◇ 咎の証が浮かび罪人となった。

 興味があるなら。と、エオルにディアンヌ家の書庫へと案内してもらい、奇病や信仰治療に関する本を数冊拝見した。軽く目を通した程度ではあるものの、一度目のやり直しの際に自宅の書庫で見つけた医学書(あれはやや子供向けに書かれた大全集のようだった)よりも、詳しく奇病について書かれているのが分かる。


 とはいえ、ファニーシュには少し難しかったので、エオルに搔い摘んで説明してもらった。


 いわく、信仰治療は神への祈りにより患者の肉体的な時間を遅らせているだけに過ぎず、転じてそれが信仰によって延命に成功しているように見えているということ。


 いわく、奇病が治ったという記録は一度として無いということ。


 そして何よりも、“聖女病”を患った者は神の怒りを買いやすく、咎の証が浮かび処刑される事例が後を絶たないということ。


「どうして! 神を慕い、誰より信仰しているのが聖女病患者なのでしょう!? どうして咎の証が浮かびやすくなるの!」

「聖女病患者は確かに、神への信仰が強いけれど……それは本当の神様を慕っているからではなくて、幻聴や幻覚を神様だと信じてしまうからなんだ」


 ファニーシュの斜め後ろから覗き込むようにして、エオルは本の一文を指した。そこには聖女病の症例の一つとして、幻聴や幻覚がある事が書かれている。


「神様からすれば、言ってもないことを言ったことにされて、しかもそれで他人を罰し始めるんだから、怒りたくもなるかもね」

「でも、それじゃあ……わたくしは……」


 思い当たる節が脳裏を過る。


 あの日──パルフェとエオルが初めて顔を合わせたあの茶会の後、嵐の夜に外に出たファニーシュはそれが神の怒りだと信じてやまず、人の物を盗る罪を犯したパルフェを殺そうとしたのだ。神に代わって、罰を下さねば、と。なんの声も聞こえないまま、漠然とした思いが勝手に真実に置き換わり、それこそが正しい事だと思い込んで──。


 震えるファニーシュに驚いたのか、エオルが優しくこちらの肩を撫でた。


「怖いものを見せてしまったかな。ごめんね。でも、貴方はもう大丈夫だよ。貴方の家族が、特に妹のパルフェ嬢が、真摯に祈ったおかげで奇跡が起こったのだから」


 違う。エオルは今、嘘を吐いた。少し前に自分で言ったじゃないか、ファニーシュの父が言った『奇跡』を、『それだけではないはずだ』と疑っていると。


 何かがあったのだ。パルフェが祈ることで、神と式を挙げることで、ファニーシュの奇病は周囲からは治ったように見えている。


***


「……治っていないのね?」


 家に帰り、パルフェのいない夕飯を済ませ、自室のベッドで横になったファニーシュはザヌに問いかけた。巨大な翼が生えた牝牛は、顔を上げた。だが、まだ口を開かない。


「わたくしの聖女病は、治っていないのね!」


 沈黙が続かぬように、ファニーシュは再度問いかけてようやく、ザヌが言葉を発する。


「その通り。そちは、八歳の時から時が止まっている。肉体だけではなく、知性も何もかもな。そちの婚約者は、信仰治療の奇跡がまやかしであると気づき始めているが、同時に、神に力を使わせたパルフェに興味がある」


 そうか。そういうことか、とようやく腑に落ちた。エオルがパルフェに一目惚れをするのは、事前にこれらの情報があったからだ。


 奇病に侵された姉を祈りで救い、神々にすらもその性根の清らかさを認められた奇跡の人物。信仰治療に興味を持つエオルが期待を募らせ、ようやく出会えたのがあの日の茶会で、そこに現れるのが儚げな美しい少女なのだから、惹かれるのも止む無しだ。


「やっぱり、治っていないのね! じゃあ、わたくしが……パルフェの事を嫌いじゃないのに、殺そうとしてしまうのも……」

「人の物を盗った、その罪を神に代わって罰さねばならぬと思い込むが故であろうな。そしてそちは、」


 言いながらのそりと体を起こし、ザヌはベッドの淵に顎をのせてこちらをじっと見つめた。


「そちは、その罪を罰さずに済む方法を知っている」

「……あげればいいわ」

「その通り」


 自分が譲れば、パルフェは人の物を盗ったことにはならず、譲り受けただけになる。神や罰がどうとか一切思い浮かばぬまま、いつからか、自然とそう考えるようになっていた。その思考すらも、奇病が治り切っていない証左だったとは。


「パルフェが少しでも欲しがる素振りを見せれば、そちはそれらを譲ってきた。妹が罪を重ねない為に。だが、部分的に奇病の支配から解放されたそちの心がそれを拒んでいる」

「どうして、神様はちゃんと治してくれなかったの?」

「最初から治す気が無いのであろう。ただの奇病ならともかく、神の言葉を代弁し、あまつさえ勝手に罪を罰するような存在を救う理由が無い」

「酷い話だわ!」


 激昂し、ファニーシュは大きな枕にうつ伏せで沈んだ。


「わたくしが教会にいたのは、奇病患者だったから! そんなわたくしが憐れで、パルフェは毎日必死にお祈りしてくれた! わたくしは中途半端に治されて! パルフェは好きな人が出来てもわたくしに邪魔されて! 殺されかけて! 可哀そうよ!」

「知らぬ事を知った気になって答えを急くな。まだ、調べる時間はある」


 顔をザヌの方に向けると、彼女はベッドの淵に顎を乗せたまま目を細めた。


「知りなさい。そちらが何度繰り返そうと同じ結末に至るのは、互いが何も知らぬからだ」

「知っても、どんな行動を起こしても、パルフェは神様のところに行ってしまうわ!」

「行けぬようにすることは出来る」

「!」


 体を起こし、ファニーシュはザヌにぐっと顔を寄せた。


「本当!?」

「嘘は言わぬ。しかしそのためにも、そちは知り続けなければならない」

「どうして?」

「わらわの力でどうこうできるものではないのだ」

「そういえば、貴方の力ってどんなものなの?」


 人を賢くすることが出来る、というのは何となく分かったが、具体的にはどのような力なのだろうかと思っていると、ザヌは呆れたように小さくため息を吐いた。


「わらわの力は、ワインを水に、血をワインに、水をワインに変質させる事。そして、あらゆる金属をその領地の硬貨に変える事。人に機知を富ますのは、わらわの趣味であって能力とは別だ」

「なんだ、そうだったのね! 力の方は地味なのね!」

「破壊や破滅の力では、悪魔の総括など出来ぬ。より争い合うだけだからな」


 ふうん。と相槌を打ち、そのワインを血や水に変える力を有効活用する方法はあるのだろうか、と素朴な疑問を抱きつつ、少し首を傾げた。


「ザヌはどうして、わたくしに親切にしてくださるの?」

「親切?」

「だって、そうでしょう? わたくし、貴方には嘘はつかないでとお願いしていないのに、自分から『嘘はつかない』と言ってくれたわ。それに、わたくしのお願いの為に、遠回りだけどちゃんとした道筋を教えてくれているわ!」


 これは親切でしょう? と問いかければ、ザヌは数秒黙って、小さく息を吐いた。


「分からぬぞ。そちの願いを叶えるフリをして、そちを絶望に突き落とさんとしているやもしれぬ」

「それは困るわ! わたくしは──いいえ、わたくしたちは皆、幸せになる為に生まれて来たのだから!」

「では問おう。そちにとって幸せとは何か」


 急な質問にファニーシュは唸りながら、視線を斜め上に持ち上げて考え込む。考えがまとまらないファニーシュに、ザヌは問いかける。


「満腹である事か。雨風を気にせぬ家がある事か。綺麗な衣服を着られる事か。健康である事か。家族仲が良い事か。花を愛でる事か。金がある事か。愛する人がいる事か」

「全部あれば幸福でしょうね!」

「一つだ。そちが思う幸福、一つを答えとせよ」

「ん~……一つかぁ……」


 一つ一つ想像して、足りない物が目について欲しがってしまう自分が現れてしまい、腕を組み更に考える。


 どんなに健康でも空腹では苛々してしまいそうだし、綺麗な服を着ても臥せっていては何も出来ない。家があっても家庭内不和を抱えていては安心できないし、お金があっても愛する人がいなければきっと寂しい。


「……無い物を探すな。あれば良い物を探せ」

「そうね! だったらわたくしは、わたくしの大好きな人たちが笑っていてくれればいいわ! そのためには勿論、わたくし自身が笑顔でいられることが大事なのよ!」


 ザヌの助言に従って答えを導き出せば、彼女は小さく噴き出すように笑って、頷いた。


「そうであろうな……」

「あらっ、なんでもお見通しなのね!」

「分かるさ。わらわも同じように考えていた」

「以心伝心ね! わたくし達、似た者同士みたいね!」


 友達が出来たみたいで嬉しくなってそう言うと、ザヌは否定せずに僅かに目を細めた。


「……だからこそ、この選択に後悔は無い。彼らを無限の闇から救うには、総裁として己の内で護るしかなかったのだ」

「?」


 どういうこと? と返せば、ザヌは、


「いずれ分かる。同じであるなら、いずれ」


 と笑いながら返したかと思うと、


「さあ、止まっている暇は無いぞ」


 と、ファニーシュの膝を鼻先で押した。ベッドから出て、調べものの続きをしろと言いたげに、否、しろと言っている。


「えっ! だってもう、夜よ!」

「パルフェが神の下にたどり着くのが、秋の月の二十日。それまでの時間は全て有効に使え」

「そんな!」


 抗議の声も虚しく、ファニーシュはそれから毎日寝る間も惜しんで屋敷中で探し物を続けた。


***


 春の月、十日。


 相変わらず──いや、本来はそうではなかったはずだが──パルフェの姿を見ない日々を過ごしながら、夜に使用人らの目を盗んで書庫に忍び込むのも慣れた頃、ファニーシュは書庫の奥に扉があるのを見つけた。


 ファニーシュどころかリーヴィやパルフェですら難しくてまだ読まない本が並ぶ棚の、さらに奥。灯りが届かず薄暗く、平時であれば近寄ろうとも思わないその場所に、その扉はあった。


「何の部屋かしら?」


 悪魔や奇病に関する本を探すという目的を一旦脇に置き、ランタンを掲げながら近づく。ドアノブを捻って押せば、扉は軋みながらもあっさりと開いた。


 扉の向こうは小さな個室で、扉がある壁以外のすべての面に本棚が並び、中央には書斎机と椅子が置かれていた。机の表面を指でなぞると、薄く積もった埃が取れた。しばらく人が入っていないようだ。


 本棚に近づき背表紙を眺めれば、それは全て出版物ではなく手記であることが分かった。


「よいしょっと」


 ランタンを床に置く。棚にみっちりと詰まった大量の手記は、一冊抜き取るだけでも随分力が必要だったが、どうにか一つ抜き出し、床に座り込んで頁をめくった。随分古いようで、丁寧に扱わないと結び目から紙が解け落ちてしまいそうだ。


「ん~……古語があって全部は読めないけど……契約者との取材記録かしら?」

「そうだ」


 ザヌの相槌に安心して、ファニーシュは記録全体に目を通す。とある契約者の体を乗っ取った悪魔とのやりとりをそのまま書き取ったもので、いくつか表記にブレはあるがなんとか読めそうだ。


『しかしどうして、貴方はそこまで憎悪を燃やすのだ。何がそこまで貴方を突き動かす』

『あれは神ではないのだ。××(聞き取れず)だ。貴様らの祈りを食って生きる、矮小な××を、信仰する貴様らも皆愚かだ』

『神への疑いが、貴方の原動力か』


 ふっと、ランタンの灯りが消えた。ぎょっとして声をあげそうになったファニーシュに、ザヌが「息を潜めよ」と落ち着いた声で言うものだから、つられて冷静になり、ファニーシュは自らの口を手で覆った。


「──お父様、それが本当なら、お姉様たちは……」


 リーヴィの声が遠くから聞こえてくる。なるべく壁際にそうっと移動して様子を窺っていると、カチャリ、と音がして部屋の扉が開いた。空気が揺れて、少し埃っぽくなる。


「ああ。しかし、他の奇病患者には無かった猶予だ。これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶ」

「ですが、」

「いや、そう呼ばねばならない。神の威光を高める為に」


 父の声も加わって、二人の姿を照らす一つのランタンが机に置かれた。幸い、他が暗いのでファニーシュの姿は二人には見えていないようだ。


「それがこのリャーナルド家が、清き一族と呼ばれる由縁。そして、お前が継ぐ家の全てだ」

「で、も……治ってないのでしょう……ファニーシュお姉様の奇病は……ずっと……それなのに、治した報酬としてパルフェお姉様は神の下へと連れていかれるのですか? そんなの……」


 治った報酬?


 ちらりとザヌに目配せをするが、彼女は『黙って聞いていろ』とばかりにその場に座り込みじっと二人を見つめている。


「リーヴィ、堪えなさい。リャーナルド家が清き一族であり続ける為に」

「家族を犠牲にしてまで、そうあり続ける意味は何ですか? 私は……その必要を感じません……」

「これは……いや、これが、我が一族の罪なのだ」


 何の話をしているのか。やや首を伸ばせば、背の高い影──父──が、やや小柄な影──義弟のリーヴィ──に何かを差し出したのが見えた。目を細めるが暗くてよく見えない。


「……鍵だ」


 まるでこちらの思考を読み取ったようにザヌが言う。


(鍵……そういえばお父様、何かの鍵を持っていらしたわ……)


 あれはベリーとの契約が終わった直後の牢だったか。処刑がすぐに行われるとのことで食事が与えられていなかったファニーシュは、魔法陣を描くために父から“硬い物”として小さな鍵を借りた。確か、摘まみの部分に林檎の模様がある……。


 思い出している内に、鍵を受け取ったリーヴィが父に言われるがまま机の引き出しに鍵を差し込み、回した。どうやら鍵付きの引き出しがあったようだ。


 中からいくつかの書類を取り出したリーヴィは、それらに目を落とし、数秒の沈黙の後、顔を上げた。ランタンの灯りでも分かる程、リーヴィにしては珍しく狼狽していた。


「これは……どういう、ことですか」

「それが全てだ」

「でも、それでは……ファニーシュお姉様は……」

「なると決まったわけではない。この先、細心の注意を払って育てれば……」

「違うでしょう! そうさせない為に、パルフェお姉様を神にやったんだ! そういうことだろ!」


 最悪だ。と吐き捨てるように呟いたリーヴィを、父はやるせない表情のままじっと見つめ、耐えきれなくなったのかそっと視線を外した。


 しん、とした空気に、足音が介入した。顔を上げた二人の傍に近づいて来たのはパルフェで、細い指で灯りを持ち、壁を支えにふらつきながらやって来た。


「パルフェ、どうしたんだこんな時間に……」

「きっと今日、リーヴィに家のことを伝えると思って……当たりでしたか?」


 ただ立っているだけなのに重心がふらつくパルフェの肩を支えた父は、青白い顔で微笑む娘から気まずそうに顔を逸らした。


「お、お姉様は……全部、知っているのですか? 神が、お姉様たちに何をしているのか、全部」

「……ええ。知っています」

「だったら……っ」

「知っていて、私は神の下へ行くと決めました。これが、私の……せめてもの罪滅ぼしです」


 だから気負わないで。と微笑んで、パルフェはリーヴィの肩をそっと撫でた。ランタンの乏しい灯りのせいだろうか、記憶にあるどのパルフェよりも今の彼女は痩せこけて見えた。


「大丈夫。今度こそ何もかも上手く行くわ」

「……リーヴィ。今日はこれまでにしておこう。二人とも今日はもう休みなさい」


 なにか言いたげだったリーヴィの表情を見て、父は鶴の一声で子どもらを部屋から出し、自身は引き出しを再度施錠すると埃っぽい椅子に座り込み、項垂れた。


「……分かっている……分かっているんだ、リーヴィ……すまない」


 父が出て行くまで、ファニーシュは本棚に囲まれて目を伏せた。本当は落ち込む父に駆け寄りたかった。どうしたの、何を悩んでいるの、と声をかけたかった。だがおそらく、それは悪手だと分かる。


(……皆、わたくしに知られたくないんだわ)


 では、誰に聞けばいい? 自力で調べるにも限界がある。実際、最近はあまり収穫らしい収穫がない。


 ザヌに視線をやる。彼女はしなりと首を動かした。視線を追って本棚を見上げる。取材記録ばかりが詰まった本棚だ──。


(! そうだわ!)


 父が退出したのをしっかり確認してから、ファニーシュは跳ねるようにして立ち上がった。


***


「よく来たね、ファニーシュ!」

「こんにちは、大叔父様!」


 二日後、ファニーシュは大叔父ことエジー=ジルドの家を訪れていた。

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