◇ 祈りの全てを姉は無駄にして堕ちていった。

***


「おね……いえ。ファニーシュの処刑が済みました」


 脱いだ上着を使用人に渡して、リーヴィが報告をする。それを聞いた父は「そうか、ご苦労だったな」と彼を労わり、間を開けてから、ベッドの上で寝転がった姿勢で動けず指を折り重ねるに留めて祈るこちらに視線をやった。


「パルフェ。終わったんだ。祈りは必要ない」

「……」

「もういいんだ、もう。自分の事だけを考えなさい」


 そう言われても、パルフェはやめなかった。こんなことはあってはいけなかった。天使である姉が、咎の証を印されるなど、あっていいはずがなかった。


(私が……エオル様に恋をしたせいだわ……私が、お姉様の大事な物を盗ろうとしたから……)


 盗るつもりなんてなかった、そんな言い訳はもはや言い訳にすらならない。天使である姉が罰しようとした、それが全てだった。


(私が、お姉様からエオル様を盗ったから……)


 こんなはずではなかったのに。悔しさで涙が溢れ出る。それをどう受け止めたのか、母がそっとパルフェの前髪を撫でてから、父たちに向き直る。


「パルフェには心を癒す時間が必要です。出立の準備は、私たちで行いましょう」

「そうだな……。リーヴィ、パルフェを見ていてくれ」

「……はい」


 両親が立ち去り、使用人たちも部屋の外に出る。途端に静かになった部屋でぽつんと立っていたリーヴィは、ベッドの近くにしゃがみ込み、膝を抱えた。小さい頃によく見かけた彼の癖だった。嫌な事があったり、上手く行かない事があると彼はこうして部屋の隅で小さくなるのだ。最近は見なかったので、少し幼児退行しているのかもしれない。


 ──リーヴィ、泣いているの? 大丈夫よ! わたくしが守ってあげるわ! だってわたくし、貴方のお姉さんですもの!


 以前なら……小さい頃なら、誰かが暗い顔をしていると姉がすぐに気づいて、声をかけていた。時にはパルフェも巻き込まれて、そんなリーヴィを励ましたこともある。


 過去に思いを馳せて、まだ続くはずだったそんな日常がもうどこにもない現実にぶつかり虚しくなって、パルフェは止まらない涙の量を増やす。


「……咎の証が刻まれた者の魂は、どこへ行くのでしょうね」


 ぽつりと、リーヴィが尋ねた。


 涙で濡れた睫毛を持ち上げて、パルフェは後頭部とうなじだけが見える義弟の方を見やる。その視線を知ってか知らずか、リーヴィは独り言のように続けた。


「正式な手順を踏んで処刑しなければならない……そうせねば、縁ある者の魂ごと連れて闇へと落ちてしまうから……。でも、それなら手順を踏んで縁を解いた者はいいとして、咎の証が浮かんだ当人の魂は、どうなるのでしょうか」

「……神様の下へ、送られるのではないの?」


 反応があったことに少し驚いたらしいリーヴィが顔をあげてこちらを見た。何度か擦ったのか、義弟の目元は赤く腫れていた。


「分かりません……魂が穢れぬ行いをすること、そうすれば死後、神の下へと送られると周知されていますが、魂が穢れる行いをして咎の証が浮かんだ者がどうなるかは……」

「じゃ、じゃあ、お姉様は……一人で闇を彷徨っているかもしれないの……!?」


 勢いよく体を起こし、刺された傷が痛みパルフェは悶絶する。そんなパルフェの背を気休め程度だがさすりつつ、リーヴィは言う。


「すみません、私の考えすぎというか、不確かな情報です……もう少し、調べてみます……」


 この家にある書類の数々なんてとっくに調べた後だろうリーヴィの発言に、パルフェはわなわなと震えた。


(そんな! 私のせいでお姉様が……)


 天使が闇に落ちたのなら、悪魔たちの餌食になってしまう。パルフェのせいでファニーシュはあのような暴挙に出たのに、その挙句に悪魔共に食い散らかされるなんてあってはならない!


(でも、どうすれば……私にできることなんて、もう……)


 闇に祈りは届かないだろう。もし届くのなら、聖職者たちの祈りで悪魔なんてものはとっくに消滅している。考えて、考えて。何も思いつかなくて閉眼した、その時。


 ──もう一度。


 繰り返し、多くの家庭教師に言われ続け、そして今のパルフェのやり方の全てである言葉が脳内に響く。


 ──もう一度。


 そうだ。もう一度だ。もう一度、やり直せばいい。間違えたのだから、もう一度。繰り返し問題を解いて正解すればいい。──もう一度、やり直す。


「……そうよ、神様なんだから……そのぐらい……」


 いや、違う。出来るかできないかではない。やらせるのだ。自らの身を盾にして、脅しつければいい。彼らが欲しいのはパルフェの魂だ。魂が穢れる行いなんて、狙ってやろうと思えば簡単に出来る。


「そうよ! やり直せばいいのよ!」


 パルフェは声をあげて、リーヴィの手を取った。


「私、お姉様を救うわ! 神様にお願いして、やり直させてもらうのよ!」

「え、お、お姉様?」

「リーヴィ、協力してください! 神様との式に、持ち込みたいものがあるんです──」


 リーヴィが戸惑ったように見えた。冷静な彼にはパルフェの気狂いが一目で分かったのだろう。義兄弟でなければ関わり合いになりたくなかったかもしれない。それでも構わずに、パルフェは彼の手を強く握る。


「……わかり、ました」


 その返事が引き出されるまで、瞬きも忘れてじっと義弟を見つめていた。


***


 出立の日が来た。


 パルフェは、不安げな家族らに一礼をし、馬車に乗り込んだ。荷に紛れ込ませたソレを袋越しに撫でて確認し、こちらを見送る家族に小さく手を振った。


 一週間の旅路があっという間に過ぎ、パルフェはこの国で最も権威ある大聖堂へと足を踏み入れる。神に仕える身の者たちに見守られながら、パルフェはステンドグラスの前で跪き──隠し持っていたナイフを自らの首に突きつけた。


「!?」


 儀式の構文でも読もうとしていた大聖堂の神父が驚き、数歩後退った事で、パルフェの手元が見えない周囲の人間にも異常が伝播する。


「──神よ。この身、この魂が欲しいのなら、一つ願いを叶えなさい」


 立ち上がり、自身を盾に神を脅迫する。神の下へと身を捧げに来た者としてあるまじき行いに、場はざわめく。


「無礼な……っ」

「黙りなさい!! これは私と神の対話です! 邪魔する者は誰であっても許しません!!」


 金切声を上げ、ナイフの刃をぐっと首に近づけることで何人たりとも寄らせずに場を制し、パルフェは神がいるだろう天へと語り掛ける。


「忌々しきお前らに私の全てを捧げてやると言っているのよ! さあ、応えて! お姉様の穢れを全て私が背負うわ! 時間ぐらい、巻き戻してみせろ神よ!!」


 ぎゅっと、目を瞑る。ナイフを握る両手に力を入れ、パルフェはそれを首に突き立てるように勢いをつけて動かした。刃先が首筋に触れた、その瞬間。


 ぐにゃりと、視界が歪み、パルフェは自室のベッドの上にいた。


「っ……これ、は……?」


 ベッドから降りたパルフェは、ふらつく体を壁で支えて、思わず自らの手の平を見た。目視できる程の穢れが、この身からうっすらと滲み出ていた。


(私が穢れている……? いや、これは──)


 我に返り、パルフェは急いで自室を飛び出しファニーシュの部屋へと転がり込んだ。勢いよく開けられた扉の音に、ベッドの上で体を起こして大あくびをしていたファニーシュが、きょとんとしてこちらを見やる。


「あら、パルフェ! おはよう!」


 丁度起こしに来ていたらしいメイドがカーテンを開けていて、窓から差し込む朝日で菜種色の髪をきらきらとさせた姉がにっこりと笑みを浮かべた。


 その額に咎の証はない。穢れも感じ取れない。パルフェが愛した天使のファニーシュが生きて、無邪気に笑っていた。


(嗚呼……神よ、感謝します……!)


 姉が生きている。それが嬉しくて、ぼろぼろと泣き出したパルフェを、ファニーシュは不思議そうに小首をかしげて目の前までやって来ると、そっとパルフェを抱きしめた。


「怖い夢でも見たのかしら! もう大丈夫よ! だって朝だもの!」

「はい……っはい、お姉様……!」


 子ども体温の姉の背に手を回して、パルフェは泣きじゃくった。


***


 これは、最初の巻き戻りなのだとファニーシュはようやく実感して、裂け目を通る度に流れていく光景をしげしげと見つめた。


 エオル達ディアンヌ家との茶会に出席したパルフェは、もう初対面ではないからか涼しい顔をして(それでも、今のファニーシュには彼女がエオルと目を合わせたその瞬間に心惹かれたのが分かるが)挨拶を済ませ、彼らの応対をファニーシュや他の家族に任せて一歩引いた対応を心掛けていた。


 景色の中のファニーシュは、二人の間に流れた僅かな沈黙から何か感じ取ってはいるものの、言い表せるような感情にはならなかったようで、怒る事もなく黙っている。


 ──変えられないんだよ、感情は。


 ファニーシュにとって最初のやり直しの時、悪魔伯爵ラァムは言った。何度やり直そうと、感情は変えられない、と。


 あれはきっと、ファニーシュにだけではなく、巻き戻りの中心にいたパルフェにも向けて言っていたのだろう。どれだけ繰り返そうと、パルフェはエオルと目が合う度に好きになるし、その感情はどれだけ表面を取り繕っても変えることはできなかった。


 裂け目を通る。日が進み、パルフェの部屋にファニーシュが訪れている光景が広がる。


 パルフェの手元には、巻き戻りが起こる前にもエオルから贈られていたブローチがあった。箱に入れられて、今まさに開封されたばかりと言わんばかりに机の上にはリボンや包み紙が散らかっていた。


『まあっ。それはなあに?』


 無邪気に、ファニーシュが問う。パルフェは目を泳がせ、慌てて添付されていた簡素な便箋を手で隠すが、一隠しきれなかった差出人の『エオル』の字を捉えたファニーシュから表情が消える。


『あ、いえ……これは……』

『…………エオル様からね?』


 百群色の大きな目が、ゆっくりと手紙からブローチへと動かされた。


『わたくしには、贈り物なんてなかったのに』

『ち、違います、お姉様! これは、お姉様の誕生日の贈り物をご提案したお礼だそうで──』


 パルフェが言い訳をする。それらが全く耳に入っていない様子のファニーシュは、妹を突き飛ばした。細身のパルフェはバランスを崩し、戸棚の淵で頭を打って床に倒れ込んだ。


『どうしてよ! なんでパルフェがエオル様から贈られるの!』


 追撃をしようとファニーシュがパルフェに馬乗りになったところで、物音と騒ぎ声を聞いて執事が部屋へと駆け込み、慌ててファニーシュを抑え込むが、景色の中の自分は止まらない。


『パルフェ! 貴方、わたくしからエオル様を盗ったわね!? 許せないわ!!』

『お嬢様おやめください! パルフェお嬢様は、決してそのような──』


 開けっ放しの扉から騒動が聞こえて来たからか、リーヴィが使用人らに囲まれながら顔を覗かせた。倒れるパルフェを見つけた義弟は、慌てて彼女に駆け寄り、体を起こそうとするパルフェの背を支えた。


 顔を上げたパルフェは、ソレを見て目を見開き、ゆっくりと俯いて顔を手で覆った。切り傷が出来たこめかみから、ぱたぱたと血が垂れてドレスを汚している。


『お姉様、何が……』

『藍銅鉱の、首飾り……きっと、お姉様に似合うと思って……それだけ、だったのに……』

『お姉様?』


 そんなパルフェを見て、ファニーシュを押さえていた執事が、顔が良く見えるように晒したファニーシュの額に目を落とし、息をのんだ。


 咎の証が浮かんでいる。


 ファニーシュは思わず、自らの額を触った。


***


 一度目のやり直しで、パルフェは失敗した。


 やはり、エオルとの関わりは最低限にすべきだった。いくら姉を想っての行動だったとしても、彼との関わりを姉に見つかれば、姉はそれを罪としてパルフェを断罪する。それが分かっただけ、十分だ。


 パルフェは領地の湖にブローチを投げ込んだ。一度目の人生で、宝石店で偶然顔を合わせたあの時の喜びも、サプライズ的に渡されたあの時の嬉しさも、その身につけた高揚感も、やり直した先でも手元に贈られた時の運命を感じた感情の何もかもをブローチに込めて、捨てる。


 恋だの愛だの浮かれている暇は無い。パルフェは、神から預かったこの加護で、天使である姉を堕とさせないという役目があるのだから。


(今度こそ……)


 予定よりも何週間も早く、パルフェは神の下へと向かった。馬車に揺られながら、今頃姉の処刑が行われているのだろうかと思うと、胸の奥がどろりと濁ったような感覚がした。


 気持ちを落ち着かせようと、忍び込ませたナイフを荷の上から撫でる。今回はリーヴィに頼らず、自分で用意した。物置の奥にあったので、切れ味には少々不安が残るが、力任せに突けば殺傷能力はあるはずだ。


(もう一度よ。もう一度、やり直す。今度こそ、お姉様を救うの)


 たどり着いた大聖堂へ、『会場の下見がしたいの』などと周囲に嘯き、パルフェはナイフを隠し持って上がり込んだ。


 いざとなれば、もう一度ナイフで脅しつけてやり直させよう。そう考えながら、ステンドグラスの前で跪き、形だけの祈りの姿勢を見せる。


「……もう一度よ。浄化し切るまで、何度でも……──」


 ぐにゃりと、視界が歪む。


「え」


 気づけば、パルフェは自室に戻っていた。寝間着姿で、こめかみに出来たはずの傷もなく、ただ背負う穢れの量だけは増えた状態で、朝を迎えていた。


「……」


 困惑しながら、パルフェは卓上カレンダーを確認する。神との式日の一年前から律儀につけていたバツ印は、春の月の十日で止まっている。そして、確信する。


「戻ってる……」


 ナイフで脅すまでもなく、神はパルフェの願いを聞きとげていた。


 両頬を叩き、パルフェは気合を入れた。


「今度こそ……っ」


***


 二度目のやり直し。


 パルフェはエオルとの交流を避ける為、外出をやめた。ブローチは届かなかったが、『ご家族でどうぞ』と送られて来た菓子を見たファニーシュが騒ぎ出した。


『これはパルフェに贈られて来たものよ! 貴方、わたくしに隠れてエオル様に会っていたんでしょう!?』

『!? な、何を言うのですか、お姉様! 私はそのようなことは……』

『だってパルフェが好きなクッキーが入っているもの!』

『えっ』


 そりゃあ、食べ物を贈るとすれば日持ちするものを贈るだろうし、パルフェが好きなクッキーはこの辺りの店では見ないマシュマロが挟んであるものだが、珍しい食材というわけでもない。バリエーションに富ませようと考えれば、そういったものが入っていてもおかしくはないはずだ。


『……そんな理由で?』


 困惑したのはリーヴィも同じようで、暴れる姉の腕を押さえ、彼はため息を吐いた。


『特殊なものならともかく、王都近郊で普通に売っているようなものでしょう。落ち着いてください』

『だって! 包み紙やリボンの色! パルフェの髪と目の色だわ!』

『はあ……? 気のせいですよ』

『やだやだっ! どうしてわたくしからエオル様を盗ろうとするのよ! どうしてリーヴィも止めないの! 酷いわ!!』


 じたばたと暴れた姉の手が、机の上の物を薙ぎ払った。ティーカップが床に叩きつけられ、破片がパルフェの足の甲を掠めた。


『痛っ……』


 薄く切った皮膚に赤い線が浮かぶ。後で手当てしてもらおう、その前に姉の誤解を解かなくては……そう思いながら顔を上げた時には、ファニーシュの額には咎の証が浮かんでいた。


『……どうして?』


 一体何の罪で咎ある者だと印されているというのか。


 姉が投獄され、様子を見に行って驚いた。姉は咎の証が浮かんだ者として一切の温情が許されず、食事も与えられなければ、風呂も着替えもなく、やせ細っていた。


 必死になって現状改善を看守に掛け合い訴えたのが仇となり、姉の処刑は早まり、パルフェが業を煮やして軽食や着替えを持ち込んだその日にファニーシュは広場で断頭台にかけられた。


 それを聞かされたのはパルフェが収容所に訪れた頃で、広場では何もかもが終わった後だった。


 既に体と分離した首を、菜種色の髪を引っ掴んで焼却炉へと運ぶ処刑人の後ろ姿を見ながら、教え通りに歌う民衆の声を聞きながら、パルフェは崩れ落ちた。


***


 三度目のやり直し。


 巻き戻って数時間後に、姉の額には咎の証が浮かんだ。


 理由は、ファニーシュがパルフェの部屋にあったナイフを触ろうとしたので、危ないからと遠ざけた時にパルフェが指を切ってしまったからだ。元々大きさの合わない鞘に適当に収めていたらしく、そのことに気づかず、うっかり、といったものだったのだが、それでもファニーシュに咎の証が浮かんだ。


 せめてもの思いで姉の処刑を式日まで引き延ばそうと文書を送ったが、上手く行かなかった。


***


 四度目。


 茶会の数日後、『エオル様を盗ったでしょう!』と急に因縁をつけてきて、ファニーシュに突き飛ばされた。それがたまたま階段の上だったものだから、パルフェは階段を転がり落ちて全身を打ってしまい、ファニーシュにはやはり咎の証が浮かんだ。


 今度は看守や処刑人、執行役人などに金を握らせてみたが、姉は予定通りに処刑された。


***


 五度目、六度目、七度目……。


 何度やってもファニーシュには咎の証が浮かぶ。処刑を遅らせることもできないまま、背負う穢れは徐々に減っていった。


(穢れの全てを浄化できても、お姉様が死んでしまうのでは意味が無いわ……何か、他に方法はないの……)


***

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