後編


「その……この箱……なんだけどね」


 彼女はそう言うと、バッグから少しつぶれた白い箱を取り出す。そして、じっと見つめる彼の目の前で、その蓋を開けて見せた――中身は空っぽだった。

 彼は、どういうことかと彼女に問いかけた。彼女は罪悪感にでも耐えるような表情で、途切れ途切れに話していく。


「前に……友達に……ね……どうしたら……彼の……本当の気持ちを……確かめられるか聞いたの……」


 彼女は指先で髪を弄りながらながら答えていく。


「そしたらね……『一度理不尽なことを要求してみればいい』って言ってくれて……だから、家にあったこの白い空箱であなたを……その……試したわけ」


 彼女は、中身のない白い箱を男の目の前で左右に揺らして見せた。


「理不尽なお願いをどう聞いてくれるかで、今後の付き合い方の参考になるって」


 彼女のセリフがここで途切れると、男はようやく全体の話を理解出来たと納得顔をする。

 なるほど、つまりは苛立った時に自分はどう動くのかを彼女に観察されていたらしい。『自分を試したな?』と、傲慢に思う気持ちもある。しかし、彼女なりに自分との付き合い方を考えてくれていたと知って、怒鳴り散らすことなどは出来ない。

 そして、自分の起こした結果を見れば、美里の望むような結果でないことは明らかだ。


「その……改めて、ごめんなさい……私ってこういう女なの。愛されているのかを確かめたくて、演技の裏で相手の出方を伺うような――嫌な女よね」


 そう言った彼女は徐々に俯いていき、前髪で表情を覆い隠した。

 そんな様子の彼女に、そんなことは無いと、君のせいだけではないと、そう伝えることは出来た……でも、そうはしなかった――彼女も自分のように悩んでいたと知って。

 彼は思う――そういう答えが出ているのならば、このまま何もしないでいるべきかもしれないと。別れを切り出す時が来たのかもしれない。


「……なら」


 彼が言葉を紡ぎ出そうと口を開いた時、ふと白い箱の底に挟まっているなにかを目にした。そんな些細な事、いつもなら気にならないはずだ――しかし、彼は妙にそれが気になった。


「……美里、箱に何か挟まっているぞ?」


 別れの言葉を口に出すよりも先に、つい疑問が口を継いで出た。


「……え?」


 彼女は彼に言われて白い箱の底を確かめると、底の隙間から一枚の栞が出てきた。


「……うわー、懐かしい」


 彼女はそう言いながら、懐かしさに目を細めた。あれこれと昔の記憶を思い出しているであろう彼女は、彼のことなどは見てはいない――その栞が何であるかを思い出し、目をあらん限りに見開いている彼のことを。


「な、なあ……それ、一体どこで」


 彼の微かに震えた声を聞き、美里はようやく彼の存在を思い出す。栞にくぎ付けになっている彼の様子はどこか面白く、クスッと笑ってから彼女は話始めた。


「ああ、これ? ……へへへ、イイでしょ。昔遊んだカッコイイ男の子に貰ったんだー」


『……だから、決して忘れないで下さいね? 約束ですよ?』


 美里のセリフと共に、記憶の奥底に眠っていた女の子のセリフが重なる。顔もうろ覚えなその女の子の記憶は、美里と出会ってからは思い出すことも無かった。

 当時、いつも一人でいたその女の子に、何かしてあげたいと思って苦労して作った栞があった――初恋、だったと思う。それも一目惚れ。

 不器用ながら初めて作ったその栞は、綺麗な長方形とは言い難い形をしていた。本当は綺麗な形であげたかったけれど、何度やっても上手くいかなかったのだ。けれど渡さないよりはいいと思って、その女の子にあげた。

 その栞を美里が持っていたのだ。ああ、自作したからこそ分かる。美里の持っている栞は、自分が作ったものだと。

 驚きから立ち直れない彼を置いて、彼女は手に持った栞を見つめて当時を思い出しながら話していく。


「私、小さいころから親の都合で転勤ばっかだったの知ってるでしょ? だから友達なんかも全然できなくてね。タメ口の使い方も知らなかったから、当時はお嬢様みたいな喋り方してたのよ。で、コレはその転勤先でその男の子に貰ったんだー。凄くない? これ、自作の栞なんだよ? 『友達の証!!』だって言ってさー、男の子とは今度遊ぶ約束もしたんだけど、またいきなりの転勤でねー、ついぞ遊べなかったな」


 彼女は目を細めて、懐かしさに微笑んだ。夜風に髪を靡かせながら懐かしむ彼女は、まるで一枚の絵画のようだった。しかし今、彼にとってはそれどころではない。 

 美里は友達の一人もいなかった自分だったから、あの時声を掛けてくれたのだと思っているのだろう――でもそれは、全く違う。


 ――好きだというセリフを伝えるのが恥ずかしくて、友情という言葉で偽った。

 ――また会いたくて、もっと色々なことを話したくて、遊ぶ約束を取り付けた。 


 約束の日、いつになっても彼女は現れなかった。すっぽかされたという事実に抱いたのは苛立ちよりも、もう会えないのではないかという気持ちだった。

 日付を勘違いしたのかもしれない、場所を間違えたのかもしえないと、彼女と約束したと思った場所を巡った。でも結局……彼女には会えなかった。

 しかしそれでも、諦めるなんてことは出来なかった。

 もう会えないかもしれないという事実を認めたくなくて、栞を渡したときの女の子の笑顔をもう一度見たくて、約束したはずの、あの広場に通い続けた――いつかまた会えると信じて。


「ふぅ……そろそろいいでしょ。私だって分かってる。付き合い長いからね……取ってつけたような答えも要らない」


 そう言った美里の言葉で、自分の意識を思い出から引き上げる。目の前の彼女は、どこかサッパリしたような諦めたような表情をしていた。分かり切った話の結末を聞こうと、心構えしているのだろう。

 彼は一度目を瞑り、心の中に耳を澄ませる――今日のように、またケンカしてしまうかもしれない。相手は自分じゃないのだから、価値観を完全に一緒になんてすることなんて出来ない。意見の食い違いもあるだろう。そんな考えが浮かんでいく。

 でもそうだ。ずっと、今日まで別れ話だけは切り出せなかった。


「(……ああ、なんだ)」


 自分は単に、彼女のことをよく知っただけだったのだ。彼女の笑った顔も泣いた顔も怒った顔も優しい顔も、自分は知ることが出来たのだ。高校の時からずっと一緒にいるから、気が付かなかった。一緒にいるのが当たり前だったから、気が付けなかった。

 知ったからこそのすれ違い、知ったからこその価値観のぶつかり合い……それが分かるくらいに、彼女はずっと側にいてくれたのだ。


 ――だったら、もう迷う必要なんてない。

 ――果たされなかった約束の人物は今、目の前にいる。


 彼は、思考の海に沈んでいた自分を引き上げると、彼女……美里を真っすぐに見つめ、名前を呼ぶ。


「……美里」

「なに? ……ふぇ!? ちょ、ちょっと!! いきなりなに!?」


 今まで一度として見たこともない、彼の真剣な目にドキッとしてしまった。別れるなら綺麗に終わりたいなーと思っていた矢先だったため、感情が追い付いてこない。

 しかし、時は歩みを止めてはくれないし彼のセリフも止まらない。


「美里」

「な、なに?」


 再び名前を呼ばれ、ドキドキしてしまう。確かに名前を呼ばれることは、これまで何度もあった。付き合いだした高校の時も、ドキドキしたのは覚えている。『一生守る』と言ってくれた時も、彼に包まれて温かさを感じた時も、同じようにドキドキした。

 でも今回のこれは、これまでと全然違った。


「あの時は、照れくさくて言えなくてな? 友情という言葉を使ったんだ」


 彼は、今何を言っているのだろう? 片手をスラックスのポケットに入れながら、ここではない何処かを見つめて彼は話している。


「栞も不器用ながら、何とかして形にした。いつも一人でいる女の子が少しでも喜んでくれればと、そう思って」


 彼は……何を。


「また会いたくて遊ぶ約束を取り付けた。女の子が引っ越したのを心のどこかで知っていても、何度も約束したと思った場所に通ったよ――もう一度、君に会いたくて」

「………………」


 口は真一文字に結び、感情を零さないように意識する――しかし。


「あの時言えなかったことを言うよ……好きだ、付き合ってください。そして、言わせてくれ……美里をすぐに怒らせちゃうようなこんな俺でも、君の側に居ることを許してくれますか?」


 どれだけ意識しても、ぽつり、ぽつりと地面に丸い染みをつくるのは止められなかった。自分の服の裾を両手で握りしめても、止まってくれない。


「……ずるいよぉ」


 ついに堪えきれなくなり、涙声で彼にそう口にする。顔は上げられない、今の顔を見られたくなくて。


「……そんなこと……言われちゃったら……もっと………別れたく、なくなっちゃうじゃん」


 グスグスと、みっともなく鼻をすすりながらも声を出す。顔はもう、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。


「私、いい女じゃないよ……性格もこんな……だし……今は良くても一生なんて……側に居たくないとそう思っちゃうよ……」


 セリフが後半になるにつれて、どんどん声は小さくなっていく。そして、ついにはその場にへたり込んでしまった。

 そして、蚊の鳴くような声で彼に言う。


「……こんなのが一生のパートナーで良いの?」


 自身の肩を両手で抱えながら、彼の言葉を待つ。別れ話を切り出されるよりも、何倍も心細く感じた。このまま消えてしまいそうな中――ふわっと彼に優しく包まれる。とても心地の良い、眠くなるような感じがした。


「そんな君だから、俺は好きになったんだ……もっと知りたいよ、たった七年じゃ全然足りない」


 彼は、彼女の前髪を手で優しくかき上げる。顔を見られたくなくて抵抗しようにも、身体が動いてくれない。化粧もぐちゃぐちゃだから、お世辞にも綺麗だとは言われないだろう。


「一生、側にいて欲しい。君じゃないと、君でないとダメなんだ……俺と……結婚して欲しい」


 本当は、答えはずっと変わらなかった。彼に自分は、相応しくないと思ったから――でも。


 ――私でいいのなら。

 ――私に、決めてくれたのなら。


 これまで通り、彼を愛し続けよう。そして、これからも愛してください――大好きです。


「……は……い……よろし……く……お願い……し……ます」

「こちらこそ」


 二人はどちらからともなく近づき、そっと唇を重ねる。

 思い出の栞を二人の手で優しく包み込んで。




Fin

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高校時代から付き合って7年。社会人になった俺と彼女。 リンゴ売りの騎士 @hima-ringo

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