ピンクの頭と赤いハナ
しーえー
第1話
宇宙は、人間が認知することで、初めてそこに存在できる。
実に馬鹿げた思想だが、人間関係に限っていえば、その考え方は案外、的を射ているのかもしれない。
渡雨峰(わたり・あまね)は騒がしい教室の中、友人Aと友人Bの間で談笑しながら、そんなことを思った。
教室の隅で、名も無き透明人間が俯くのも。
街頭演説をする政治家が、ホームレスのほうを見ないのも。
アマネの特技がペラッペラの笑顔になったのも。
つまりは、そういうことなのだ。
「高校生なんだからおやつは三千円までにしてほしいよな~」
「三千円もなに買うんだよ」
暇をもてあました友人Aの雑な振りに、アマネはあくびを嚙み殺し、貼り付けた笑みを保ちながらツッコミを入れた。
昼休み開けの授業を返上して、アマネたちのクラスは現在、数日後に迫った遠足に向けて班決めをしていた。
正確には、ほぼ終わったというところか。
三十四個の机が並ぶ、秋口の教室。思い思いの場所に、男女三人合わせて六人ないし七人の班が合計五つ作られた。それぞれが仲良く雑談に興じており、教室内は、授業時間中とは思えないほど騒々しい。隣のクラスから苦情が来るのも時間の問題だろう。
「うまい棒三百本買えんだぜ!」
「アッハッハ!」
友人Aのどや顔。アマネは笑ってみせながら、心中で舌打ちした。
クッソつまんねえネタだしてくんじゃねえよクソデブが。胸の内で吐き捨てる。
「そんだけあれば全種類コンプできんな」
もちろん、そんな感情はおくびにも出さずに、楽しそうにコメントする。
人間関係なんて簡単だな、と、つくづく思う。
どんなに性格が悪くても、本音を晒さず、表面だけで交流をすれば、大体うまくいく。
その事実を、高校入学から半年ほどの期間を経て、ハッキリと理解した。
個性なんてものはいらない。
たとえ、プラスの方向だとしても、目立ちすぎるのは良くない。濃すぎる人間は、透明人間と区別がつかなくなる。
他人より少し上、偏差値53くらいが、ちょうどいい。
アマネは仮面をかぶることで、広く浅い人間関係の構築に成功した。わけだが、
「……友達いなくても平気な奴なんて、いるんだな」
教室のド真ん中、ぽつんと孤立するピンク頭を見やり、アマネは小さく呟いた。
「ん? 渡なんか言ったか?」
「あーいやなんでもないなんでもない」
友人Bに聞かれていたらしい。手を振って否定する。少し早口になってしまった。
「にしても、またデコトラか」
アマネの視線をたどったのか、友人Bが声に嘲笑を混ぜて言った。
「あいつ、よくこの状況で平然としてられるよな」
アマネは改めて、ひとりスマホをいじっている桃色ボブカットへ目を向けた。
デコトラ。
当然、本名ではなく、ゴテゴテした見た目から付けられたあだ名である。本名は囲スズ(かこい・すず)。このクラスの透明少女……と呼ぶには、彼女はあまりに目立っていた。
内側に金色を忍ばせ、青のメッシュを織り交ぜたピンクの髪の毛。ゴテゴテのピアスは耳だけでは足りなかったのか、唇と、以前ちらりと見た限りだと舌にもつけていたように思う。
化粧で目の周りをキラキラとさせ、ネイルもばっちりと決め、制服も一応着用してはいるが、あちこちにアレンジが施されている。
風紀関連の厳しい学校ではないが、それにしてもこの校則違反の満漢全席っぷりは、さすがに教師陣も目をつむれないらしく、生徒指導室は彼女の第二の教室と化していた。
そうして二人で彼女を遠巻きに眺めていると、同じ班になった女子ABCがアマネたちの会話に入ってきた。
「そういえばデコトラ、なんだかんだ冬服で乗り切ったね。見てるだけで暑かった」
「ていうか今でもまだ割と暑いよね。衣替え期間だけど冬服なのあの子しかいないし」
「わかるわかる。もうあと一か月くらいは夏服でいいよ」
スズは入学から今に至るまで、春も夏もなく、常にオーバーサイズの冬服を着用していた。
「結局デコトラがなんで冬服なのかはわからずじまいなんだっけか」
そんな格好で暑くないわけがなく、彼女は毎朝滝のような汗を流して登校してきたし、ジャージ姿でこなした体育の終わりは毎度瀕死状態になっていた。
肌の露出をイヤがっているのだろう、と、当初は思っていたが、どうやらそれも違うらしい。スカート丈が短く、肉付きの良い太ももがしばしば日の光を浴びているからだ。
「あたしはあの上半身になにか隠してるとみてるよ。刺青とか」
「そりゃ似合ってそうだな」
腕組みする女子Cの言葉を軽く流しつつ、あり得ない話でもないな、と思った。
スズはとにかく遅刻が多く、雨の日に至ってはそもそも来たことがない。出席したとしてもしばしば机に突っ伏して爆睡している。その上、不機嫌さを隠そうともしない顔、そこらのヤンキーが裸足で逃げ出すような鋭い目つき、カラコンを入れていても隠しきれない濁った瞳、ぶっきらぼうな口調と、彼女の放つ威圧感は相当なものだった。スズと会話をしたあと涙ぐむ女子すらいた。
そんなだから、「暴走族なんじゃないか」「ヤクザだろう」などのウワサ話は、一部の生徒の間では相当に火のある煙として語られていた。
「えー」
いつの間にか教壇に立っていたハゲのおじいちゃん先生が、けだるげに声を出した。
わずかに教室が静けさを取り戻す。
「えー。六人グループのとこ、手ぇ上げて」
いかにもやる気のない眠そうな声に、アマネたちをはじめ、三つのグループが手を上げた。
「はい。じゃあ、各グループひとりずつこっちきて。べつにリーダーじゃなくていいから」
面倒くさそうに言う教師。
自分じゃなければ誰でもいい。そんな思惑のもと視線でけん制し合っていると、
「渡、頼んだ!」
「えっ」
友人Aという名の、けん制とか空気を読むとかそういうことと無縁な生き方をしている奴に背中を押された。
「渡! がんば!」
「渡君、まかせたよ!」
友人Bと女子たちも一斉にアマネに声援を送ってきた。
彼らに背中を向けて、小さくため息をついた。無意識に歩幅を小さくして教壇へ向かうと、担任はクジっぽい紙を三枚握っていた。
「はい。これ引いて、見せて」
いつの間にか作っていたのだろう。用意周到なものだ。
言われるがままに適当に引いた。
「……」
アマネのソレだけ二重丸が書いてあった。
「はい、囲は渡の班ね。決定」
貧乏くじならば、せめて×を書いてほしかった。
そんな現実逃避をしながら、アマネは苦笑いを作って班のもとへ戻って行った。
部活行くの面倒だなあ、なんて思いながら下駄箱を出ると、校舎裏のほうから、ぎぃん、という、金属のぶつかるような鈍い音が響いてきた。
なにか工事でもしているのだろうか。そんな話は聞いていなかったが。そんな風に思いながらなんとなく足をそちらに向け、陰からこっそり顔をのぞかせた。
「!?」
数メートル先に、ミニスカ冬服のピンク髪が視界に入ってきた。
うしろ姿なので顔は確認できないが、アマネの知る限りこの学校でそんなひとりファッションショーをしている女子はスズしかいない。
一方、スズの向こう。パッと見二十代後半くらいだろうか。背の高い記者風のおっさんが、三メートルほどの距離を取って彼女と対峙していた。
なぜか打ち捨てられている暗幕を踏みつけるその男は、あごヒゲを生やし、ウエストポーチを身につけ、右手に赤いナイフを構えて、鋭い目を向けながら、スズと間合いを――赤いナイフ?
違和感に遅れて気づき、反射的に視線をスズに戻す。
「っ!?」
左腕を抱え、背中を丸めて立っているスズ。その右手で隠した場所から、赤い雫が滴っていた。
先生を呼ぶべきか、あるいは警察に連絡するべきか。
どうしたら良いかわからないままに震える手でスマホを取り出す。
そこで、二人の間のヒリついた空気に変化がおとずれた。
男が地面を蹴った。
ナイフを振り回しながら、スズとの距離を詰める。
彼女の身体が切り刻まれる。そう思った瞬間。
スズが、跳んだ。垂直に。
110番まで押したスマホが、手のひらからこぼれ落ちた。
目を疑った。
彼女の、ミニスカートからすらりと伸びる長い脚が、180センチはあろうかという男の頭を超えたのだ。
だが、男は唖然とすることも戸惑うこともなく、彼女の立ち回りを読んでいたかのように、即座にナイフを上空へ投擲した。
赤く鈍い輝きが、スズの右足、太もものあたりに突き刺さる。
「ぐっ!」
くぐもった悲鳴。体勢を崩しつつ、それでもスズは空中で蹴りを放った。
が、男はそれも読んでいたのだろう。大きくバックステップ。距離を取って、ウエストポーチから新たにナイフを取り出した。
つぅ、と垂れた粘液が、黄色の靴下を赤く染める。肩で息をしながら、太もものナイフを引っこ抜くと、一瞬、シャワーのように鮮血が舞った。
サビた鉄のにおいが風に乗って、アマネの鼻をゆがめる。
スズが周囲をキョロキョロと見回した。
アマネはとっさに顔をひっこめた。なにも悪いことはしていないはずだが、バレただろうかと心臓が締まる。
なぜ急に周囲を確認し始めたのか。もしかして、男の仲間が潜んでいると考えたのだろうか。
そんなことを考えながら、おそるおそる顔を出すと、
「………………葉っぱ?」
声が出た。
スズの足元に脱ぎ捨てられた冬服。
半袖のワイシャツ姿になった彼女は、右腕を空に向けて掲げていた。
肘と手の中間あたりだろうか。遠目でハッキリとは見えないが、腕から茎が伸び、その先に葉っぱが数枚広がっていた。
思わず目をつむり、ごしごしとこすって、再び状況を確認する。
「…………………………………花?」
青い花が、葉の中から顔を出してきた。
小学生のころに授業で見た、朝顔が花を咲かせるまでを早回しした映像を思い出す。
まさしく、それだった。
彼女の右腕の葉の間から、ひとつ、大きな花が開いてゆく。
ほのかに甘いにおいが鼻腔をくすぐる。
悪い夢でも見ているのか。あまりに現実感のない状況に、頬を数度ぺちぺちと叩く。
「!?」
前触れなく、男がスズの横をすり抜けてこちらへ駆け出した。
「てめえ待て!」
スズがドスのきいた声を出して振り返る。
こんな声が出るんだ、と感心している場合ではない。ナイフを持った男がこちらへ向かってきているのだ。
逃げるべき。頭で理解しつつ、身体が動かなかった。足がすくんで震えるばかり。
「……」
一瞬、ちらりとこちらを見るだけだった。
男は走る速度を落とすことなく、アマネの横を走り去っていった。
「ゴラてめえ逃げんな!」
コンマ数秒遅れてスズが追走。だが、コーナーギリギリを走ったからだろうか。壁ギリギリのところに陣取っていたアマネと、勢いのままにぶつかってしまった。
「ってえ」
尻もちついたアマネは額をさすりながら、目の前で同様に倒れるスズを見た。
右腕の、大きな青い花。
「え、あ、」
スズの声で我に返る。
血の気を失ったスズの表情が目についた。
「いつから……」
彼女は狼狽しながら右手をアマネに向けて伸ばす。
そこで、見えた。
見えてしまった。
スズの花、葉が、茎をとおして、直接、彼女の腕に生えていた。
「バ……」
垂直ジャンプも、早送りするように開花したのも、なにかのトリックだと思った。
きっと腕に巻きつけていて、なにかの仕組みで開花したように見せているのだろうと。
ナイフを持った相手に見せつけてどうするんだとか、そんな一瞬で思いつくような反論には目を向けずに、そう思いこもうとしていた。
正常性バイアスをこれでもかと働かせて。
数メートル先の、ナイフを持った男と対峙した女子の行動だ。きっと自分にはわからないタネがあるんだろう。そう思いこもうとしていた。
だが。しかし。
こうして、眼前数十センチの距離に提示されてしまえば、もう言い訳はきかない。
青く美しい花は。
五センチ大の四枚の葉は。
細い茎をとおして、彼女の腕から生えている。
普通の植物が土から芽を出すように、当たり前のこととして、それは、スズの身体に根を張っている。
その事実を。現実を。ハッキリと認識してしまった。
「バ……バケモノ」
アマネの言葉に、スズはぴくっと身体を震わせた。伸ばしかけた手が止まる。
ほとんど反射だった。アマネは、鞄を手にする余裕もなく立ち上がると、背を向けた。
走り出してから、逃げよう、と思った。
悪い夢だ、と思った。
振り返る余裕もなく、痛みを訴える肺と脇腹を殴って、一目散に逃げた。
校門を出て、それでも走り続けて、数百メートルを駆け、駅前にたどり着いた。
振り向いて、スズの姿がないことを確認して、ようやく膝に手をついた。
「なんだったんだ、あれ」
周囲に気を配る余裕もなく、汗をだらだらと流しながら呟く。
夢か。夢なのか。
こめかみをガンガンと殴る。
鈍い痛みが頭蓋骨から伝わる。だが、覚めない。
どうしよう。どうしたらいい。
きょろきょろと周囲を見回し、しかし縋るものなどなにもなく、アマネはうなだれた。
チュートリアルをしてくれる妖精も、世界観説明をしてくれる神もいやしない。
理解の範疇を超えた現実に、ただ頭が追いつくのを待つしかない。
喉が渇いたから、一旦自販機でなにか買おう。そう考え、ようやく鞄と財布を置いてきてしまったことに気づき、
「っっっ!?」
全身が粟だった。
みずみずしい緑。
右腕の、肘から手の真ん中あたり。
ほんの一センチ大の、双葉の芽が、前腕から生えていた。
秋口にしては強い日差し。汗がだくだくに滴る身体。暑くて暑くて仕方ない。そのはずなのに、アマネは、氷のナイフを背中に当てられているような寒気を覚えた。
反射だった。
左手で、芽を掴み、引きちぎる。
正確には、引きちぎろうとした。
「ぐぁぁああああああああああ!!」
生の神経を切り裂いたような、地獄の痛みだった。
絶叫して、膝を折り、うずくまった。
周囲のぎょっとした目に気づくことすらできない。
すり減るほどに歯を食いしばり、両の拳を握り、必死に耐える。
無理無理無理。心の中で叫ぶ。
あごから脂汗がぽたぽたと垂れる。
そうしてじっと身体を固め、数分の間、巨大な波のとおり過ぎるのを待った。
「………………死ぬかと思った」
津波のような衝撃が落ち着いたところで、ようやく頭を上げた。
べったりと張りつく髪の毛が風になでられ、ひんやりとする。
周囲から遠巻きに視線を向けられていることに気づくと、平静を装って立ち上がった。
ベンチに腰掛け、周囲から隠すようにして右腕を確認する。
引っこ抜こうとした芽だが、まったく抜けておらず、ピンピンとしている。
ほんの一センチ大ほどの芽と、全長二センチほどの細い茎。
仮に引っこ抜けなくても簡単にちぎれそうなものだが。
茎の根元へ目を向けた。
「……生えてんだけど」
スズの腕を思い出す。彼女と同様に、アマネの腕の中から、茎が伸びていた。
「なんなんだよこれ……どうすんだよ……」
「あー、君、ちょっといい?」
頭を抱えていると、声をかけられた。反射的に腕を隠し、顔を上げる。
「君の芽のことで、話があるんだ」
あごヒゲを生やした記者風の男が、人のよさそうな笑みを向けて立っていた。
瞬時に立ち上がり、彼に背を向けた。
「待って待って! なにもしない! なにもしないから!」
駆けだそうとしたところで、男がアマネの服を掴んできた。
「無理無理無理無理!」
「落ち着いて! オレは君を助けたいだけなんだ! その芽を消したいんだろう?」
「無理む…………なにを知ってるんすか?」
アマネは一旦抵抗をやめて、心持ち声のボリュームを抑えて尋ねた。
周囲をちらりと見まわし、下校中の生徒や買い物帰りのお年寄りの存在を確認する。この場所でことを構えるとは考えにくい。一旦話だけでも聞いてみてもいいだろう。
「立ち話もなんだし、ベンチに座ろうか」
「いえ、このままでいいっす」
こういうときは相手の土俵に乗ってはいけない。アマネは心の内で気を引き締める。
どうでもいい提案から少しずつ制圧範囲を広げていくのが定番のやり方だ。この男の正体が掴めない以上、自分と相手の間には、明確に線を引いておくべきだろう。
「わかった。なら、少し待っていてくれ」
言って、男は自販機へ向かい、お茶を二つ買ってきた。
冷たい麦茶を渡し、男は軽く頭を下げた。
「驚かせて悪かった。せめてものお詫びだ。もらってくれ」
言うと、警戒心を解くように男は自分の分の麦茶を飲み始めた。
アマネは数瞬迷ったが、喉が渇いているのは事実だったし、自販機のお茶に細工はできないだろうと考え、半分ほどを一気に流しこんだ。胃の中に冷たい液体がたまる感覚。
男はウエストポーチから名刺を取り出した。
「オレは木曽治(きそ・おさむ)。フリーの記者をやっている。表では」
「表?」
いぶかしむアマネに、男――木曽は、至極真面目な表情で言った。
「名刺はないんだが、裏では、国のもとで働いている」
「…………」
うさんくさすぎる、と思った。
アマネの表情から察したのだろうか。木曽は苦笑いを浮かべて言葉を続けた。
「あんなのを見たばかりだし、信じられないのも当然だ。ただ一応、君を傷つけるつもりがないことを示しておこうか」
言って、彼はウエストポーチの中身をすべて取り出した。
名刺、デジタルカメラ、メモ帳、ボールペン、財布。ポケットからはスマホとハンカチ。
「ナイフは?」
「あれは仕事仲間に預けたよ。あんなものを持っていたら、敵意があるみたいだろう?」
仕事仲間。スズは上着を脱ぐ直前、周囲を気にしていたが、やはり誰かが潜んでいたということなのだろうか。
「さっきのアレは、なんだったんすか? デコトラ……あのピンクの女子は、あんなことされるような奴なんすか?」
「そうだね。当然の問いだ。ただその話の前に、君の話をしようか」
木曽はポーチに荷物をしまいながら言葉を続ける。
「端的に言おう。君は今、"半・植物人間"だ」
「……? めっちゃ動けてますけど」
植物人間くらいならばアマネにもわかる。脳死はしたけれど心臓は止まっていない、意識はないけれど身体だけ生きている人のことだ。
「その植物人間ではない。雲と蜘蛛が違う存在であるように、君はべつの意味での"植物人間"になりかけている」
「……で、なんなんすか。"植物人間"って」
「ざっくり言うと、光合成ができるようになる」
また知っている単語が出てきた。これもほかの意味合いなのだろうか。
「こっちはだいたいそのまま。強い光を浴びることで、体内でエネルギーを生み出す」
「いまいちピンとこないんすけど」
「オレたちは食事をすることで、外からエネルギーを取り入れるだろう? "植物人間"は、その必要がないんだ。光を浴びるだけで、必要な栄養素を身体の中で作り出せる」
「へえ。それは楽でいいすね」
他人事のように返す。真面目に受け取るには、あまりにも突拍子のない話だった。
だが、軽薄な笑みを浮かべるアマネと対照的に、木曽はまったく表情を崩さずに言った。
「おそらく、そんなにいいものではないだろうね。オレには彼らがどう考えているのかはわからないけれど」
木曽は袖をまくると、毛深いがまっさらな両の腕を見せてきた。アマネは見比べるように自身の右腕に目を落とし、やはり間違いなく生えている新緑に顔をゆがめた。
「"半・植物人間"になると、腕から芽が生える。そして"植物人間"への成長とともに茎が伸び、葉は広がり、つぼみがつく」
「芽が出てる人なんて見たことないんすけど」
「圧倒的に数が少ないからね。日本全体で見ても数例しかいない。その上、基本的に存在は秘匿されているからなおさらだ。……君も見ただろう? あの身体能力を」
言われて思い返す。スズは助走も道具もなしに、木曽の頭より高く跳んでいた。
なるほど、あんなのがいるとわかれば大騒ぎになるのは間違いないだろう。
「あの子、開花していただろう? あのとき、彼女から花粉が飛んだんだ。そして、たまたまあそこにいた君は、運悪く受粉して、"半・植物人間"となってしまった」
「ああ、そういえば甘いにおい漂ってきましたわ。けど、あんなんで"植物人間"になるなら、もっとたくさんいてもいいんじゃないっすか?」
「基本的に、開花しないようにと決まっているし、そもそも確率的にはあまり高くないんだよ。普通は体内に入っても受粉しない。本当に単純な話、君は運が悪かった」
アマネは、わずかに俯いて思案した。すべてを本当だと信じられるほど純粋な人間ではないが、右腕の異物は憎たらしいほど鮮やかな緑色で、どう見ても肌を貫通していた。
「正直、"植物人間"とか光合成とかいきなり言われても信じらんないんすけど」
わずかな逡巡を挟み、尋ねる。
「それで、俺は、これからどうなるんすか」
「個人差はあるが、放っておけば二週間ほどで"植物人間"へと完全成長を果たす。その芽は時間を経るごとに茎をのばし、葉を広げ、つぼみをつける」
「イヤなんすけど」
「そう言ってくれるのは助かるよ。ちょうど、隣町の大学病院で治療をできるようになっているんだ。よかったら今からついてきてくれないかい?」
「……一旦、保留じゃダメっすか?」
視線をそらして、アマネは苦しげに絞り出した。
目の前の男を信じきるのは難しく、さりとてこのままというわけにもいかない。
まず一度、頭を冷やす必要がある。そう考えての提案だったが、
「できれば今から来てほしい。万が一その腕を他人に見られたら困るんだ」
拒否され、アマネは再び黙りこんでしまった。
彼の主張はもっともだし、そもそもアマネだってまったく同意見である。
自分が観衆側だったら、まずドン引きして、距離を置き、陰でうわさ話に興じる。
普通の人間なら、そうするから。
だからこそ、好奇心と嘲笑を向けられる側になるのは絶対に避けたかった。
とはいえ、裏では国のもとで働いているだなんて、漫画やアニメでしか聞いたことのないフレーズだ。妄想の中で憧れたことはあれど、いざ目の前でそれを言われれば、まず真っ先に頭をよぎるのは『詐欺』の二文字だ。
それに彼は、先ほどナイフを使いこなして、スズに傷を負わせていた。パッと見は木曽の側が悪としか思えな……そこまで考えて、ふと思い出した。
「そういえば、結局デコト……ピンクの女子をおそってたのは」
「ああ、すまない。その説明を忘れていた。あの子は"植物人間"としての力を悪用しているんだ」
お茶を飲んでいた木曽は、アマネの問いに後頭部をかいて答えた。
「あの身体能力にかかれば、通常のセキュリティは用をなさないからね。そのあたりの塀ならひとっ跳びだし、防護ケースだってクッキーみたいに簡単に割れる。警備員や警察官で囲んだところでとうてい太刀打ちできるはずもない」
ペットボトルで自身をさして、木曽はわずかに自嘲的な笑みを見せた。
「さっきの件は、おっさんのオレがナイフを持っていて、向こうは手ぶらの女子高生だ。君の目からオレが悪者に見えたのは当然だよ。でも、その実オレとあの子の力関係はまったく逆。ナイフのひとつでもなければ、そもそも勝負にもならないんだ」
ペットボトルの先をアマネの眼前に突き付けて言う。
「で、あいつが力を悪用しているから殺そうっていう話っすか?」
「彼女はそこまでの悪人ではないよ。まあ、さすがに具体的なことは話せないけど」
「……ここで断ったら、俺も捕まるんすか?」
「そんなことはないよ。あえて"植物人間"になることを選ぶ人もいるしね。できれば人間に戻って欲しいけれど、力を悪用したり広めなければ、オレたちはなにも言えない」
アマネの問いに、木曽は間髪入れずに答え続けた。
少しは思案してくれれば良いのに、と思う。急かされているようで落ち着かない。
とはいえ、考えないわけにもいかない。アマネは左手をあごにあて、いつの間にか赤色に染まりだしていた空を見上げた。
一般的に、この手の話は、一旦家に持ち帰り、一晩寝かせるべきだ。その場で流されるままに契約書にサインして泣きを見るだなんて、そんな手垢のついた展開は避けたい。
が、今のアマネは腕を隠すものを持っていない。このまま家に帰る途中、万が一知り合いに芽を見られでもしたら……という不安も拭いきれない。
だから、「治療ってのは――」アマネは質問をひねり出し続けた。
木曽の語るところによると、治療費は全額向こう持ちで、局所麻酔の十五分くらいで終わる、簡易的な摘出手術とのこと。ただ、日を追うごとに根が深くなっていくため、大掛かりな手術が必要になり、失敗率、死亡率も上がるということらしい。
「まあでも、初日に手術して失敗したとか死んだってのは聞いたことないから、今日やる分にはほぼノーリスクだよ。君、門限とかはある?」
「いえ、そういうのはないすけど」
「それなら、悪いことは言わない。手術を受けておいたほうがいい」
木曽が半歩踏み出し、声のトーンを落として言った。
「"半・植物人間"としての発見が遅れてリスクを背負った人や、"植物人間"になって後悔してる人もいる。君はまだ確実に戻れる。せっかくの幸運だ。活かしたほうがいい」
そんな彼の真剣な、ともすれば怖いくらいの雰囲気に気圧されつつ、考えた。
これまでと、これからについて。
「…………」
眼鏡からコンタクトに変え、眉毛を整え、地毛と主張できる程度に髪を茶色に染めた。
1000円カットをやめ、美容院に通うようになった。
服はユニクロだが、洗濯のあとにきちんとアイロンをかけるようになった。
お年玉をはたいて、ブランド物の長財布を購入した。
部屋の姿見鏡で、自然な笑顔の練習をした。
入学当初は特に、クラスメイトと積極的に挨拶をかわし、単純接触効果を狙った。
興味のある部活はなかったが、交友関係を広げるために、弱小テニス部に入った。
あとは、流行の話をして、練習した笑みを貼り付けて、適当に相槌を打った。雑に褒めて、同意して、裏での陰口にもとりあえず付き合った。
「…………一応、どんな治療をするのか見せてもらっていいすか?」
腕に芽を生やしていては、積み上げてきたものが、すべて、無に帰す。
その未来予想図を前に、アマネは、譲歩ラインを下げた。
「もちろん。病院に電話するから少し待ってて」
木曽はわずかに表情を緩めると、スマホを取り出し、アマネから距離を取った。
「お待たせ。行こうか」
数分後、話がついたらしい木曽はスマホをポケットに入れて、タクシーに乗りこんだ。アマネも右腕を隠しながら隣に座る。
寡黙な運転手に導かれて十五分ほど。タクシーは病院前で停まった。
自宅からほど近い病院だが、こうして入口前まで来るのはなにげに初めてだった。
「ついてきて」
木曽に連れられて病院の正面入り口から中へ。
白を基調とした空間から漂う、清潔感と、アルコールっぽいにおい。
黙々と歩く木曽についていく。エントランスこそ強い照明が明るく照らしてくれたが、廊下を進むとだんだん光が絞られ、外の日が傾いているのもあって薄暗くなっていった。
エレベーターをのぼり、夕日に照らされる廊下を抜けて、今度は下りる。
大きな病院だけあってか、看護師や患者と思われる人とよくすれ違う。しかたないので、常に右腕を抱えるようにして歩いた。
異変を感じたのは、連なる病室をとおりすぎ、薄暗い廊下を歩き始めたあたりだった。
呼吸が苦しい。
全力疾走したあとのような、喉がうまく機能しない感覚。それに伴ってか、めまいと、視界の狭まる感覚におそわれた。薄暗い廊下がさらに暗く感じられる。
「大丈夫かい?」
肩で息をするアマネを見かねたのか、木曽が足を止めて心配そうに尋ねてきた。その声も、どこか遠く感じた。
「だ、大丈夫っす」
「無理するな。一旦この部屋で休憩させてもらおう」
木曽はポケットから鍵を取り出すと、すぐ近くの部屋を開けた。
スイッチをつけて部屋の中に入る。どうやら物置らしく、大きなカーテンの前に、なにが入っているのかわからない段ボールが二段三段と積み上げられていた。
「そのあたりに腰掛けていいから」
言われたとおりに膝を折りつつ、アマネは違和感を覚えた。
木曽はなぜこの部屋の鍵を持っていたのか。
勝手に部屋を借りて大丈夫なのか。
部屋の奥に垂れ下がっているのが遮光カーテンである理由は。
――なぜ、部屋の電気がついた瞬間、息苦しさが泡のように消え去ったのか。
そこまで考えたところで、部屋の扉が閉まり、電灯が切れた。
同時に、呼吸が止まった。
「っ!?」
アマネの脳が混乱の渦に叩き落とされる。
慌てて空気を吸いこもうとして、まったく肺が機能しなかったのだ。
それどころか、身体が、指先一本動かず、まばたきすらもできない。
そこに至って、錯乱する脳が気がついた。
視界が利かない。
右腕を掴んでいたはずの左手の触覚が失われている。
物置特有の埃っぽいにおいも消え失せている。
否。感知できなくなっている。
アマネは五感を奪われ、身体が動かず、酸素の供給を絶たれたことを、理解した。
「悪いな少年。恨むなら、オレを恨めよ」
木曽の声すらも、もはや届かない。
暗闇と静寂の底なし沼。ムカデの這うような悪寒。
死ぬ。
生命としての根源的な恐怖が、意識以外のすべてを失った全身をなでまわした。
次の瞬間。
がしゃぁん! という激しい音とともに、強烈な山吹色の光がアマネの瞳孔を焼いた。
「っっっひゅぅっっ、はっ、げほっ! ごっ、げっえぇぁ!」
同時に、ぜひゅっと激しい音をたてて肺が酸素を取りこみ、その摩擦に激しく咳きこむ。身体をくの字に折り、えずき、目の端に涙をにじませ、そうしてやっと、身体が動くことを理解した。
古い段ボールのにおいと、外から吹きこんでくる風。そして、
「アマネ! 来い!」
鋭い声が鼓膜を震わせた。
反射的に声のしたほうへ顔を向ける。
西日を背に、割れた窓ガラスの間から、スズが手を向けてきていた。
「てめ、この、ピンク女ァッ!!」
聴覚を突き刺す怒声に、思わず振り返る。
眉を吊り上げた木曽が、アマネへ手を伸ばしていた。
アマネを掴もうと、前後から伸びてくる手のひら。
コンマ数秒の逡巡。頭で考える余裕などない。
「デコトラ!」
本能か。直感か。
気がついたらスズの右手を選んでいた。
「走るぞ!」
スズの宣言と共に、アマネは強く引っ張られた。
割れた窓。引きちぎられた遮光カーテン。鋭利な破片の間を抜けると、落ちかけの太陽が最期の輝きとばかりに強烈な光を放っていた。
走り出すスズ。引っ張られるがままにアマネも全力で大地を蹴った。
ちらりとうしろへ目を向けると、木曽が鬼の形相で追ってきていた。
「あークッソ、しつけえ!」
スズは苛立たし気に言うと、鞄を二つ抱えた手でアマネを胸元へ引き寄せ、お姫様抱っこした。
「舌ひっこめとけよ!」
声が響いたと思うと、返事をする間もなく、ずんっ、と重い音が大地を鳴らした。
強烈な加重とともに大地が急激に遠く離れ、ようやく、彼女が跳んだことを理解した。
高さにして五メートルほどだろうか。二階建ての建物の上まで一息にジャンプした。
「え、わ、たか、え」
言葉の出てこないアマネと対照的に、スズは慣れた様子で着地すると、数歩走ってから迷わず飛び降りた。
「しぬしぬしぬしぬ!」
重力に従って落ちる身体。全身がぞわぞわする。
子供のころは怖いもの知らずで、高いところから跳んだりもしていた。だが、今のアマネにそのころの感覚は残っていない。
目を力いっぱいつむり、ぎゅううううっと彼女にしがみついていると、「ぐえっ」叩きつけられるような衝撃とともにアスファルトへ着地した。
「ふぅ。とりあえずこれで追ってこな……そろそろ降りてくれ」
スズが鬱陶しそうに言った。
いまだしがみついていたアマネは、彼女の言葉におそるおそる目を開けると、きょろきょろと周囲を確認して、少しばつの悪い顔で離れた。
「建物が壁になってるから、あいつは相当迂回しないと追ってこれない。だからあとは走って逃げれば見つかることはないだろ」
「そ、そうか。悪い。助かった……のか?」
言いながらアマネは首をかしげた。なにも考えずにスズの手を取ったが、果たして正解だったのだろうか。
「どうでもいいから、さっさと家に帰るぞ。日が暮れたらさっきみたいになる」
アマネの鞄を渡して言う。
「さっきみたい……お前、知ってるのか?」
「そのへんは帰ってから話すから。アンタの家どこ? こっから近い?」
「一駅くらい」
「なら走ればなんとかなるか。早く行くぞ」
背中を押され、なされるがままに走り始めた。
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