第五十一章 進みゆく者達と小さな一歩

 接続開始リンクスタート、という機械音声を最後にエリカは明確な自我を失った。


 より正確に表現するのならば、意識の輪郭を失った、か。エリカ・フォン・R・ウィルフィードという人格を形成する外殻が無理矢理外され、中身の魂がまるで砂のように散逸する感覚。


 それは意識は勿論、記憶や時間間隔も曖昧になり、もしも同じような他人がいたのならば混ざり合って誰が誰だか分からなくなってしまうと本能的な恐怖を覚えるほどだった。更には手足や産毛―――全身の末端が意思とは反して勝手に動いているような気味の悪い感覚もあった。


 まるで夢か現か幻か―――いや、仮に夢であっても悪夢の類だ。


 そんな中で、しかし僅かに残ったエリカの意識は流れ込んでくる情報群に心に引っかかる記号を見つけて手繰り寄せるようにして焦点を合わせた。


Icarus計画プロジェクト・イカロス………213号、個体名称タカシ………?)


 一部不可解な専門用語があったために、思考能力が著しく低下している今のエリカの脳では全ての情報を捌ききれなかったが、それでも要点だけは掻い摘むことは出来た。


(―――ヘリオス。タカシの心臓)


 極小規模の霊素粒子機関マイクロ・エーテルエンジンを搭載した、霊素可動式多目的疑似心臓マルチオペレーション・エーテルハート


 かつてアルベルト・A・ノインリヒカイトによって3つだけ試作されたその人工心臓は、紆余曲折の末にJUDAS所属のメティオン枢機卿の手に渡り、適性を見せた三人の素体へと埋め込まれた。


 Icarus:α、検体番号016、個体名称ナズナ。


 Icarus:γ、検体番号198、個体名称タイキ。


 そして、Icarus:β、検体番号213、個体名称タカシ。


 三人はその心臓が持つ機能、流入霊素補助と設計励起補助によって元々持っていた金属流体制御メタルビルドを大幅に強化され、通常の適合者とは異なる新たな兵種、その雛形としての実験体だった。


 融人機ドミニオン


 人と鉄を融けた、と言うと不可逆性があるが、実際には鋼鉄の鎧を身に纏う能力だ。ただし、流入霊素補助により、通常の適合者よりも大規模な霊素を扱え、そこから出力される霊素により予め心臓に登録されている兵器を、使用者の意識が続く限り生み出せる。


 更に余剰霊素を用いて飛空戦艦がやっているような噴射推力を得ることも可能なため、必然的に融人機の主戦場は空へとなった。


 三人は数年に渡り、戦闘機、ヘリ、ドローン、そして時には自分達と戦い、その戦闘技能を高めて有用性を示していった。


 とりわけIcarus:βに関しては空戦技術に関して異常とも言える適応性を見せており、特に一対多数による乱戦時にその能力を最大限発揮した。数年に渡る戦闘実験で彼が残した最終戦績は戦闘機245機、ヘリ645機、ドローン2478機。他の二機に比べて三倍以上のスコアを付けた。


 その尋常ではない戦績スコアから付いた異名は―――。


(―――撃墜王)


 エリカの脳裏に、あの何処か月のように穏やかな表情を浮かべる少年の顔が泡のように浮かぶ。


(タカシ………)


 その名を思い出すだけで、彼女は未だ散逸する意識に抗っていた。




 ●




 横浜の繁華街に悲鳴と怒号、そして爆発音と破壊音が響き渡る。


 統境圏からしてみれば内地であるここは、その立地上比較的安全な領域である。陸の圏境線からは遠く、そして海の圏境線からも20kmは離れている。故にこそ、人々が安全を求めて集い発展していったのだ。


 だが、その安全も圏境線の解除という非常事態によって脅かされた。


 そして。


「全ては信仰の為に―――!」


 灰の法衣に身を包み、血走った狂気の瞳を迸らせながら、一人の男が群衆の中で爆発した。


 比喩でも揶揄でもない。文字通り、炎と硝煙、そして自らの血肉をバラ撒きながら爆死した。殺傷力を伴った血風が、避難のために繁華街を抜けようとしていた民間人に襲いかかり、危難と混乱を呼び込む。


 その混乱を皮切りに、一体どこから湧くのか灰色の法衣を着た集団が逃げ惑う避難民達の中に出現した。皆が一様に腹に巻いた爆発物を起爆させ、避難民を巻き込みながら自爆していく。


 その様子を哄笑しながら、同じように灰の法衣を身に纏った年老いた男が、両手を広げて叫ぶ。


「さぁ、皆で神の元へ向かおうではないか!!我々JUDASが新世界への渡し守カーロンとなろう!!」


 口角から泡を飛ばすその様子はどう見ても正気ではない。


 そして、JUDASという名前が避難民達の耳へと入り、絶句する。つまり、この捨て身の攻撃は自爆テロ。命を惜しまず、しかし目的を遂行するためだけに道連れに来る狂信者達。


 ここに来て混乱は最高潮を迎え―――だが、それを阻もうとする動きがあった。


「死にたきゃ一人で死んでろ!!」

「がっ、ぐげ………!?」


 名乗った老人を背後から蹴手繰り倒し、その喉を先の尖った靴で踏みつけてへし折った男が一人。


 白のジャケットとスラックスに、赤のシャツという如何にも目立つその男―――灰村高虎は、次々と避難民へ自爆特攻をかますJUDASの信者達を睥睨した。


「―――ちっ。どうにもならんな、オイ」


 色々と思うことはある。


 だが、その吐露の前に状況を落ち着かせる必要があると判断した灰村は、腰のベルト、その後側に通して保持してあるホルスターから自らの得物を2つ取り出した。


 銃でもなく、ナイフでもない。それは、30cm程度の長さの棒切だった。


 もしも霊装事情に詳しい人間がここにいたのならば、首を傾げたことだろう。その棒切は汎用武器として歩兵のマストアイテムとされる霊光剣エーテルソード―――の、トリガーシステムだけ外した柄だったからだ。


 霊素粒子を閉じ込めた特装弾を管の中で炸裂させ、そのエネルギーを利用して一定時間霊素粒子で形成される光の剣を生み出す霊光剣は、最前線で戦う適合者や異能すら持たない非適合者でも消却者に対して有効な近接ダメージを与えられる霊装である。


 その汎用性故に、市販もされているのだが―――灰村の持つこれはそれとは違うものだ。


 元々適合者、そして軍人であった灰村は自らの能力というのを十全に把握している。恵体ということもあって近接格闘は常に上位勢ではあったが、射撃能力は低く、武器を使った能力もそれほど高くない。そして彼はクラスAの適合者ではあるが持つ異能は、熱制御フィーバー・コントロールと呼ばれる汎用型だった。


 異能とのかみ合わせもイマイチで、何も対策しなければ殴るぐらいしか脳のない適合者。


 それが当時の自他の評価。


 だが、灰村高虎という男は、下町は治安の悪いところの出だ。何もないのは当たり前、無いのならば作るなり手に入れるなり最善を尽くせば良い。


 故にこそ、足掻いた先で彼はその戦闘様式に行き着いた。


「―――氷鞭、炎鞭」


 祝詞を一つ口にすれば、だらんと下げた両手に持つ二本の柄から、氷と炎が吹き出た。


 彼が持つ異能、熱制御は大気中の熱を増減させるというもの。目覚めた当初はエアコン代わりにしか用を成さなかったそれは、しかし友人の助言によって形を変えた。


 熱量の操作が可能ならば、それによって拡張展開される事象もまた操作可能なのだと。


 つまり、熱量を増やせば蓄熱して自然発火し、逆に熱量を減らせば気温は下がり、一定域まで下げれば周囲を凍てつかせる。


 最初は己の拳に纏わせていたそれも、壊れた霊光剣―――正確にはそこから取り出した内蔵増幅器を、戦闘中に苦し紛れに使ったことで、射程距離も手に入れることになった。


 即ち。


「らっ………!」


 氷と炎の鞭打が繁華街を所狭しと駆け回る。


 まるで意思を持ったかのように氷と炎はその異能の限りに伸張し、ついには300mに到達する。まるで巨大な蛇がのたうち回るように繁華街を疾走り、しかし民間人には掠りもせず灰色の法衣だけをピンポイントで打ち据える。


 いや、それを最早打ち据えると言って良いのだろうか。炎の鞭に打ち据えられた狂信者は宙に放り投げられ、腹に巻いた爆薬に着火して汚い花火となり、氷の鞭に打ち据えられた狂信者は鋭利な氷で切り裂かれ、それだけに留まらず、細かな氷の粒子によってまるで切れ味の悪いグラインダーに掛けられたかのようにボロボロになる。


 細かなテクニックこそ習得に時間を費やしたが、鞭という武器はただ振るうだけでも威力を発揮する。


 質量×速度の2乗という計算の果てに音速超過さえするのだ。しかし、実際に戦場では使われることはなかった。


 当然といえば当然だ。


 鞭を振るうとなると当然、人間が振るえるだけの軽量化が必須。更に軟性も求めるとなると自然、柔らかい素材を使うこととなる。だがそうすると、硬質な防具でいとも簡単に弾かれてしまうのだ。故にこそ、人類の歴史上で鞭が戦場の主役になることはなかった。


 しかし、である。


 その軟質部分を異能で補えばどうだろうか。


 望むがままの柔軟性と、願うがままの伸縮性が、音速超過で襲いかかればどうなるだろうか。


 その答えが、ここにあった。


「オラオラオラオラオラオラオラオラ!」


 まるで踊るようにして縦横無尽に両腕を振り回す灰村に追従するように、氷と炎の鞭は繁華街という空間を支配し、主の望む敵だけをいっそ理不尽なまでに襲撃フィーバーする。


 ある者は誘爆して爆散し、ある者は切り裂かれ方が中途半端で開きとなり、またある者は体の中心線から左を重度の凍傷、右を重度の火傷によって行動不能になり、そのまましばらく後に息絶えた。


 暴れに暴れた―――と言うには余りにも精緻に一蹴した灰村が手を止めるのに2分と掛からなかった。取り敢えず自爆寸前の信者がいなくなったことを確認して、灰村が小さく鼻を鳴らしていると後ろから声がかかった。


「ちょっとヤバそうだねぇ、トラちゃん」


 青のイブニングドレスを身に纏った妙齢の女性―――春日由香里だ。ちょっと前まで繁華街で仕事中ということもあってか、場に似合わぬ色気を振りまいていた。その彼女の後ろには、同じようにドレスだったり妙に透けた薄着だったりする女性達や黒のベストやスーツを着た男達がいる。


 皆、夜の繁華街で働く者達で、統境圏の異常を前に灰村の誘導で着いてきたのだ。


「こうなったら仕方がねぇ。他の連中も纏めて誘導して一緒にシェルターに急げ、由香里」

「トラちゃんはどうするの?」

「まだ周辺にいるJUDASシバいて安曇の親父さんの所に顔出してくる」

「そっか。―――頑張ってね」


 春日は軽く頷くと、灰村に口づけを一つして皆を纏めるべく声を張り上げて誘導を始めた。それを見ていた他の女性達も春日に倣うようにして誘導を始め、戸惑いの表情を浮かべていた黒服やボーイ達も慌てて参加を始める。


「ったく、どいつもこいつも人の庭で随分とはしゃいでくれやがって………」


 それを見送った灰村は、ギリッと奥歯を噛み鳴らして獰猛な表情を浮かべる。

 

「―――噛み砕いてやる」


 眠ってこそいなかったものの、比較的穏やかに縄張りを収めようとしていた虎が、ついに業を煮やして牙を剥く。軍属時代、多頭竜ハイドラとも灰虎はいどらの牙とも渾名された両鞭を手に。




 ●




 遠くで聞こえる爆発音や悲鳴を聞きながら、467号線の歩道を南へ走る小柄な少女がいた。


 椎名みさきだ。


 緩くウェーブした長髪をうなじで括って、身につけている服も鐘渡教練校支給の戦闘服だ。動きやすさ重視の服装で、短く呼気を刻みながらひた走る彼女の表情は、険しいものだった。


 始まりは深夜、マナーモードにしていたはずのPITがけたたましく鳴り、既に就寝していた椎名は叩き起こされた。すわ何事だ、と現行犯PITを見てみれば、鐘渡教練校からの緊急連絡で現在統境圏が晒されている驚異とその危機に対する推移が書かれていた。情報を読み解けば、これは確かに寝ている場合ではないと椎名の眠気は吹き飛んで、実家住みの彼女は家族を叩き起こして回った。


 貴重品と当面の非常食や着替えなどをバッグに詰め込めるだけ詰め込むと、椎名は家族を近隣のシェルターに押し込み、その頃には既に非常招集が掛かったので一路教練校を目指した。


 その際に幾つかのトラブルがあったが、それも切り抜けて今は走って教練校へと向かっている。


(―――こりゃぁ酷いわー………)


 明け方とは言え467号は幹線道路だというのに、車の通りがない。何なら車は路駐されており、事故でもあったのかもしくは壊されたのか、残骸になっているものもある。これで老朽化でもしていればゴーストタウンと見間違う程だ。


 みんな無事だろうか、と班員や知り合いの心配をしつつ体力を無駄に消耗しないように一定の速度で走っていると、背後から軽バンが近づいてきて、椎名の速度に合わせた。先程、面倒なトラブルに巻き込まれた彼女は一瞬警戒するが、すぐに運転席に見知った顔を見つけた。


「椎名」

「あ、今井君」


 そのシートベルトに腹肉が食い込む運転手デブ―――今井兼次は、いつものように丸くふてぶてしい表情をしていた。


「招集通知が来たんだろう?―――足は?」

「あはは………。さっきJUDASの信者とかち合っちゃって。どうにか切り抜けたんだけど、自転車が、ね」


 先程、家族をシェルターに押し込んで教練校に足を向けた際、椎名はJUDASの襲撃を受けた。霊装こそ手にしていなかったが、椎名もクラスAの適合者だ。ただの雑兵には遅れは取らなかった。だが、奇襲に近い会敵―――そして彼女も初陣であったために少々手こずり、結局殺さずに逃げることを選んだ。その結果、愛車が犠牲となって歩行かちとなってしまったのだ。


「そうか。なら乗ってけ」

「ありがと」


 同じ班員の提案に、渡りに船とばかりに椎名は軽バンの助手席に乗り込んで礼を言った。


「全く。深夜に叩き起こされたかと思えば、一体何がどうなっているのやら。信号も何もかもおかしいぞ」


 アクセルを踏み込みながら、今井は舌打ちしながら車を走らせる。すっ飛ばしていきたいところではあるが、家を出てからずっと各地の信号がおかしい。消えているだけならまだ良い方で、両方青、あるいは赤であったりイルミネーションのごとく不規則に点灯したり同時点灯だったりと本来の役割とは真逆のシグナルを刻むため、交差点では徐行せざるを得ないのだ。所々その影響で事故車両が放置されていたりと地味に面倒くさい。


 彼等は知らぬことではあるが、これはブラフマンによってアナムネーシスが乗っ取られているため、交通管理システムに異常を来しているためだ。そのため各地で事故が起こって避難民も混乱し、目端が利く者は徒歩で逃げているが、その先にJUDASのテロ行為が待っているので被害者数はかなりの数になっている。


「本当だよー。取り敢えず家族はシェルターに押し込んできたけどさー」

「それでこの時間か」

「今井君は?」

「冷蔵庫をひっくり返して弁当を作ってた。―――腹が減っては戦はできん」

「あー。今井君の場合はそうだよね………」


 軽バンの後ろ、やたらと積み上げられたクーラボックスやランチボックスを指差す今井に椎名は納得した。


「あ、そだ。乗せてくれたお礼と言っては何だけれど、飴食べる?」

「頂こう。―――りんご味か。うまい」


 ポケットに弟妹用に用意していた飴を取り出すと、今井はそれを受け取り、器用に片手の指で包装を圧迫しポン、と口に放り込んだ。その妙に手慣れたやり方と、食べ物を食べる際に浮かべる彼の自然な笑みに椎名も思わず笑った。


「ふふ」

「どうした?」

「相変わらず幸せそうに食べるよね」

「何を馬鹿なことを。人生の食事回数は決まっているのに―――何故飯を不味そうに食わねばならんのだ」

「何というか、食べることに真面目?」

「人間、生きている以上は飯を食っていかねばならないが、逆を言えばそこだけしっかりしていれば案外生きていける。あれもこれもと要らない欲をかくから、迷ったり悩んだり挫けたり辛い思いをしたりするのだ」


 世の中の大部分が強欲だよ、と食いしん坊万歳が語る。


「ならば切り捨ててしまえば良い。いっそ見捨ててしまえば良い。自分が食べること以外の全てを」

「みんながみんな、今井君みたいにシンプルにはなれないよ」

「それは違うな。なろうと思えばなれる。やろうと思えばやれる。ただ、誰しもがシンプルな幸せでは満足になれないだけさ」


 それは別に悪いことではない、と今井は続けた。


「だからこそ、それでもとその余分という名の脂肪を手に取りたいのならば、食べることと同じぐらいにまで真剣にせねばならない。それを理解していない人間が余りにも多すぎる。私に言わせれば、圏議会の連中は真剣に考えていないし、生きることに必死になっていない」

「今井君が言うと何だか無駄に説得力あるのなんでだろう………」


 椎名は中学の頃からこの肥満との付き合いがあるが、その頃から妙に弁が立つ人間だった。その理路整然としたストイックさで荒くれ者相手にも一歩も引かず、例え殴り合いになっても体重を武器にした肉弾戦は妙に得意な動けるデブのため案外勝率が良い。そう言った能力のためか、見た目は馬鹿にされがちなデブだというのに意外と学校カースト上位であったのを椎名は知っている。


「そういえば前から気になってたけど、何でそんなにご飯に執心するの?」

「昔、食えなくてガリガリだったからだ」

「うん………?」


 ガリガリ。この食欲魔神が。


 今の有り様とは全く結びつかない過去に、椎名が首を傾げていると今井は何でも無いように続けた。


「ウチには親族がいなくてな。まぁ、親戚の反対を押し切って両親が結婚したからだが。だが、直ぐに父が圏境の防衛戦で死んでな。母親も5年程前に他界した。―――過労死だった」

「えっと」


 結構重めのヤツが来た。


 これはちょっと謝罪したほうが良いのかな、と椎名が迷ったが、今井は気負った様子もなく続ける。


「親族の中で私を引き取ろうという動きもあったが、信用できない他人に身を預けるのも嫌だったから、金で雇った保証人を立てて自由を手に入れた。―――が、そこで色々先が見えた」


 両親が残した遺産は大したものではなかった。普通の社会人が数年も無収入ならば無くなる程度。そのなけなしの遺産も外部の身元保証人を立てたためにランニングコストを除けばほぼ底を突き、今井は早晩行き詰まる。


「本当の貧乏になると最初に削るのはまず生活費、特に食費だ」


 中学になれば大手を振ってバイトが出来る。それまではどうにか手元の遺産で生きねばならない。


 収入がなければ、まずは支出の調整だ。


 水道光熱費は極限にまで抑えるとしても、最低の基本料は必要で家賃は一定。とならば、フレキシブルに変動できるのは食費だ。だからそれを削り、しかしまだ小学生だった今井はその塩梅が分からず削りすぎて徐々にやせ細っていった。


 だが、彼は理不尽に対し途方に暮れる子供らしい子供ではなく、逆撃に打って出る行動力のある子供であった。


「だから色々した。家庭菜園から始めて、近所の畑を持っている年寄りや畜産農家を手伝い、その報酬に食材を貰った。―――自分で働いて手に入れた食材で作った飯は、本当に不味かった」

「え?そこは美味しかったんじゃないの?」

「考えてもみろ。親に作ってもらってばかりの子供が独学で料理に手を出した所で、まともなものは出来やしない」


 だが、現実は非情である。


 ネットでレシピはあるとは言え、それを理解するには一定の教養がいる。数字や単位は分かっても、専門用語然とした器具や技法など子供が分かるはずがない。最初の頃は粗熱やアク取りなど読み方は当然、意味も分からなかったのですっ飛ばしたのだ。最終的に数字や時間があってれば大丈夫だろうと。よもや、それが食材を美味しくするための一手間だとは、小学生の彼には思いもよらなかったのである。


「だから考えた。必死になった。美味い飯を食うには、食っていくにはどうすれば良いのかと。自分の当たり前を失って初めて、真剣に生きることを考えたんだ」


 そこに至って母の有難みを知った今井は、研究に研究を重ねた。いつしかそれは趣味となり、ライフワークとなり、生き甲斐となり、人生の美学となった。


 故にこそ今井兼次と言う男は、その応用が効く事象に限り決して自らの有り様を見失わない。


 何となく、彼の強さの一端を知った椎名は、お詫びがてら一つ提案をした。


「―――今度、ウチにおいでよ。家族多いからさ、いっつも料理作りすぎちゃうんだよね」

「ふむ。ならばご相伴に与ろう。安心しろ。私も鬼じゃない―――炊飯器は持参していく」


 その炊飯器はきっと業務用なんだろうな、と察した椎名は苦笑した。




 ●




 薄暗い部屋の中で、シンシアは未だ膝を抱えたまま蹲っていた。


 何も出来なかったと嘆いた少女は、しかし胸の内でリリィの言葉を反芻していた。


(わたしに、出来ること………)


 決まっている。今も昔も、シンシア・フォーサイスという少女に出来ることはたった1つだけだ。


電脳界ネットからの干渉。でも、それは………)


 だがそれが、一体何の役に立つのだというのか。


 電脳界からの干渉は、確かに戦況を有利にすることは出来る。だがリアルでの直接攻撃に乏しいし、そもそもが相手のフィールドが電脳界だからこそ機能する。対消却者相手にはほぼ無力であるし、電子装備を捨てた人相手にも同様。


 情報統制官が、同じ適合者でありながらも前線で直接戦闘する適合者と比べると1段下に見られる理由がそれだ。


 しかし、である。


 シンシアの胸中で渦巻く感情は、衝動は、そんなありきたりな理由など求めてなどいなかった。


(―――ううん、違う。もう嫌なんだ。ただの傍観者でいるのは)


 いつも誰かの後ろにくっついて、その誰かにいつも置いていかれる。


 そうなってしまう原因は分かっている。彼女自身が傍観者に徹していたからだ。自分が子供で、お荷物であることを理解しているからこそ、我儘を言って困らせてはいけない。大人達の足を引っ張ってはいけない。お行儀よく、大人しい手の掛からない子供でなければいけない。


 そんな風に周りの空気を察して自分を縛って、シンシアはいつも大事なものを取り零してきた。


 母も、家族同然だった部隊も、そして家族になれたはずのアズレインも。


 自戒や自重が、今のこの結果を招いた。一体何のためにそこまで我慢してきたのだろう。大事なものを壊さないためにしてきた行動が、大事なものを失う結果を齎すというのなら、シンシアは変わらなければならない。


 理路整然と論理的に外野で冷笑する傍観者から、衝動のままに美学を掲げ、押し付けられた悲劇さえ打ち砕く当事者へ。


 シンシアはその小さな手を物言わぬ毛玉達に手を伸ばす。


 冷たい身体に指が触れ、しかし火傷でもするかのように指先が熱くなる。それは錯覚だ。最早亡骸となった二匹には一度も熱量はなく、恒温生物である人間は火傷するほどに自身の熱量を上げない。


 だが、その確かな温もりはシンシアの身体へと流れ込んで鼓動を強くした。


 まるで魂に焼べられた燃料のように加速度的に熱量を増やしていく。


 そう―――この疼く胸の痛みを、流した涙を、いつか誇れる強さに変えるために。


「―――仇を取るよ、アズレイン、アズライト」


 シンシアは両手で涙の跡を拭って、短く整息。そして意を決してIHS経由で飛崎を呼び出す。ややあって、通信が繋がった。


『もしもし?』

「シンシアです。―――レン。今、何処にいるの?」

『緊急招集が掛かってなー。ティアと鐘渡教練校へ向かっている途中だ。そっちこそどうした?』


 わずかに聞こえる車の走行音と、カーステレオから聞こえるのはクラシック。主の趣味なのでシンシアもそれなりに音楽への造詣はある。魔笛が第二幕、夜の女王のアリア。今の彼女の心象に合致しているのを少しおかしく思った。


 彼女は意を決して、飛崎に頼み込んだ。


「レン。お願いがあるの」

『何ぞ?』

「無貌用に仕込んでおいた仕掛けの一部、使わせてほしいの」


 一瞬の沈黙。浅い吐息と共に返ってきたのは疑問。


『―――理由は?』

「アズレイン達の仇討ち」

『ほぅ………。何を考えているか、言ってみ?』


 その問い掛けに、シンシアは何と答えるか数秒迷う。幾つか脳裏に浮かんだプランを告げるか、それとも箱庭のメリットになるような要項を提示するか。


 いや、違うとシンシアは頭を振る。


 飛崎連時と言う男は、理路整然とした言葉よりも感情的な言葉を好む。それはその人間の本能に、そして本質に近いものであり、彼が相手に求める美学の源泉だからだ。


 故にこそ、シンシアは網膜投影越しの飛崎を見つめて告げた。


「壊してやる。邪魔してやる。潰してやる。アズレインとアズライトを殺した彼奴等を許さない。彼奴等が何を考えて何をしようとしているのか知らないけれど、その尽くを踏み潰してやる」


 胸の内から溢れるどす黒い感情は、きっとそれだけではない。


 母を喪い、その仇こそ討たれたが、そこに自分はいなかったこと。


 自分の無力さが何より許せなかった。


 だから少女は懇願する。


「だからお願いします。一部でいいから使わせてください」


 それに対し、飛崎はそうかと一つ呟いた後で暫し瞑目し、やがて口を開く。


 それは。


『―――駄目だな』


 拒絶の言葉だった。


「レン………!」


 シンシアは泣きそうな表情で飛崎を見やるが、彼は静かに頭を左右に振って拒否する。


『駄目だ駄目だ―――


 足りぬと、やり口が生易しいと彼女の願いを却下する。


『仇討ちだろう?復讐だろう?奴らの全てを踏み潰すと決めたんだろう?』


 淡々と言葉を重ねる彼の声に、夜の女王のアリアが重なる。


『なぁ、シンシアよ。アズライトはともかく、アズレインは儂等の、箱庭の庇護下にあった。儂もそれを承認した。儂が、箱庭の主が皆と守ると決めたんだ。それを無視して殺してくれたんだ。いいか?儂等の家族を殺されたんだ。―――そんなんじゃ全然温いだろう!?なぁっ!?』


 歌唱圧に張り合うようにして、飛崎の語気は強まった。


『使えよ全部!仕込んだもの全て!これから仕込むものでも良い!箱庭の存在が表舞台に出たって構いやしねぇ!お前さんの持てる全てで、あの外道共に鉄槌を下せ!箱庭に、「小さな羊飼いリトル・シェパード」に、シンシア・フォーサイスに喧嘩を売ったことを後悔させてやれ!!』

「い、いいの?それだと、無貌相手に………」


 躊躇うシンシアに、飛崎は優しく告げる。


『なぁシンシア。シンシア・フォーサイス。儂の部下よ。儂等箱庭の身内よ。それでも気後れするなら言ってやる。命令してやる。その責任も罪も儂が一緒に背負ってやる。だから耳かっぽじってよく聞けよ?』


 それは命令だ。


 迷いながらも歩くために立った少女の背中を押すための。


『―――美学を掲げて復讐を始めよ!奴らの企み、その尽くを徒花と散らせ!あの外道共に、一体誰に喧嘩を売ったのか思い知らせてみせろ!!』

「レン………」

『返事は!?』

「―――はい!」


 闊達に、しっかりと頷いたシンシアに飛崎は満足気に頷いた。


『よろしい。こちらの予定や段取りなど一切気にするな。これは見せしめだ。JUDASに限らず、この国や儂等の動向を注視する連中や、その他諸々に対する―――そう、遍く全てに対する見せしめだ。箱庭に、儂等に手を出せば一体どうなるか、奴らの血と命を以て世界に知らしめろ。遠慮なく、至る所、あらゆる場所に迷惑をかけて良い。崩してやれ、壊してやれ、殺してやれ。儂はその全てを許可しよう。お前の行動全てを肯定しよう。そこに咎が生まれるのならば、儂も一緒に背負おう。いいかシンシア。今から言う言葉をよく聞き、躊躇うこと無く実行しろ』


 そして彼は、にやりとまるで悪童のように笑みを浮かべて。


「―――派手にやれ』

「―――うん」

『がんばれよ』


 その一言を最後に、通信が切られた。

 シンシアはまるで余韻を味わうように瞑目する。その脳裏には、幾つものプランが浮かんでいた。全ての制限は解かれた。あらゆる手を使い、JUDASの企みを叩き潰す許可が降りた。

 あれが良いだろうか。―――いいや、それでは地味だろう。

 これが良いだろうか。―――いいや、外連味が足りないか。

 ならばどうしようか。―――満足行くまで暴れてみようか。

 シンシアはうん、と一つ頷いて主の言葉に従う。


「―――派手に行こう!」


 そして、『小さな羊飼いリトル・シェパード』が表舞台へと上がる。




 ●




「―――さぁて、俄に騒がしくなってきたな」


 流れ行く車外の景色を眺めながら飛崎は嬉しそうに呟いた。


「無貌は出てこないでしょうね」

「だろうな。この流れは奴が関わったにしちゃぁ、どうにもない。―――だが、手掛かりぐらいは掴めればいいだろ」


 運転席でハンドルを手繰るリースティアの言葉に、飛崎は頷いた。


 飛崎自身は無貌との面識はない。だが、彼、あるいは彼女が仕掛けた過去の事件に関しては徹底的に調べ上げている。アレはどちらかと言えば劇場型の存在だ。目的は一つであるが、所々に享楽的な動きが垣間見える。事件の中心に必ずいて、どこの視点でも必ず見え隠れする。まるで事件の登場人物でいることこそが、最高の観客席だと言わんばかりに。


 翻って今回は、そう言った渦が出来るような流れではない。あちらこちらにとっ散らかっていて、まるで津波のように全域に怒涛として襲いかかっている。いくらアレが人間離れしていたとしても、その全てをすることは出来ないだろう。


「にしても、シンシアがねぇ………」

「成長したと思えばいいでしょうか」

「そうだな。―――ま、何にしても、悪いことじゃねぇよ」


 ここ数ヶ月、飛崎はシンシアのことをずっと気にかけてはいたが、直接的なことは何もしてやれなかった。彼女もそれを望まなかったし、彼女の母を看取った人間として気後れした部分もある。だからここしばらく、アズレインと触れ合うようになってよく笑うようになったシンシアに安心していたのだ。


 だが、それもまた奪われた。


 流石に今度こそ心を壊さないだろうかと案じたが、こちらがバタバタしている内に、どうもリリィが発破をかけたらしい。シンシアが提案してきた時には飛崎も驚いていたのだ。


 だからこそ、その信にマスターとして答えようと飛崎は口を開いた。


「ティア。今、ウチの速攻で動かせる戦力はどれぐらいだ?」

「頑張れば4割かと」

「箱庭の防衛部隊とキューバに出張ってた連中は省け。流石にアレだけの戦闘した後にやらせられねぇよ」

「なら1割が良いところですね」

「それでいい」

「良いんですか?ノア旗艦単艦ですけれど」

「構わん、出せ。―――やるからには、徹底的にだ」

「畏まりました」


 この動乱にアローレイン―――否、箱庭の参戦が決定した瞬間であった。

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