◇ もはや笑うしかなかった。

 何度目のやり直しだったか。二十七回以降は数えていないけれど、多分五十数回目ぐらいだろう。開始時点はうんと遡って茶会の一年前からで、大幅な時間猶予によってファニーシュの魂の穢れはほぼ全て浄化し終えていた。


 ……さっさとこんな茶番は終わらせろと、神が急いているような気がした。


(私には、救えない……何度やっても、何をしても、お姉様を変えられない)


 それこそ思い上がりだったのかもしれない。たかだか神に運命を握られている人間風情が、天使たる姉を救うなど到底無理な話だったのだ。天使が人に救いの手を差し伸ばすならともかく、我が身を穢してでも罪ある存在を罰しようとする天使に逆らう行為が、上手く行くはずがなかった。


 茶会を終えたその日の晩、最後の浄化を丁寧に行い、パルフェはベッドで横になる。


(せめて、最後ぐらいは穏やかな時間が少しでも続きますように──)


 ……。

 …………。


 いつの間にか眠っていたパルフェは、雷鳴で目を覚ました。


(嵐なんて……以前は……)


 繰り返すこの日が悪天候だった事なんてあっただろうか。億劫ながらも目を開け──目の前に、こちらに馬乗りなってナイフを振り上げる姉がいて、パルフェは思わず体を硬直させた。


 何故か全身ずぶ濡れで、髪を顔に貼り付けて、その隙間から覗かせた鋭い眼光と目が合い、パルフェは反射的にファニーシュを突き飛ばした。


『っぬおお!? うああ! 痛あああいっ!』


 ゴトッ、と重い音を立ててファニーシュが床に落ち、痛みで転げ回った。浅い呼吸を繰り返しながら、パルフェは今回のやり直しの失敗はどこだったかと探る。


 茶会では最小限の会話しかしていないし、姉よりもうんと地味な恰好をしたので目立つこともなかったはずだ。顔を合わせたのが昨日なのだから、贈り物が送られる余地はない。あとはなんだ。何がある。


 パルフェが諦め混じりに混乱している間に、灯りを持ったリーヴィが部屋に来た。凶器を握ったままのファニーシュの手元を蹴った彼に、ファニーシュが『なんで突き飛ばすのよ! なんで起きるのよ! 大人しく殺されなさいよぉ!!』などと抗議の声を上げるのを聞きながら、パルフェはよろよろと体を起こす。


 リーヴィが呼んだ使用人らに押さえ込まれる姉をぼうっと見つめ、その額に、じわりと何かが浮かんでいくのが見えてパルフェは目を張った。


 何故。


 自分の首に手を当てる。少し痛いような気がする。だが、血なんて出ていない。かすり傷にもならない、こんな傷で? この程度のことで、咎ある者だと、神は決めつけるのか?


 姉との会話にならない会話をしながら、パルフェは戸惑い、狼狽えた。どうして。


『許せないわ! わたくしのものを盗ろうだなんて!』


 額に浮かぶ印が、色濃くなる。嗚呼、何故。こんなことに。


『死んで償いなさい!』


 どうして。


(まさか──)


 繰り返す日々を思い返し、特定の記憶を必死になって思い出す。


 奇病患者は死後、悪魔になりやすいという事──そうはさせまいと、今まで奮闘してきた──神々は魂を欲して人に加護を与える事──パルフェは神に欲された、そして姉は捨てられた──聖女病は咎の証が浮かびやすい事、リーヴィが式に反対だという意思を持っていた理由、罰する事に命を懸ける姉──。


(治って、ない?)


 たどり着いてしまった“答え”が、パルフェの心の奥底を黒く濁らせた。


 書庫にあった数々の手記から、神々の秘密を全て知ったつもりになっていたが、神の底意地の悪さにまでは思い至らなかった。まさか、治ったように見せかけて、パルフェの魂だけ貰うつもりだったなんて、考えもしなかった。案外、パルフェは神を善なる存在だと盲目的に信じていたのかもしれない。


 幼い姉の額に咎の印がくっきりと浮かび上がる。駆け付けた父がその印を姉に見せ、説明する声が右から左に流れていく。


 ……父は、姉の聖女病が治っていない事を知っていたのだろうか。


『待ってください、お父様!』


 姉を罪人として地下牢へと送ろうとする父を呼び止める。


『こんな……っ』


 こんなことが許されるのか。こんな神の勝手な行いを、責める事も許されない我々の、何が清き一族か。多くの文句を飲み込んで、パルフェはこれまで何度となく口にしてきた意味の無い抗議の台詞を吐いていた。


***


「……わたくしがラァムと契約した時点で、もう何度もやり直していたのね」


 決して触れることのできない、過去の光景のパルフェを撫でる。まさか自分が咎の証が浮かび地下牢へと連れられて神へと抗議をしていた間に、パルフェが泣きじゃくっていたとは思いもしなかった。


 いや、泣いたり悲しんだりはしているとは思っていたが、神への祈りの無意味さに悔し涙を流しているとは想像もしなかった、という方が正しいか。


 続く光景では、パルフェが足しげくファニーシュのいる収容所へと通う姿が流れていく。


『姉の処刑を遅らせてはくれませんか……姉は、何も悪い事なんてしていないんです。お願いします……』


 ほとんど毎日そうやって直談判をして、心優しいパルフェの思いはついに通った。


 そして──処刑決行日が大幅に遅らされたことにより、長い飢餓状態が続きまともな思考ができなくなっていたファニーシュが、でたらめな魔法陣を描き出す。


「そういえば、悪魔たちはこの状況を喜んで見ていたようだったけれど、どんな風に見えていたのかしら?」

「さあ……? 私は新参者だから、当時の状況は知らないわ」

「あ、そっか! そうだったわね!」


 じゃあ分からないわね! と納得の声を上げるファニーシュに、フルゥは言う。


「ふふ。でもそうね……折角神の加護を手に入れた女が、わざわざその魂を穢す行いをしていたのだから、さぞ滑稽だったでしょうね……」


 空間の裂け目を超えながら、ファニーシュはフルゥの後ろ姿を追いかける。


 一つ目カラスこと悪魔伯爵ラァムとの契約時の光景だろうか。パルフェが自室で、思案顔でぶつぶつと呟いていた。


『エオル様はお優しい方だから、私一人が欠席するぐらいなら許していただけるかしら……でも相手は公爵家……リャーナルド家の格を落とさないかしら……いいえ、もうこうするしか……今度こそ、お姉様のお誘いも断固としてお断りして……今度こそ……』


 そういえば、ファニーシュが何をするまでもなく、パルフェは茶会に出なかったな、と思い出し、なるほどと頷く。


「こんなにパルフェが頑張ってくれていたなんて、知らなかったわ! 悪い事しちゃった! あとで謝らなくちゃいけないわね!」

「っふふ、謝る? 何を?」

「だって、そうとは知らずに呪いを何度も打ち込んでしまったもの! 勿論わたくしのものを盗ったことは許さないけれど! 穢れがなるべく溜まらないように動くぐらいはできたはずよ!」

「……くくく」


 かみ殺したような笑い声をあげるフルゥの後ろを歩きながら、ファニーシュは言う。


「ザヌが言っていた、『何度繰り返しても同じ結末になるのは、互いが何も知らないから』っていうのは、こういうことだったのね! わたくしたちはもうちょっと協力し合うべきだったのよ!」


 そうと決まれば、次は戻ってすぐにパルフェと話し合おう。お互いにしたいことを言い合って、どうすればいいかを決めよう。


「もう全部分かったもの! わたくしだって無暗に怒ったりしないわ! がどれだけパルフェを愛したとしても──」


 それは、刹那の反応だった。


 フルゥの蝙蝠のような真っ黒な硬い羽が、ピクリと揺れた。気のせいだと一蹴してしまいそうな、あるいは歩いているのだから揺れるぐらい普通だと流してしまいそうなほど、僅かな反応だった。


 元から風なんて無い、過去の光景が流れるだけの不思議な空間で、ファニーシュは周囲の空気が凪ぐような気配を感じて、足を止めた。


「……やっぱり、好きな人と結ばれないのは辛いかしら……?」

「……好意を寄せる者同士が結婚できる方が珍しいわ」

「そう、ね……うん」

 

 また裂け目を通った。今度はベリーと契約していた時のもののようで、パルフェが急ぎ足で書庫から子供向けの医学書を回収している姿が流れていく。


 茶会を欠席し、エオルに会いたくないと泣いて懇願した後のパルフェが、目を真っ赤に腫らしてどこか呆然と虚空を見つめていた。


『そうよ……最初から、こうしておけばよかったんだわ……お姉様さえ助かればそれでいい……こんな家、周囲からなんと言われようと、どうでもいい……でも……どうしよう、リーヴィ……貴方は悪くないのに、巻き込んでしまう……』


 自分の行動のせいで、リャーナルド家はディアンヌ家から良く思われないかもしれない。そうすれば、いずれこの家を継ぐリーヴィに迷惑がかかるだろう。そう考えて、パルフェは顔を伏せた。


『家を出るように、言ってみようかな……ううん、もう無理だわ……だって神様の秘密を、知ってしまった……神様のせいで、悪魔が生まれているなんて知ってしまった以上は、もう戻れない……もっと前に、リーヴィがここに来る前に、どうにか……ふふ、無理ね……ふふふ……』


 泣き疲れて掠れた声で、パルフェは小さく笑っていた。肩を震わせて、ともすれば老婆のようにも聞こえる掠れた声で少女らしい笑い方をしている。


「……藍銅鉱の首飾り、綺麗だったわね」


 本当はパルフェの横についてあげたかったが、過ぎた光景でしかない彼女に寄り添っても意味が無いことは分かってしまうから、ファニーシュはフルゥの隣に並んで歩く。


「欲しい?」

「当然よ! 貴方はどう? あっ、あの首飾りはわたくしの為に用意されたものだから、駄目よ? でも、ほら……あの孔雀石のブローチ、あれなら……」


 俯きそうになって、ファニーシュは首を振って顔を上げた。


「あれぐらいなら、怒らないわ」

「……そうか」


 歩く。また裂け目を通った。ザヌと契約したファニーシュが、夜中に一人でうろうろするのを、パルフェはぼんやりと眺めていた。


 妹はすっかりやつれていた。元々ほっそりした子ではあったけれど、細いを通り越してげっそりとしていて、今見てみれば、魂の穢れが僅かに肉体からもにじみ出ている。


『……綺麗ね、お姉様。そのままでいてね……』


 その願いが叶うことはなかったと知っているから、ファニーシュは少し小走りになって次の裂け目に飛び込んだ。


 バルバと契約した(と言っても、ファニーシュが呼び出したわけではなく、ザヌが手を回していたらしく、巻き戻った時に初めて顔を合わせたのだが)ファニーシュを尻目に、パルフェは己を抱きしめるようにして二の腕に爪を立てていた。


『ごめんなさい、ごめんなさい……』


 小さな声で繰り返される謝罪の意味は未だに分からなかったけれど、パルフェがもう疲れ果てているのは理解できた。もう繰り返す元気が、彼女にはない。


「……わたくしね、悪魔と契約したことが良かったのか、悪かったのか、よく分からないのよ」


 裂け目を通る。見知らぬ景色が広がっている。踏み固めて作られた細道は、小高い丘の上に作られた教会へと続いていて、フルゥは迷わずその建物へと歩きながら応える。


「悪い事よ……っくふふ、少なくとも、そう教えられてきたでしょう?」

「そういうことじゃなくてね……ん~っと……あのね。わたくし、悪魔と契約して、初めて知る事がたくさんあったわ。家の事もそうだし、パルフェがどんなに頑張っているかも、契約が無ければ知りようがなかったもの」


 根本的に悪い事であるのは自覚している。そもそも契約しようと召喚陣を描いたのも、私怨からパルフェを呪う為だったし、人を呪ってはいけないことも分かっている。それでも、良い事もあった。……きっと、神にとっては喜ばしくないことではあるのだろうけれど。


「それに、普通は……人は死んだら、それっきりなんでしょう? だったらこれって、凄く素晴らしいことよね! 奇跡と言っても過言ではないと思うわ!」


 教会の扉の前にたどり着き、フルゥがちらりとこちらを見た。そこに人だった頃の面影など無い。巨大な蝙蝠の翼が生え、前足だけは爪の長い人間の手をした鹿という奇妙な生物だ。だけど、なんとなく分かったのだ。


「貴方、パルフェでしょう」

「……」

「分かるわよ。だって、わたくしの大好きな妹ですもの!」


 巻き戻る前にまた会えるなんて思っていなかったから、嬉しくなって満面の笑みを浮かべる。半歩後退りをしたフルゥに精いっぱい手を伸ばして、彼女の首を撫でた。傷なんてどこにもない。だけど、確かにファニーシュの前で彼女は首を切った。


「痛かったでしょう? 自分で自分を傷つけるなんて、駄目よ、そんなことしちゃ」

「お姉、様……」

「ごめんね、何にも知らなくて」


 一度ぎゅっと強く彼女を抱きしめて、それからフルゥの両手を取った。長く鋭い爪が皮膚を滑り、赤い線が浮かんだ先から血が滲んだが、ファニーシュはあまり気にならなかった。


 パルフェだと分かったから、痛くなかった。


「ねっ、パルフェ! わたくしと契約しましょう! もう一度、何も知らなかったあの日に戻りましょう! それから、皆が幸せになれる道を一緒に探しましょう?」


 ひとりでに教会の両開き扉が開く。奥行のある聖堂はがらんとしていて、人一人いやしなければ、燭台も灯らず、ただステンドグラスから色とりどりの光が床に落ちている。


「それでもし、またわたくしが貴方を罰しようとしたのなら──今度は貴方が、わたくしの罪を罰しなさい!」

「!」

「神の代行ではなく、貴方自身の想いで! それなら、貴方に咎の証は浮かばないわ! 多分!」


 いやそもそも、パルフェには大天使の加護とやらがあるから、よほどのことをしない限りは咎の証は浮かばないか。なら大丈夫だろう。


 一人で納得して、ファニーシュはパルフェの手を引き教会の中を歩む。


「たくさん話して、たくさん楽しい思い出を作りましょう! もし貴方が神様のところに行きたくないなら、わたくしも一緒に考えるわ! ザヌが言っていたの! パルフェが神様のところに行かなくても済む方法があるって!」

「……それは」


 何か言いかけて、フルゥは「いや……そういうことか」と小さく付け足し、ファニーシュがステンドグラスの前で足を止めたのを機に顔を上げた。


「……貴方の願いは何、お姉様」

「わたくしの願いは、」


 両手で彼女の手を包み、ファニーシュは笑う。色とりどりの光が眩しくて、目の前にいる彼女が霞んで見えなくなってしまうのが怖くて、目を細めながら、願いを口にする。


「──貴方が笑顔でいてくれること!」


 光に紛れるフルゥが、パルフェの姿をした気がした。口角を少し持ち上げて微笑む彼女は、少しだけ悲しそうな目をしていた。


 空間が歪む──否。歪な世界は、ガラスが割れるみたいに壊れていった。



 時間が戻る。正しき時に。


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