると、彼女が目を丸くして言った。

「ホントにこの部屋に住んでる? 綺麗すぎない?」

「いやむしろ生活感あふれてるだろ」

 冷静に突っこみながら、つられて部屋の中を見回す。

 六畳のフローリングは、入ってすぐ右手に乱雑畳まれた布団を乗せたベッド。その奥には、小学生のころにシールを貼りまくり、写真立てやキーホルダーといった小物類のせいで教科書を広げるスペースのなくなった勉強机が鎮座している。

 左側手前のタンスは朝日々照らされ続けた結果、色あせてしまった。

 真正面と左の窓をふさぐカーテンは年季が入っており、その間の本棚の上には漫画や雑誌が山積みされている。もっとも今はそれを隠すように姿見鏡を手前側に置いているから、彼女からは見えていないだろうが。

 なんにせよ、床に物が置いていないだけの、お世辞にも綺麗とは言えない、雑然とした部屋だ。

「だって、床にもベッドにも物が置いてないし」

「お前の綺麗の基準おかしくね?」

 どんな部屋に住んでいるのだろうか、と少し心配になってしまう。

 そんなアマネの心中をよそに、スズは扉を閉めると、タンスにもたれかかるように座った。ミニスカートのすそから、傷一つない綺麗な太ももが姿をあらわす。

「やけに静かだけど、アンタ家族は?」

「母親は出張、父親はいない、妹は隣で引きこもってる」

「ふーん、まあ、その方が都合はいいか」

 ひとりごちると、スズは温度を感じさせない声で尋ねてきた。

「あのおっさんからなに聞いた?」

「なにって……えーっと、お前が"植物人間"で――」

 指折り数え、ひとつひとつ思い出しながら木曽の話を語った。

「――と、大体こんな感じ? 国がどーのこーのってのは本当かよって半信半疑だけど」

 ざっくりとだが、ひととおり話し終えた。

 黙って聞いていたスズはやがて、渋い顔を浮かべると大きく息を吐いた。

「なるほど、詐欺師のやり口だ。半分くらい正しいけど、残りは嘘だな。国が云々もまったく聞いたことない」

「お前が知らないだけって可能性もあんじゃねえの」

「ゼロとは言わない。あいつのほうを信じるなら、今から病院に帰ればいい」

「……で、どれが本当なんだよ」

 顔をしかめて訊く。現状、木曽に対する感情はかなり不信に寄っているが、だからといって別段スズを信用しているというわけでもない。あの一瞬で彼女の手を選んだのも、指運みたいなものだ。

「アタシが"植物人間"なこと。アンタがアタシの花粉で"半・植物人間"になったこと。二週間くらいで完全成長すること。光合成をすること」

「光合成はマジでするのか」

「あとはだいたい嘘。もしかしたら木曽ってのも偽名かも。あと、あいつが話してないこともある」

 そこまで言ってわずかに間をおくと、スズはどこか慎重に言葉を続けた。

「アタシもアンタも、暗闇の中で生きられない」

 その乾いた声に、アマネは心臓の絞まる感覚をおぼえた。

 拘束されたわけでもなかったのに、呼吸ができず、身体が動かず、窓の割れた音にすら気づけなかった。

 あれほど死の気配を近くに感じたのは初めてだった。

「"植物人間"は暗闇に放られれば、まったく抵抗できずに死ぬ。たとえば今この瞬間、もし停電したら、アタシらは窒息死だ」

「その生き方綱渡りすぎないか?」

「だから、ふだんは常に電池式のライトを用意してる。アンタ持ってる?」

「ない」

「まあ、今日は仕方ないか。明日アタシのやつ持ってきてやるよ」

 スズはそう言って、話を戻した。

「"植物人間"は、光の強さによってパフォーマンスも変わる。今日みたいに天気のいい日は五メートルくらい跳べるけど、曇天だと半分くらいになる」

「お前、天気悪いときいっつも学校休んでたけど、もしかして」

「雨の日は最悪。ちなみに昼と夕方でも違ってくる」

「難儀な体質だな」

「他人事じゃないからな。アンタも仲間入りだ」

 彼女の冷たい言い方に、アマネは反射的に声を荒げそうになった。

 誰のせいで、と感情のままに言ってやりたい気持ちを喉奥に押しやり、小さく息を吐く。

 瞼を閉じ、胸の内を落ち着けてから彼女の目を見て尋ねた。

「率直に教えて欲しいんだけどさ。なんで花粉飛ばした?」

「開花すると力が湧くし、傷もふさがるんだよ。その副作用として、花粉が勝手に飛んでいく。そこはアタシにはどうしようもない」

「花粉飛ぶって分かってんならせめて周囲確認してからやってくれよ」

「したよ。ざっと見回して、誰もいなかったから開花した。アンタがいるなんて知らなかった」

「……そういうことか」

 言われてみると、たしかにスズは開花する直前、周囲を確認していた。あのときは木曽の仲間を探しているのかと思ったが、あれは花粉を飛ばして大丈夫か確認をしていたらしい。

 とっさに隠れたあの立ち回りがむしろ己の首を絞めることになるとは、さすがに予想できるわけがなかった。

「で、お前なんで狙われてんの?」

 アマネの問いかけに、スズは一瞬沈黙を挟み、わずかに目を伏せて答えた。

「断定はできないけど、たぶん、アイツの狙いはアタシじゃなかったっぽい」

「どういうことだ?」

 訝しむアマネの腕を指差し、スズが言った。

「"半・植物人間"の根を食うと"植物人間"は人間に戻れるらしいんだよ」

「なんで?」

「さあ」

「つうかそもそも、植物は暗闇じゃ死なないのに、なんで俺たちは死ぬんだ? 身体能力が上がるってのも意味不明だし。もはや植物関係ねえじゃん」

「知らん知らん知らん。自分の身体の原理なんて今までだって考えてこなかっただろ? だからもう、そういうものだって考えろ」

 苛立たしげに言う。

 刺々しい言葉だが、なるほど、主張自体はそう間違っていなかった。

 薬を飲むときや注射を打つとき、それがどういう働きをしてどういう原理で身体に変化をもたらすかなんて考えもしてこなかった。ならば"植物人間"が人間に戻るための薬が"半・植物人間"の根である、と言われたならば、ひとまずそうと受け入れるべきなのかもしれない。

 と、そこまで考えて新たな疑問が首をもたげた。

「木曽って"植物人間"なのか? 腕はまっさらだったけど」

「おそらく人間。だから、もしかしたらバックに"植物人間"がいるのかも。家族か友人か」

「そういうパターンもあるのか。けど、そういう話なら俺は構わないけどな。向こうは人間に戻れて俺も芽が取れてウィンウィンだろ」

「引き抜かれたほうは死ぬんだよ。痛みによるショック死なのか、根がどっか心臓あたりに繋がってるのかは知らんけど」

 言われて思い出す。駅前で芽を発見したとき、反射的に引っこ抜こうとした。が、びくともせず、かわりに絶叫するほどの激痛におそわれた。

 なるほどたしかに、これを力ずくで引き抜かれたら、文字どおり死ぬほどの痛みがおとずれるだろう。

「ただ、これはあくまでアタシの予想な。実際のところ、あくまでアタシが本命でアンタが釣り餌っていう可能性もないとは言えない」

「狙われる心当たりがあるのか」

「"植物人間"ってだけで恨みを買うこともあるんだよ。人間に戻るためにわざと他人に受粉させるような奴もいるから」

 スズはどこか遠い目をして言う。

 もしかすると、彼女もそういう相手に会ったことがあるのだろうか。そう思った。

「ところで、親はいつ帰ってくんの」

「さあ。たぶん一か月は帰ってこない」

「じゃあ、今日から二週間ここに住むわ」

「…………は?」

 なにを言っているんだ、とまじまじ見つめるが、彼女の表情は冗談を言っているようにはまったく見えなかった。

「次おそわれたら対処できないだろ。それに、生活の中で気を付けることもわからないだろうし。だから、アタシがそのへん教えながら守ってやるって話」

「その恩着せがましい思考回路は完全に有難迷惑だからやめてほしいんだけど、そもそも次があんの?」

「アイツの狙いが"半・植物人間"の根なら、な」

「お前が狙いの可能性もまだあるんだろ?」

「そのときはそのときで撃退するから問題ない」

「だいぶ問題ある……いや待て、なんか俺が"植物人間"に完全成長するの前提で話が進んでるけど、なんか元に戻る方法ねえの」

 アマネの問いかけに、スズは数瞬の間をおいて、声を濁らせながら言った。

「あるのは、ある」

「なんだよ歯切れ悪い。あるならさっさと教えてくれよ」

「ここからわりと近いところに、"植物人間"の知り合いがいる。明日、朝一で行く」

「は? 明日って、学校どうすんだよ」

「無理。諦めな」

「なら今から行く。その人のとこ」

 語気を強めて立ち上がる。

 が、スズは視線を合わさず、冷淡に言った。

「死にたいなら好きにしろ。もう日も落ちたし、アタシは行かない」

 彼女につられて窓のほうへ目をやる。カーテンに遮られて外の様子はうかがえないが、夜の闇が降りていることは見なくてもわかる。

 アマネは小さくため息をついた。

「デコトラさ。お前、さっきからなんでそんな偉そうなの? そもそもこうなったのはお前が原因だろ」

 声に、やり場のない苛立ちが乗る。

 故意ではないとはいえ、彼女の花粉によって、アマネは腕から芽を生やすバケモノになってしまったのだ。もう少し申し訳なさそうに、しおらしい態度を見せてくれるならばなにも言う気はなかったが、そのあまりにいつもどおりの姿に、つい声が荒っぽくなった。

 だがその抗議に対し、彼女はぷいとそっぽを向いて、冷たく言い放った。

「悪いのはあのおっさんだろ。殺されかけてたんだし、アタシのは正当防衛。アンタは運が悪かった。それだけの話」

「ほかの誰かが言うならまだそうかもって思えるけど、お前本人に諭されるのだけは納得いかん」

「なら謝ったらいい? 大人しく死を受け入れずに開花してすみませんって頭を床にこすりつけたらアンタは満足する?」

 ぐむ、と喉が詰まる。

 わかっている。スズを責めるということは、彼女の死なないための抵抗を否定することになる。

 だからこれは、ただの八つ当たりだ。どうしようもない現実と、それがよりにもよって嫌いな女子からもたらされたという事実への苛立ちをぶつけただけだ。

「……そういう言い方はずるいだろ」

 ただ、今の自分の感情がそうであるとわかったところで、この現実を受け入れられるかというと、それはまたべつの話であった。

 そうして言葉が見つからずに黙りこんでいると、スズがわずかに声を軽くして切り出した。

「ところで、汗かいたし風呂入りたいんだけど」

「お前他人の家でも結構自由に過ごせるタイプなのな」

 友人の家での自分の立ち回りを思い返し、その図々しさが少し羨ましくなる。

「アンタだって自分の部屋が汗臭くなるのはイヤだろ」

「もしかしてこの部屋に寝泊まりする気か?」

「同じ部屋じゃないと守れるものも守れないし」

「同じ屋根の下なら大した差じゃなくね?」

「危機感なさ過ぎない? アンタ、さっき殺されかけたんだけど自覚ある?」

「なんだかんだ撒いたわけだし、家までは特定されてないだろ」

「おそらくね。けど、どうせリミットは二週間なんだからできることはしておいたほうがいいに決まってる」

「それはそうだけどって待て待てだから守って欲しいなんて一言も」

「それより着替え借りていい?」

「聞けよ。あとたぶん妹の服借りれないぞ」

「アンタのでいいよ」

「……もういいか。そこのタンスに入ってるから必要なもん持ってってくれ。湯船入れてくる」

「あ、お湯はぬるめで頼む」

 図々しい客の要求を無視してアマネは風呂場へ向かった。今日はもう疲れたし、あとは翌日に回したほうがよさそうである。これ以上いたずらに精神力を使いたくはない。

 そういえばパンツはトランクスしか持っていないが、女子的には大丈夫なのだろうか。どうでもいい方向に脳のリソースを割きながら、浴槽に湯を張り始めるのだった。


「ハナ。飯できたから置いとくぞ」

 階段を上がって左、一番奥。アマネの部屋の隣の、鍵のかかった扉の前に、ラップをかぶせた晩ご飯を置いて呼びかけた。

 ごはんに、インスタントのみそ汁に、適当にちぎったレタスと鮭の塩焼き。手抜きもいいところだが、まともに品数を作ろうと思うとそれなりに時間と手間がかかるし、ふたり分(今日は三人分だが)となるとメニュー数が多いのはコスパが悪い。なによりアマネはあまり料理が得意ではない。今日も鮭三切れの内ふた切れが焦げて、救出しようとしている間にスクランブルエッグみたいになってしまった。むしろ生き残りがいたことを褒めてほしいくらいである。

 結局あのあと、スズはまったく遠慮する様子もなく一番風呂に入っていった。

 順番に特にこだわりはないし、尋ねられたら了承していただろうが、一応確認してほしかったと胸の内にモヤがかかる。

 答えのわかりきったことでもあえて確認をするのが、きっと人間関係を円滑にする秘訣なのだろう。

 そんな学びに一人うなずきながら耳をそばだてるが、扉の向こうからはまったく物音がない。寝ているのか、ヘッドホンをしていて聞こえないのか、あるいは単純に無視をしているのか。

 いつものことだ。朝晩とハナの部屋に食事を用意し、何日かに一回まとめて返却される。

 たまにトイレや風呂のために部屋を出てくるため、顔を合わせることはあるが、お互いに見て見ぬふりをしている。

「このパンツ通気性ヤバくない?」

 中学時代のジャージに短パン姿のスズが、バスタオルを首にかけてやってきた。

 想定より胸のふくらみが『渡』の刺繍を押し上げていて、思わず視線をそらした。

 完全に不意打ちだった。

 まさかこれほどとは。普段彼女が身に着けているセーラーの冬服は身体のラインが出にくいから、まったく想定できなかった。

「風呂長くね?」

 ごまかすように尋ねる。スマホで時間を確認したところ、入浴時間はざっと一時間くらいだろうか。一応スズの分も晩ご飯を作っておいたのだが、いつまでたっても出てこないから、先にひとりで食べて、ハナの分を持ってきてしまった。

「いつもこんなもんだけど」

 湯船に浸かったほうが体臭が取れるという話を聞いて以来、アマネも20分くらいは浸かるように意識しているが、もともとあまり湯船の中でじっとしているのが得意ではなく、苦行のような気持ちで日々の入浴をこなしている。ましてや一時間も風呂に入るような人間のことはまったく理解ができない。湯船の中でなにをしているのだろうか。

 と、そんなことを考えていると、スズが唯一の生き残り鮭を見下ろしながら感心したように言った。

「料理うまいんだな。意外」

「お前の分は失敗作だから期待すんなよ」

「アタシはいらん。光合せ――」

「待て待て待て待て。その話は待て」

「なんで」

「……いっかい部屋戻るぞ」

 彼女を連れて自室へ。鍵を閉め、わずかに声をひそめて言った。

「"植物人間"であることはできるだけ口にするな。ハナ……妹もトイレや風呂で出てくることはある。エンカウントするのは構わないけど、絶対に腕のソレ見られるなよ」

「なんで?」

「お前、学校では隠してるだろ。そういうことだ」

「家族とクラスメイトは違うだろ」

「違わない。結局は他人だ」

「だいぶ面倒くさい奴だな。妹と仲悪いのか?」

「……どうだろうな。普通の兄弟は、もっとなんでも打ち明けるのか?」

「知らない。アタシ兄弟いないし」

「たしかにお前はひとりっ子っぽいよな」

「アンタに言われたくねーわ」

 じとっと冷たい目を向けられる。そういえば友人BだったかCだったかにも同じようなことを言われた気がする。

 実際のところ、自分はろくな兄貴ではないので、その評価は適切だといえるだろう。

「んじゃ俺も風呂入ってくるから。適当にしててくれ。お前の分の布団はあとで持ってくるからまだ寝るなよ」

「エロ本探しとくわ」

「微動だにせず待ってろ」

 軽く言って、着替えを手に部屋を出る。その手のものは電子書籍で購入していて、本棚にはファッション誌と漫画くらいしか入っていないので、本気で阻止する意味もない。

 リビングに置きっぱなしにしていたスクランブル鮭たちをラップにくるみ、冷蔵庫に突っこむ。どうせ彼女は明日も食べないだろうから、自分用の朝食にしたらいいだろう。

 脱衣所に置いたスマホで音楽を流して風呂場へ入る。

 一瞬、先ほどの彼女の姿が脳裏をかすめ、慌てて打ち消した。

 シャワーで汗と煩悩を洗い流し、湯船に沈む。身体にじんわりと熱が浸透するこの瞬間だけ、生きていてよかったなんて大げさなことをよく考える。

 扉を隔てた脱衣所のほうからランダムで曲が流れてくる。普段はここから、湯船に浸かる時間を確保するために大体6、7曲分聴くようにしている。

 が、今日はなんとなく落ち着かず、身体がそわそわとした。いつもどおりの膝を折らなければ入りきらない湯船だが、なんとなくにおいが違うような気がする。シャンプーも石鹸も毎日使っているものなのだから、異なるはずがない。スズが自分より前にこの湯船に浸かっている。同じお湯が己を包んでいる。そんな考えが無意識の部分に息を吹きかけ、アマネの神経にさざ波を立てる。気にするようなことではない。理性が言い聞かせるが、脳の底の部分がうまくそれを受け止められず、ぽろぽろとこぼしてしまう。まるで彼女を意識しているようで、あまりにも悔しい。だから平然を装ってスマホに合わせて歌を歌った。

 だが、限界はすぐにきた。3曲目が後奏に入ったところで身体を持ち上げる。手早く全身を洗い、さっさと風呂場を出た。

 ドライヤーでざっと髪を乾かし、ジャージを着て、化粧水を適当に顔にしみこませる。

 コンタクトレンズをはずし、眼鏡を装着。

 母親の部屋の隅に鎮座していた布団を抱えて部屋に戻ると、スズはベッドの上に寝転んでスマホをポチポチいじっていた。

「おいデコトラ、お前の布団はこっちだ」

 ベッドから降りろ、という意味をこめて言う。

「客人を床に寝かそうだなんて、おもてなしが足りないんじゃない?」

「ぶぶ漬け食わせるぞ」

 招かれざる客への心遣いなど持ち合わせてはいない。

「つうか、いまさら気づいたけど、寝るとき布団被って大丈夫なのか?」

 アマネは布団を敷きながら尋ねた。

「なにが?」

「布団なんてかぶったら、頭以外全部暗闇だろ。死ぬんじゃないか?」

「少しは頭使いなよ。アタシ、学校でずっと冬服着てるだろ? あれで日が当たると思う?」

「…………たしかに」

 数秒の思案ののち、アマネは納得した。

 考えてみれば、長袖長ズボンなんて実質布団のようなものだ。彼女の場合はミニスカートで脚がそこそこ露出しているわけだが、総面積との割合でいえば大した差ではないだろう。

「なら、なんで病院ではあんなに呼吸できなくなったんだよ」

「光合成は全身でしてるけど、そのかなりの割合を頭と葉でまかなってるんだよ」

「つまり、頭まで布団被ったら動けなくなって死ぬわけか。葉はまあわかるけど、なんで頭なんだ?」

「知るか。アタシはただの"植物人間"で、研究者でもなんでもないんだよ」

「……そっすか」

 棘のある言い方に一瞬なにか反論しかけたが、飲みこむ。いちいち怒っても仕方ない。短く流して、布団の上に枕をぼすんと置き、「はい、終わり。お前こっちな」スズをベッドから降ろした。

「ああ、床から見上げる天井は高くて解放感があるなあ」

「……」

 あてつけがましい言葉を無視して、ベッドに背中から着地した。

 が。なんか、妙にいいにおいがして落ち着かない。

 仕方ないのでアマネはすぐに立ち上がり、洗面所へ向かった。

 自分の分の歯ブラシを咥え、洗面台の下、母親が出張のたびに持って帰ってくるせいでたまりにたまったホテルの歯ブラシをひとつ手にして部屋に戻った。

「いるか?」

「いる」

 ぽい、と放り投げた。

 それからお互い特にしゃべることもなく、歯磨きをしたり、スマホをいじったり思い思いに時間を潰した。

 日付も変わり、眠気も襲ってきたので布団に入った。蛍光灯が煌々と輝いているとはいえ、今日はいろいろとありすぎた。疲労感でうとうとしていると、ベッドの下から声をかけられた。

「学校、好きなの?」

「なんだ急に」

「一日くらいサボったって成績に影響ないだろ。そんなに学校楽しいか?」

 ごろりと端へ移動してスズへ目を向ける。が、布団をかぶった彼女は身体を向こうに向けていて、その表情をうかがうことはできなかった。

「べつに、そういうのじゃねえよ。学校は嫌いだけど、友達に会わなきゃ友達としてのランクが落ちるだろ? 俺はみんなにとって優先順位の高い人間でいたいんだよ」

「一日会わないくらいでランク落ちるような友達なら、アタシはいらないけどな」

「その強い奴の理論嫌い。俺はお前みたいにひとりで生きていけるわけじゃないんだよ」

 歯を磨いてスッキリしたはずの口の中に、苦いものが流れる。

「つうか、お前こそなんで学校来てんだよ。友達いないのにどうやってモチベ維持してるんだ?」

「もともと進学する気なかったんだけど、いろいろあってな。今はもう完全に惰性」

「ふうん。もったいないな」

 華の女子高生、なんて言われるくらい、世間では高校生、特に女子はキラキラと輝いて見えるものらしい。いまいちピンとはこないが、とにかくそういうものらしい。

 であるならば、できる限り充実させるのが幸福に近づく手段なのだろうが、アマネの目には、スズはまったくもって無頓着な半年間を過ごしてきたように見えた。

 もちろん、葉が生えているせいもあるのだろうが。

 そういえば、小学生のころの彼女は普通の人間だったな、とふと思い出した。

 いつごろ"植物人間"になったのか。彼女が髪を染め、なれあいを拒み、独立独歩な存在になったのは、どうしてなのか。

 小さな背中を眺めながらそんなことを考え、やがて、まどろみの奥へ落ちていった。


 泡沫が水面ではじけるように、アマネの意識が浮上した。

 目を覚まし、舌のしびれる感覚とともに、スマホのアラームが鳴っていることに気づいた。

 乾燥していたのか、喉と目が乾く。

 アマネは鳴り続けるスマホを放置して、枕元の目薬を手にした。

 仰向けになり、両目に点眼。左目が少しずれたが、顔の角度をずらして目玉へと誘導した。

 ぼやけていた視界と意識がクリアになり、そこに至ってようやく、光り続ける蛍光灯と、持ち上げた右腕に生える芽の存在を視認した。

「……………………ゆめじゃ……ねえのかよ…………」

 うつぶせて、枕に顔をうずめ呟く。

 わかっていた。夢でないことくらい。

 それでも、嘆かざるをえなかった。

 しばらく枕に顔を押し付けたまま、「あー」だの「うー」だのとうめき声を上げた。

 やり場のない絶望と怒りを放出するには、枕はあまりに頼りないが、それでもどうにか折り合いをつけるしかない。スマホのアラームが鳴りやむまでそうしていたアマネは、やがてごろりとベッドの上で一回転し、端から下を見やった。

 寝相の良いスズが、頭と右腕だけ布団から出してスヤスヤと眠り続けていた。

「はぁ……のんきに寝やがって」

 誰のせいでこうなったと思っているんだと、このままベッドの上からのしかかり攻撃を仕掛けてやりたくなったが、さすがにそれは自重して素直に立ち上がった。

 階段を下りて、洗面所で顔を洗う。リビングのテレビをつけ、昨晩のスズ用の晩飯をレンジへ突っこんだ。

 八時前に学校へ電話をして風邪で休む旨を伝え、卵をフライパンへ落とす。目玉焼きのつもりで作ったスクランブルエッグを持って二階へ上がり、左手突き当りの扉の前に置いた。昨晩置いた分はなくなっているので、おそらくハナが部屋で食べたのだろう。

 コンタクトレンズをつけ、部屋へ戻ると、いまだ眠りこけるスズを見下ろし、己のあごに手をやった。

 どうやって起こすのがいいだろうか。目覚ましを耳元で大きく鳴らすか、蹴っ飛ばすか、身体をゆするか。

「おーい、起きろ」

 とりあえず、ダメ元で呼びかけてみた。

 案の定反応はない。

「デコトラ―。囲ー。スズー」

 手で触ってセクハラでも主張されたらかなわない。というわけで、名前を呼びながらげしげしと脇腹のあたりを軽く蹴ってみた。

「う、……んー」

 こちらは効果があったようで、スズはごろりと身体を向こうに倒して、うめいた。

「おとーさん、もうちょっと……」

「…………」

 はーいお父さんですよー、と茶化してやろうかと一瞬思ったが、かぶりを振って、わずかでもそう考えた己を戒めた。

 スズに父親は、もういない。

 つい忘れそうになるが、彼女は小学三年生のころ、交通事故で両親を失ったのだ。

 このまま寝させてやろう。アマネはそっと部屋を出ると、音を立てないよう扉を閉めた。


「なんで起こしてくれなかったの」

 三時間後に起きてきたスズの第一声はそれだった。

「起こしたけどお前が起きなかったんだよ」

「起きなかったらそれは起こしたって言わないだろ」

「うっせえな起きないお前が悪いんだろ」

 アマネの反論にスズはなおもぶつくさと言いながら洗面所へ向かった。

 朝食は不要とのことだったので、彼女が制服を着るのを待ち、昼前にようやく家を出た。

「待っ、お前歩くの速いって」

「アンタが遅いんだよ」

 ひとりでずんずん先を進むスズに文句を言うが、当の彼女は不満げに口元をゆがめてきた。

 まったく、友達がいないやつは歩くのが速くて困る。心の中で呟いて、昔の自分に突き刺さった。

「にゃおん」

 目の前を黒猫が横切った。

「不吉だな」

「なに、アンタそういうの信じてんの?」

「そういうわけじゃないけど、まあ、嬉しいもんじゃないだろ」

「猫は結構好きだし、べつにイヤじゃない」

「ふぅん、意外だな。犬より猫派か?」

「犬は嫌い」

「へえ、なんで」

「……なんだっていいだろ」

 スズは静かに会話を打ち切って、再びズンズンと歩き始めた。

 そうして、アマネ宅から学校と反対方向に十五分ほど歩いただろうか。怪しげなお店にたどり着いた。

 ぼろい外見、すす汚れた窓から中を覗くと、皿や壺が陳列されていた。そういうお店なのだろう。

「おーい来たぞ」

 たてつけの悪い扉をきしませて、スズがずかずかと店内へ入った。

「こ、こんにちはー」

 アマネも小さく挨拶をして敷居をまたぐ。

 きょろきょろと周囲を確認する。狭い店内に所狭しと並べられた陶磁器たちには、パッと見、値札が付いていないように見える。安いからなのか高いからなのか。万が一を考え、肩を小さくしてスズのうしろを歩く。

「ちょっとまってー」

 店の奥から、男性の声が響いた。なんとなく聞き覚えがある気がする。

 誰の声だったか。首をかしげながら待っていると、数秒後、見覚えのある若い顔が現れた。

「ごめんねちょうどお昼食べてて。渡君いらっしゃい。話は聞いてるよ」

 アマネたちの音楽の授業を担当している、非常勤講師、長谷縁(はせ・えにし)だった。

「スズもおかえり。ついにうちの子になる決意を固めてくれたのかい?」

「自分の好感度に自信持ちすぎだろ帰れ」

「ここおれんちだし」

 ふたりの会話を聞きながら、もしやと思う。

「もしかして"植物人間"の知り合いって」

「おれだよ。立ち話もなんだしこっちきて」

 お店はいいのだろうか。少し心配しながらカウンターを通過して、靴を脱ぐ。段差をひとつのぼると、真ん中にちゃぶ台の鎮座する四畳半のフローリングが広がっていた。

「そのあたり適当に座って」

 長谷は慣れた様子で言うと、奥へ行ってしまった。

 適当にと言われても困る。そう思っていると、スズも長谷に続いて奥へ行ってしまった。

 仕方ないのでとりあえずちゃぶ台の前に座って待っていると、お茶とコップをお盆に乗せた長谷と、そのうしろからアイスを頬張ったスズが帰ってきた。

「あれ、スズ、渡君のアイスは?」

「アタシの客じゃないし」

 飄々と言って、どかっと腰を下ろす。

「もー、スズはそういうところあるからなあ」

「い、いえ、俺は大丈夫ですので」

「そう? 食べたいものがあったら遠慮せず言ってね」

 優しい言葉とともに、コップをアマネの前に置く。

「しっかし、スズがお友達を連れてくるなんて、お父さん感激」

「こいつ友達じゃないしハセは親父じゃないし。用件伝えてただろーが」

「そうやってすぐ本題に入ろうとして。スズには侘び寂びが足りてないねえ」

 アマネを置いてふたり仲良く……と表現するには矢印が一方通行なやり取りをしながら、長谷はせんべいをつまみあげた。

「とはいえ、渡君をこれ以上待たせても悪いし、本題に入ったほうがいいのかな。まず、今回はスズが迷惑をかけたみたいでごめんね」

「い、いえ、ほんとたまたま居合わせてしまっただけなので。デコ……こいつは正当防衛しただけで、俺は運が悪かっただけっていうか」

「それでもだよ。不可抗力だとしても、君を巻きこんでしまった責任はこちらにある。それに、」

 むくれるスズをちらりと見やって、長谷は言葉を続けた。

「どうせこの子は謝っていないだろう? だから、それも含めて。ごめんね」

「い、いえ、その、大丈夫っす」

 どう反応していいものか。昨日のスズに対する強気の態度を出せるはずもない。

 そうしておろおろしていると、「さてそういうことで、過去の話はここまで」長谷はさっぱりと声の調子を変えて言った。

「確認だけど、渡君は人間に戻りたいんだよね? 理由を聞いてもいいかい?」

「戻りたいなんて当たり前じゃないですか。暗闇で死にかけるし、夜出歩けないし、寝るときも電気消せないせいで眠り浅いし、なにより腕からこんな変な葉っぱが生えてたら友達と会えないですよ」

「なるほど、もっともだね。実際、おれもスズも、日常生活の中で気を張る場面は少なくない。常に腕を隠していないといけないのも、正直面倒だ」

 そうだろうな、と思う。こんなバケモノみたいな姿を他人に見られるわけにはいかない。だからスズは夏でも冬服を着ていたし、長谷も長袖のワイシャツを常に身に着けているのだ。プライベートでも気を抜くことはできないだろう。

「ところで、"植物人間"として生きることのメリットは考えたかい?」

「そんなのあるんですか?」

「多少ね。まず、食事を摂らなくていい」

 人差し指を立てて言った。

「光合成で必要なエネルギーを作れるからね。一日の内の可処分時間が増えるし、食費もかからなくなるから金銭的にも意外と負担が減る。もちろん食べること自体は可能だから、趣味や交流ツールとしての食事は保てるよ」

「食費浮いた分、電気代で消えません?」

「電気はたしかに夜間ずっと使うからそれなりにかかるけど、そういう人のための安いプランもあるからね。案外出費は抑えられるよ」

 本当だろうか。半信半疑で聞くアマネに、長谷は二本目、中指を立てた。

「次に、健康。"植物人間"は身体が丈夫だから、病気にかかりにくい。って言っても渡君まだ若いからあんまりピンとこないかな。けど、怪我をしても光合成すれば人間にはあり得ない速度で回復するから、いざというときは役に立つかもね」

「かわりに雨の日は息苦しいって聞きましたけど」

「ま、雨の日に調子の悪い人なんて珍しくもないし。そしてみっつ目に、身体能力」

 アマネの横入れを軽く流して薬指を立てた。

「スズのジャンプは見ただろう? もちろん向上するのは跳躍力だけじゃない。走るのも速いし体力も底なし。平衡感覚も抜群で、五感もかなり鋭敏になる。これだけの人間離れした身体能力があればいくら悪事を働いてもバレなぐえっ」

 スズからチョップが入った。

「ま、実際に悪事を働いたら普通にバレるとは思うけど、ともかく、案外"植物人間"として生きるのも悪くはないよってのが先輩として言いたかったこと」

 頭をすりすりとしながら言う。

「そのうえで尋ねるけど、渡君、人間に戻りたい?」

「戻りたいです」

 間髪入れずに答えた。

 迷う余地などなかった。

 そんなアマネの回答に、長谷は満足げに笑んだ。

「そう言うと思ったよ。それじゃあリハビリを始めようか。スズ」

 リハビリ? と思っていると、名前を呼ばれたスズが「マジでやるの?」イヤそうにつぶやきながらアマネの背後を取った。

 なにが始まるのか。くるりと振り向こうとした瞬間、うしろから羽交い締めにされた。

 反射的に全身に力を入れて抵抗するが、力ずくで抑えこまれた四肢がまったくびくともしない。

 身体への命令機能をつかさどる脳神経を機能停止に追いこまれる感覚。それが昨日経験した、"植物人間"の暗闇での状態だ。

 対して、今は、岩の中に身体を埋めこまれたような、指先と首以外、力は入るのにまったく身動きが取れない状況であった。

 助けてくれ、とすがるように正面を向くと、長谷が真顔で頭にビニール袋をかぶせてきた。

 ぶぼっ、と唇にビニールが張り付いて呼吸が止まる。酸素を確保するべく息を吐いてビニールと唇の距離を取ろうとするが、あろうことか目の前の男はビニール袋の上から大きな手のひらをかざしてきた。

 酸素の供給を絶たれた肺がねじ切れそうな悲鳴を上げる。

 脳が危険信号を立て続けに流す。苦しさと恐怖で目を見開き、顔をブンブンと振るが、ビニール袋と長谷の手は寸分の隙間もなくアマネの鼻と口を覆いつづける。

 細胞の二酸化炭素濃度が急速に上昇する。地球上に掃いて捨てるほどあるはずの酸素が、今、アマネの肺にだけ届かない。

 助けて。必死に目で訴える。が、長谷は表情を崩さず、ただ文字どおりアマネの息の根を止め続けた。

 苦しい。

 苦しい苦しい苦しい苦しい。

 涙が出る。変な汗が噴き出す。

 顔が真っ赤に染まり、やがて青ざめてゆく。

 地上に打ち上げられた魚のようにのたうち回ろうにも、背後からガッチリ四肢を固められては、それすらかなわない。

 意識が朦朧としてきた。視界が狭くなり、長谷の顔がだんだん遠く見えてくる。力の抜けた下半身が己の排泄物で濡れる。

 そこで、ようやくアマネの顔からビニールが取り外された。

 酸素を取りこもうとして、ぜひゅっと喉に空気が引っかかった。激しく咳きこみつつ、無理やり呼吸を重ねる。

「せ、せんせい……いったいなにを」

 自身の失禁に意識を向ける余裕すらなく、ただ泣きそうになりながら尋ねた。

「これがね。"半・植物人間"が人間に戻るためのリハビリ」

「人間に戻る前に死にそうなんですけど」

「"半・植物人間"の根はね、人間のソレより生命力が少しだけ小さいんだ。だから、限界まで酸素の供給を止めて、根を窒息死させてやるんだよ」

 そんな無茶苦茶な話があるか。そう言う余力もなく、かわりに、すがるように尋ねた。

「俺は今、人間に戻れたんですか?」

「残念ながら、リハビリはそんな簡単に終わるものじゃない。血反吐はいて、苦痛に耐えて、もう一生元には戻れないかもしれないという不安を抱えながら、それでも踏ん張り続ける。そういうものなんだよ」

「……戻れないかもしれないんですか?」

「そうだね。極限まで頑張っても、究極的には運にゆだねるしかない」

「……俺は、普通の生活に戻りたいだけなのに。どうしてこんな」

 悲しみか怒りか、自分でもよくわからない感情が目尻からこぼれてくる。

 だが、そんなアマネを真正面から見据えて、長谷は諭すように言った。

「渡君の言う『普通』はね、君が思っているよりもずっと、ずっとずっとずっと、尊い財産で、誰もが欲しくてたまらない贅沢なんだよ。いい子にしていればやってきてくれるサンタさんみたいなものではないんだ」

「……」

 なにも返せずにいると、長谷がビニール袋を手に、改めて尋ねてきた。

「さて、渡君。もう一回訊こうか。君は、人間に戻りたい?」

 その温度を感じさせない問いかけに、アマネはびくっと身体を震わせた。

 鏡を見なくても顔から血の気が引いていくのがわかった。

 最も効率のいい拷問は、水責めだと聞いたことがある。

 ろうとを口に固定し、延々と水を流しこみ続ける。あるいは四肢を縛って湯船に沈める。

 洗面器一杯の水ですら、誇り高き人間の心を折ることがかなうという。

 水責めの恐ろしさを骨の髄まで叩きこまれた人間は、やがて、水を見るだけで恐怖に目を見開き、身体を震わせ、嗚咽するようになるらしい。

 窒息を繰り返すということは、つまり、そういうことなのである。

 "植物人間"としての人生。

 アマネは脳裏にその未来予想図を描いた。

 腕の葉は長袖で隠せばごまかせないことはない。

 スズはともかく、長谷からはいろいろアドバイスも聞けそうだし、さきほど彼は案外悪くない生活だと言っていた。

「…………」

 これまでのレールからは外れることになるが、それほど悪くはないのかもしれない。

 "植物人間"歴一日で、知ったようなことを言い過ぎていたのかもしれない。

「………………」

 たとえば一旦人間に戻ることを諦めて、日常生活に復帰して、それでも人間に戻りたくなったらそれからまた考えたらいいのかもしれない。もちろん、誰かを犠牲にするようなつもりはないけれど。少なくとも、こんな苦しい思いを繰り返して、それでも人間に戻れるかどうかは運否天賦だなんて馬鹿げている。

 もしこれで人間に戻れたとしても、ビニール袋を見かけるたびに震えの止まらない社会不適合者へジョブチェンジするだけだ。

「………………もどり、たい、です」

 思いつく限りの言い訳を心の中で唱え、それでも、アマネは絞り出すように言った。

「俺にとって、『普通』は、衣食住と同じなんです。『普通』でなければ、生きていけないんです。俺は……」

「わかった。なら、おれもできる限り協力しよう」

 しばらく黙ってアマネの目を見つめていた長谷だったが、やがてひとつ嘆息をすると、そう言った。

「じゃあ、とりあえず新しい服に着替えてもらって、それから続きをやろうか。スズ、一旦店のほうに行っておいで」

「アタシこのまま帰っていい?」

「駄目に決まっているでしょう」

 スズは顔をしかめて部屋を出て行った。

「さて、それじゃあこれ新しいパンツとズボンね。替えなら山ほどあるから、いくらでも漏らして大丈夫だよ」

「…………っす」

 あまりにスムーズに次の話をする長谷。

 選択を間違えただろうか。少しだけ不安になるアマネだった。

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