第五十章 襲い来る破滅、停滞する者達

 消却者イレイザー、と呼ばれる存在がある。


 1999年の『消却事変』を境にこの世界に出現し始めた、人を食らう化け物。言葉にすればそれだけで済むが、その起源はもっと古いとされている。そも、彼等の姿は千差万別ではあるものの、世界各国の伝承にある異形の者達に非常に似通っていたからだ。


 カテゴリC―――小鬼や半獣、巨人などの怪異種。


 カテゴリB―――ハーピィ、グール、鬼などの伝記種。


 カテゴリA―――オルトロス、デュラハン、大天狗などの幻想種。


 カテゴリEx―――皇竜、フェンリル、リヴァイアサンなどの厄災種。


 総じて共通するのは、彼等はこの世界に現出した時から酷い飢餓状態にあるということ。身体の大部分を霊素粒子で構成する彼等は、自己の存在を存続させるために霊素粒子の補給を求め、その繋ぎとしてこの世界の生命を食らう。


 それは獣であれ、人であれだ。


 言語を解すことも出来ないので対話も不能。そもそも彼等の根底にあるのは自己の保存。言うならば生存競争の一種であるために、例え意思疎通が可能であったとしても人との妥協点は見い出すことは不可能。唯一のコミュニケーションは互いの存亡を掛けた殺し合いだけだ。


 故にこそ彼等は人類種の天敵であり、半世紀にも及ぶ生存闘争を繰り広げてきた。


 そして人類は無力ではなかったが、非力ではあった。


「ひっ………」


 旧相模線―――統境圏第二次防衛ラインを抜けると、そこはすでに住宅街であり、明け方ということもあって避難が遅れた民間人達と浸透してきた消却者がかち合った。足の早い2つ首の犬―――オルトロスの群れが、民間人達を補足する。体高約2メートル。この世界に存在するホッキョクグマとほぼ同等の体躯。しかし体毛は刺さりそうなほど黒く鋭く、そして何よりも2つの首がある異形の姿。


 互いの躊躇は一瞬。


 オルトロス達は身体を苛む酷い飢餓感の中で獲物を見つけたという、歓喜の感情。


 民間人達は防衛ラインをこうも速く抜けてきた彼等に対する何故、という戸惑い。


「逃げ………!」


 一人の民間人が避難を叫ぶよりも速く、オルトロスの一体が、その巨躯に似合わぬ速度で急速接近。一つの首が上半身に噛みつき、一つの首が下半身に噛みつくと恐るべき膂力で食い千切った。ぶつり、というよりはばちん、とまるで強靭なゴムでも引きちぎったかのような音が響き、大量の鮮血が一瞬だけ飛び散って周辺を赤く染め上げた。


「ひぃっ………!」


 食い千切った人体を咀嚼するオルトロスに対し、民間人達は我先にと背を向けて遁走する。だが、その行動は悪手極まりなかった。


 消却者は者と銘打ってはいるが、人では無い。つまり、その知性や行動様式はその姿に準ずるのだ。オルトロスは2つ首の化け物であるが、四足の獣。似ている動物を挙げれば犬や狼がそれに近い。そしてその本能は、逃げる獲物に対してこそ呼び起こされる。


 最初に民間人を食らったオルトロスが遠吠えを一つすると、背後の群れが逃げ惑う民間人へと殺到した。


 武器を持たず、異能も使えず、戦う力を何一つ持たない民間人達は獣の足から逃げ切ることは当然出来ず―――数分後、全てオルトロス達の胃袋へと収まった。


 この一件を皮切りに、民間人への被害は加速度的に増えていくことになる。




 ●




 路地裏に止めたフルスモークの偽装バンの中で、横浜市内の様子をドローンと管理A.I経由で入手した監視カメラの映像を眺めながらブライアンは先程表の自販機で買ってきた缶コーヒーの蓋を開いて口元に寄せる。


 コーヒーは豆から選んで自分で淹れる派のブライアンであったが、この国に来て何の気無しに買った缶コーヒーに大いにハマった。理由は単純。無糖を選択肢に入れられるのだ。


 ブライアンが長く拠点していた国では、無糖と銘打っていても実は数%砂糖が入っていたり、そもそも無糖の選択肢が無いという場合が多々あった。生産コストと税金の問題か、無糖の飲み物が少なく、且つあっても出鱈目に高くなることが多い。故に、ブラックを飲みたくば自分で淹れるのが基本である。


 密やかな趣味故にその行為自体も楽しいので苦ではなかったが、気軽さという点ではこの缶コーヒーに勝るものはない。まして仕事中のちょっとした時間に買いに行って一服入れられるのが実に良い。


(ふむ。マフィアも動き出したか。―――面倒だ)


 コーヒーの香りと味を口内で楽しみつつモニターへ視線へと向けると、ブライアンは見覚えのある顔を見つけた。安曇会のNo.2とNo.3だ。


 JUDASはその性質上、裏社会との繋がりが深い。特に土着となるとその地での活動に直接影響するので、ブライアンも主だった面子の顔は事前に頭に叩き込んでいた。


(意図せずイトウとツジヒロを潰してしまったからなぁ………)


 発端はシュガールの暴走と言うかストレス発散であったが、ついでとばかりにもう一角も使い潰してしまった。その結果、エリカと久遠を無傷で手に入れられたと考えれば費用対効果的には最上級であった。しかしその結果、今現在、統境圏の裏社会は一枚岩になってしまっている。


 これの何が不味いのかというと、裏社会とは―――少なくとも現行社会の国家政府にとっては―――必要悪、そして有事の際の人手としてお目溢しをされている存在なのだ。


 故にこそ、緊急時に於いて彼等は自警団として機能し、混乱を望むJUDAS側からすると障害になり得てしまう。それを防ぐために本来の予定では、元々あった三つ巴状態を維持するはずだったのだ。互いに牽制と躊躇があれば、その間隙を縫ってこちら側も動きやすくなる予定だった。


(これは、仕方ないか)


 現在、電脳寄生と洗脳で増やした手駒に武器を配って各地で騒ぎを起こさせている。これにより、民間人のシェルターへの避難を遅らせており、混迷を加速させているのだが、あらゆる非合法手段を用いて沈静化が可能なマフィアが出張ってくると今後の予定が狂う。


 ブライアンは短く吐息をすると、IHSを操作してメティオンへと通信を繋ぐ。


「ブライアンです。予定より少々早いですが、召喚結晶を使います」

『こちらでもマフィアの動きは補足している。構わん。使い給え』

「ええ、では」


 特に文句もなく許可が出たので、ブライアンは手元の端末へと手を伸ばす。


 消却者を人為的にこの世界へ呼び込む召喚結晶は、既に統境圏各地へと仕込んでいる。後は、ブライアンがコードを打ち込めば遠隔起動する。パスコードを入力して起動準備を整えたブライアンは、一息ついて飲みかけの缶コーヒーを手に取った。


「さて、外からも中からも大変だね。統境圏は」


 他人事のように苦笑しながらコーヒーを口に含み、そして―――エンターキーを押した。




 ●




 夜明け前の静かな瑠璃色を引き裂くようにして、遠くで断続的な爆発音が聞こえる。


 それは不規則ながら何度も何度も響いていた。最初は圏境線での戦場におけるものだっただろうが、少し前から内地側―――より正確に言うならば横浜周辺からも聞こえ始めた。緊急放送で流れた情報によると、内地側の爆発音はJUDASのテロ活動だそうだ。


 内外から脅威に晒され逃げ惑う人々を、しかし誘導する勢力があった。


「おう!お前らこっちだ!!」

「アンタ等………!安曇会の………?」


 『安全第一:安曇会』と書かれたのぼり旗と誘導棒を手に避難民を誘導するのは、黒スーツにヘルメット、更には安全反射ベストという妙にアンバランスな出で立ちをした集団だった。だが、そのいかつい風貌と彼等が掲げる安曇会の文字に大体の避難民は察する。


 社会悪の烙印を押されるべき反社会勢力が、未だに国家からお目溢しをされている理由―――即ち、周辺地域の非合法治安維持活動に安曇会が乗り出したのだ。その内訳には、避難民の誘導も含まれている。


「この先の第4シェルターにまだ空きがあるはずだ!慌てず急げ!間に合わなかったらその先の第5シェルターに逃げ込め!」

「あ、ああ!ありがとう!!」


 喋り方は恫喝のような巻き舌ではあるが、その内容は真っ当なもので有用な情報でもあった。避難民達は厳しい男達に守られるようにして列をなし、シェルターへと急ぐ。


「―――くそ。んなことやってる場合じゃねーってのに」


 その様子を視界に収めながら、歯がゆさを噛みしめる青年が一人。パーカーにジーパンというラフな格好ではあるが、そんな彼もヘルメットを被って安全反射ベストを身に着けていた。


 名を、安曇生馬あずみいくまと言った。


 安曇会会長の一人息子で、今年で22歳と若く、しかし若頭補佐という立場にあった彼は避難誘導の陣頭指揮を任されていた。


「喚くな、若頭補佐。テメェもオヤジの息子なら、腰据えて構えとけ」


 それを窘めたのはスーツ姿の巨漢だった。


 岩がスーツを着ている、と揶揄されることもあるその巨漢の名は大竹佐治おおたけさじ。既に壮年の域に差し掛かっているが、今も尚武闘派で鳴らしており、立場も若頭となっていた。安曇会における実質的なNo.2であり、今は避難民護衛部隊の指揮を取っていた。


「チッ。叔父貴に言われなくても分かってる。だからこうして治安維持に出てんだろうが」

「まだまだ青いなぁ、オイ。オヤジの跡目にゃ相応しくねぇ」

「じゃぁ、アンタがやるってか?」

「付いてくる兵隊の数は、俺の方が上だな?」

「上等だ………!」


 売り言葉に買い言葉で、険悪な雰囲気になる二人に、しかし周囲の組員達は萎縮することもなく粛々と自分の業務をこなしていた。


 立場、実績、経歴ともに大竹の方が上なのだが、生馬は安曇会長が晩年になってからようやく出来た一粒種だ。故に、跡目争いの潮目が出来てしまった。そうした経緯もあってか、日がな一日小競り合いすることも日常茶飯事なので、周囲の人員も慣れているのだ。手を出さず、好きにさせていたら良いのである。少なくとも、個人間でやりあっている内は飛び火しないのだから。


「―――止めねぇか」


 だからこそ、そこに割って入る声は妙に響いた。


 二人が振り返れば、着物姿の老人が杖を突きながら現れた。安曇利重あずみとししげ―――安曇会の会長である。その登場に、周囲にいた組員が一斉に頭を下げるが、利重は鷹揚に手を振ると各々の仕事へ戻るように促した。


「親父………!?」

「おう、オヤジ。わざわざ出張ってきたのか?」

「統境圏の危機とあっちゃぁ、おちおち寝てもられん。―――それより、これから頭張ろうって連中が雁首揃えてみっともねぇマネするな」

「ならとっとと跡目を決めてくれんかねぇ。―――こっちもそろそろガキのお守りは飽きたんだ」

「叔父貴………!」


 大竹の揶揄するような言葉に生馬が唸り、一触触発な空気となるが、それを破るようにして利重が大きくため息をつく。


「前から言ってるだろ。跡目は相応しい方にやると。野心丸出しの今のオメェじゃちょいと不安。直ぐに頭に血が上るドラ息子でもまぁ不安。おい、ボンクラ共。―――一体いつになったらワシは隠居できるんだ?」


 二人を睨みつける眼光は酷く鋭く、自分に向けられているわけではないと理解しているのにも関わらず、組員達は震え上がった。


「おい、若頭補佐、言われてるぜ?」

「叔父貴もだろうに」


 しかし、当の本人達はどこ吹く風で責任を擦り付けあっていた。


「ったく。足して割りゃぁ丁度いいってのが笑えねぇわ情けねぇわで泣けてくらぁ。このままじゃ跡目の前にこっちが先にくたばっちまうよ。―――前から言ってるが、ワシの遺言はトラの奴に預けてある。ワシになにかあったら、トラを頼れ」


 その指示に、大竹は露骨に嫌そうな顔をした。


「全く、何だって組と関係のない奴に」

「だからこそだ。ワシ等は徒党を組まにゃろくすっぽ力のない個人だが、奴ぁ一人でウチと喧嘩できる。個人能力としても人脈としてもだ。惜しむらくは野心がないのがなぁ………。あれば、ウチの組を本気でやっても良かったんだが」


 在野の一匹狼を本気で欲しがるトップに、No.2とNo.3は顔を突き合わせた。


「なぁ、今のうちに協力して始末しといたほうがいいんじゃねぇか?トラのヤツ」

「だが、あの灰村の兄貴がそう簡単にくたばるとも思えんぞ」

「二の足踏むだろう?、さ」


 うぅむ、と唸る二人に利重は呵呵と笑ってみせた。


 実際問題、利重は相談役などの重要な役職ならば即座に拵えるつもりであった。跡継ぎ二人はそれぞれに両極端で、その折衝役としては灰村は丁度いいと思っていたからだ。そこでやっている内に野心が出てきて、跡目争いに加わるも良しと利重は考えていた。


(ウチはもう、血縁で動けねぇからな………)


 安曇とて今の組織には愛着はある。継承し、守ってきたのだから当然だ。だが、ここしばらくで急激に大きくなりすぎた。小さな組織であるならば、一族経営も問題なかろうが大きくなってくると話は別だ。統境圏を3分している頃でギリギリであったのだ。今では統境圏全域の裏社会を仕切ることとなった―――いや、なってしまった。組織が大きくなってしまった以上、トップ層がボンクラでは困るのは当然、一部の隙も見せれなくなってしまったのだ。


 大竹は実力はあるのだが、スラム育ち故にか向上心が強く、トップになれば他圏へと進出するだろう。その先にあるのは破滅だと気づいていない。いや、どうにかすると自分を過信している。


 生馬はまだ若く、組を守るという気概はあるし、若い衆にはアレで人気がある。だが実力や実績が伴っていない為に、他の者に軽く見られるか良いように使われるだろう。


 どちらを選んでも一長一短。


 このまま行けば、末は内部崩壊か憂慮した政府に潰されるか。


 どちらにせよ頭の痛い問題だ、と利重は頭を振って意識を切り替えた。今重要なのは跡目ではなく、この危難を乗り越えることだ。


「さて、たらればの話はここまでだ。今はウチのシマを荒らす連中を、残らず潰せ」

「生死は?」

「問わん。テロリスト相手に情けも容赦も必要ない。見つけ次第、皆殺しにしろ。役人とは話がついてる」


 こうして、安曇会もこの動乱へと参戦することになった。




 ●




 薄暗い部屋で、シンシアは膝を抱えて座っていた。その視線の先には、安置された2つの毛玉―――アズレインとアズライトの遺体があった。


「アズレイン………」


 シンシアの呟きに、しかし犬は無言で返した。洗って綺麗にはしたのだが、白の毛並みには未だ若干の薄い血糊が着いており、その痛々しさは彼女の胸を締め付けていた。


 誰かの―――あるいは何かの死を見るのは始めてではない。


 そもそもが傭兵家業をしていた母にくっついて、戦場で育った少女だ。人の生死は多く見てきたし、もっと言えば自ら手を下したこともある。情報統制官は物理的な攻撃力を持たないが、電脳界経由の遠隔制御で兵器を動かすことは可能だからだ。故に彼女は死に多く触れてきたし、同年代の一般的な少年少女と比べれば死生観はむしろドライと言える程であった。


 だが、ここ数ヶ月程で彼女の心境に変化があった。


「ママ………」


 数ヶ月前、『不死王ノーライフキング』討伐戦にて母を失った。


 元々、成功率が低い作戦であった。『不死王』を『不死王』たらしめる驚異の再生能力を攻略する術を、実は一部を除いては誰も持ち得ていなかったからだ。だが、母が所属する部隊『エリーニュス』は『不死王』に復讐するためだけに作られた部隊だ。居場所が判明し、更には罠を仕掛けられる状況で、彼等が見逃すはずもなかった。


 だからこそ、飛崎を除く隊員全員が―――自らの手で復讐を遂げる事を望んで挑み、そして返り討ちにあった。


 ―――生き残る術は、あったのだ。


 『不死王』を殺せる能力は、飛崎が獲得していた。その事をエリーニュスの面々は知っていた。おそらくは『不死王』を殺し得るだろうと、未実験ではあったが、そう確信させるだけの力だった。彼を中心に作戦を組めば、他の隊員達は目的を成し遂げて、且つ生存も出来ていたはずだ。


 しかし、彼等はあくまでも自らの手で復讐を成すことに拘った。


 最終的に飛崎が『不死王』を殺し、確かに仇討は成された。だが、失ってしまったものは大きく、それはシンシアの心にも大きな影を落としていた。


「ここにいましたのね」


 不意に、部屋の扉が開いて声をかけられた。視線を向けると、リリィが部屋に入ってきた。彼女は横たわるアズライトへゆっくりと近寄ると、しゃがみ込んでその冷たくなった身体に触れた。


「―――ありがとう、アズライト」


 それでも優しく黒い毛並みを優しく撫ぜて、小さく礼を述べた。そんな彼女に、シンシアは言葉を投げかけた。


「お姉ちゃんは、どうするの?」

「エリカ様を取り戻します」

「どうやって?」

「業腹ですが、あなた達アローレインに依頼しました。―――まさか金銭ではなく、仕事を要求されるとは思いませんでしたが」


 振り向いてこちらを見るリリィの瞳には、決然たる意思があった。彼女もまた、シンシアのようにアズライトを可愛がっていたはずだ。それを喪ったのに、しかしシンシアのように足を止めてはいなかった。


「お姉ちゃんは、悲しくないの?アズライトが死んで」

「悲しいですし、辛くて泣いてしまいそうですわ。―――でも、今はその時じゃありませんの」

「………強いんだね」


 視線を落とし呟くシンシアに、リリィは首を横に振った。


「腹立たしいことに、貴方の主に発破を貰いましたから」

「レンに?」

「随分と辛辣なことを言われましたわ。―――あの山猿、レディの扱いがなってませんのどうにかなりません?」


 思い出したら苛ついたのか、リリィは口元を引くつかせた。


「レンは、優しさと甘さを明確に区別してるって前に言ってた。後、誰であれ美学を持ってれば差別しないって。―――持ってなかったり掲げたものがブレブレだとすっごい冷たいけど」

「何というか、独特ですわよね、あの男」


 今まで周囲にいた国許の男達とは一線を画すとリリィは思っていた。紳士的では無いが、同時に差別的でもない。誰が相手であっても、自然体で接する―――そんな不思議な山猿だと。顔を思い出したらまたムカついてきたので、リリィは頭を振って話を変えることにした。


「貴方もアローレインの一員なのでしょう?ここにいて良いのですか?」

「わたしは………お荷物だから」


 しかし返ってきたのは、重めの言葉だった。


「メイド長みたいに何でも出来るわけじゃない。アシュリーみたいにお姉さんにもなれない。ステファニーみたいに車も運転できない。ユミルみたいにNinjaじゃない。レンみたいに心が強い訳じゃない。―――わたしは、弱いから」


 シンシアはそこで一旦言葉を区切って、顔を伏せた。


「だから置いていかれるの。アズレインにも―――ママにも」


 その言葉の真意を、リリィは全て汲めた訳では無い。


 出てきた名前の大半を知らないし、それらが得意としている技能も知らない。だが、この少女が酷く打ちのめされていることぐらいは察することは出来た。


「誰だって最初から強い訳じゃありませんわ。転んで泣いて傷ついて、立ち上がった時にそれを誇れるようになれて―――初めて強くなれるのだと、私はそう思いますの」


 思わず口にして、内心苦笑する。まるで主であるエリカのような言葉だと。


「単純に能力の強弱で人の強さというのは測れるものではないと思いますわ。どんな能力も、活かす環境と運用次第で良くも悪くもなります。貴方にも、そういう力があるのではなくて?」


 戸惑うシンシアの頭を優しく撫でてから、リリィは部屋から出ていった。まるで、他人である自分が出来ることはそこまでだと言わんばかりであった。


 突き放したような、でも何だか不器用な優しさを感じて、シンシアは再びアズレインを見た。


「アズレイン、わたしは………」


 取り残された彼女の呟きに、やはり犬が答えることは無かった。




 ●




「あんたも食べなさい。どっちにしろ、体力勝負になりそうよ」


 後ろから声を掛けられて、式王子は思わず我に返った。


 あの後―――シュガールの襲撃の後、気を失った三上を引き摺るようにして自家用車の軽バンに載せ、式王子は実家へと車を走らせた。最初は圏警と救急車を呼ぼうとしたのだが、どうも通信状況が悪く繋がらなかったのだ。実家に駆け込んで、現在統境圏のインフラを統括するアナムネーシスがおかしくなっていることを緊急放送で知った。あれは万一のことを考えて独立している。今は民間人にシェルターへの避難誘導を放送していた。


 突然の孫と孫婿(候補)の来訪、しかもどちらもボロボロという出で立ちに、しかし祖母である琉花は慌てる素振りもなく二人の手当をした。流石に『消却事変』を生き抜いた年寄り世代は肝の座り方が違う。


 そして式王子も安堵から気を失うように意識を飛ばし、つい先程目を覚ましたところだ。横には三上が横たわっていて、静かに呼吸している。


 式王子が振り返ると、襖を開いた母―――華夜かやがいた。黒い髪をボブカットに整え、式王子家にしては珍しいキツネ目のどこか冷たさを感じさせる女だ。手にはおにぎりと卵焼きやウインナーなど夜食のような献立のお盆を持っていた。


 それを見て、式王子は思わず戦慄とともに口を開く。


「―――お母さんが作ったんですか?」

「何その顔。―――あたしが料理するとでも?」

「ですよねー………」


 そしてその返答に心底安堵した。


 この華夜という母。アトリエ・フォミュラの社長であり、稀代のデザイナーであり、そして本人も職人だ。少なくとも仕事という面においては式王子とて尊敬はしているのだが、反面、母親としての能力は非常に低かった。家事が出来ないだけならば可愛げがあるが、料理をしては暗黒物質を量産し、掃除をしては部屋を破壊する。服飾関係の仕事をしているだけあって洗濯は得意だが、それ以外は軒並み壊滅的だ。何しろ、式王子がああはなるまいと祖母に師事して家事を習ったぐらいである。


 無論、華夜も自覚しているので基本的に家事にはノータッチだ。


「お婆ちゃんは?」

「寄り合い。そろそろこっちも避難シェルターに行かないとまずいかもってさ。あんた達は緊急招集あるんでしょ?」

「多分。でも正直、行くかどうかは………」


 統境圏を取り巻く混乱は未だ加速している以上、間違いなく緊急事態宣言は発令され、そうなれば教練校生である自分たちも戦力として動員されるはずだ。こうした非常事態において、学生も、そして予備役の適合者も招集があるまで連絡のつく所にいるようにと法律で決められている。順当に行けば、明け方には呼び出しされて戦場に放り込まれるだろう。


 だが、式王子は迷っていた。


 三上が未だ目覚めないのもあるし、何より攫われた久遠の行方が分からない。こんな状況で、統境圏の為に戦えと言われても集中できないだろう。


「ま、好きにしなさいな。―――これ、置いてくわよ」

「これは………?」


 それを察したわけではないだろうが、華夜は2つの紙袋を式王子へと渡した。それを受け取りながら首を傾げる彼女に、母はにやりと笑った。


「勝負服」

「勝負………?」

「ハチマキみたいなもんよ。可愛い服を着ると気合が入るでしょ?」


 袋から取り出して広げてみると、紺の行灯袴に矢絣模様の着物、ご丁寧に襷までセットになっていた。


「コスプレ感が拭えませんけど」

「嫌い?」

「好きです。大正浪漫サイコー!」

「なら着てきなさい。―――一応、鐘渡の戦闘服の素材よりはいいの使ってるし、ホルダーもいくつか内蔵しているから、案外実用的よ」


 そしてもう一つの紙袋には靴が入っていた。いや、ローラーが靴底に付いたそれは、むしろローラーブーツとでも呼ぶべき外連味のあるシルエットだった。そして式王子は、それを知っていた。


「コレ、姉さんの?」

「の改修型。綾瀬からデザインのリファイン依頼が来てて、試作で作ったんだけどあたし運動神経良くないから。―――アンタにモニターしてもらうわ」


 式王子の姉である美樹が学生時代に使っていた代物で、現在国軍にて導入を検討している装備になる。その試作品を娘に託すと、華夜は腰を上げてひらひらと手を振って背を向けた。


「じゃ、あたしは会社行くから」

「こんな時にまで仕事ですか?」

「馬鹿言わないでよ。アンタと正治君がボロボロになって帰ってきたって聞いたから、アトリエ職場ほったらかしで来たのよ。せめて戸締まりぐらいはしておかないと」


 抱えた仕事全部止まってるのよ、とブツブツ文句を言う母に苦笑して、式王子は声を掛けた。


「―――お母さん」

「何よ」

「―――ありがと」


 娘のその言葉に華夜は振り返ること無く小さく吐息すると。


「死ぬんじゃないわよ。―――葬式するの、面倒なんだから」


 そう言って去っていった。それを素直じゃないんだから、と呆れたように笑ってから式王子は未だ眠る三上に視線を向けた。


「正治君………」


 呟く彼女の瞳には、決意の光が宿っていた。




 そろそろ、夜が明けようとしていた。

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