夕立
風何(ふうか)
短編小説「夕立」
※
ふと窓の外を見てみると、激しく地面を打つように雨が降っていて、灰色の雲が目に見えるくらいの速さで流れている。わたしはもっと間近で降りしきる雨を見たいと思って、窓を開け、ベランダに出る。けれどもわたしが実際ベランダに足を踏み入れると、降り始めたときと同じくらい唐突に雨は止んでしまって、ただ雨の匂いだけが辺りに漂っていた。わたしはほとんど呆然としたまま、いつの間にか綺麗に赤く映えた夕焼けを眺めていた。
ぼくが雨を好きなのは、それが日常のなかにあるささやかな非日常だからだろうね。わたしはふと昔彼が言っていたことを思い出してしまう。小学生のとき、中学生のとき、高校生のとき、そのすべてにおいてそうだったけれど、わたしは教室のなかから外で降っている雨を見ているのが好きだった。窓の外に映る風景は、昼なのに日が沈む直前と同じくらい暗くて、普段外に遊びに行っているはずの人たちが教室で喋っている。教室のなかで付いている灯りがいつもよりも明るく見えて、どこか静かな雰囲気を醸し出している。だから、きっとわたしは彼と同じような理由で雨が好きで、けれども彼はわたしのことが嫌いだった。
ベランダの真下には道路が広がっている。車が通る車道に、歩行者が通る歩道。さっきまできっと傘を差していたであろう人たちが、傘を畳んでしまって、そのまま水溜まりを避けながら歩いているのが見える。ああ、そろそろバイトの時間だ。すぐに準備しないといけない。雨がそのまま降ってくれたなら、休む理由にもなったかもしれないのに。いや、そんなわけないな。雨で休むアルバイトなんて、雇われるわけがない。少なくともわたしにはそんなことできない。
わたしは自分の部屋に戻ってアルバイト先に行く準備をし始めた。
※
その日のアルバイトが終わると、わたしは同じバイト先の同級生と一緒に帰った。彼はわたしと通っている大学も同じで、授業もいくつか同じものを履修していた。彼とは会う頻度もそれなりに多かったのもあり、時間が経つごとに仲良くなり、ある日彼がわたしに告白してきたのを境に、わたしたちは恋人同士になった。わたしには恋愛の何たるかなんてほとんど分からなかったし、告白されたのも彼が初めてだったけれど、わたしと彼はそれなりに仲良くやっていた。
「この前図書館で借りた本なんだけどさ、結構面白かったんだよね。」
彼の趣味は読書だった。わたしはふと思い出したことを必死で頭の中から搔き消した。そして冷静を取り繕うようにこう訊いた。
「へえ、なんて小説?」
わたしが訊くと、彼は答える。
「夕立っていう小説なんだけど。」
彼はそう答えると、持っていた鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。表紙を見てみたけれど、知らない作家の名前がそこには印字されていて、タイトルにもわたしの記憶に引っかかるものはなかった。
「聞いたことないな。」
わたしが文庫本を見渡しながらそう言うと、彼はまた念を押すように「面白いよ」と言った。
「よかったら貸すよ。」
わたしは笑いながら首を振る。
「いやいや、これ図書館の本じゃん。」
「まあ、そうだけどそこまで問題なくね?」
「いや、いいよ。わたしブックオフで買うから。その本、読み終わったなら早く返しなよ。このまえも本の貸し出し期限過ぎてたじゃん。」
わたしが言うと、彼は少し溜息混じりに、
「分かった。分かったから。ケイは真面目だな。」
と言った。わたしはそう言われて、ふと訳の分からない言葉を口走りそうになったけれど、それを寸でのところでこらえて、話題を切り替えた。
「というかそんな面白いんだ。それ」
わたしがそう言うと、彼は自信に満ちたような表情になった。
「面白かったよ。これは間違いない。絶対面白い。というかさ俺が進めた本で今まで面白くなかったやつなんてないでしょ」
そう言われて、わたしは少し顔を作るように笑った。
「確かにね。ぜんぶ面白かったよ。読んだら感想言うね。」
それからは小説の話題も終わって、今度はバイト先の先輩の話になった。わたしは別に話すのがうまい方ではないから、ほとんど彼が喋っていることに肯いているだけだった。
別れ際に「うち来る?」と言われたのをやんわりと断って、わたしはひとり歩いていた。帰りにブックオフに寄ろうと思ったけれど、もうすでに店は閉まっていて、タイトルは覚えておかないとなと思って、ポケットからメモ帳を取り出し、そこに書きつけた。メモ帳は色々なことで雑多に埋まっていたけれど、なんとか自分では分かるようにしてある。わたしは今まで呼吸を忘れていたかのように、大きく息を吐いた。それはきっと誰がどう見ても溜息だった。
わたしと彼とでは、本の趣味が絶望的に合わなかった。
※
翌日の一限の授業に彼は来なかった。彼と一緒に受ける予定だったこともあり、わたしは後方の席にひとりで陣取ることになってしまって、周囲の視線が少しだけ痛く感じた。大抵の授業において、積極的に前列の席に行きたがる人は少ないし、前の席の方が見やすいという理由で後ろの席を選ばない向上心の高い人もそうそういない。ひとまずわたしは授業を受けて、渡されたレジュメに出来るだけ綺麗にメモし、授業が終わると彼に写真を撮って送った。
他の授業、と言っても残りは二限だけだったので、それを受け終わるとわたしはそのまま家に帰った。わたしの家は大学からかなり近く、徒歩で十数分歩けば着いてしまう。一人暮らしと言うこともあり、本来なら友人たちの溜まり場となっていてもおかしくないはずなのだけれど、わたしには生憎友人と呼べる類の人がそこまで多くなかった。
と言うわけで、わたしの家に来るのは彼くらいのもので、そうでないときはひとりでいることが多かった。
だからきっと今日もわたしは家でひとり課題に取り組んでるんだろうな、そう思いながら、暑い日差しが刺すように照り付ける道路を歩いていると、家に着く目前で道に迷っている人を見かけた。
「何かお困りですか?」
わたしが訊ねると、その人は持っていたパンフレットを指さして言った。
「この大学に行きたいんですけど、ちょっと道に迷ってしまって。」
そう言われて見せられたパンフレットはわたしが通っている大学のもので、わたしはほとんど迷うことなく言った。
「わたし、その大学の学生なんですけど、よかったら案内しましょうか?」
その人は少し驚いたようにわたしを見ていた。
「いいんですか?わざわざ。」
わたしは肯いた。
「ええ、ここから十分ちょいですし、一緒に行きましょう。」
その人は何度も何度も頭を下げた。きっと、わたしにできることはこれくらいしかないから。そんな風に何度も何度も自分に言い聞かせながら、その人と一緒に再び大学の方に歩き出した。
※
わたしの家には小学校の頃の卒業アルバムだけ本棚に置いてある。中学のときのアルバムも、高校のときのアルバムも、実家に置きっぱなしになっているのに、小学校のときのものだけはわざわざ一人暮らし用の家まで持ってきたのだ。今となってみればそこまで執念深くそれを持ってきた自分に笑ってしまいそうになるのだけれど、きっと今でもなおそれを持ってくるときの気持ちとさほど変わらないだろうし、今から同じように一人暮らしをするということになっても、わたしは迷わずそのアルバムを持っていくのだろう。
それくらいわたしにとってそのアルバムは大きなものだった。とは言っても、別に小学生の頃の思い出に強く浸っているわけでも、そのときとてつもなく思い出深い出来事があったわけでもない。わたしがそのアルバムに強く拘り続ける理由は、そこに一緒に印刷されているとある文集にあった。
それは卒業文集でもない。むしろ卒業文集なんてどんな内容を書いたかすらも忘れてしまった。わたしが今でも何度も読み返すのは、小学四年生のときに書いた作文だった。
わたしが小学四年生のとき、二分の一成人式なる催し物があった。成人は二十歳、その半分の十歳になる年齢だから二分の一成人式。後の世代でなにをしたのかは知らないけれど、わたしの学年のときは、将来の夢について作文を書き、それを体育館のステージ上でひとりずつ発表するというものだった。
でも正直なところ、発表したときのことなんてほとんど覚えていない。きっと他の人と同様に緊張していたのかもしれないし、文をそのまま読むだけだからと実はそこまで緊張しなかったのかもしれない。けれど、わたしの作文は、みんながスポーツ選手やパティシエを将来の夢で上げるなか、少しだけ変わっていたように思う。
わたしは作文に「優しい人になりたい」と書いた。優しくて真面目で誰かの助けになれる人、そんな人になりたいと思ってそう書いた。その当時で将来の夢のひとつも上げられないのは今となっては少し悲しいことだけれど、わたしの欲しいものはきっとその当時から大して変わっていない。
泣いている子を慰めれば先生に褒められ、真面目に勉強をすれば成績が上がる。率先して誰かを助ければその人に感謝され、成績が上がればいい学校に入れるし、誰かに勉強を教えることだってできる。そうしてまたその人に感謝される。そのぶんだけきっとわたしは優しい人になれる。
逆も然りだ。人を傷つければ先生に怒られ、勉強に手を抜けば成績が落ちる。その分だけ周囲からの信用が落ちる。わたしにはそう言った真面目で優しい自分を目指すというある種の思想が根底にあって、だからわたしは中学時代に出会った彼が今でも嫌いなままだ。
だって、自らに確固たる思想を持ってる人に、わたしなんかがどうやったら太刀打ちできるって言うんだ。
※
これは中学生のときに出会った彼の話。今の恋人である彼とは関係ない。
そもそも何で名前を覚えてないんだろうと今でも思うけれど、それもきっと彼の発言にわたしが強く影響されているからだ。
「ぼくが思うに、名前に意味なんかないよ。ロボットに一号、二号と名付けるのとそこまで変わらない。ただみんな同じだと区別しづらいから名前があるだけだ。」
なんでこんな言葉まで覚えているんだろう。思い出せば思い出すほど苛立って、それでいて、悲しくなる。
わたしは当時、真面目に授業を受けず、クラスの人とも話さず、誰かに話しかけられればそれさえも無碍にするような彼の仕草、態度に苛立っていた。かと言って彼が不良だというわけでもないし、どこか掴みどころがなく、気味が悪かったというのも原因のひとつだろう。もしかしたら自分とは正反対の彼を見て、少し羨ましいというのもあったかもしれない。ともかくわたしは彼に苛立っていて、ある日彼に直接そのことを言いに行ったのだった。
ある雨が降る日だった。その日はとてつもない大雨で、家に帰れなくなった彼は図書館でひとり本を読んでいた。そこにわざわざ自分のぶんの傘と、彼のぶんの傘を持っていったわたしもだいぶお人好しだったかもしれないけれど、それでもわたしが苛立っていたのは本当だった。きっと彼はなんのきっかけもなくわたしが目の前に現れたことに驚いたのだろう。彼にしては珍しく分かりやすいぐらいに目を丸くしながら、わたしのことを見ていた。
「傘無いんじゃないの?これ貸してあげる。一緒に帰ろう」
それは取り方によれば、わたしが彼のことを好きなのだと勘違いされても仕方ないような行動だったけれど、彼はきっとそんなことで勘違いするような人ではなかった。
「きみはだいぶお節介だね。」
そう言って彼はわたしの傘を受け取った。すぐに背を向けて歩こうとする彼に、わたしは心の中で悪態をついた。
彼はなにも喋ることなく雨の中をずんずんと歩いていくので、わたしはそれに追いつくので精いっぱいだった。わたしはあがる息を整えながら、彼に訊ねた。
「○○くんはさ、クラスの子たちと仲良くなりたくないの?」
わたしが訊くと、彼は答える。
「そこまで必要性は感じないな。人と関わるのはそれだけ体力を使うし、他人に期待するのもされるのも、期待を裏切るのも裏切られるのも、等しく下らないと思うから。べつに他の人が他の人と仲良くすることは否定しないけど。」
わたしはよく分からなくて、首をかしげていた。人と関わることが体力を使うのだという発想に今まで思い至ったことはなかったし、あまり共感できることでもなかった。
「つまりどういうこと?」
彼は答える。
「まあ、つまりぼくは誰とも関わるつもりはないってこと。人間関係は最低限でいい。」
わたしは少しだけ躍起になって反論する。
「でも○○くんのせいで、みんな困ってるんだよ。班行動のときもさ、ぜんぜん喋ってくれないし、先生も困ってるの。」
彼は黙っている。わたしは続ける。
「だからさ、ちょっとでも仲良くしてみようって思わない?○○くんもさ、誰か仲のいい人がいたほうが絶対に楽しいよ。」
わたしがそう言うと、彼は不思議そうに訊ねてきた。
「きみはいったいぼくをどうしたいの?というか何がしたいの?」
わたしは答える。
「わたしはみんなが楽しく学校生活を送れたらいいと思う。○○くんもみんなと仲良くなればいいと思う。わたしはそうしたい。」
彼はわたしのことを見ている。
「いかにも優等生的な言葉だね。それはいったい誰のためのもの?」
わたしはしばらくのあいだ言い淀んでいたけれど、わたしが今までずっと心の中で思っていたことを答えた。
「わたしは優しい人になりたいんだよ。」
彼は一瞬だけ驚いたような表情になって、それから笑顔になった。
「偽善だね」
彼はそう言った。けれど、なぜだかそこに敵意はないように見えた。
「けれど、そんな風に包み隠さず言ってしまえるところはきっときみの美点だ」
彼の笑顔につられるように、雨はいつの間にか止んでいた。
※
彼は結果的にわたしの忠告通り、他のクラスメイトともぽつぽつと喋るようになった。そのぶん、彼は表面では以前より社交的になり、授業中に注意されることも少なくなった。
「最初からそうしてくれればよかったのに」
わたしが言うと、彼は少しだけ苦々しげな表情をして言った。
「言っただろう。人と関わるのにも体力がいるって。ぼくはただでさえそういうのが得意じゃないんだ。」
ならば彼がいきなり心変わりしたように態度を変えたのはどうしてだろう。分からないけれど、状況は好転しているようだったし、わたしはそのことが嬉しかった。
天気は連日雨だった。雨はほとんど止むこともなく降り続けて、いよいよ梅雨の季節がやってきたのだという実感が湧き始めていた。
「雨が降るね。」
わたしが言うと、彼は訊ねてきた。
「雨は好き?」
わたしはしばらく考えてから答えた。
「じめじめしてるし外に出れなくなるから嫌って言おうと思ったけど、実はそんなに嫌いじゃないかも。」
よく考えてみると、わたしは雨が嫌いじゃない。周りが毛嫌いするほどの感情をわたしは持ち合わせていなかった。
「そうなんだ」
彼は肯いた。
「なんでだろうね。よく分からないけど。○○くんは?」
わたしはそう訊き返した。
「ぼく?ぼくは結構好きだよ。」
彼は言った。
「そう。何で?」
わたしはまた訊ねた。彼はしばらく考えてから、こう答えた。
「理由をはっきり説明するのは難しいけれど、それでも、ぼくが雨を好きなのは、それが日常のなかにあるささやかな非日常だからだろうね。」
彼はこんな風に普段から中学生とは思えないような難解な言い回しをする。そのことは彼と喋る機会が増えるにつれてわたしにもだんだんと分かってきていた。そしてそれをたいして分かってもらおうとしていないことも。彼は本当に、他人に期待していないのかもしれない。
そんな風だから、彼と喋っていると、わたしには分からないことばかり増えていった。けれども、いま彼が言ったことは、わたしにもどこか腑に落ちるところがあった。
わたしは小学校の教室を想像した。ただすごく当然な想像として、ずっと雨が降っていてほしいとは思わなかった。
「まあでも、ずっと雨が降り続けるのは嫌だけどね。」
わたしが言うと、彼は肯く。
「それはそうだね。雨は非日常だからいいんだ。」
まったく違う理由で彼は納得する。けれど、きっとそう遠くはない理由でわたしたちはお互い納得しているのだろうと思った。そんな想像が嬉しくないと言ったら嘘になる。けれども何で嬉しいのかは自分では分からない。
わたしはその想像から意図して離れるために話題を切り替える。
「それでどう?クラスの人とは仲良くなれた?たまに喋ってるのは見てたけど。」
彼は少しだけうんざりしたように答える。
「そう簡単に仲良くなれたら苦労しないし、ぼくは別に仲良くなりたいわけじゃない。ただとりあえず最低限のことはしようと思っただけだよ。なにを不快に思うかは人によって違うけれど、ぼくが会話に参加しないとそれを不快に思う人が多いって言うのは分かったから。本当は空気みたいに誰の意に介さない存在になるのが理想なんだけどね。」
彼はそう言うけれど、空気になりたいという彼の真意はわたしには分からなくて、わたしはただひとつの言葉しか知らない赤ん坊みたいに愚直に繰り返す。
「けどやっぱり仲良くなった方がいいよ。」
彼は溜息を吐く。
「きみは本当に話の分からない人だな。」
わたしは諦めずに繰り返す。
「でも、○○くんが変われば、周りの反応も変わってくるはずだよ。」
彼は諦めたように笑っている。
「人はそう簡単に変わらないよ。」
彼が言うと、わたしも言い返す。
「○○くんは相当なネガティブ思考だね。」
彼もそれに言い返す。
「馬鹿みたいなポジティブ思考よりはずっとましだよ。」
彼がどんな人間なのかは相変わらず分からないままだったけれど、その言葉はとてつもなく彼らしいと思った。
※
優しい人になりたかったのは、きっと幸せになりたかったからだ。誰かに親切にして、真面目な行いをすることで、誰かに認めて欲しかった。そうすることでいつか幸福が自分の元に舞い降りてくるんじゃないかとずっと期待していた。中学のとき、彼が言っていたようにわたしは偽善者で、自分でも薄々そのことに気が付いていた。けれどもわたしはそれ以外の方法を知らないままでいるから、今でもこうして真面目で優しい人であり続けている。
彼(わたしの恋人の彼)がある日初めて無断でバイトを休んだ。わたしはその穴埋め要因として急遽店長から頼まれ、シフトに入ったのだ。けれども、いつまで経っても彼が店にやってくる気配はなく、その日は結局バイトに来なかった。店長は申し訳なさそうにわたしのことを労ってくれた。わたしは遠慮がちに大丈夫ですと答えながら、彼がどうして来なかったのか気になっていて、バイトが終わってから彼の家に行った。けれども鍵が閉まっていて、彼の家のドアが開くことはなかった。
※
彼(中学生のときの彼)とはそれからも頻繁に話すようになり、よく一緒に帰るようになった。そのなかでわたしは彼について多くの発見をした。いや、正確には発見した気になっているだけなのかもしれないけれど、そのひとつとして彼はきっとかなり辛抱強いと言うことが分かった。わたしからしても明らかに会話が成立していないことは多々あったし、彼の言っていることをわたしが理解できないことなんてざらだった。それでも彼は多くの言葉を費やしては、できるだけわたしを理解させることに努めていた。いや、それもわたしの自惚れに過ぎないのかもしれないけれど、きっと彼はかなり誠実に言葉を使う人なのだと思った。そしてそれは彼との付き合いが長くなるにつれてだんだんと顕著になっていった。
ふと空を見上げるとまた雨が降っていた。そう言えば、彼と初めて喋った日から今日までずっと雨だったなとそんなことを思う。そう考えると、色々なことを話すようになった割に時間は思いのほか短いのだなと思ったりもしたし、逆に梅雨というのはこんなにも長いものなのかと驚いていたりもした。けれども今まで天候のことなんて意識したことすらなかったから、それは間違いなく彼の影響なのだと思った。
そしてわたしもきっと彼に影響を与えていて、その証拠に、彼の表情は以前よりも幾分か分かりやすくなったように思う。表情が豊かになり、以前よりも多弁になった。それがたとえ事実でなくても、わたしはそうだと信じたかった。
知り合って間もないのに、わたしはいつも彼のことばかり考えていた。
わたしたちはその日もいつもと同じように会話を交わしていた。けれども、わたしはふと思い出したような調子を繕って、今までずっと気になっていたことを訊ねた。
「どうして○○くんはわたしのことをきみって呼ぶの?だって普通は苗字でさん付けとか下の名前呼びとか、そんな感じでしょ。」
それは純粋な疑問でもあった。わたしのことを「きみ」と呼んで、格好つけてないとはっきり自信を持って言えるのも彼ぐらいだろう。ただ本当のところ気になっているのはそんなことではなかった。名前を呼ばれないということは、極端な話をすれば、彼がわたしのことを認知していないのではないか、わたしは日々そんなことを考えてしまう。その妄想は常にわたしの頭の中を渦巻いていて、わたしはふとしたときに急に得体のしれない不安感に襲われることがあるのだ。
わたしはきっと数週間前より彼を知っているけれど、それでもわたしのなかの彼はずっと得体が知れないままだ。
けれども、一方の彼はよく分からないと言った表情だった。そうしてそのまま自分の頭の中に浮かんできた疑問を投げかけるようにこう訊いた。
「そのことになにか意味がある?」
ただ、そう言われてもわたしには分からなかった。意味なんて分からない。それに、わたしには自分がどう呼ばれたいかすらも分からなかった。
「純粋な疑問だよ」
それは確かに本当だったけれど、その答えは多くのものを削り取った誤魔化しだった。
彼はわたしのことをじっと見ていた。それはわたしのことを隅々まで観察するかのようだった。きっと彼はただただ誰とも仲良くしなかったのではなくて、他の人よりも多くのものを読み取ってしまうぶん、人と距離をとらざるを得なかったのだろう。
彼はちゃんと人を見ている。きっとわたしよりも。
彼は相も変わらずわたしのことをじっと覗き込んでいる。少しだけ居心地が悪い。これは最近気が付いたことだけれど、彼の瞳は薄茶色で綺麗に透き通っている。顔を合わせることが多くなるにつれて、そのことがだんだん目につくようになった。
わたしは堪らなくなって目を逸らす。そのあいだもきっと彼はなにかを考えていた。
そしてやっとのことで彼は口を開く。
「ぼくが思うに、名前に意味なんかないよ。ロボットに一号、二号と名付けるのとそこまで変わらない。ただみんな同じだと区別しづらいから名前があるだけだ。」
もちろんわたしが欲しかった答えはそんなものではなかった。わたしは歯痒くなって、作り笑いを浮かべようとした。
けれどもそう思っていたら、そのとき彼から意外な言葉が出てきた。
「それに、ここにはぼくたち二人しかいないんだ。区別する必要なんてないよ。どう転んでもここにいるのはぼくときみだけだ。」
そう言われてなんだか急に顔が熱くなっていくような気がした。彼がどんな意図をもってそう言ったのかは分からないし、その言葉にそれ以上の意味なんてもしかしたら無いのかもしれない。けれどもわたしにはそれがすごくくすぐったくて恥ずかしい言葉のように聞こえた。わたしたちのすぐ近くで降っているはずの雨がとてつもなく他人事のように思えた。
わたしは何とか冷静を装いながら、笑顔で言った。
「○○くん、今のせりふ、すっごい気障だよ。」
彼も照れている、そんな風にわたしには見えた。
わたしはそんな風に彼と一緒に帰ったり、下らないことを喋ったり、そんな日々を確かに楽しんでいた。彼の隣にいるのは心地が良かったし、わたしとは違う考え方をする彼に対して抱くものは、いつの間にか苛立ちから尊敬へと移り変わっていた。少なくともそのときは尊敬だと思っていて、それ以外言い表す言葉を知らなかった。そして、彼もまたわたしが彼の横にいることを拒まなかった。
けれどもそんな日が長く続くことはなかった。彼はだんだんとクラスメイトから嫌がらせを受けるようになったのだ。
※
同じクラスのひとたちに目を付けられるようになった彼は、頻繁に物を隠されたり、壊されたりするようになった。どうして彼がそんなことをされなければいけないのか、クラスのひとたちは「ずっとこいつが気に食わなかった」とだけ言っていて、彼に嫌がらせを続けていた。確かに彼は一時期多くの人たちから疎まれる存在だったけれど、わたしには彼に対するその仕打ちが気に入らなかった。彼のことを何も知らないからこんなことができるんだと怒りが溢れ出しそうだった。けれどもそのときのわたしにできることなんて、ただのひとつもなかった。
それでもただひとつ出来ることはと言えば、彼と一緒に帰ることぐらいだった。帰り道、彼になにか喋りかけることだけがわたしにできること。けれども彼は日を追うごとにあからさまに無口になっていって、ついに彼はわたしと一緒に帰ることを拒むようになった。
彼の顔色は日を追うごとに悪くなる。
そして彼と喋らなくなってからしばらく経ったある雨の日のことだった。雨の降りしきる通学路で彼はなぜかひとり立ち尽くしていた。スクールバッグは誰かの手によって水溜まりに投げ捨てられていて、制服は全身がぐっしょりと濡れていて、右手には何かを握りしめている。
それは見覚えのある雨傘だった。そして思い出す。ああ、あれはわたしが彼と初めて会ったとき貸した傘だ。けれどもその名残は少しばかりしか残っていなくて、雨傘は無残にも真っ二つに折り曲げられていた。
彼は満身創痍な様子でなんとか口を開く。
「この傘、返してなかったから。折り曲げられちゃったけれど」
彼の声はいつもと違って震えていた。あまり多くは語らない彼だけれど、以前の彼の声には確かに彼自身の意志が漲っていたはずだった。なのに、いまとなっては知らない場所で迷子になった子どものように臆病に寒がりながら震えていた。
わたしは雨に濡れたまま彼のことを見ていた。彼もまた屋根のない場所で雨に濡れながら、下を向いていた。
彼がここにいると聞いて、走って取ってきた折り畳み傘。きっとそれはすでにここにいる誰にとっても意味のないものになっていた。いや、違った。わたしのするべきことはきっとこんなことではなかった。こんなことではないことは分かっていた。分かっていたけれど、わたしにできることはただ雨の日に傘を渡すくらいのことだった。
わたしが誰かにやさしくするのはわたしのためだ、わたしはそうはっきり自覚する。だってわたしは虐げられた人の手を引いて走ることすらできないのだから。
わたしが持ってきた傘を手渡すと、彼はそれをじろじろと眺めて、やっとのことでそれが傘だと認識したようだった。彼の動きは目に見えて鈍くなっていた。
「ありがとう、帰って。」
彼はなかば吐き捨てるように言った。けれどもわたしはその場から一歩も動くことができなかった。何もできずにその場でただ立ち尽くしているわたしも、その場でただ俯くように佇んでいる彼も、みんながみんな小さく見えた。
わたしが何とか彼に近づこうとすると、彼はわたしのことを強く振り払った。
「いいから、帰れよ。どうしてぼくに構うんだ。」
わたしはそのとき初めて彼の顔を真正面から見て、その顔はいつもの清爽ないでたちからは考えられないくらい歪んだ泣き顔だった。
彼の泣き顔をそのとき初めて見た。そんな顔を見てそのまま帰れるはずなんてなかった。
「○○くんが心配だから。」
わたしがそう言うと、彼は半ば軽蔑するようにその言葉を笑い飛ばした。その表情すらもどこか憐れに見えて、わたしはとてつもなく悲しくなった。
「心配?どうしてきみがぼくのことを心配するんだよ?そんなの嘘だろ。人が真に心配できるのは自分だけだ。結局人は自分が一番大事なんだから。そんなことは昔から分かってた。ぼくはべつにきみのことなんか信じちゃいない。きみに期待してもいない。ぼくはきみだけじゃなく、誰も信用しないし、誰にも期待しない。壊された傘は弁償するよ。それでぜんぶ終わりだ。そうだろ?」
それだけ興奮しているのに、どうして怒っているようにすら見えないのだろう。
「きみだってぼくの比にならないくらい友達いないだろ?ぼくより自分の心配をしろよ。ぼくに構ったってきみは優しい人にはなれない。というかぼくがそんな優しさを認めない。それにきみは勘違いしてる。ぼくはきみのことがずっと嫌いだった。きみの話のどれにも興味がなかった。ぼくのことなんて分かるはずないってずっと思ってた。馬鹿みたいなポジティブ思考で深く考えもしない、それで、どこまでも偽善的なことを押し付けてくるきみを、どうしてぼくが好きになるんだよ。」
わたしはなにも言い返せない。彼の怒りは明らかにわたしに向いているものではなかった。というか、怒りよりもそれ以外の感情がわたしにはありありと読み取れた。確固たる思想を持っていて、誰よりも深く考える彼は、きっとわたしの何百倍も優しいのだと思った。思想だけじゃない。わたしよりもずっと優しいひとに優しくするなと言われて、嫌いだと言われて、必要ないと言われて、わたしにこれ以上できることなんてあるはずないじゃないか。
だったらわたしも○○くんのことが嫌いだ。嫌いになるしかなかった。
わたしは彼に背を向けて走り出す。訳も分からず零れた涙が雨に搔き消されていく。わたしも彼も、泣いた証拠さえ奪われて、それは確かに日常のなかの非日常に過ぎなかったのかもしれないけれど、そんなものをわたしが愛せるはずがなかった。
次の日から綺麗に梅雨が明けた。同時にわたしの初恋は終わって、彼は学校に来なくなった。
※
それからわたしはずっと中学時代の彼の代わりを探していたのかもしれない。だからこそ、今こうして恋人に別れ話を切り出されているのだろう。恋人の彼よりもわたしのほうがずっと不誠実で、こんな成り行きになるのもきっとどこまでも自然だ。けれども半ば叫ぶように彼に詰め寄っていた。
「なんで?」
わたしがそう言っても、彼は半ば呆れかえるように困った顔をするだけだった。わたしと彼とでは圧倒的に温度感が違っていた。
「なんでって他に好きな人ができたからだよ。言っただろ。それ以上何を言うことがあるんだよ。」
わたしは叫び続ける。
「なんで?わたしじゃ駄目なの?」
彼はわたしをあやすように落ち着かせようとする。こっちは昂奮していて、むこうは冷静な表情で、そのことがわたしをより一層苛立たせた。
「ほらさ、落ち着けって。少し歩こう」
彼がわたしの肩を掴もうとしたとき、「やめて!」とわたしは言って、激しくそれを振り払った。そのとき、わたしも中学時代の彼にこうして腕を強く振り払われたのだと場違いなことを思い出した。
ああ、きっとわたしは目の前の彼を愛していたことなんて一度もなかったのだ。ほぼ間違いなくそう言い切ることができた。けれども、ただ沸き起こった怒りは収まることを知らなかった。
「なんで!なんで!なんで!」
そこまで言って、いきなり電池が切れてしまったかのようにわたしは地面に座り込んだ。苛立ちが発散されないまま、身体を動かすエネルギーだけが夜空に吸い込まれてしまったようだった。そうしてわたしはしばらく蹲っていた。
それから少し経ってわたしが冷静になってくると、彼はわたしのことを面倒くさそうに見ながら言った。
「ほら、ここ道路だから。」
彼に掴まれかけたのをわたしはまた再度振り払った。
「いい、自分で歩けるから。」
彼はため息を吐いた。そしてどこか襟を正すように勿体ぶってこう言った。
「ほら、人の気持ちなんて夕立みたいなものなんだよ。激しく移り変わっては、すぐに消えていく。降ったことにすら気が付かないかもしれないし、気が付いたら他の場所に心がある。そう思うだろ?」
わたしも読んだ。彼に勧められた小説「夕立」の一節。目の前にいる彼が憎くて仕方がなかった。
ぜんぜん意味が分かんない。やっぱりわたしと彼とでは小説の趣味が絶望的に合わない。
それに、わたしは夕立よりも長く降り続ける雨の方が好きだ。
いつも別れる場所を待つまでもなく、わたしはひとり走り去りながらそう思った。
彼は数日後、無断欠席していたアルバイトを辞めた。同じ授業を取っていたけれど、わたしたちはそれぞれ別々に授業を受け、いつしか彼の姿を見なくなった。
※
休日、わたしは友人と遊んだ帰りに電車に乗るため、駅で次の電車を待っていた。
いやきっと友人なんかじゃない。わたしの優しさはただ与えるだけのもので、表面上のものでしかないから。道を聞かれたら一緒についていき、落とし物を拾ったら交番に届ける。お年寄りには席を譲り、友人に頼まれたら授業のレジュメを見せる。そんなわたしの親切を褒める言葉はわたしには聞こえなくて、ただただ深い夕景の中に消えていく。肝心なところで誰の役にも立てなくて、他人に利用される。そして誰もわたしに優しくなんてしてくれない。誰もわたしを幸せにしてくれない。というか幸せって何?ああ、結局そこばっかりだ。あのときの彼のことよりも、結局わたしは自分のことばっかりだ。
わたしは彼のことを大切に思っていたはずなのに、その気持ちさえも吸い込んでしまいそうな夕焼けが疎ましかった。
中学と高校の卒業アルバムは実家に置いてある。けれども、実は中学のアルバムは一部のページを跡形もなく破り捨ててしまったのだ。彼のいない集合写真なんて、この世界にあるどんなものよりも無意味だから。
彼はどこにもいない。彼が死んでから、わたしはずっと彼の代わりを探し続けていて、ただ無差別に人助けをする。たまたまできた恋人はいつの間にかいなくなって、友人に友人と思われていないようなわたしは、それでも優しくすることしかできない。それも当たり障りのない優しさだ。
中年のサラリーマンらしき人物が定期を落として、わたしは慌ててその人を追いかけ、何とか追いついてそれをその人に渡した。「落としましたよ」とわたしが言う。その人はわたしになにも言うことなく落とした定期を強く引っ手繰った。
ああ、優しさなんて無意味だ。
そこからはあまり覚えていない。気が付いたら一人の中年サラリーマンが電車に轢かれていて、血が駅構内に飛び散った。それはきっと、あまりにも夕立に似ていた。
幸せって何?そんなことを考える間もなく、わたしの幸せは電車に轢かれた人の命と一緒に消えた。
夕立 風何(ふうか) @yudofufuka
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