第五十六章 電脳潮流

 統境圏神奈川州横浜市旭区にある大池公園には、地下に避難シェルターがある。


 元々の広大な敷地面積を利用して建造されたシェルターは幾つもの区画分けをされており、数十万単位の収容量を誇っていた。備蓄量も凄まじく、満員でも半年は無補給で生き延びられる設計となっている。今も続々と避難民を収容し続けており、その中に中村の姿もあった。黒のジャケット姿に、手には仕事道具が詰まったアタッシュケースといった軽装だった。


 実の所、最初は避難すら面倒だなと思って動かなかったのだ。


 中村忠敏という闇医者は、自身の命にあまり興味がない。死ぬなら死ぬし、生きているのなら生きる。ありのままの命を望んでいて、故にこそ自分の命に頓着しない。身についた医術は手癖になっているから生業にしているだけで、それで多くを稼ごうとも考えていない。当然、そんなヒポクラテスの誓いに真っ向から反逆する考え方は一般的な医療従事者と合うはずもなく、結果として中村は裏社会に生きていた。


 だからいずれ訪れるその終焉は野垂れ死にだろうと考えていたし、現状の統境圏を取り巻く混乱は遂にその時が来たかと予感させるものであった。故に町内の緊急放送にて避難誘導が流れた時も動きはしなかった。


 それを変節させたのは友人である灰村からの連絡だった。曰く、『流石にちょっとヤバイから逃げとけ』とのことだったが、上記の理由を告げると彼はやっぱりかと呆れたように溜息をついてこう提案してきた。


『大池公園のシェルターに知り合いを全員行かせた。怪我してる奴もいるから、頼むわ』


 しかし、そこは気分と惰性で闇医者をやっている中村である。気に入らなければ治さないよ、と返せばそれでいいと返ってきたので了承したのだ。無論、中村も分かっている。それが灰村なりの気遣いであることは。合理性に寄った損得勘定も幾分かは含んではいるだろうが、アレで身内には甘い男なのは今に始まったことではない。


 だから中村も気付いていてもそれに突っ込むことはなく、仕事道具を纏めて避難民達と共に列を成していた。


 列の横で、設営テントで作られた簡易的な診療所があった。周辺では医療従事者と思わしき人々が忙しなく動いており、その先々は負傷者のいる区画もあれば、黒い遺体袋を運んで並べている区画もある。それを何となくぼんやりと眺めていると、足が止まってしまった。すると後ろから来た民衆に弾き飛ばされるようにして列から外れる。


「っとと―――こりゃぁ、参ったね………」


 振り返ると列に復帰できるような流れではない。我先に、でこそではないがそれでも皆一様に不安そうな表情で黙々と足早に歩いている。さてどうしたものか、と中村が逡巡していると。


「誰か手が空いてる外科医はいないか!?」


 診療所の方で声が聞こえた。


 振り返ってみると、救急隊員の男がストレッチャーに横たわった少女を指さして何事かを叫んでいる。見れば、少女の両脚がない。太ももから下を失っており、止血代わりに残った脚に縛られたベルトが痛々しい。意識も混濁しているようで、何が原因かは遠目には分からないが重篤なのはそれだけでも理解できた。


 対して診療所は既に手が塞がっている。重症者は少女だけではない。他にも怪我人は大勢いるし、これだけの大怪我となると係る時間も相当なものになる。結果、他に救われる命の総量は少なくなるかもしれない。ならばこの少女を見捨て、まだ助かる患者を救うべく動く方が限られた人的、資源的リソースは有用であると言えるだろう。


 トリアージ命の選別と呼ばれるその概念は旧世紀からある。医療技術が発達した現代で、平時であれば救うことは出来たであろう少女は、しかしこの異常事態の中では不処置群に相当する。


 つまり、彼女は間違いなく見捨てられる。一人を救うために、他の救えた多くの患者を蔑ろに出来ないからだ。彼等とて人間だ。悲しいかもしれない。苦しいかもしれない。辛いかもしれない。だがそれでも―――見捨てる選択を、命の選別をしなければより多くの患者を救えない。


 彼等は合理的だ。現実的で、正しく、そして苦肉の策であっても少女の命を見捨てるだろう。それを肯定するだろう。例えその選択が、後年自分自身を苦しめることになったとしても。


「―――はぁ、面倒だなぁ………」


 だがここに、そうした正しさや柵を嫌って闇医者をやっている男が一人いた。


 中村は呟く。面倒だと。だが、言葉とは裏腹にその足は少女が寝かせられているストレッチャーへと向かっていた。そしてこの手が足りない状況を理解し、悔しさを滲ませ立ち竦む救急隊員に声を掛けた。


「あんた、この子の血液型はもう調べた?」

「あ、ああ」

「じゃぁ、輸血パックとその他諸々ちょろまかしてきて」

「医者なのか?」

「免許自体はあるけど、モグリだよ」


 アタッシュケースから仕事道具を取り出し始める中村に救急隊員が尋ねると、彼は懐から医師免許証を取り出して見せた。既に有効期限は切れており、顔写真だって今よりはずっと若い。それが公的には効力を発揮しないことぐらいは救急隊員にも分かった。それを未だ身分証代わりに後生大事に抱えているのは、中村の未練か、それとも矜持か。


 だが。


「―――頼む」

「へぇ。文句、言わないんだ」

「手が足りないんだ。今はそんな事を言ってる状況じゃない。―――輸血パック掻っ払ってくる!頼んだぞ!!」


 救急隊員はそう告げて医療テントへと突撃していった。その姿を見送って、中村は肩をすくめる。


「―――ま、やれるだけやるさ」


 眼の前の少女を救える救えないはもう大して興味が無い。ただ、ここに至るまで踏み固めた道を、積み上げてきた自分を、中村自身が裏切れないだけだ。


 だから病み属性の闇医者は、己の戦場で戦うと決めた。




 ●




『―――そういう訳で、手を貸してほしいんです』

「ふん。全く、情けない連中だな」

『耳が痛いですね』


 PIT越しに聞こえてくる今は亡き同僚の息子―――斎藤一馬の声に、日下雷太くさからいたはいつものどら声で呆れたように鼻を鳴らした。


 統境圏を襲った未曾有の混乱を前に、日下も彼の友人達もしかし静観を決め込んでいた。かつて音速の防人として名を馳せた彼等は、既に引退している。今更現場にしゃしゃり出て、アレコレと口を出して現役機体天風を正規兵から奪っても老害の誹りは免れないだろう。


 今を護るのは、今を生きる者達だ。そう言い聞かせて自重したのだ。


 本音を言えば、思う所はある。


 日下も当然、彼の戦友達も年老いた。体力は落ち、動体視力や反射神経も軒並み悪くなっている。それでもまだ技量を磨き続けた。いつかこの老骨が、その経験が、残り少ない命が役に立つ日が来るのではないのかと。その為だけに感覚を忘れないようにと、家族から顰蹙を買いながらもあの空戦シミュレーターを組んだのだ。


 そして今、が来た。


「とは言え、この危急の時にワシ等を選ぶとは見る目があるな」

『父がね、生前よく言っていましたよ。空の男に大層な戦う理由なぞいらない。その戦場が空であれば―――と』

「よく分かっておる。―――あのバカは引退する前も後も酒浸りで、結局肝臓の許容値を間違えて逝ったが、嫁選びと子供の教育だけは間違えんかったようだな」


 何しろ現役時代から飲んでは乗って乗っては吐いて、吐いては飲んでまた乗るなどという第2次世界大戦時の戦闘機乗りのようなアルコール依存症であった男だ。たちの悪い事に、アルコールが入っている時の方が戦績が良かったというのが何とも堂に入っている。出撃前の飲酒は気付け、と素で答えるバカだった。


 そんなどうしようもないバカではあったが、その息子は父親と同じく空軍を経験して、母の勧めもあって政治の世界に進んだ。そして何があったかは知らないが早川―――同じ年寄りからしても恥ずかしい痴れ者―――共を排除し、主導権を握ってこちらに協力を仰いできた。


 彼等は―――今を生きる若い連中も頑張っただろうし、現在進行系でその最中だろう。それでも尚足りないから、わざわざこの生きた化石に頭を下げに来たのだ。


 自分達がそうであるように、彼等にだってプライドはある。


 だがプライドを曲げてまで、今更引退した年寄りに下げたくもない頭を下げて、それでも今掴める最良の未来を取りに来た。形振り構っていない。その必死さ、その有り様は空の男に通じるものだ。このかつて鼻垂れ坊主だった男も、本質的には前にしか進めない馬鹿野郎空の男なのだ。


 だから日下は頷いた。きっと、かつての戦友の息子は日下達が望むものを用意していると思ったから。


「いいだろう。機体は?」

『府中に。手が足りなくて基地祭の時のままだそうです』

「ということは、直ぐにでも飛べるな?」

『ええ、既に爆装の命令は出してあります。辿り着いたらすぐに上がってください』

「手筈の良い。自力で行けば良いのか?」

『迎えのヘリも飛ばしております。お仲間をご自宅近くの河川敷に集めていただければ、順次こちらで運びますとも』


 ほらな、と胸中で苦笑する。


 彼も既に前線こそ退いたが空の男だったのだ。同じ空の男なら、望むものは分かっている。そして今は、その下拵えこそが彼の戦場だ。自らの十八番でしくじるような間抜けは空の男にいない。そんな愚鈍な奴は、飛ぶ前に墜落して死んでいるのだから。


「上げ膳据え膳とは恐れ入る。そこまでされた以上は、期待に答えてやるさ。―――後は任せろ、後輩」


 そう言って通信を切り、日下は背後を見る。そこには今も、共に空を駆け巡る戦友達が笑って待っていた。


 最早饒舌な言葉や説明は無用。必要なのは、たった一つの決意表明のみ。


 そう―――。


「では行くぞ野郎共。ワシ等が単に過去を忘れられない老害ではないと、その証明をしに」


 かつて空を主戦場とした古兵達は、今再びそこへ舞い戻ろうとしていた。




 ●





『本当に良いのかい?5000万で』

「いいさ。だが約束はしっかり守ってもらうぞ、斎藤議員」


 フローリングの床に座って、愛機である鉄棺ネットカプセルを背もたれ代わりするLAKIはIHS越しに斎藤に言い放った。


 フィーネの予想通り、付き合いのある政治家である斎藤一馬から連絡があった。仕事の依頼だ。乗っ取られたアナムネーシスを取り返してくれ、とのことだった。面白いことに、依頼料は好きに決めてくれと言われた。


 正直、吹っ掛けることも出来た。斎藤も吹っ掛けられることを予想して、幾つか交渉材料を用意していたに違いない。だが、LAKIは5000万で良いと言った。無論、非課税で。


 この金額を高いと判断するか安いと判断するかは人それぞれだろうが、少なくともLAKIは安いと考えて、斎藤は破格だと考えた。


 アナムネーシスの防衛システムはそんじょそこらの安いサーバーのものではない。民間では違法ともなる超高密度の攻性防壁も備えていることから、一歩間違えば仕掛けた側が即座に脳死する。一般人はともかく、電脳界を生業とする情報統制官がその事を知らぬはずがないし、命を掛け金にするならばもっと欲張っても不思議ではないのだ。


 そもそも現状、統境圏は半壊に近い状態にまで追い詰められている。これを経済的な側面で見ると、既に頭の痛い金額にまで登っている。ざっくり計算ではあるが、統境圏が壊滅、経済活動が完全に停滞した場合、その被害額は170兆円を超えるという試算が出ている。現在は半壊―――だが主な被害は外周部であることも幸いしてそこまでで止まっているが、それでも80兆に迫る被害総額になっているだろう。それを食い止める為―――その最初の行動がアナムネーシスの奪還だ。内部にまで入り込まれた消却者はどうしようもないが、障壁の再展開さえ可能となればそれ以上に被害を抑え込める道筋は見える。残った対皇竜戦もずっと楽になるはずだ。


 斎藤を始めとした議員達も、ここでケチって後々に響くようでは話にならないと考えたから依頼額はほぼ青天井を承認していた。そして当然、LAKIもそれを知っていた。


 だからLAKIは相手の予想を敢えて下回った。自分の付け加える条件を通すために。


『何が起きても、君が何をやったかは詮索しない、だね』

「ああ。アナムネーシスを奪還するとなると、こっちも切り札を切る必要がある。正直、諸々のリスクを考えると使いたくないし、見せたくない」

『出会った頃には使ってたのかい?』

「あの頃は売り込みに必要だったから、ちょっとばかし手の内を見せたのさ。だが今は、普通にやってても仕事が来る。そうだろ?」


 LAKIの要求は、アナムネーシス奪還時に何をしたかを詮索しないというものだった。監視用のドローンスポッターは当然拒否するし、作業完了後に自身のログも消すつもりだ。


 無論、斎藤もLAKIの行動は気になる。この機に乗じてアナムネーシスに何か余分なことをされる懸念もある。だが、斎藤は不安や懸念を振り払った。LAKIの能力は知り合ってからの三年間で十分に知った。その人となりも。ここは張るべきタイミングだ、と斎藤は自分の政治家としての評価をベッド掛け金に、LAKIに賭けることにした。


『分かった。悪いけれど、5000万の振込はアナムネーシス奪還後になる』

「こっちも状況を理解している。ネットがロクに使えないんじゃそうなるわな。あんたを信じるよ」

『そう言ってくれると助かるよ』

「ああ、それから斎藤議員。他の議員連中にも伝えておけ。―――俺は『小さな羊飼いリトル・シェパード』より甘くないぞってな」

『………やっぱり見てたのかね?』

「だから交渉らしい交渉もしなかったのさ。そっちが切羽詰まってるのも分かってる」

『肝に銘じておこう』

「そうしてくれ。―――終わったら連絡する」


 最後に一言釘を差して、LAKIは通信を切った。


「やっぱり来たね、依頼」

「当たるんだよなぁ………お前の勘」


 同じ部屋でLAKIと斎藤の会話を見守っていたフィーネが、にんまり笑みを浮かべて声を掛けてくる。そしてやおら、ケーブルのジャックをLAKIへと差し出した。


「なんだよ?」

「いっくんがやって?」


 尋ねると、彼女は自分の長い後ろ髪をかき上げてうなじを見せた。その意図を察したLAKIはへいへいと吐息しながらジャックを彼女のうなじへと近づける。生体皮膚がそれを避けるようにニューロンジャックを露出させ、そこに接続。するとフィーネが。


「―――あん♡いっくんのが挿入ってくる………♡」

「バカやってねーでとっとと寝ろ」


 妙に艶っぽい声を上げるので、その後頭部を軽くひっぱたいた。


「えー。だっていっくん、最近ずっとお仕事ばっかで遊んでくれないんだもん」

「分かった分かった。今回の件が片付いたらどっか連れてってやるから」

「ほんと!?じゃぁ温泉!温泉が良い!箱根!」

「へいへい。どこでもようござんすよ」

「わーい!」

「っとに、現金なやっちゃ」


 既に自分用の布団をLAKIの部屋に持ち込んでいたフィーネはそこに寝そべり、ケーブルのもう一端をLAKIの鉄棺へと接続しながら尋ねた。


「―――いっくん。急にやる気になったね」


 鉄棺のカバーをオープンさせながらLAKIは後頭部をがりがりと掻き、まぁなと前置きして。


「『小さな羊飼い』が苦戦しているようだからさ。―――恩返しってのは、出来る内にしとかねーとな」

「そういえば、私まだ『小さな羊飼い』ちゃんと会ったこと無いんだよねぇ。私も間接的にお世話になったのに。この間はニアミスだったし。女の子ってのは聞いたけれど、どんな子だったの?」

「こんな子」


 そう言ってIHS経由でこの間リアルで訪問してきた時のシンシアの顔写真を送ってやると、フィーネはふるふると身震いした後に。


「金・髪・ロリ・メイド、キタ―――!!」


 両手を突き上げて歓声を上げた。


「え?何この子!超カワイイんですけど!!お人形さんみたいなんですけど!!お姉ちゃんって呼ばれたいんですけどっ!!」

「あー、はいはい。今からそのロリメイドに会いに行きますよー」

「いっくん何してるの早く!」

「この女はよぅ………」


 言うが早いか布団に寝転んだフィーネは、LAKIにさっさと鉄棺に入れと促した。


 その現金さと言うか身代わりの早さに辟易しながら、LAKIは鉄棺へと身を滑り込ませ寝そべる。手元のコンソールでカバーを下ろすと、寝台の枕元から出てきたジャックがLAKIのうなじのニューロンジャックへと接続される。


 LAKIは外部音声に切り替えてフィーネに声を掛けた。


『じゃぁ、行くぞ』

「いっくんいっくん!」

『何だよ』

「アレ、やりましょう!」

『えぇ………』

「気分を高めるのに必要だよ?」


 すると彼女が妙な要望をしてきてLAKIはそんなもんかなぁ、と疑問を覚えた。だが、ここから先はフィーネの能力が必要になる。いっそ独壇場と言っても良いぐらいだ。故にそんなもので彼女のテンションが上がるなら、まぁ安いものかとLAKIはある歌を若干棒読みで口ずさんだ。


 かつてジョン・ドゥ名無しの権兵衛であったLAKIがフィーネを救うためだけに世界を破壊する際、戦線を共にした仲間が口ずさんでいたものだ。


『へーいジョニーはロックがお好きー』

「可愛い女を口説く時も!」

『いつでも』

「どこでも!」

『ROCK'N'ROLL!』


 没入Diveの文字が、二人の視界に踊った。




 ●




 電子の世界に鋼の要塞があった。


 硬質的で、そして所々緑の光のラインが走っているそれは、アナムネーシスの構造体オブジェクトだ。現実世界では、千代田区は市ヶ谷にある情報省管轄区域の地下にサーバールームが存在している。広さで言えば球場が1個まるごと収まるほどの面積があるのだが、電脳界ネットでのアナムネーシス―――そのシステムプログラムは更に広大かつ複雑で、加えて堅牢であった。


 電脳界はA.Iが現実を模してより直感的、本能的にインターネットを扱えるように調整された仮想世界だ。本来は二人の天才スタンリー・ジェイブスとアルベルト・A・ノインリヒカイトが自在に己の力を振るうためにエイドスシステムを用いて作り上げた世界ではあるのだが、その天才がこの世を去った後も、人類はその恩恵に肖っている。


 言うならばその恩恵のお膝元―――総本山とも言うべき場所なのだ、この構造体は。


 他圏と言わず、世界中のアナムネーシスと海中ケーブル及び衛生経由で繋がっているこれは、故にこそ強固なセキュリティで護られており、仮に何らかの理由で機能不全、あるいは暴走したとしても他のアナムネーシスが適宜修正する。電脳界の秩序は世界中に存在するアナムネーシス同士の合議で成り立っており、それは仕掛けハッキング破壊クラッキングに対しても同じであった。


 では今回、何故アナムネーシスが乗っ取られたのかと言えば、実はただ単に管理者権限が変わっただけなのだ。


 メティオンがアナムネーシスの保全業務員の一人を捉えて洗脳、それ経由でバックドアを仕込み、そこから侵入したブラフマンが正規の手続きで管理者権限を全て自分に書き換えた。結果、インフラから何からアナムネーシスが関わる全てがブラフマンの思いのままとなり、しかし正規の手続きで変えられた以上は他のアナムネーシスからも暴走とも機能不全とも認知されず、よって修正もされていないのだ。


 これを元に戻すには、同じ手続きを踏まねばならないのだが、当然ながらブラフマンがはいそうですかと管理者権限を返すはずながない。となると、違法性のあるやり方で奪取せねばならなかった。


(これもダメ………)


 隠遁形態ハイドモードでアナムネーシスの構造体の前にいたシンシアは、ドローンを使って幾つかのアクセス方法を試して手を止めた。


 違法アクセスイリーガル・アタックの類は当然ながら全て弾かれた。正規の手順も試してみたが、どうやら設定が変えられているようでアクセスエラーを吐き、何度かアタックを試みると敵性認定されて攻性防壁ICEが起動、更にはアンチウイルスによる迎撃によって数百単位のドローンが撃墜された。


(………リスクを承知でやるしか無い)


 正直な所、手はある。


 ただ、それはおそらく有効打であると同時にシンシアの奥の手だ。おそらくアナムネーシス中枢にいるであろう下手人と対峙するに当たって、先にそれを見せてしまうことになる。そう考えると二の足を踏む。


 電脳界に於ける電子甲冑は、それぞれの情報統制官が市販されているソフトをベースにカスタムするのが通例だ。一から作る数寄者ギークもいるが、大抵はベースを購入して独自にスクリプトや拡張子を付与していく。シンシアの電子甲冑『羊飼いシェパード』も例に漏れず、支配型アセンダンシータイプ―――それも特化型だ。


 大規模なDoS攻撃を得意とする反面、反応速度アジリティー改変速度バイナリエディットは並以下。取り分け電子甲冑同士の戦闘は不得手としている。基本的にリアル現実へのバックアップ後方支援を目的に弄ってきたので、殴り合いは苦手だ。


 それでも並の情報統制官ならば相手にならないぐらいの技量はあると自負している。だが、アナムネーシスに侵入し、おそらく常駐していたであろう保守警備員を制圧したことから、相手は超一流ホットドガーであることは明白。単騎か複数かは知らないが、いずれにしても戦闘特化型なのは予想できる。


 しかしそれでも、相手の懐に入り込まねばやりようがない。


 仕方ない、と覚悟したシンシアは手にした羊飼いの杖を掲げ―――。


「よぅ、『小さな羊飼い』。それはちょっと待てよ」


 背後に現れた電子甲冑に呼び止められた。


 抉れたフォルムが特徴的な、白と灰のツートンカラーのそれは、少し前に持ち主の家から没入して目にしていた。


「LAKI………?どうしてここへ?」

「手伝いに来たんだよ。斎藤議員からも依頼を受けてな。―――困ってるんだろ?手伝うぜ」


 それは助かる、とシンシアがほっとしているとLAKIの電子甲冑の肩に小さな少女がいた。人形のようなSDのそれは、並列思考加速の異能を持たない一般人が電脳界に没入すると表示されるデフォルメに近いが、それよりか妙に高細度で何となくであるが随所をカスタムされている気がしなくもない。それも使い勝手や性能ではなく、可愛いからとかいう見栄え重視のカスタムだ。


 そのSDはこちらに向かって手を振ると。


「こんにちわ!フィーネだよ!お姉ちゃんって呼んで―――ね☆」


 を作って妙ちくりんなポーズを決めていた。

 その横ピース!とノリノリのSDに甘引きしたシンシアはLAKIにジト目を向けて。


「―――誰………?」

「あー………今回の切り札ジョーカー

「えっへん。切り札ジョーカーのお姉ちゃん―――です☆」


 横ピースがダブル横ピースになった。圧と押しが無駄に強い。


 最早構えと言わんばかりのSDを、敢えて無視してシンシアはあくまでLAKIに水を向ける。


「電子甲冑も無いのに?」

「こいつの本質は別だ。バックアップとしてはエイドスシステムと同等と思って良い」

「どういうこと?」

「それは―――」


 尚も怪訝な表情のシンシアにLAKIが説明のために口を開きかけた時だった。ポン、とアクティブソナーの様な音が電脳界に響くと、アナムネーシスの構造体に扉が出現した。


「はーい。バックドア見つけたよー。元に戻そうねー」

「嘘………」


 フィーネの報告に、シンシアは言葉を失った。


 大抵のシステムがそうであるように、アナムネーシスも例に漏れずバックドアが仕込まれている。ただ、それは開発、あるいは製造段階からではなく、設置時に管理者―――今回の場合情報省―――が独自に仕込むものだ。有事の際、そこからアクセスするための非常ドアのようなものである。


 シンシアも情報省からの提供によりバックドアのバイナリアドレスを知り、最初はそこから侵入を試みようとしたのだが既に書き換えられて塞がれていた。彼女達は知らぬことではあるが、別口のバックドアから中枢に侵入、掌握したブラフマンが奪還を予見して塞いでいたのだ。


 それを発見した。いや、一度書き換えられたもの、その痕跡を見つけて元に戻したと言うのならそれは―――。


ロールバック時間遡行………?」

「せいかーい。まぁ、時間もないし自分で組んだ構造体じゃないから、部分的だけど」


 のほほんと告げるフィーネにシンシアは絶句した。


 開発者でもない、まして管理者でもない他人が外部から構造を解析して復元したのだ。それもほとんど一瞬で。言うならば、防犯目的で変えられた部屋の鍵穴そのものを、扉を開けずに前の鍵穴に戻したようなもの。そう言えばこの芸当が如何に非常識で奇術染みているか理解できるだろう。


「3年前、君に救われただろう」

「うん。―――変なゲームのレイドバトルで」


 出現した扉を特に警戒もせずに開けて、先へ進むLAKIがそう語りかけてきて、シンシアは頷いた。


 3年前、早期覚醒者であったが情報統制官としてはまだ駆け出しであったシンシアが電脳界でいつものように遊んでいると、DMが届いた。タイトルはA2Nの挑戦状。非常識が安全やら、これはいつか現実へと繋がる物語などとよく分からない煽り文句までご丁寧に書かれていた。


 スパムかな、と疑ったシンシアではあるが何となく気になって慎重にアクセスした。ウイルスの類ではなかったが、急に妙なレトロゲーが始まったのだ。その難易度たるやゲーマーなシンシアからしてクソゲーと辟易するもので、だが投げ出すのも何だか負けた気がしてムキになって続けていると、最終面と書かれた文字と共に暗転して知らない仮想空間ネットに放り出された。しかも自分の電子甲冑でだ。


 ドット絵のレトロゲーから急に五感さえある電脳界じみたクオリティアップに戸惑ったシンシアだが、疑問に思う暇すら無かった。何しろそこは戦場の真っ只中で、幾つもの電子甲冑が無尽蔵に湧き出るウイルス相手に戦っていた。ゲームらしくない緊迫したボイスも流れていて、良い声優さん使ってるなぁとかシンシアがのほほんと思っているとNPCから助力を求められた。


 その迫真の演技にひょっとしてNPCじゃなくてプレイヤー?よく分かんないけどレイドバトルなのコレ?と戸惑いつつも参戦したシンシアは、そこでLAKIと出会った。おそらくレイドボスであろう巨大人型ロボットとそれを護る電子甲冑相手に獅子奮迅の活躍を見せるLAKIではあったが、それでも拮抗状態であった。他のプレイヤー達はウイルス相手が精一杯で助力にも入れなかった。


 そこにシンシアが横殴りを入れたのだ。それにより天秤はLAKIへと傾き、巨大人型ロボットが崩壊を始めた所でこんぐらっちゅれーしょん!とシンシアの視界は暗転した。


 気付いたら自分の固有領域に戻っていたシンシアが、最後は熱かったけどエンディングもろくに無いとかやっぱりクソゲーだったなと妙な満足感を得たのだが―――。


「あれな、


 それを通じて知り合ったLAKIは、こちらを振り返らずにそう言った。


「命が掛かってた。電脳界―――いや、あのと、が」

「え………?」

「君のお陰で、今はこうして生体義体レプリカントリアル現実にいる。感謝しているんだ、本当に」


 進行方向に警報アラート


 迎撃用のウイルス反応。ややあって、通路に昆虫を模した鋼のドローンが200体近く出現。


「だから―――」


 それを見据え、LAKIは両手を広げる。


 その両手に出現するのは、短機関銃サブマシンガン。込められた弾丸は情報撹拌弾ソース・ミキサー。背面のスラスターが唸りを上げる。恩人の道を阻むなと心に火が灯り、電子甲冑に力が籠もる。


 そして迫りくるウイルス群を見据え―――。


「今回ばかりは、本気でやってやる」


 LAKIは弾かれるように加速した。


 それと同時に両手の短機関銃を掃射。正面のウイルスに情報撹拌弾が打ち込まれると、それらを形成するコードが強制的にランダムに書き換えられ、バグ化する。その後は意味不明な行動を取ったり同士討ちを始めたり、自己崩壊を起こして爆散したりと様々な効果を見せた。


 その混乱に乗じてLAKIは前線を飛び越えウイルス群の中心へと跳躍。倒立跳躍のまま周辺にバラ撒いて短機関銃の弾薬を全て使い切り、手放して破棄。落下の最中に長槍を出現させ、ウイルスの頭頂部にそれを突き刺して着地。更にそれを手放すと今度は長大すぎる光の大剣レーザー・ブレードを出現させ、横薙ぎにして一回転。


 広がった空間に手投げ型論理爆弾ロジカルボムを次々と投げ込み、一気にウイルス達を駆逐していく。


「改変、してる………?」


 その様子を半ば呆然と眺めていたシンシアの言葉に、いつの間にか彼女の肩に移っていたフィーネが頷く。


「うん。いっくんの電子甲冑―――クルステス・Proはね、元々は色々あったんだけど、今は侵略改変型エディターなんだ。構成コードを冗長化させたり、逆に短くしたりね。バレにくいように普段は射撃や爆撃で制圧型オプレッションを装っているけど―――本当はいっくん、ガチガチの強襲型アサルトだよ」


 LAKIは次々と武装を変えて一度に複数のウイルスを駆逐していくが、ウイルス達とてただのカカシではない。LAKIを最大脅威だと判断し、殺到するようにして津波のように四方八方から押し寄せる。だが、LAKIはそれら全てに反応し、的確に捌いていく。常人の反射神経ではない。その理由をシンシアが脳裏で探っていると、フィーナがくすくすと品よく笑った。


「『小さな羊飼い』ちゃんと一緒だよ。あなたもアナムネーシスのバックアップを受けてるんでしょう?多分、この感覚は違法品かな?」

「―――どうして」

「気づくよぉ、だって姉妹みたいなものだし。………ん?叔母と姪かな?それとも祖母と孫?」


 唐突に自らの秘事を暴かれて、それを問い詰める前に戦闘音が止んだ。


第一波1ウェーブは凌いだぞ。次が来る前に先へ進もうぜ」


 そして現実リアルへと繋がった物語インターネット・テラーは、シンシアの心強い味方になった。




 ●




「侵入者、だぁ………?」


 同じ頃、インフラを弄って遊んでいたブラフマンが管理AIからその知らせを受けて眉根を寄せた。


 自分が書き換えて塞いだバックドアが何故か復元され、そこから侵入者が二体現れたのだ。自動迎撃用のウイルスも、ほぼ瞬殺。既に第3波まで迎撃に出ているが、その侵攻を止めることが出来ていない。


「おっもしれぇ………!おい、シス!その侵入者、こっちに誘導してこい!迎撃用ウイルスも全部撤収させろ!」


 手練だ、歯ごたえのある獲物だ、と口角を上げたブラフマンは管理AIにそう指示を出して哄笑する。


「さぁ、遊ぼうぜぇアンノウン!俺ちゃん、久々に本気出しちゃうよぉっ!!」

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