無邪気な愚者・『   』

名も無き者

◇ 詳細がありません。

 ファニーシュは、リャーナルド伯爵家の


 記録上には妹がいるが、病気で亡くなったのか、他所に養子にも出されたのか、両親に聞いてもはぐらかされるばかりか、名前も思い出せない風だった。……だから、ファニーシュはこの家の一人娘だ。


 健康体で生まれ、やんちゃばかりの元気が良いだけでとても令嬢とは言えない状態だったが、一転して九歳からのファニーシュは言われた事学んだ事をどんどん吸収していき、リャーナルド家としては珍しく学校にも入れてもらい、ついに社交界デビューの時がきた。


 今年で十五になるファニーシュは、鏡に映る自分を凝視する。すらりとした手足。同年代の平均身長よりやや高い背。腰まで伸びた菜種色の鮮やかな髪が映える、深紅のドレスは今日の為に細かく注文して作らせたものだ。


「はあ」


 万全の見た目に反して、ファニーシュは鬱々とした気持ちでため息を吐いた。


「どうされましたか?」


 髪飾りを用意していたメイドが声をかけてくる。なんでもないわ、と言おうとして、どうせ家の者なら知る話かと思い直し、ファニーシュは口の形を変えた。


「婚約の話よ。お父様ったら、シティアック家はどうだ、なんて言うのよ!」

「シティアック家と言いますと……ああ、リーヴィ様と、ですか?」

「そうよ。まあ、顔は悪くなかったけどね! それにしたって、後を継ぐものがないからって三男をわたくしに押し付けようだなんて、酷い話だわ!」


 別に、遠縁だというそのリーヴィという少年のことが嫌いなわけではない。ただ、なんと言っていいのか、嫌だった。彼をこの家に入れたくないと、本能的に拒絶していた。


 巻き込むべきではない、と。……何に? 分からない。


 理由の知れぬ苛立ちから余計に憤慨するファニーシュに、メイドは苦笑する。


「他のご令嬢は、十にもなれば相手を決めるのが通例ですから、焦っておいでなのでしょう」

「嫌よ、余り者同士だなんて! わたくしは、エオル様がいいの!」


 未だにファニーシュが婚約を決めていない理由、それはディアンヌ公爵家の子息、エオルにあった。


 見聞を広げる為、十二で学校に入ったファニーシュは、そこでエオルと出会った……というよりは、廊下で見かけて、一目惚れをした。それからは友人知人を使って情報収集をし、彼を知り、あれやこれやとアプローチをしているところだ。


「エオル様はまだ婚約者がいないのよ。わたくしにもチャンスがあるはずだわ……! なのに、お父様ったら、早くしなさい、ディアンヌ家は家格が釣り合わないから難しいって、そればっかり!」


 今まではどんなものでも強請れば持ってきてくれた父が、こればかりは無理だと言うものだから、ファニーシュは少し意固地になって彼を欲していた。だって、欲しいものは欲しい。それに──


(エオル様を一目見た時に、分かったのよ。懐かしくて、切ない気持ちが溢れて……彼とわたくしは、生まれる前から結ばれる運命だって!)


 証拠も論理もあったものではなかったが、ファニーシュは直感的にそう信じていた。エオルと自分は、きっと人間として生れ落ちる以前から繋がりがあった存在なのだ。恋愛小説ラブロマンスで言うところの、前世から結ばれることが運命づけられている!


 だから、ファニーシュが婚約を結ぶべき相手はこの世でただ一人、エオルだけだ。なのに父ときたら……。


 いつまでも同じ文句をぐるぐると回すファニーシュの髪を手際よくまとめて、メイドは「はいっ、できましたよお嬢様」と声をかけてきた。我に返り、ファニーシュは目の焦点を鏡に戻し、首を何度か角度をつけて動かした。菜種色の髪を飾る金細工の髪飾りは、小さな白緑色の宝石が周囲の光を反射させて輝いていた。


「うんっ、とっても素敵!」

「ええ、とても。それにしても……不肖ながら、私はお嬢様がこのような髪飾りを持っていると存じませんでした」


 メイドの言葉に、わたくしもよ、と同調すると、彼女は目をぱちくりとさせた。


「数か月前に、空き部屋の棚の奥にあったのを見つけたの。少し錆びていたけれど、綺麗だったから直しに出してみたのよ。思った通り、綺麗で可愛いわ!」

「いつご購入されたとかは……」

「分からないわ! でも、お母様のものではないみたいだったし、それに使わないのはもったいないぐらい綺麗でしょう? 大丈夫! 持ち主が現れたらちゃんと返すか買い取るかするわ」


 丁寧な細工を見るに、使用人が持ち込んだものとは思えなかったが、もし心当たりのある人物が出て来たのなら、その時はその時だ。とても気に入ったので、どうしても社交界に身に着けて行きたかったのだから、今日だけは許してほしい。


 会場までの馬車の到着を聞いて、ファニーシュはもう一度鏡の前で身だしなみを確認する。


(そういえば、あの子はいつも時間ギリギリまで確認していたわね──)


 心配性な“あの子”を思い出し、あれ、と首を傾げた。


(……誰だったかしら)


 思い出せそうで、思い出せない。なんとも気持ち悪い感覚が解消されるような気がして考えこもうとし、


「お嬢様。さあ、時間ですよ」

「え、ええ。そうね」


 使用人らに声をかけられ、思考を中断した。まあいいか。思い出せないということは、今は必要のないことに違いない。


***


 煌びやかな会場を見渡す。


 誰も彼もが着飾っていて、ファニーシュは少し緊張しつつその人を探す。


(エオル様、今日は参加されているはず……)


 一目、彼に見て欲しかった。綺麗な髪飾り、綺麗なドレス、綺麗に化粧して、着飾った自分を見て、一言『綺麗だね』と言ってもらえるだけでいい。そうすれば、何かを……思い出せるような……。


 はしたなくない程度にちょっと背伸びをしてみる。清らかな気配を探る内に、自然と足がそちらを向いた。


「娘が今日デビューでして。ファニーシュ、こっちに……──ファニーシュ?」


 知り合いの誰かと話していた父の声が遠い。ファニーシュは軽やかな足取りで、人混みを進む。他の人たちなんて目に入らない。人々の背や肩で見え隠れするエオルから目を離さず歩む。


(エオル様、エオル様っ! 嗚呼、あの日のように褒めてもらえたら、わたくしは……もう一度……もう、一度……?)


 なんだっけ? まあいいか。彼に会えるなら、それだけでいい。弾む心につられて進む足が──彼の前に立ち話す少女の後ろ姿を見て、止まった。


 一見して、白髪のようにも見える、プラチナブロンドのストレート。淡い色のドレス。ほっそりとした体躯。長い睫毛は横顔から分かる程。


(あれ……は……?)


 誰かの姿が脳裏を過る。


 でも知らない人だ。


 エオルが親し気に話しているから、学校の生徒かもしれない。親戚かもしれないし、あるいはこうしたパーティでよく顔を合わせる貴族友達の可能性もある。別に変な事ではない。ただそれだけなのに、どうしてか無性にカッとなった。


 腹の奥からふつふつと怒りが沸き立つ。その人に因縁も無いのに、苛立ちが募って仕方が無くて、ファニーシュは早足になって二人に近づいて行く。


 よくも、という思いがあった。罪を犯すなんて、という失望があった。そして自分はその罪を罰して許す立場にあるという思い上がりが、思考を埋め尽くす。


 パーティ会場が、家の庭の景色と重なって見えた。──理由は分からない。


 社交辞令を交える二人の会話が、自分を差し置いて親し気にする誰かと重なる。──それが誰かも分からない。


 ただ、嫌だった。彼女の胸元に輝くブローチも、熱を帯びた視線も、儚い雰囲気も何もかもが、ファニーシュのものを盗ろうとする罪人に見えて、罪人が清らかな彼に近づくことが許せなかった。


 ファニーシュは通り過ぎざまに近くにいた給仕係からグラスを一つひったくり、談笑する二人の間に割って入ると同時に、グラスの中身を少女に引っかけた。ぎょっとした周囲が口を噤み、静寂がファニーシュを中心に広がっていく。


「きゃ……っ」


 小さく悲鳴を上げた少女は、何が起きたのか分からない顔をしていた。灰色の目をぱちくりとさせて、それから頭から垂れるワインに触れて、じわじわと赤紫色に染まっていくドレスに視線を落とす。


「おばあ様が、用意してくださったものなのに……」


 グラスの口を少女に向けたままのファニーシュに、少女は独り言のようにそう言った。いや実際、独り言だったのかもしれない。彼女はファニーシュの方を見ていなかったから。


「貴方、」


 ファニーシュが声をかけてようやく、少女は顔を上げた。


 思っていた顔ではなかった。目の色が違う。目鼻立ちが違う。想像していた神聖さもなければ、淑女教育もまだ途中のようだった。あの子はもっと、綺麗だった、清らかだった、愛おしかった。この少女とは違う。人違いだ。


 違うと分かったのに、ファニーシュは止まれなかった。暴走する熱が、勝手に口を動かす。


「どうして、わたくしのエオル様と歓談なさっているの?」

「え……」


 困惑をしていた少女は、じっとこちらを見つめていたかと思うと、周囲の「またファニーシュ伯爵令嬢か」という声を聞いて顔を青ざめさせた。ということは、爵位はこちらより低い家柄だったらしい。


「っも、申し訳、ありません……私……」

「謝られましても困りますわ。わたくしは、何故、と問うておりますのに」


 むっとして返したところで、それまで静観していたエオルが「ファニーシュ嬢」とこちらを呼んだ。それが怒りや呆れに満ちたものでも関係なく、ファニーシュは満面の笑みを浮かべて振り返る。


「はいっ、いかがされましたか、エオル様!」

「……いい加減にしてくれないか。僕は貴方の物になった覚えはない」

「何度も説明していますでしょう。わたくしと貴方は、生まれる前からの運命で結ばれておりますのよ」


 エオルの端正な顔立ちが、訝し気になる。校内でもファニーシュは、こうしてエオルに近づく女をけん制し続けて来た。常に正々堂々と、正面から意味不明な理由で相手を追い立て続けたファニーシュの暴挙は、既に多くの子息令嬢の間で広がっている。それがこれからはパーティ会場でも行われるのだから、エオルからすれば鬱陶しいことこの上ない話だが、当のファニーシュは彼がそんな表情をする意味が分からず、きょとんとする。


「また、意味の分からない事を……貴方はどれだけ、妄想で人を加害すれば気が済むんだ」

「加害? いけませんわ、そんな勘違いをされては。人の物を盗もうとする者に、罰を与えて何がいけませんの?」

「だから……。ああ、もういい」


 軽蔑の色を混ぜて、彼はファニーシュの隣をすり抜け、ワイン塗れの令嬢へと歩み寄った。


「そのままでは冷えてしまいます。どうぞこちらに」

「え、ええ」

「お待ちくださいエオル様! そんな女、放っておいたらよろしいではありませんか!」


 下がろうとする二人を呼び止め、詰め寄ろうとするが、エオルの侍従らしい人間に押し止められた。侍従は普段なら会場内でも端の方にいるはずだが、ファニーシュが起こした騒ぎで近くまで来ていたのだろう。仕方なく、ファニーシュはその場で声をあげる。


「そんなことより……見てくださいエオル様! 今日の為に、わたくし一生懸命準備しましたのよ! 綺麗でしょう! このドレスなんて、一流のデザイナーに……」

「今日の為に準備した人間が、貴方だけだと思っているのか?」


 冷めた視線だけをこちらに寄こして、エオルはプラチナブロンドの少女の背を押した。早くこの場から離れようと思ったのだろう。だがそれは──ファニーシュから少女を守ろうとしたようにも見えた。


 ──なんでッ!!


「……なんで……?」


 遠い記憶の自分が叫ぶ。なぞるようにその言葉を口にする。


 分からなかった。彼が何を思ってそんな目をするのか。罪人たる少女を守ろうとするのか。何故、


「貴方の近くは、気分が悪い」


 そんなことを、言うのか。


 二人の背が遠ざかっていくのを見つめている内に、重いものが全身にずしりと圧し掛かってくる。このままここに立っていたら潰れてしまう気がして、ファニーシュがこんな思いをするのは全部あの女のせいだと決めつけ──溢れて止まない熱が渦になっていくのが耐え難くて──純粋な殺意を胸にファニーシュは離れていく二人に向かって駆け出した。


 手前の大柄な侍従を避け、握ったままのグラスを壁に叩きつけて壊す。ガラスが砕ける音を聞いて振り返った少女に向けて、ファニーシュは鋭利になったガラス片をナイフのように振りかぶった。


「盗らないでッ!!」


 怯えて尚、大きく目を見開いた少女の顔を見て思う。違う。違う、違う。彼女ではない。あの子じゃない。


(わたくしが、罰するべきは……わたくしを、罰する者は──)


 ガラス片が、肉を割く。


 しかし割いたのは、少女でも、ましてや少女を庇ったエオルでもなく──背後からファニーシュを抱きしめて止めた、誰かの手の平だった。ふわりと香る知った匂いから、それが共に会場に来ていた母だと見るまでもなく分かった。


 じわりと、額が熱くなる。その感覚を知っているような気がした。


***


 社交界デビューの日に咎の証が浮かんだファニーシュは、すぐさま牢へと放り込まれた。お気に入りの深紅のドレスを着替える暇もなければ、食事も無く、埃っぽい牢の中で淡々と日々が過ぎていく。


 やせ細り、櫛も通せずにいた髪はボロボロで、だというのにパーティドレスで着飾った愚かな娘に、最後の別れを言いに来たのは父だった。


「……お母様が亡くなった」

「どうして……?」


 掠れた声で問い返す。汚い壁を背もたれに、足を放り出して地べたに座り込んだファニーシュは朽ち果てた人形のようだった。まだ口を利けるとは思っていなかったのか、父は少し驚いたような顔をして、それから目を伏せて返答する。


「自死だ。お前一人では、闇の中できっと迷子になるだろうから、と。親子関係の白紙書類を書く前に、逝ってしまった」

「……そう。じゃあ、お父様……お一人になるのね」


 思ったことをそのまま口にすれば、父はやや苦笑した。


「そうだね……家もお取り潰しだ。清き一族は……私の代で終わる。それでいいのかもしれない……もう誰も、神の怒りに怯えずに済むのなら、それで……」


 父に何か言おうとして、何も思い浮かばなくてファニーシュは半開きになった口を閉じた。これ以上の交流は良くない。どこの誰の知識だったか、ファニーシュはぼんやりと覚えていた咎の証が浮かんだ者としての嗜みに従い、沈黙した。


 そんなファニーシュを見て、父は言った。


「秋の日の二十日。それが、お前の処刑日だ」

「秋の……」


 なんだか特別な日のような気がした。何かの記念日だっただろうか? 思い出せないが、その日が来れば、また新しい日々が始まる予感がして、ファニーシュは力なく微笑んだ。



 来たる、秋の日の二十日──。



 真っ赤なドレスを風で揺らして、ファニーシュは広場に設置された断頭台へと、半ば引きずられて上がった。


 見物客のざわめきが遠い。焦点も合わない。ただ自分の呼吸する音と、ドレスに合わせて新調した靴の先を眺めながら、されるがままに歩き、膝をつき、断頭台に首を乗せる。


(あっけない人生だったわ。嫉妬に駆られて、何もかもを失った。残るのは、神からも罪人だと認められた、醜悪な事実だけ……)


 力なく目を閉じようとするファニーシュに、誰かが声をかける。きっと処刑人だろう。そのぐらいの人間しか、死にゆく者に声をかけようとは思うまい。


「──死の先に何を望む? 


 閉じかけていた目を開ける。いつの間にか目の前に人が立っていた。


 全身真っ赤な衣服で身を纏い赤毛の馬にまたがった男だった。大きいばかりで装飾品が外れたみすぼらしい王冠を被る頭は、インクで塗りつぶしたみたいに複雑な線で潰れて顔立ちの判別はつかない、異様な存在を前にファニーシュは唖然とする。


「良い! 良いぞ! 我好みの穢れを溜めたな! 約束通り、その魂もらい受けようぞ! その前に、大盤振る舞いと行こうではないか!!」


 ずいっとファニーシュに顔を近づけたかと思うと、ぐちゃぐちゃの線の向こう側で男は口を弧の形に歪めた。こいつはなんだ。何故誰も彼を排除しようとしない? 分からないのに、ファニーシュは口を開けて笑顔を浮かべていた。


「死に際も華やかに、神すら眩む程の神々しさを纏うがいい、我が契約者よ! さあ、我に何を望む!」

「あ、」


 願いを口にする前に、刃を固定していた縄が切られる。


 バツンっ、という音が響くと同時に男は笑って、言った。


「良かろう!!」


 男は赤い外套をひらりと脱ぎ、それをファニーシュの頭にかけた。重みを感じたのは一瞬で、瞬きをした次の瞬間には外套はどこにも見当たらず──落ちて来た刃が、ファニーシュの頭と胴体を分けた。


 刎ねられた首が飛ぶ。百群色の大きな目に映ったのは、広場に集まった民衆が、泣いて喜びながらファニーシュへの愛と、リャーナルド家への賛辞を歌っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る