第五十五章 託す者達

 統境圏全体を脅かすこの非常時に、鐘渡教練校も何のアクションも起こさなかったわけではない。


 平時でこそ特殊な士官学校という立ち位置の施設であるが、緊急時にはシェルターとしての役割を担っている。流石に厚木市民全員を収容できる広さはないが、周辺住民だけに限ってしまえば全て収めても余裕はかなりある。今も着々と避難民が押し寄せており、教官達はその誘導と生徒達の安否確認に追われていた。


 その人の波を横目で眺めながら、スーツ姿の壮年が足早に校舎内を歩いて行く。


 水無瀬景昭みなせかげあき筆頭教官だ。


 彼もこの非常事態が始まってから方々を駆けずり回っていた。特に事件発生が夜中に起こったために、就寝直前だった事も災いして、全体的にやや疲労感があった。頭のバーコード薄毛も萎びて見える。だが眼鏡越しの眼光は未だ衰えておらず、むしろその鋭さを現役時代を思わせるほどに研ぎ澄ませていた。


 彼は教練校内の作戦司令室に足を踏み入れると、そこに詰めていた教官達に進捗状況を尋ねた。


「現在の生徒達の安否と集合具合は?」

「お疲れ様です、水無瀬教官。現在、安否確認が取れたのは9割程です。現在、その8割が集合しております。―――理事長は?」

「大分無理をなされたようだ。今はご自宅で休んでおられるよ」


 水無瀬の問いにインテリヤクザ―――もとい、第1班の担当教官である西野達郎にしのたつろうが答え、尋ね返してきた。


 現在、鐘渡教練校の陣頭指揮を任されている水無瀬が席を外していたのはそれが理由だ。理事長である長嶋武雄は皇竜が12体出現したとの知らせを、個人的に付き合いがある統境圏議会西泉議員から聞かされて後事を水無瀬に任せて飛び出していった。


 仮にも組織のトップなのだから軽々に動くな、と具申したくもなるが、アレで統境圏最大―――いや、世界最強クラスの単一戦力だ。同じく最大驚異の消却者である皇竜にぶつけるのは理に適っている。いや、むしろぶつけて少しでも数を減らさなければ、今の被害の比ではなかったろう。既に統境圏全域が蹂躙されていた可能性すらある。


 故にこそ、物申したい事はあるが水無瀬は粛々と避難民の収容を始めとした緊急対応マニュアルに沿って陣頭指揮を執った。それが一息ついた頃に、長嶋が後方に搬送されたと聞いて直接面会に赴き、現状の報告と今後の方針を話し合ってきた。


 既に自宅に戻っていた長嶋は、起き上がるのが精一杯なほどに疲労はしていたものの五体満足であった。嫁の尻を触ってお盆でぶん殴られていたから、下半身は元気であるのだろう。


(とは言え、あの様子では一週間はまともに動けんだろうな)


 聞けば、長嶋は自らに許された20分という時間を限界まで使い切ったらしい。その上、切り札たる蒼の因子を使用したとも言っていた。明確な師弟関係ではないが、それでも長嶋と水無瀬は先輩後輩関係、そして戦友―――更に言うならば側近である。長嶋の本気とその強さの由来を知っているし、本人からも聞かされている。


 確かに、因子の力は強大だ。アレは外の理を以て、使用者の衝動を叶える。望むまま、願うがままに因子の特性と自らの異能を経由して世界を書き換える。安っぽい表現をするならば、チート、ご都合主義―――物語だから許されるそれを、現実に持ってきてしまう。


 しかし余りにも強大すぎる力は、自らの身を滅ぼす。現実は物語ではないのだ。代償が無いはずがない。体力気力は大幅に消耗するし、使用後は呼吸するのも精一杯なほどに疲弊する。特に既に老体の長嶋はそれが顕著だ。


 長嶋が皇竜に接敵したのは夜中の12時過ぎ。そして自宅に搬送されたのはつい先程。最前線から圏軍経由送られてきたのを加味しても、6時間以上掛けて帰ってきたのだ。たかだか旧神流町から厚木市までの140km程度の距離―――車を飛ばせば2時間かからない距離、長嶋が異能を全力行使したならば十数分掛からない距離を、だ。それだけで彼が如何に身動きできない程に疲労困憊だったか理解できるだろう。


 取り分け、蒼の王から直接因子を渡された長嶋はそれが顕著だ。


 適合者ドライバーとして第1世代ファーストである長嶋に限らず、その世代は言うならば改造車なのだ。ひ弱な軽自動車の車体霊樹無しの生身普通乗用車のエンジン異能を無理矢理載せても動くには動く。だが、有り余るパワー霊素粒子を車体や足回りの方が受け止めきれず、すぐにではなくとも徐々にではあるが何処かが常に疲労していく。これが世代を下っていくと、遺伝子が徐々に適合していくのか問題はなくなっていくのだが、長嶋や他の第1世代での因子継承者はそれの比ではない。霊樹が普及し始めたのは20年と少し前。注入されるまではずっと生身で異能を扱ってきたし、その無理の影響でガタが来るのが早い。


 先程挙げた例に沿うと、軽自動車の車体にレース用のエンジンを載せているようなものだ。車重の軽さと破壊的な馬力の相乗効果で、走らせればきっと凄まじい性能を誇るだろう。だがその操縦性は著しくピーキーで、扱い方を一歩間違えば駆動系を破壊し、度重なる金属疲労で車体を破断させ、最悪は事故る前に自壊する。


 元々人の設計を超えているのだ、異能というのは。そこに更に因子という負荷を重ねれば、そうなるのは必定。まして長嶋は以前の負傷が原因で片肺事故車だ。培った経験と重ねた技術、そして使い込んだが故の当て勘で上手くいなしているだけで、彼の身体はもう何時終わってもおかしくない。


(全く。無茶をする………それに救われている我々が言うのもどうかと思うが)


 とは言え、彼は彼に出来る役割を十全以上に果たした。


 大発生した皇竜の半分を討滅し、残りの半分も横須賀に駐留していた艦隊が動いて対応に当たっている。


 中々に苦戦しているし、報告に上がっている被害も尋常ではないが、それでも既に何匹かの皇竜を討ち取っているようだ。統境圏外周部の最大驚異はこれで先が見えた。となると、後は内地に侵入した消却者達の対応と、各地で起こっているJUDASのテロ行為だ。


「出てしまいましたね、緊急事態宣言」


 同じように作戦司令室に詰めて戦況を眺めていた特班専属教官であるジャージヤンキー―――もとい、山口明里やまぐちあかりに声を掛けられ、水無瀬は頷いた。


「あぁ、学徒動員の告知も来た。―――理事長も許可を出した」


 水無瀬が席を外して長嶋の様子を報告がてら見舞っていた頃、統境圏議会で何かの動きがあったらしい。長嶋と面会している最中に、あらゆるメディアからその放送が流れたのだ。


 緊急事態宣言が発令され、それに伴って統境圏全域が戦時体制へと移行した―――と言うと、フレキシブルな対応に聞こえるが、余りにも遅すぎる。現場での経験を元に言えば、6時間は遅れているし、最速での対応となると皇竜が大発生した時点で発令しておかねばならぬ程だ。


 何を今更ぬけぬけと、と薄毛バーコードを逆立てて静かに怒る水無瀬に長嶋が『どうやら早川派がやっと折れたようだよ。―――再起不能なほどに』と苦笑していた。何のことかと思っていると、PITでのニュース速報で早川派に関するスキャンダルの数々と、圏議会での醜態が流れた。


 瞬間的に怒りが有頂天に達しかけるが、よくよく考えるとこれで彼等の政治生命は終わりだろう。何なら、が終わりかねない。今回の件で被害を被った一般市民は多いし、事件が収束すればおそらく全圏民から憎悪を向けられる―――最悪、闇討ちの類も発生するだろう。殺人事件となれば圏警も捜査するだろうが―――彼等もまた、この統境圏で生きる圏民だ。治安維持のためになら裏社会の存在すら許し、清濁併せ呑める現代に適応した公儀である彼等がどこまで本腰を入れるか分からないし、何なら今回の件で統境圏議会を掌握した若手議員が内々に闇に葬隠蔽するかもしれない。


 彼等のどう足掻いても暗い未来を察した水無瀬はそれで溜飲を下げ、思考を切り替えた。今はそんな愚物バカに思考のリソースを割いている場合ではないのだ。緊急事態宣言が出て、更には特例事項第三項が適応された。これには予備役、学徒を含めた動員が強制的に可能になる要項が盛り込まれている。


 つまり、未だ学生である教え子達を戦場に出すことになり―――そして彼等はそれを拒否できない。


「酷なことをさせますな………」

「だが、いずれ経験することだ。―――今ならまだ、我々がフォローできる」

「水無瀬教官………」


 排除対象は消却者―――及びJUDAS信者。つまり、まで含まれる。


 去年、JUDASのテロ行為に巻き込まれ、結果的に信者を多数討ち取ることになり―――そしてそれを心の傷にした愛弟子を思い、水無瀬は自問する。


 同じ様な思いを、他の生徒達にもさせるのかと。


 愛弟子―――三上正治が未だにそれトラウマに苦しんでいることは知っている。訓練ではそれを乗り越えたかのように振る舞っているが、未だに振るう拳の端々に僅かな迷いが見える。意識しているのか無意識なのかは分からないが、アレでは実戦で使い物にならない。格下ならばともかく、同格、あるいは格上には全く通用しないだろう。


 それほどまでに引き摺る傷を、他の生徒達にも負わせることになる。可能であるならば、避難民と一緒に鐘渡教練校のシェルターに押し込みたいぐらいだ。


 しかし。


「関係各所に通達。筆頭教官の権限を以て、全教員、全生徒に告ぐ。各員第一級戦闘配置。鐘渡教練校は現時刻を以て統境圏軍の指揮下に入り、周辺の治安確保に乗り出す」


 迫る状況は、それを許さない。


 だから水無瀬は、今はまだ生徒達に寄り添ってやれることを唯一の慰めにして、命令を出した。




 ●




「―――っ!」


 目覚めは脳の誤作動だった。ジャーキング現象と呼ばれる、寝ている時に時折起こる身体のビクつきだ。主にストレスや自律神経障害から起こるとされるそれは、三上の意識を強引に叩き起こした。


「あ、目が覚めましたか?」


 どこか見覚えのある天井に三上が混乱していると、横合いから声を掛けられた。長い黒髪をサイドポニテにした幼馴染―――式王子だ。


「小夜?ここは………?」

「私の実家です」


 どうりで見覚えがあるはずだ、と三上は納得する。視線を巡らせれば、見知った家具や小物やら衣装やらが視界に入ってくる。昔からの付き合いで、三上と式王子はお互いの実家の自室に入り浸っていたのだから。


 どうやら部屋主のベッドを占領していることに気づいた三上は、身体を起こそうとするが―――。


「おっ………?」

「大丈夫ですか?」


 身を起こした瞬間、バランスを崩し倒れかけて式王子に支えられる。


「あ、ああ。そっか、義手が………」


 視線を右腕に向ければ、右肘の変換式神経接続関節から下が無くなっている。その為、右側が異常に軽く、重心が左に寄っているせいで、自然体では身体を真っ直ぐに出来なかったのだ。


「予備はアパートにあったんですけど………」

「さんきゅー。―――動くけど、多分、関節の方も駄目になっちまってんな、コレ………」


 式王子が差し出してくれたナノスキンコート生体皮膜されていない予備の義手を変換式神経接続関節へと装着。脳から伸びている神経の電気信号を関節で特定周波に変換、増幅して機械制御の義手を動かす仕組みではあるが―――何度か試しに手を開いたり握ったりしてみると、妙にぎこちない。誤作動を起こすほどではないが、いつもよりも反応が鈍く、パワーも思ったより出ていない。


 推察するに、シュガールに義手を破砕された時の影響が関節まで届いたのだろう。だが、完全に破壊されれば再手術が必要なことを考えると、まだマシなのかもしれない。日常生活を送る分には多少不自由で済むし、この程度ならば技師に頼めば部品交換で間に合うかもしれない。


 ふとそんな事を考えて、少しだけ避けていた事実を三上は式王子に尋ねた。


「その、久遠は………?」

「身体の自由が効いた時には、もう………」

「そっか………」


 予感はしていた。


 あの場にいた久遠を守れる人間は、三上と式王子だけだ。三上は当然であるが、クラスExの式王子ですら絶対と思っていた防御を抜かれ、為す術もなく降された。であるならば、意識を失う直前に見たあの情景―――久遠の流した涙は、紛れもない現実であった。


 自然と、沈黙が支配する。


 完敗だ。こちらのアクションが何一つ通用しない相手だった。今生きていることが、いや、見逃されたことが奇跡に思えてならない。


 JUDASの大司教シュガール。その名は一般人である三上でさえ知っている。


 『歩く天災ウォーキング・ディザスター』の一人に数えられる『告死の嵐神スペル・キャスター』。祝詞一つで様々な現象を引き起こす彼を一躍有名にした事件がある。動機は不明だが、とある国の国会に単身で乗り込んだのだ。そして『全員死ねmassacre』と口にしただけで、その場にいた政治家達が直後に心臓発作を起こして死んだ。僅か一言で、240余命が一瞬の内に皆殺しにされた。


 国の運営を司る業務であることから、国会の様子というのはどこの国でも国営放送で中継されている。当然、シュガールの暴挙も地上波に流れ、それは他国にも伝播した。その映像を見た世の政治家達は理解不能なまでの理不尽な暴力に恐怖―――いや、恐慌状態に陥った。


 翌々日にはシュガールは国際特級監視対象者ウォーキング・ディザスターとして全会一致で国連から認定され、しかし彼はそのまま身を隠した。風の噂ではJUDASに匿われたと言われていたが、どうやら本当らしい。


 そんな相手が、久遠を連れ去った。


 これからどうすればいいか三上は考えるが―――事態は既に彼の想像を超えていた。


「先程、教練校から緊急招集が掛かりました。―――実戦配備だそうです」

「は………?」

「これを」


 式王子に差し出されたPITのニュース速報を、時系列順に視線で追っていく。皇竜の大発生、圏障壁の解除、大量の消却者の内地侵攻、内地で頻発するJUDASのテロ行為―――およそ予見していなかった大事件が、立て続けに起こっていた。


「―――おい、どうなってんだ、こりゃぁ………」

「分かりません。でも、久遠ちゃんと無関係とも考えられなくて」

「………」


 式王子の言葉に、三上は無言。


 確かにその通りだ。特にJUDAS所属のシュガールが久遠を連れ去った直後に、JUDASのテロ行為が起こっている所が何ともきな臭い。


「と―――取り敢えず、教練校、行くか」

「そう、ですね………。その前に、腹ごしらえしておきます?お祖母ちゃんがお夜食作ってくれてたんですよ。もう、朝ですけど」

「ああ。食べるよ」


 食事の用意をする為、一旦部屋から出ていった式王子を見送って、三上は独りごちる。


「―――どうすりゃいいんだよ、こんなの………」


 最早、ただの少年にはどうしようもないぐらいに事態は深刻になっていた。




 ●




「んで?身体の方はどうだよ」

「いやぁ、流石に疲れたよ」


 鐘渡教練校へ向かう道すがら、長嶋邸に立ち寄った飛崎は長嶋静流に案内されて長嶋武雄と面会していた。お茶用意しますね、と席を外した静流を見送って、飛崎は挨拶もそこそこに布団から身を起こした長嶋の枕元に腰を下ろした。


 長嶋を見やれば、怪我こそはしてはいないが随分と疲労感を滲ませていた。


「まぁ、成長期の皇竜を6匹も狩りゃそうもなるわな。鼻歌交じりにヤれるのはコウぐらいじゃないか?この間もアイツ、キューバで皇竜3匹ぐらい狩ってたし」

「昔はコレぐらい、何でも無かったんだけどねぇ………。最近確信したけど、多分、もうレン君の方が強いよ」

「嘘つけ。そりゃぁ、儂の切り札ならお前さんだけに限らず、だろうさ。だが、当たらにゃ意味がねーよ。正直、炎雷使ってる状態のお前さんに一撃喰らわせれる想像ができんわ」


 長嶋は飛崎の持ち得る特性を知っている。


 普段から使っている雷撃系の異能はその余技だ。彼の本質はもっと別物―――より正確に言うならば、因子に寄り添ったものだ。この時代に目覚めた当初は慣れないこともあって使いづらく難儀もしたものだが、幾度の戦場を今は亡き戦友達と踏み越えたことで理外にすら至った。


 そこで獲得した切り札は、それが生物であろうと無機物であろうと概念であろうと―――当たれば


 こと攻撃力に限って言えば、これ以上にはない反則チートなのは確かだ。だが、それで素直に喜べるほど飛崎は世間知らずお子様ではない。強力な異能を行使する傭兵が、何の変哲もない鉛の一発で倒れることもある戦場を駆け抜けてきたのだ。如何な超火力を持ち得たとしても、それを運用できる環境を整えることが出来なければ先がない。


 まして獲得した切り札は因子の駆動が必須。そして飛崎自身も第1世代の適合者ファースト。つまり、長嶋のように過度の消耗を強いられるのだ。乱発は出来ないし、当たらなければ意味がない。そして疲労困憊になった所を攻められれば、飛崎は為す術もなく討ち取られるだろう。


 少なくとも、長嶋武雄という英雄を相手にする場合、勝負云々以前の話なのだ。前提条件として、あの炎雷を用いた超反応のような回避力を攻略することが必須。


「それに、強い強くないは知ったこっちゃない。―――儂は、無貌ノースフェイスさえ殺せればそれでいい」


 そして武神相手にムキになる程、飛崎は戦闘狂でもない。戦うための力は欲したが、もう十分だと考えている。身を護るだけならば既に過剰であるし、目的を果たすための切り札は手の内にある。


 後はただ、最愛の仇を取るだけだ。


 紫瞳の中に、どろりとした炎の色を見た長嶋は、深く吐息した。


「君もコウ君も、拘るね。復讐に」

「何だ。復讐は復讐を呼ぶ―――とか今更自称常識人みたいなことを言うつもりか?」

「いいや、その生き方を否定するつもりはないよ。コウ君の死んだ嫁は、私の娘だしね。―――恨みと言うなら、私にだってある」

「―――悪ぃ。口が滑った」


 バツが悪そうに視線を背ける飛崎に、長嶋は首を横に振った。


 長嶋とその前妻の間にできた娘―――秋山結乃あきやまゆのはJUDASによって攫われ、そして人体実験の果てに死亡している。長嶋がその事を知ったのは、親友秋山光一が復讐鬼となった後だった。無論、彼とて一人娘を見捨てたわけではない。だが、その一人娘が遺した孫と、後妻である静流との子がほぼ同時に生まれたばかりであった。そして彼自身、鐘渡教練校の運営者だ。故に全てを投げ出してでもは動けず、自らの復讐を親友で義理の息子でもある秋山光一に託した。


 だがもしも、長嶋武雄に何一つ柵がなければ、彼もまた復讐鬼となっていただろう。


「いいさ。でも時々思うんだ。君達が復讐を果たした後、どうするのかって」


 そしてそうはならなかったからこそ、長嶋はそんな事を思うのだ。


「私は―――僕は、ひょっとしたら最後まで見届けられないかもしれない。だから余計に、ね」

「何だよ。急に死にかけの年寄りみたいな事を言って」

「死にかけの年寄りだよ、もう。―――昔の僕なら、皇竜は当然、今も横浜で暴れてるJUDASだってついでに皆殺しにしても全然余裕だったのに、このザマだ」


 そう自嘲して、長嶋は自らの手に視線を落とす。


 前世紀から鍛え続け、実戦でも使い込んできたこの手は、拳はこれほどまでに小さかっただろうか。


 生き残るため、皆を生かすために剣を振るい続けたこの両腕は、これほどまでに細かっただろうか。


 戦場を駆け抜け長嶋を英雄になるまでに支え続けた両脚は、これほどまでに心許なかっただろうか。


 戦い続けた自分のこの身体は―――いつから此程までに弱くなっていたのだろうか。


 身体の衰えを自覚する度に、背中からひたりひたりと忍び寄る死の足音が聞こえる。


 後、どれだけ戦場に立てるだろうか。


 後、どれだけの人を救えるだろうか。


 後、どれだけ―――生きていられるだろうか。


 長嶋武雄という人間の終わりはそう遠くない。今日明日に死ぬことはないだろう。だが、明後日は。来月は。来年は。その先は。


 そう考えた時、長嶋にも幾つかの心残りが生まれた。その中の一つに、今も己の復讐に身を投じている親友達があった。


 彼等は、自らの人生を賭してまで復讐を志した。おそらくそこに最愛の遺志は関係がない。その発起点こそは感情ではあるだろうが、だからこそ理屈では止まらないし終わるまで止まれないのだ。


 しかしそれを果たした後、彼等はどうするのだろうか。抜け殻になってしまわないだろうか。自暴自棄になって、最愛の後を追ったりはしないだろうか。長嶋は、親友達の行く末を案じたのだ。


「コウの奴はどうか知らないが、儂はどうもしないさ」


 しかしその片割れは、気負った様子もなく肩を竦めた。


「復讐を果たしたからと言って、そこで儂の人生が終わる訳じゃない。これは儂が新しい人生を歩くためのケジメだ。それを片して初めて、希虹にさよならを言えるんだ。―――悲恋には、悲恋なりの美学があるのさ」


 ああ、と長嶋は表情を緩めた。


 この男飛崎連時は半世紀前から何も変わらないと。


 余人にはよく分からない美学という考え方に寄って立ち、そしてそれに他人を巻き込みながら―――しかし周囲に良くも悪くも影響を与えていく。長嶋も、もう一人の親友である秋山光一もそんな彼の影響を受けた人間だ。


 もしもそれがなければ、長嶋はあの『消却事変』を―――あの絶望の黎明期を生き抜くことは出来なかっただろう。生き方を定め、美学を掲げることを知らないただのヘタレ少年だったのならば、長嶋は自分が生き抜くためだけに全てを見捨てていたはずだ。


 親友も、仲間も、恩人も、初恋も。


 それを後悔しながらも、でもきっと情けない言い訳をして。生物としてはそれが正しいのかもしれない。だが、そんなカッコ悪い生き方美学の無い人生は、彼等の親友である自分自身が許せない。美学の無い人生カッコ悪い人生は、死んでいるのと一緒だと。


 かつて初恋を救うために世界で最初の皇竜を倒しに行くと、避難民達を纏めていたリーダーに告げた時に問われた。


『あんな人外の化け物に一人で挑むとか―――君は、世界でも救うつもりかい?』


 呆れたような大人の言葉に、まだ少年だった長嶋はこう答えた。


『好きな子を救うのにそれが必要なら、僕は世界だって救って見せますよ』


 我ながら若かったな、と苦笑する。何とも青臭い。だが、根性を見せて腹を括ったそれこそが正解だったと今なら胸を張って言える。そしてその選択を支えたのは、親友達と過ごした過去があったからだ。知れずと、自分の中で育っていた美学があったからだ。


「そこから先は、まぁ、アイツ希虹が遺した遺産箱庭を運営しながら考えるさ。―――案外やることある忙しい身の上なんだよ、これでもな」


 この見た目はまだ青年の同年代タメは、今も昔も変わらない。


 確固たる自己と、揺るがぬ人生観を持っている。美学に寄って立ち、自分の人生を謳歌するために。カッコいい美学を掲げる自分を、気分良く肯定するために。例えその先が茨の道だろうと、その果てが地獄であろうと知ったことじゃないと笑いながら邁進する。いっそ狂気的でもあるそれは、しかし見る者を魅了してやまない。


 だから飛崎連時は、今も自分の人生を歩いている。


 好きなように、望むがままに―――美学を掲げて。


「じゃぁ、そんな箱庭の主様に依頼があります」

「何だよ、藪から棒に」


 だからこそ、長嶋は飛崎に後事を託すことにした。


「横浜の不穏分子JUDAS、一掃してくれない?」

「無理だぞ」

「えー………嘘だぁ」


 しかし一蹴され、ジト目を向けると飛崎は嘆息した。


「嘘じゃねぇよ。そりゃ時間かけりゃ行けるがな。―――お前さんの言い方だと、学生達が接触する前に排除しろってことだろ?他の学生が正治みたいな心傷トラウマを背負う前に」

「うん」


 長嶋の懸案はそこだ。


 対消却者A・E戦はいい。あれはいずれ経験することではあるし、今ここで死ぬ程度ならば、いずれ死ぬ。それが早いか遅いかなだけで、結果はそこまで変わらない。尤も、長嶋は生徒達をそこまで軟な育て方はしていない。最終的には運次第かもしれないが、そこまでを生き残るための術は訓練カリキュラムに組んである。長嶋武雄の本気を定期的に見せることで、消却者以上の恐怖を植え付けてある。教官達もそれを理解しているし、彼等の指示にきちんと従えば大多数が生き残るはずだ。無論、戦場でのことだ。無傷とは言えないし、絶対に生き残るだなんて確約も出来ない。それでもただ戦場に放り込むよりは、ずっと被害を減らせる。


 だが、対人A・H戦は別だ。


 消却者のような直接的な脅威は無いにしても、もっと厄介な知恵というものを使ってくる。まして狂信者達は自らの命を投げ捨ててまで迫ってくるだろう。


 その狂気を、その異常性を、あるいは戦場特有のアドレナリンと若さで乗り切るかもしれない。だが、三上正治を見れば分かるようにその手の類は後から分かるものだ。未だ成長過程の彼等にとって、その停滞は人生を左右しかねない。


 三上が運がいいのはそこだ。身体は既に出来上がっていて、戦闘技術自体はある程度親から仕込まれていた。加えて拳聖からの手解きを受けているのもあって、基礎と応用がある程度固まっているのだ。


 だが、大多数の普通の生徒はまだそこまで到達していない。教練校はその名の通り学校―――基礎を固める段階なのだ。その一番大事な時期に、歴戦の長嶋から言わせてみれば人を殺した程度で停滞するのはあまりにも損失が大きい。


 前世紀の価値観で言えばサイコパスのような考え方だが、人を喰らう消却者が跋扈し、テロリストが残った僅かな日常すら壊しに来る今の世界では当然の価値観だ。実際に今、この混乱の只中にある統境圏で平和と話し合いを謳って戦場に出た所で、即座に喰われるか自爆テロに巻き込まれて死ぬのが落ちだ。


「現状じゃ単純に手が足らん。今、追加の人員呼んでるが、それだって後3時間ちょっと掛かる。その頃には多分………」


 飛崎の予測に長嶋は考え込む。


 理想は圏軍や予備役、統境圏を拠点とする傭兵団による掃討だ。だが、彼等は圏境外での戦闘もある。まず間違いなく手が足りないのだろう。だからこそ、特例事項第三項を適用して学徒動員を促してきたのだから。となると、手が空いている傭兵―――しかも長嶋が信頼できて、且つ実力も折り紙付きな人員がいい。飛崎が率いる箱庭は、まさにうってつけの戦力だった。


 だが、箱庭とて全能ではない。今日この日に統境圏でこんな事件が起こって、更にはここまで大規模な戦闘が勃発するなどと予見していなかったし、多少の戦力こそ常駐させているが、こうまで広域に広がった戦場を全てカバーできるほどではない。シンシアの件もあって既に戦力増員は予定しているが、国外から呼び出す以上は相応の時間が掛かる。


 既に緊急配備に動いている鐘渡教練校が敵性戦力に接敵、戦闘開始するまでにはまず間違いなく間に合わないだろう。となると、ある程度は諦める必要性がある。


「じゃぁ、可能な限りってのは?」

「それならいいぜ。元々、奴等が正規軍や予備役とやりあってる時に横殴りしてやるつもりだったからな」

「可能な限り生徒も守ってくれる?」

「傭兵として雇って、自由裁量を認めていると教官達にも軍人連中にもちゃんと知らせといてくれよ。あれこれ横から命令されても困るからな」


 ならば仕方ない、と妥協するしか無い。


 長嶋とて全能ではないのだ。既に打てる手は打っているし、ここまでが限界だろう。後は、生徒達が無事に生き残ることを周囲仲間を信じて祈るのみ。


「ありがと。じゃぁ、報酬は―――」

「いらねぇよ馬鹿。今更な付き合いだろうが、儂等は」


 苦笑する親友は、あの頃と何も変わらない笑みを浮かべていた。




 ●




「おっと………安曇会の連中か」

「灰村の兄貴!ご無事でしたか!」


 横浜の繁華街を抜け、住宅街に差し掛かった頃に灰村は安全第一のメルメットを被った黒服集団を見つけた。向こうもこちらを認識したようで、走り寄って頭を下げてくる。


 灰村としては兄貴と呼ばれるほど親密ではないのだが、安曇会の組員としては会長と仲の良い部外者―――そして横浜歓楽街を一人で物理的にも人脈的にも治めている灰村に対してぞんざいな扱いはできない。立身出世は男の夢なれど、それを成すのが如何に難しいかは縦割り組織に属している彼等がよく分かっている。上下関係は下手な民間や公儀よりも厳しいから特にだ。そんな中で、自分の腕一本でのし上がってシマ縄張りを持って独立を維持している灰村は、彼等にとって素直に尊敬できる相手なのだ。


「親父さん達は無事か?」

「へい。今、会長と若頭と若頭補佐が今後のことを話し合っております」

「さっき斎藤議員から連絡があってな。俺にも参加しろって言うから、混ざりに来た。どうやらお役人も色々と協力もしてくれるらしい。特に物資の補給はありがたいだろ?」

「正直助かります。では、こちらへ」


 案内を買って出た黒服に着いて行き、一時拠点として占拠している公園に辿り着いた時だった。


 こちらに背を向けて、若頭と若頭補佐に一席ぶっている安曇会長を視界に収めた瞬間、灰村は背筋に氷柱を打ち込まれたかのような強烈な違和感を感じた。


 彼も戦場を経験している。そこでよく感じた気配。死の匂い殺気。その鉄火場での経験が、本能が―――意識しせずとも、勝手に思考力を加速していく。


 視野を広げる。違和感の先を見るために。安曇会長の先―――公園を臨むように建てられた100m先のビル、その5階にきらりと反射する光。嫌な予感が全身を駆け巡る。窓ガラスの反射にしては小さく、しかし鋭い光。埋め込まれた霊樹が灰村の視力を瞬間的に補強する。


 見えたのは、狙撃銃を構えるカーキ色の法衣JUDASの戦闘員


 その所属と意図を理解した瞬間、灰村は声を上げていた。


「―――避けろ!!」


 だが、その叫びと同時に銃声が響き渡り、安曇会長の胸に穴が空いた。


「―――野郎ッ………!!」


 たまらず氷鞭を振るい、逃げようとした下手人がいる階へとブチ込んだ。怒りに任せた灰村の一撃は、そのビルの5階を正確に襲撃し、氷の大蛇が内部に侵入するとその空間全てを蹂躙した。下手人の生死は不明。だが仮に生きていても虫の息は確実。


 それよりも―――。


「親父!」

「オヤジ!」

「んだよ………ピーピーうっせぇなぁ………年寄は少し労らねぇか………」


 膝から崩折れる安曇会長を、生馬と大竹は抱き止めた。右胸を撃ち抜かれた老体は、口と胸から夥しい量の失血をしながらもまだ生命を繋いで軽口を叩いていた。だがそれが命の最後の灯火だというのは、この場にいた誰もが理解した。


「病院、いや、医者だ!」

「馬鹿野郎、止血が先だろう!」

「こんな時にまで喧嘩してんじゃねぇっての………全くよぅ………」


 しかしそれでも諦めきれない生馬と大竹が周囲に指示を出すが、未だに意見違いをする二人に安曇会長は血液混じりの嘆息をした。


「親父さん………」

「おう………トラか………何でぇ、お前まで辛気臭え、面ァしやがってよ………」


 それに声を掛けた灰村も、これはもう助からないと軍人であった頃の自分が判断していた。


 助かるための条件が揃わない。現状、医術を専門的に扱える人間はここにいない。機材もない。回復系の異能もない。応急手当ぐらいならば軍人経験者である灰村が出来るが、それで僅かに延命した所で今の統境圏は救急車が数分で到達できるような平時ではない。撃たれた場所も悪い。右胸―――いや、右肺。それも出血量から言って動脈を傷つけたか、あるいはそのものをか。


 いずれにしても―――。


「―――間に合わなくて、すまねぇ」

「いいさ………。どの道、そう長くは、なかったしな………」


 元々末期の癌患者だ。既に根本治療を諦め、しかし後継者も決まらない状況では対外的に組織を背負って立つ必要があった彼は、それを周囲にひた隠していた。知っているのは、灰村と極一部だけ。息子や若頭にすら告げていない。体力は既にギリギリ。もう気力だけで立っていた彼にとって、この一発は死に至るダメ押しだった。


 だがここに至るまで、それなりの時間はあった。


 死に対する覚悟は、既に固まっていた。


「それより、遺言、状………頼んだぞ、トラ………」


 安曇会長は縋るようにして灰村に手を伸ばし、彼もそれに応じた。もう呼吸も厳しくなってきたらしく、目の焦点も合わなくなっている。


「組は、どうなったって良いが………若い奴らを、路頭に迷わせること、だけは、やめて、やってくれや………」


 枯れ枝のような手だ。


 年相応の、骨ばって小さくなってしまった手。


 だがその手で社会に馴染めない不適合者達を拾い上げ、王道ではなくとも、正道ではなくとも、それでも生きていける術を教えた。やり方は公儀お上に逆らっているかもしれないが、それでも社会に貢献できるようにと。少しでも世の中の役に立つのならば、今のお上はそれを排斥しない。そう信じ、だからこそ国とは方向性の違う治安維持を受け持った。


 その手が今、力を失おうとしている。


 今際の際に後事を託そうとしている。


 だから灰村は尋ねた。


「―――親父さん。それは、依頼か?」

「あぁ、報、酬は………」

「承った。―――いつかあの世で、一献付き合ってくれればそれでいいさ」

「そういう、奴だったよなァ………、お前は、昔から………」


 微笑む灰村に、安曇会長は困ったような、それでいて安心したような笑みを浮かべた。


 こんな面倒なことを押し付けて、何も報いてはやれない。それを情けなくも思いつつ、しかし安曇会長の胸に去来するのは、言い知れない満足感だった。


 平和と呼ばれた時代昭和に生まれ、激動の世紀末と黎明期を駆け抜け、ここまで来た。手に入れたものも、取り零したものも沢山ある。喜びも、悲しみも、楽しみも、後悔も抱えきれないほどだ。遺していく子供達も心配ではある。彼等が活躍するその先も見てみたかった。


 それはもう叶わない。


 だが、それでいいと安曇会長は思った。


 決して完璧ではなかったが、やれることはやった。後を託せる者に託した。祖先が自分に繋いできた未来を、自分も未来に繋げることが出来た。


 きっと人間、それさえこなせたら満足できるんだろうな、と今更気づく。


 視界が、色を失う。


 聴覚が、音を失う。


 心が安らかになる。


「―――あぁ、全く………。碌でもない、人生だったが………これで案外、虚しくもない人生、だったな………」


 だからそう言い残して、統境圏の裏社会を統べていた巨星は―――今、穏やかに逝った。

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