風切丸

鬼頭星之衛

風切丸と蘭太郎




 荒れ狂う嵐の中、蘭太郎は森の中を駆けている。

 風になびく木々は、森を進むごとに深くこうべを垂れている。

 正面からの強い風をあおられながら、必死に前へ進む蘭太郎の足は擦切れ、紅く染まっていた。

 そんな痛々しい足を気にする事なく、腰にいている2尺5寸の中太刀を左手で大事に支えながら、前へ前へと進む。

 蘭太郎の心は怒りと焦燥に満ちていた。

 理不尽などうしようもない状況への怒り。

 そんな状況で、何も出来ない自分への憤り。

 それでも、何かに追われるように、行動を起こさずにはいられない釈然としない焦り。

 思い出されるのは父の姿。

 いつも飄々ひょうひょうとして武士らしい振舞いなどあまり見た事がなかった。

 それでも、下級武士なりに村の為に働いていたのは知っている。

 そんな父の背中を見て育ってきた。

 しかし、そんな父は去年亡くなった。

 飢饉に苦しむ領民の為に農耕地を何とか整備しようと奮闘し、その疲労と飢えから倒れ、あっさり亡くなった。

 人が簡単に死ぬ時代。蘭太郎にとって父の死も特段驚くべき事ではなかった。

 飢饉は人々の頭上に平等に降り注ぐ。そして、下の者から順番にらっていく。

 年寄りから、幼子から順番に命を奪っていく。

 生まれたての赤子は一週間と待たずして死に、後を追うように出産で体力を奪われた母親も死ぬ。

 山に入れば口減くちべらしにあった人々の屍を踏みしめる事になる。

 死と隣人同士の関係。

 だから、蘭太郎にとって父の死は特段驚くべき事ではなかった。

 しかし、今年は今までの酷い干ばつが嘘の様に恵みの雨が降った。

 田んぼには水が満ち、畑には作物が順調に育っている。

 今年は秋の収穫祭を盛大に祝える、人々はそう思っていた。

 蘭太郎も死にゆく命が救えると思っていた。

 しかし、収穫を目の前に控えた夏のこの時期。

 途轍もなく大きな嵐が村を襲おうとしている。

 今まで見た事ない程の暴風雨が近づいている。

 それが村を直撃すれば田んぼも畑も全て吹き飛ばされるであろう規模だ。

 民家も消し飛ぶ可能性もある。

 そうなればまた多くの命が消える。

 明日を生きれるはずだった赤子の手は冷たくなる。

 それを抱きかかえる母親もきっと冷たい。

 それらの事を思うと蘭太郎は歯軋りする程、顎に力が入った。

 通常の倍程の時間を掛けて漸く、蘭太郎は森を抜けた。

 森を抜けた先は、所々に岩肌が剥き出しになっている崖であった。

 崖の眼下には荒れ狂う日本海が広がっている。

 まさに神の怒りを彷彿とさせるその荒れ具合は、見た者を絶望へと染め、思わず神の怒りを鎮める為に祈らずにはいられない。

 その荒れ狂う海を眼下に収めるべく、蘭太郎は崖先に立った。

 身震いする程の恐怖。強風の影響で立ち続ける事さえ難しい。

 それでも、蘭太郎はしっかりと前を見据える。

 どうせ死ぬならと言う気持ちが湧き上がってくる。

 蘭太郎は腰に佩いている2尺5寸の中太刀を鞘から抜いた。

 名は風切丸。

 蘭太郎の父が家宝として大事にしてきた刀だ。

 雷切丸と対をなす存在。

 蘭太郎は幼い頃から幾度となく父から雷切丸にまつわる逸話を聞かされていた。

 その刀は雷切丸と呼称される前は、刀の柄に鳥の飾りがあった事から千鳥と呼ばれていた。

 そして、刀の持ち主は戦国の世で豊後国ぶんごのくにの武将で知られる立花道雪。

 炎天下のある日に道雪が大木の下で涼んで昼寝をしていると、急な夕立で雷雲が立ち込め、いかずちが昼寝をしている道雪目掛けて落ちてきた。

 道雪は咄嗟に枕元に立てかけていた千鳥でその雷を斬ったとされている。

 それが雷切丸の伝承。

 蘭太郎はこの話を父から幾度となく聞かされた。

 風切丸はそんな雷切丸と対を成す存在で、名刀だと語っていた。


「雷を斬った雷切丸の片割れなら、この嵐も斬れるはずじゃ・・・」


 蘭太郎は風切丸を両手で強く握り、中段に構えながら小さく呟いた。

 蘭太郎は父の話を信じてはいなかった。

 雷切丸以前の千鳥の名前の由来である鳥の飾りはその風切丸にはない。

 鞘には何の意匠も施されておらず、黒く塗られているのみ。

 切っ先から鍔までおりる刀身の刃文はもんも黒ずんでいる。

 到底、名刀とは呼べる代物ではない。

 第一、蘭太郎の父が語っていたのは雷切丸の逸話であり、この刀の逸話ではない。

 片割れが後世に語り継がれる程の伝説を残しているのだから、もう片方も凄いという理屈にしか感じられなかった。

 蘭太郎はこの刀で何かを為すとは考えていない。


「このままじゃ、このままじゃ・・・皆・・・死ぬんじゃ・・・」


 それでも何か行動せずにはいられなかった。

 風神が運んできた黒雲から、沛然はいぜんと雨が降り注ぐ。

 蘭太郎は濡れるにまかせ、その場から一歩も動かない。


「・・・おのらは・・・おのらは、一体どれだけわし等を苦しめたら気が済むんじゃ!」


 蘭太郎は紫色に変色した唇を大きく開き、腹の底から声を出した。

 そのまま中段に構えていた風切丸を大きく振りかぶり、そのまま袈裟懸けに振り下ろす。

 今度は振り下ろした風切丸を返す刀で、逆袈裟懸けに振り上げる。

 そのまま何度も風切丸を振う。

 ただ我武者羅がむしゃらに振った。


「去ねっ!去ねっ!去ねっ!去ねっ!去ねっ!」


 型もへったくれもない。

 強風に煽られた剣筋に微塵も精細さは感じられない。

 それでも、蘭太郎は刀を振るい続けた。

 肩で息をする程疲弊しても、肩に力が入らなく腕が震え出しても、決して止まらない。

 しかし、体力は無尽蔵には続かない。

 遂に、蘭太郎は膝を突き、地面へと倒れた。


「ハハハ、雷を斬れるのは類稀なる豪傑。風を斬れるのは凡人。誰にでも出来るわ。だから、わしにも出来て当然じゃ・・・」


 頬に伝わる岩肌が冷たく、刺々とげとげしい。

 風切丸を見つめながら、父の姿を思い出した。

 父の死は特段驚くべき事ではなかった。

 霞む視界がゆっくりと暗転していく。

 もはやこれまでかと思い、蘭太郎は瞳を閉じた。







 朝日の眩しさが瞳の裏を照らし、蘭太郎は弱々しいながらも目を覚ました。

 嵐は過ぎ去った模様で、雲一つない空が広がっている。

 海も穏やかで、母の優しさに満ちていた。

 意識が覚醒し始めると蘭太郎は体中に痛みを感じた。

 なら、まだ生きているのかと実感する。

 既に諦めた命。死に損なった。

 しかし、だからと言って直接的な自死を選ぶ気にもなれない。

 風切丸を杖代わりにし、体をゆっくりと起こした。

 眼下に広がる日本海のように蘭太郎の心も波一つ立っていない。

 振り返り、重い足取りで森へ向かう。

 昨日とは打って変わって、木々も穏やかなものだ。

 しかし、何本か倒木しているのが目に入った。

 蘭太郎は何処か現実味のない心境で昨日の嵐は嘘だったのではないかと疑っていた。

 昨晩の記憶も朧気だ。

 しかし、その倒木を目の当たりにして、昨日の事は全て現実だと突きつけられた。

 虚ろな目で歩みを進める蘭太郎は村へと辿り着いた。

 半ば興味を失っていたが、足が自然に農地へ向かう。

 倒木で昨晩の嵐は現実だと思い知らされた。

 田んぼや畑が無事であるはずがない。

 だが、やはり人は生きている限りは希望に縋りたい生き物である。

 蘭太郎も無意識にあるはずのない希望を見ている。

 村の田んぼ付近に近づくにつれて、村人達が姿が目につき、むせび泣く声が聞こえてくる。

 この悲惨で酷薄な現実に只々悲しんでおると思うと蘭太郎は胸が締付けられる思いだ。

 しかし、更に村人達の傍まで寄ると、どうも様子がおかしい。

 泣き声が聞こえるが、そこには喜色が含まれていた。

 蘭太郎に気付いた村人の一人が駆け寄ってくる。


「あぁぁぁ、蘭太郎!奇跡じゃ!奇跡が起きたんじゃ!」


 奇跡、奇跡としか連呼しない村人に要領を得ない蘭太郎は落ち着くように肩にを掴む。


「落ち着けッ!何が奇跡なんじゃ?分かるように説明せぇ!」


 蘭太郎の呼び声に漸く落ち着きを取り戻した村人だが、その目には薄っすらと涙が浮かんでいる。


「畑が、田んぼが無事なんじゃ!昨日の嵐による被害が無いんじゃ!これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶ!」


 村人は喋り出すと、また興奮し出した。

 その興奮は言葉と共に蘭太郎にも伝播した。

 そんなはずがない。あれ程の嵐が通り過ぎたんだ、田畑が無事なはずかない。

 村人の言葉が信じられずにいたが、言葉の熱や興奮具合から嘘は微塵も感じられない。

 蘭太郎は村人の横を通り過ぎ、田畑へ向かう。

 直ぐに、数人の村人が集まっている農道に辿り着き、目の前に広がる田んぼを確かめる。

 そこには立派に天へ向かって伸びている黄緑色の稲がそよ風に靡いている。

 目を疑うような光景。しかし、確かに田畑は無事だった。

 蘭太郎は横にいる村人に目の前に状況を問い質す。


「こ、これはどういうことじゃ?!何故田畑が荒れておらぬ?昨日の嵐はみな知っておろう!」


 口から唾が飛び散るほど慌てた口調で話す蘭太郎を村人は気にする様子もなく、ほがらかに告げる。


「奇跡なんじゃ。風神様の慈悲なんじゃ。嗚呼、ありがたや、ありがたや」


 村人は言葉を紡ぎながら、声を震わせ、涙を流した。

 異様な光景が広がっていたが、蘭太郎は段々と理解した。

 すると、蘭太郎の瞳からも滂沱ぼうだの涙が流れた。


「・・・己らは・・・己らは、一体どれだけわしを弄んだら気が済むんじゃ・・・」


 それから村は穏やかな夏を過ごし、無事秋を迎え、実のみ豊かな作物を収穫出来た。

 村人達は神々に感謝し、供え物と共に祈りを捧げた。

 蘭太郎はあれ以来、日本海を望める崖先で風切丸を振るう日々を過ごした。

 泰平の世の片田舎で下級武士出身である蘭太郎と伝承を語り継ぐ雷切丸の片割れと言われた風切丸はその生涯でついぞ、一度も血を見る事は無かった。

 しかし、その村は不思議と嵐による作物の被害は無かったと伝わっている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

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風切丸 鬼頭星之衛 @Sandor

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