第三十八章 そして無粋な奴らが動き出す

 好機と危機が同時にやってきた、と辻広尚弥つじひろなおやは歯噛みした。


 統境圏の裏社会が俄に騒がしくなってきている。今月の頭に、伊藤組が壊滅したのだ。界隈にとっては降って湧いたような幸運だった。コレについては辻広もほくそ笑んだものだ。


 統境圏の裏社会はある時期を境に大きく3つに分かれている。それが時のお上の、治安を名目にした仕儀だとは知ってはいたが、見方を変えれば勢力の停滞であった。群雄割拠していた弱小勢力を飲み込み、肥大化した3つの組織。それらが雌雄を決する前に国から待ったが掛かったのだ。


 当然、当時まだ若造だった辻広も含めて反発した。だが、彼等のような崩れではない正規の軍事武力をチラつかされれば黙らざるを得なかった。以降、離合集散を繰り返し、看板も変わったりはしたが、3つの勢力が均衡を作り出していた。


 その内の一角、伊藤組が崩れた。


 圏警はこちらを疑ってはいるが、この件に関して辻広達は無実だ。おそらくはもう1つの勢力―――安曇会もそうだろう。昔気質の彼等がああした闇討ちの類は好まないのは知っている。


 誰がやったかは知らないが、もしも名乗り出たならそれなりの礼を持って遇したいぐらいには皆が喜んだ。


 3つの組織で成り立つ裏社会は、既に成長の余地がないのだ。弱小勢力はそれぞれが残らず傘下に取り込み、シノギはお上に睨まれない程度―――それこそ、小競り合い程度で収まる範囲で慎ましくしなければならない。


 旧世紀と違って、圏外に容易に出られないのだ。全国区で勢力を広げるには、せめて圏内の統一をしてからになる。だが、前述したように政府に睨まれている状況下での共食いは、むしろ自殺行為だろう。


 そんな中で、労せず伊藤組が壊滅した。


 間を置けば政府が変わりの組織を支援して結成させ、伊藤組の後釜に添えるだろう。だが、あちらも予期しない事件だったのだ。組織を一から作るには時間がかかる。その隙に伊藤組の残党を吸収し、お上の手が出る前に安曇との決着をつける。脅されるよりも先に統一してしまえばこちらのものだ。混乱を望まない政府が、一枚岩になった裏社会にそうそう手は出せなくなる。


 だからこそ、辻広を筆頭に組員は寝る間も惜しんでこの好機を活かすべく奔走した。初動が早かったためか目算ではあるが、勢力は安曇を上回っている。向こうも残党を自陣に引き込んではいるが、こちらの方が今の所優位だ。


 このまま行けば、安曇会を降して圏内の勢力争いを制せる。そして、裏社会をまとめることが出来たのならば、政府への交渉も可能だ。その交渉次第では圏外への足掛かりを掴むことも出来るだろう。


 燻ったていた野心に火が着いたところで、辻広会の会長である辻広孝蔵つじひろこうぞうがある指示を出した。


 現在、ウィルフィード公国から留学してきているエリカ・フォン・R・ウィルフィードの誘拐だ。


(どうしちまったんだ親父は!)


 その指示を聞いた時、冗談ではないと思わず叫んでしまった。


 そんなことをしている状況ではないのだ。今、自分達にとってこの一瞬一瞬が金よりも重い貴重な時間だ。ここをどう使うかによって今後の展望はまるで違う。そんな中で、異国の姫を誘拐しろという。


 いや、こんな状況下でなくとも躊躇うだろう。


 そこらの女子供とは立場が違う。何処かの企業の令嬢だとか、政治家の子女ならば分からなくはない。かなり慎重にやらねばならないが、リターンが見合っているのならばやる価値はある。


 だが、ウィルフィードの姫は外国の王族だ。


 どう足掻いたところで国際問題は免れないし、国も威信に関わってくる以上、初手から本腰で掛かってくるだろう。そもそも、現状ですら警備は厳しいものになっているはずだ。


 それを攫ってこいなどと、およそ正気の沙汰ではない。


 極論、やれと言われればやれる。組の総力を上げて行動情報を調べ上げ、綿密な作戦を練って、命をチップにただ一瞬だけ身柄を抑えるだけならば不可能ではない。


 だが、そこまでして得るものは何だ。政府や国際社会全てを敵に回して得られる利益は何だ。それはここまで大きくした組織を賭けてまでするべきことなのか。


 自問すればするほどに理解が出来ない。会長である孝蔵は実の父親であるが故に、その性格から思考から良く理解している。少なくとも、こんな後先を考えない指示を出すほど肝が太くはない。


(とにかく話をしねぇと………!)


 ズカズカと邸宅内を肩を怒らせ進み、一番奥にある扉をノックもせずに開けた。


「親父!」

「―――お前か。何の用だ?」


 書斎で新聞を広げてのうのうとしている父の姿に辻広は瞬間的に沸騰した。


「どうもこうもねぇ!どうなってんだ!?何でわざわざ地雷に手を出す!?異国の姫の柄を攫った所で利益よりも面倒のほうがデカイだろうが!!」

「もう決めたことだ」


 しかし父はこちらに視線1つ寄越さず、淡々と決定事項だと言い放った。


「JUDASか?アイツ等があんたを脅したのか!?」


 問を重ねつつ事ここに至って、辻広の中で疑念が渦巻き始めた。


 父の行動のらしくなさは、指示が降った時点で覚えていた。だが、実際に顔を合わせて確信に至る。何かがおかしいと。ここまで落ち着いた父を見たことがないのだ。


 言い方はおかしいが、この父はチンピラ上がり―――強きに諂い弱きを挫き、他人の顔色を常に伺ってきた小物だ。運とタイミング、そしてチンピラ特有の妙な顔の広さによって成り上がりはしたが、人間の本質はそうそう変わりはしない。


「確かにJUDASの要請だ。薬をタダで譲ってくれる代わりに、ウィルフィードの姫を拐えだと」

「正気かオイ。ヤクザ止めてテロリストに鞍替えする気か?」

「もう決めたことだ」


 あくまでも決定事項だと告げる父に、いよいよ辻広の疑念は頂点を迎える。


 少なくとも、宗教活動とテロ活動が融合しているようなJUDAS相手に全財産を突っ張れるような肝の太さは持っていない。国家とJUDASを天秤に掛ければ、この国に根付いている以上そちらを取る。あるいは国からの依頼か何かで、内偵工作でもしているのなら別だが、小物の父が動揺もせずにポーカーフェイスで決定時事項を告げられるはずがない。


 だとすれば、いや、だとしなくても。


「―――?」


 辻広は懐から自動拳銃を取り出すと、その銃口を父へと向けた。


「何?」

「お前、親父じゃねぇだろう」


 言葉を重ねつつ、数々の疑念は確信へと変わる。


「こんな事言うのはおかしいがな。親父は根っからの小悪党だ。利益には敏いが、それ以上に保身に敏い。身をガチガチに固めてからじゃねぇとこんな大胆なことはしねぇ」


 そう、父はどこまでも小物だった。


 だからこそ、銃口を向けられて―――命の危険があるのだというのに何故こうも落ち着いていられるのか。


「………」


 新聞に向けられた視線がこちらを向き、辻広は久しぶりに父と視線を交わした。


「もう一度聞く。お前は、誰だ?」


 そして父の口角が見たこともないほど歪んだかと思うと、背後から衝撃を受けて意識がブラックアウトした。




 ●




 バタン、と前のめりに倒れゆく息子を見下すように視線で追って、辻広孝蔵は肩を竦めた。


「いや、意外とマフィアにも頭回るヤツいるじゃないか」

「そうですかね。頭が回っても、周囲に気を配らないと意味がないのでは?」


 その声は先程までの老人のような嗄声ではない。もっと若々しい、場合によっては少年かと聞き間違うような声だった。


 そしてその言葉を返したのは、倒れた辻広の後に佇む青い法衣―――ブライアンであった。


「ま、そりゃそうだね。しかし丁度良かった。陣頭指揮取るのに親分だとおかしいからね。こいつ幹部でしょ?こっちの方が小回り効いて便利だよ」


 辻広孝蔵の姿をした何かは、機嫌良さげに立ち上がって倒れ伏した辻広へと近寄ると、その後頭部に手を添えた。


「―――Shape shift」


 テンプレートと同時、彼の身体は一瞬不定形の軟体物質のように溶け、次の瞬間には床に転がる辻広と同じ姿をしていた。


「何時見ても恐ろしいですね、無貌ノーフェイス。貴方の異能は」

「そうかい?」


 その様子をまじまじと観察して呟いたブライアンに、辻広―――否、無貌は首を傾げて笑った。


「貴方を前に、どんな組織も無意味だ。あらゆる顔を使いこなし、何処にでも潜り込める。しかして本当の顔は誰も知らない。故にこその無貌―――世界各国のお歴々が戦々恐々するわけです」

「人を擬態するコックローチみたいに言わないでくれる?とは言え、欠点や制約がないわけじゃないんだよ。姿や能力は完璧に模倣できるけど、言動はあくまで記憶を垣間見てトレースした演技に過ぎない。それだって時間を掛けて読み込めば完璧にも出来るだろうけど、今回みたいに促成だと親しい人間から見たら違和感があるだろうし、そもそも抵抗レス値考えたら誰にでも成り代われる訳じゃないんだよ。頑張っても見てくれだけってのは良くあるよ」

「それでも見知った知人がある日いきなり襲いかかってくるのは、無力な非適合者にとっては脅威でしょうよ。適合者であっても顔見知りなら油断をするでしょうし」


 そうかな、と無貌は韜晦するが、ブライアンは知っている。


 この性別すら定かではない存在が、『歩く天災ウォーキング・ディザスター』の一人に数えられている理由はこの変身能力に由来するのだと。ドンパチやるような戦場では目立った功績こそ無いが、こと情報戦、取り分け潜入や内部工作、暗殺に限って言えばこの存在の右に出る者はいない。


 実際に無貌が政府中枢に入り込み、首脳部を麻痺させて反政府組織を煽ってクーデターを勃発させ、更には周辺国にクーデター鎮圧の名目を与えて事実上滅ぼした国もある。


 人で構成される組織は、無貌を前にしてその尽くが無意味になるとなれば、その体現とも言える国家政府が戦慄するのも当然と言えた。唯一の救いがあるとするならば、無貌には極めて個人的な目的があり、その成就のためにこそ世界のあらゆる組織を脅かしはするが、障害にならないのであれば見向きもしないということか。


「さて、親分の洗脳は終わる頃だよね?」

「ええ、あれで意外と精神強度が高かったようですよ」

「まぁ、仮にも一組織の長だからね。自己保身に大分振ってはいたけれども」


 辻広孝蔵に化ける際、彼の記憶を覗き見た無貌はその性格や本質を理解している。


 およそ裏社会の三勇に相応しからざる小物だった。怯懦の極みと言わざるをえない男ではあるが、個人的には好ましいと無貌は思っていた。臆病であるということは、自身の能力を把握しているということだ。出来ること出来ないこと、それをはっきりと区分して安全マージンを取る。


 それが不世出の英雄ならばどうかとも首を傾げるが、拠り所となる武力もなく、あるのは小賢しい悪知恵と人脈。ならば、自分を守るために万全を期そうとするのは決して間違いではない。いや、弱い者が強い者に対抗するには、それしかない。暴れるプライドを飲み込んで、ただ生き残るために脇目も振れず生存戦略に特化する。言うは簡単だが、面子で生きている人間にはとても難しいことだろう。


 無貌自身も個人戦闘能力はそこまで高くないと自覚してはいるのだ。潜った修羅場は数多いために大抵のことは出来るが、シュガールのような生粋の戦闘狂を前にして真正面から挑めはしない。まず直接対決するような場面に持っていかないし、するにしてもこれでもかと仕込みをしてからだ。


 そういう意味では、辻広孝蔵と言う男の生き方に共感とも言える感情を覚えてはいた。


「しかし良かったのですか?」

「何が?」

「貴方は食客、それも来年に自身の計画を控えているではないですか。我々にここまで協力してもいいので?」


 回収班に連絡を入れ終えたブライアンが唐突に尋ねてきて、無貌は肩を竦めた。


「まぁ、色々な面倒ごとよりも興味が勝ったんだよ。翠と朱の因子のね」

「それは」

「誤解しないでくれよ。僕の目的は永遠だ。それを手に入れるためには蒼の因子がいる。だから狙うはそれ一点。余分な目標を作ると、それだけ意識が逸れて本当に欲しい物が手に入らなくなるのは、今までの経験で知っているから。だから今回は、純粋な興味本位」


 気色ばむブライアンにあくまで横紙破りをするつもりはない、と無貌は明言する。


 事実、JUDASに手を貸している理由も目的を達成するのに一番手っ取り早いからだ。人脈や物資、手数をJUDASに求め、その見返りに幾つかの手伝いをする。それが無貌とJUDAS―――否、教皇と交わしている契約だ。


「さて、で、お姫様の動向は探っているの?」

「ええ、どうやら今週の日曜日にお出かけするようでして。何でも、府中空軍基地の航空祭に行くらしいですよ。鐘渡に内偵している信者からの情報です」

「いいねぇ、学生生活。考えてみたら僕、学生ってやったこと無いんだよなぁ………。来年のことを考えたら、狙ってみるのもありかな」


 くっくっと無貌は喉を鳴らしてから、口元を歪ませる。そのグラスゴースマイルに、ブライアンは背筋を僅かに震わせた。


「じゃぁ、今週末を見据えてしっかり準備しようか」


 会話や理論立てたやり取りこそ出来るが、その本質はやはり『歩く天災』なのだと。




 ●




 霊素粒子機関エーテル・エンジン


 頭文字を取ってEPE、あるいはE2とも呼ばれる、今世紀に入って実現した新機軸のエンジンである。新機軸と言っても、実の所原理は変わらない。内燃機関が燃焼と膨張を用いてクランクを回し、モーターが電磁力を用いて軸を回すように、コレも霊素粒子の流入と流出をエネルギーとして回転に変換しているだけにすぎない。次元穿孔管と呼ばれるユニット内部で燐界から霊素粒子を取り出し、戻ろうとする復元力を利用して軸やクランクを回すだけである。


 ただ2049年現代に於いて、ほぼ全ての原動力が霊素粒子機関になっている理由は、出力とコストがその他の追随を許さなかったためだ。


 始動電力こそ大電力を必要とするが、一度次元に穴を開けてしまえばそこから取り出せる余剰エネルギーで開けた穴の維持は可能であるし、原付程度の大きさのエンジンで10tトラックが過剰積載していても余裕で動く出力となれば成り変わる理由にもなるだろう。擬似的にではあるが事実上の永久機関なのだ。


 尤も、デメリットがない訳では無い。


 次元穿孔管という名前の通り、次元に穴を開けるこれはエネルギーと共に消却者を呼び寄せる。かつては安全なはずの障壁圏内に出現したり、交通事故の衝撃でエンジンが壊れてそのはずみで出現したりと結構な大事になった記録もある。


 だが、エンジン始動から約24時間以内であれば出現しないし、一度落としてから再始動すれば良い。これは開ける穴の座標が固定し続けることで消却者に感知されることが原因のようなので、再起動して穴の座標を変えてしまえば問題がないという研究結果が出ている。事故による破損は、フライトレコーダー並みの頑丈さと、一定以上の衝撃を受けた場合エンジンをシャットダウンする機構を備えるようになってからは問題がなくなった。


 さて、こうしたエネルギー技術革新の波はあらゆる分野に波及したのだが、その中で尤も遅く、独自に尖った行った分野が1つある。


 航空分野である。


 そもそも、当時から旅客機にしろ戦闘機にしろ、飛行機と呼ばれるものの大体がジェットエンジンだ。殆ど趣味の産物になっていたレシプロやヘリならいざ知らず、如何に同じ内燃機関と言っても取り敢えずクランクシャフトさえ回れば動く車のエンジンと違って、ジェット燃料の燃焼力そのものを推力に変えていると言っても過言ではないガスタービンエンジンは、霊素粒子機関に置き換えることが難しかった。


 飛行機の歴史を見てみれば分かるが、この手の分野は最低でも十年先を見据えて開発する分野だ。特にジェットエンジンが主流になった頃からその傾向は顕著になっている。加えて、旅客機を除き対空戦闘に限って言えば現行のジェット機でもどうにかなってしまったのも開発の遅れに拍車を掛けた。


 最終的に、ジェットと霊素粒子のハイブリットエンジンに落ち着いたのは、2030年代に入ってからになる。


 そのハイブリットエンジンを搭載した日本国純国産機である天風が、新見の頭上を通過していく。


「―――どうしてこうなったんだろう………」


 彼は今、府中空軍基地の入り口にいた。


 事の始まりは先週末だ。ここの所毎週の儀式となりつつある老人会の空戦ごっこに付き合った後で、日下翁が老人達を代表して新見にチケットを何枚か差し出したのだ。


『ワシ等府中の航空祭で出店やることになったから、半券やるよ。暇だったらツレでも誘って来い』


 あの老人会が元空軍所属で、今でも交流があるのは知ってはいたが、ここまで密着しているとは思わなかった。曰く、どうも先頃圏境外が少々騒がしいらしく、対応に陸空と人を取られて催事に割ける人員が少なくなっているとのことだ。とは言え毎年の催事を中止すると市民感情を不安にしかねないので、退役軍人達も駆り出されているらしい。一応それ軍事機密じゃないのかなぁ、と思いつつ、まぁ退役軍人って無駄に情報通なのは何処も一緒だよねと自身を納得させつつ新見はそのチケットを特班に配ることにしたのだ。


 しかし、飛崎は週末に用事があるとかで貰っても使えないと受け取らず、三上も式王子が再びバイト先の修羅場に駆り出されるので久遠の面倒を見なければならないと辞退。


 結局、嬉々として受け取ったのはエリカとリリィだった。


 そして、『どうせ行くなら一緒にいきましょう!』と提案され、今日は朝から公用車でお出迎えされて今に至るのだが。


「はんちょー!早く早く!!」

「いやエリカ。人混みに突撃はまずいって」


 興奮するエリカに手を引かれつつ、新見は世の無常を悟っていた。


 可憐な美少女に手を取られ引かれるという、本来ならばとても嬉しい状況にも関わらず、胸中で般若心経を唱え色即是空を体現すべく煩悩を払うには理由がある。


『主の心を弄んだ彼に最早見る夢はない………』

『お命ご用心………!』

『死と生のデッドラインを突っ走るアンタッチャブル。彼に明日はない』


 例によって、SP達の怨嗟と殺気がひしひしと背中越しに伝わっているのだ。どうやらエリカの影響か時代劇にハマっているらしい。何処かで聞いた口上のオンパレードだ。新見が助平心を少しでも出そうものなら、終劇まで残り十分程度の悪代官並みのスピード感で屠られることだろう。


 尤も、新見個人としては興奮して足を進めるエリカを微笑ましいというよりも何だか大型犬の相手をしている気がしなくもないのだが、おそらくそれを口にすれば不敬罪で物理的に首が飛ぶ。


 そして彼女がいるのなら、当然の如くくっついてくるリリィと言えば。


「あれがリアルF-14………!」

「あら、アズライト。知ってますの?」

「うむ。貴史に付き合ってシミュレーターには何回か乗ったぞ。だが、現物を見るのは初めてだ。愛称が雄猫というのも妙に親近感が湧くな」

「はしゃぐのは良いですけれど、この人混みです。飛び出ないでくださいましね」

「うむ。今日は君の腕の中にいるとしよう」


 アズライトを胸に抱いて、ご満悦な表情を浮かべて後ろを着いてきていた。


 視線の先には、彼が注目しているF-14を筆頭にF-4EJやF-2A、F-15J、T-4やEA-6等の2000年代初頭を支えた日米の戦闘機がエプロンに鎮座し、その奥には現役で稼働している国産機も並んでいる。まさに見本市と言った具合に多種多様な機種が入り乱れ、それらを取り囲むように観客達が賑わっていた。機種によってはコックピットに乗せてくれるようで、子供達以上に親が大興奮していたりもする。


 こうした航空祭―――周辺住民とのふれあいは随分と昔からある。しかし、『消却事変』以降は人類の総人口が一割にまで減ったこともあって一時期は開催しなかった。復興がある程度終わって、圏を覆う障壁が完成した頃から再び開催するようになったのだ。


 理由は、穿った言い方をすればガス抜きだ。


 府中空軍基地は障壁圏西部に於ける防空の要になる。前世紀までは滑走路すら無い小さな基地ではあったが、今では周辺の公園を潰して巨大な防空基地を形成した。数隻が限界ではあるものの、空中戦艦の離着陸も可能だ。


 当然の事ながら、平時から戦闘機の離着陸は頻繁にあるし、訓練による運用もある。緊急時となれば何を況やである。そんな中で、近隣住民が飛行機―――まして戦闘機動を是とするジェット機の騒音に耐えられるかと言えば大凡の人間が首を横に振ることだろう。


 前世紀よりは軍隊に関する悪感情は少ないが、それでも自分の生活にある程度干渉してくるとならば厳しい目を向ける人間は一定数出てくる。言葉で理解を求めた所で、民衆の誰も彼もが公益を是として行動するはずもない。実際、騒音に悩まされ訴訟を起こしたり、転居費用や土地買収を国に求めたりとその手の問題は昨今でこそ落ち着いたものの、あるにはあったのだ。


 そうした民間感情をどうにかするために、航空祭が復活した。勿論、ただ単に基地に入って貰って軍人が催しをするだけでは効果が薄い。目玉を用意して人を呼び、その交通や行動で地域の消費を増やし、その上で基地内での商売も認める。些か即物的ではあるが、自分達にも利益があるのだと認識すれば民間とて協力的にもなるし、関わる人間が増えれば増えるほど、利益を享受する人間が増えるほどに航空祭は周辺住民にとって不可欠なものとなり、多少のことは目を瞑るようになる。


「すごいですねー。半世紀も前の飛行機が未だに飛ぶなんて」

「流石にもう正規部品が無いから、中身は近代化しまくって殆ど別物だけどね。本当に博物館に展示されているだけの数機はともかく、まだ動く他の機体は見習いの練習機や整備兵の訓練とかに使ったりしているみたい」


 感心したように機体群を眺めるエリカに、新見は苦笑した。


 特にF-4ファントムに至っては開発時期を考えるとそろそろ一世紀になろうかという具合だ。半世紀前ですら爺さん呼ばわりされていたというのに、現役でこそ無いものの未だに飛ぶとならば、まさしく名前通りの亡霊と言えるのかもしれない。


 日本に配備されていたF-4EJは1971年からになるので、それでもまだ飛ぶのかと驚かれることも多い。特に、『消却事変』黎明期には実戦で酷使されてもいるのでその頑丈さと優秀さは最早語るまでもないだろう。


「さて、先に出店の方に顔だして良い?」

「ええ。何のお店をやってるの?」

「さぁ?食べ物関係としか聞いてないや」


 基地祭の目玉、メインイベントとなるショーはプログラム的にもう少し後になる。それを見据えて貰った半券を使ってしまおうと、新見はエリカを促して足をで店が立ち並ぶストリートへと足を向けた。


 パンフレットに添付された地図を眺めつつ、出店を眺めていると、見知った顔を見つける。焼き鳥屋と看板を掲げる屋台で、黙々と串を焼いている年寄―――日下翁だ。


 彼もこちらを認めたようで、新見に声を掛け。


「おう。貴史―――」


 彼の隣に並ぶエリカとリリィを認め、硬直。


「―――お前ら!貴史が女連れてきたぞ!!」


 いつものどら声でそんなことを宣った。


「マジか!?」

「たー坊に春が!?」

「しかも海外産美少女二人じゃと!?」

「一体どうなっておるんじゃ!?今日世界が終わるのか!?」


 するとわらわらと何処からかいつもの面子が湧いて出て、口々に好き勝手な事を言い放つ年寄り共に新見はこめかみに浮かんだ青筋を人差し指でグリグリと揉んで。


「いやそういう関係じゃないけど………と言うか僕が女の子と一緒にいるのが世界終わるぐらい異常事態なの………?」

『だって童貞と美少女ってありえなくね?フィクションじゃあるまいし』

「うん。アンタ等年寄り共が全世界の童貞に喧嘩を売ったのはよーく分かった。―――買ってやらァ!!」

『うわ童貞がキレた!キモーイ!!―――散開ブレイク!』

「逃がすかぁ!!」


 いい加減この年寄共に痛い目を見せてやらねばならぬと飛びかかるが、老人達は元パイロットらしく的確な判断を下し三々五々に散って遁走。新見はそれらを追走する。


「あのー………」


 完全に置いてきぼりになったエリカが恐る恐る日下翁に声をかけると、彼ははっと我に返ったようで後頭部を掻きながら手を挙げる。


「お、おう。すまんな嬢ちゃん達。仲間の新しい一面を発見してテンションが上ってしまった。焼き鳥、食うか?」

「あ、はい。ありがとうございます。―――仲間、ですか?」


 塩鶏ももの串を受け取りつつ、エリカが尋ねると日下翁は可可と笑って。


「おうおう。立場としちゃぁ色々あるが、貴史は儂等と同じ空を愛する男だ」

「空を愛する男、ですの?」

「ああ、それはな―――」


 首を傾げるリリィに日下翁が頷いて口を開いところで、背後からおそらく焼き鳥の串が収まっていたであろう空のバットが飛んできて彼の後頭部に直撃した。カァン、と快音が響き日下翁は青筋立てて後方を振り向いた。


 こんな容赦の無い真似をするのは腐れ縁共しかいない。案の定、年寄り共がこちらを指さしてゲラゲラ笑っていた。


「痛ってぇなてめーら!何しやがる!!」

「うっさいうっさい!なぁに一人だけちゃっかり美少女達と戯れておるんじゃ!」

「そうじゃそうじゃ!空の男は硬派でなければいかん!」


 真っ当な文句を突きつけてやれば、しかし返ってくるのは意味の分からない難癖だった。どうも若い娘達と会話をしているのが気に入らなかったらしい。


 この老いぼれどもどうしてくれようか、と日下翁が自分の年齢を棚に上げて仕返しを検討していると彼等の背後に新見がすっと忍び寄り。


「この間バイクで街を流してたら見かけたんだけど、若いお姉さんにボケたふりして話しかけて尻触ろうとしてたよね?―――硬派が聞いて呆れるよ」

「ター坊何故知って………!しーっ!しーっ!!」

「はぁー!?コレだからエロジジイは!全く儂を見習って………」

「そう言えばウチの教練校の食堂にお孫さんが務めているんだけど、最近お爺さんがエロい目で見てきてキモいって言ってたなぁ」


 普段の素行を暴露された老人達はお互いに視線を交わし、うんと一つ頷いて。


『―――このガキャァ後ろ弾とはいい度胸だ!』

「僕だってやられっぱなしじゃないよ!それに最初に撃ったのはそっちだよね!?」


 一斉に新見に飛びかかり、新見もそれに応じて取っ組み合いの喧嘩が始まった。


「カオスですわ」

「そうね。でも、はんちょーも楽しそう」

「くぁ………」


 その様子を見てリリィは呆れ、エリカはくすくすと笑って眺め、そして猫は欠伸をしていた。


 やがて体力の限界が来たか、今日はこの辺で勘弁してやる、とどちらからともなく離れ終戦した。新見は半券を使って幾つか焼き鳥を注文して、それを日下翁から受け取ってから、エリカ達を伴って出店を離れようとするが、その背中にジジイ共の冷やかしが掛かる。


『避妊はするんじゃぞ―――!』

「するか!」

『え?ナマ一択とかある意味男らしい………でもジジイ引いちゃう!!』

「うっさいセクハラ爺共!そういう意味じゃない!」


 元気な年寄り共であった。



 ●




「どっと疲れた………」

「いつもあんな感じなの?」


 屋台から離れ、げんなりしながら歩く新見にエリカが訪ね、彼は首を横の振った。普段からあのテンションは流石に心が保たない。


「今日はいつも以上にはっちゃけてたよ………」

「パワフルですのね………」


 言葉を選ぶリリィに、仕方のない部分もあるんだよと新見は言った。


「基本忙しないんだあの人達。空軍引退して張り合いないと老け込むからって色々手を出して、精神的にアンチエイジングしているは良いけれど、しすぎたもんだからノリが中学生にまで退化してるんだよね」

「適合者なの?」

「いや、トライダガー………って言っても分かんないか。防空専門の即応部隊の出で、半適合者セミ・ドライヴァー

『ああ、それで空の男』


 新見の言葉に、エリカとリリィは手を打って得心した。


 現在の戦闘機は格闘戦重視の運動性特化型だ。その運動性能は旧世紀の戦闘機のそれを大きく上回る。性能の向上と一言に言えばそれで済むが、往々にして限界に挑むような使い方をする機械というのはマシンの性能の向上と操縦者の負担がトレードオフの関係にある。


 そのため、現在の戦闘機乗りと言うのは異能が使えないが霊樹を定着させるだけの霊素粒子を内包する適合者―――即ち、半適合者が基本である。


「先達としては尊敬しているんだけどねぇ………どうも近所の悪ガキ相手にしている気しかしなくて」


 長く日本の空を守ってきた防人達だ。


 新見とて尊敬の念はあるし、最初の頃はそうした扱いをしてきた。バイクのレストアにも付き合って貰ったし、感謝もしているのだがそれ以上にはっちゃけ具合というか悪ノリが酷い。一度呆れてぞんざいな扱いをしてみたのだが、むしろそこが気に入ったのか更に遠慮が無くなる始末だ。


 結果、新見と老人達は旧知の悪友のような気の置けない関係になった。


(あれ?でも、その空の男達とはんちょーがどう繋がるんだろう………?)


 苦笑する新見に視線を向けて、エリカは首を傾げていた。


 老人達も新見も互いを仲間として認識しているようだが、その接点が分からない。バイクやバイト絡みなのは理解できるが、新見は学徒で適合者―――その性質上、基本は陸戦だ。空の男達と意気投合するような要素は幾つかあるが、仲間と認識されるほどだろうか。


 一体、何が彼等の琴線に触れたのだろうと疑問に思い、エリカは新見に尋ねるべく口を開き―――。


「あ、始まるね」


 三人の頭上を爆音を響かせて銀翼が駆けた。


 双発前進翼と言う、旧世紀の戦闘機事情からしてみればけったいな―――もとい、外連味のあるスタイルをした戦闘機。その4機一個のフライト編隊。


「あれが天風………」


 エリカが空を見上げて呟く。


 日本国防軍が発注し、綾瀬重工が中心となって開発した現行の主力機だ。現代の日本での防空の主戦場は国境ギリギリの領空よりも、圏域内外の制空権が重きに置かれている。全く無い訳では無いが、人の領空侵犯よりも消却者の制空権奪取の方が遥かに多く、そして相手が人でない以上その対応も酷く血なまぐさいものになる。


 そこを生き残るために極端な運動性が必要になり、安定性を犠牲にしてでも前進翼を採用。更に機体トラブルや戦闘による損傷があっても切り離して作戦続行、及び帰還が可能なようにブロック化された双発が採用された。


「あ、夜天もいる」


 新見が空を見上げていると、天風の後ろに続いて2機エレメント編成の機体もいた。シルエットや形状は天風とほぼ同じだが、カラーリングが黒のマット塗装で統一されている。


「中身は大凡一緒ですのよね?」

「そうだね。天風は汎用機で基本運用が要撃だけど、夜天の方は迎撃と言うか周辺警戒機の色が強いんだ。国防にも寄らせているからカラーリングとステルスに性能を振っているけど、基礎設計は一緒だよ」


 天風を基礎としたバージョン違いは幾つかあり、最新鋭になると機動性も確保するために前進可変翼などという変態仕様―――もとい、突き抜けた仕様の機体も存在するようだ。


「昔の戦闘機に比べるとやっぱり一回り小さいのね」

「霊素粒子機関のお陰でダウンサイジング出来ているからね。今の格闘戦偏重の環境を考えると機動性よりも運動性を可能な限り上げた方がいい。まぁ、だからといって無手じゃ意味ないから、ペイロード部分を確保するために一回りから二周り位のダウンサイジングで収まっているんだよ」


 エプロンに鎮座する昔の機体群と比較するエリカに、新見は頷いた。


 因みにあらゆる想定を排除して、単純に飛ぶだけならば、バイクサイズにまで収まる。


「あれだけ機敏に動いて、Gは大丈夫なのか?」


 演習飛行が始まって、じっと空を見つめていたアズライトの唐突な疑問に、新見は首を横に振った。


「確かに機体や耐G服の性能は昔よりは上がっているけど、全然大丈夫じゃないよ。あの速度で、あんな小回りしたら常人なら即ブラックアウトして墜ちる。でも、パイロットはほぼ全員が半適合者で霊樹を埋め込まれているからね。強化された身体と、訓練による慣れと、後はでどうにかしてるんだよ」

『根性』

「無茶苦茶でしょ?」


 唐突に現れた精神論に絶句する皆に、新見は苦笑する。


「だからトライダガーはエリートなんだ」


 空を見上げる彼の瞳は、憧憬の色を湛えていた。




 ●




 始まった模擬飛行に地上の皆が注目している中、それとは違った動きをする者達がいた。


 統一性はなく、ともすれば一般人に紛れてしまっている彼等を見て、何かの目的があるなどと判断できる者は多くはなかったが、少なくともウィルフィード公国からエリカの護衛として来ていたSP達は気づいた。

 多方面から一点に向かって動いているその人間達を警戒し、即座に公安と警備、それから府中空軍基地に通達。並行してエリカの壁となるべく扇状に展開する。


 そして、彼等と相対して腰部マウントに忍ばせた拳銃に手を伸ばしたまま静止を要求する。


「―――止まれ」


 唐突に現れた黒服達の威圧感は、一般人にとっては腰が引けるものではあったが、彼等は薄ら笑いを浮かべたままだった。


 総じて若い青年達ではあったが、もう1つ共通点があった。目元は窪み、しかし皆が一様に瞳をギラつかせていたのだ。


 SP達も多くの実戦経験を積んだ猛者だ。その手の―――薬物中毒者を相手にしたこともある。これは言葉では済まないと即座に判断し、拳銃を抜き放ち、構えて銃口を彼等へと向けた。


「おっとぉ………?こりゃぁバレちまったかぁ?」


 しかし青年達は向けられた銃口を前に未だヘラヘラと口元を歪めて―――。


「―――テメェ等!やっちまうぞ!!」


 その一言と共に、乱戦が始まった。




 ●




 戦闘機の轟音に混じって、しかしその発砲音は良く響いた。


 新見や周囲の観客が何だ、と首を傾げて後ろを振り返るよりも早く行動に移したのはリリィだった。


「エリカ様。お下がりを。アズライト、ごめんなさいね」

「ええ」

「了解した」


 腕に抱いていたアズライトを下ろすと、ショルダーバックから拳銃を取り出し、エリカの前に出て警戒する。耳に引っ掛けていたIHSから状況は聞いていたが、どうも抑えきれる様子ではなくなったと判断したのだ。


「はっは!見つけた!見つけたぞ!!」


 そんな中、一人の男がエリカを指さして声高に叫んでいた。それを聞いた周囲の者達が一斉にこちらを見る。皆が一様に瞳孔が開いた目をギラつかせており、一見して正気ではないと判断できるぐらいには異様であった。


「知り合い?」

「全く」


 若干引きながら新見が尋ねると、エリカは首を横に振った。


「おいお前ら!あの女を捕まえたらブルーブラッドが手に入るぞ!!」


 不穏当な言葉に、暴徒達は歓声を上げエリカを守るSP達に殺到した。


 何人かはその防衛線を突破し、エリカに迫るがリリィも手にしたゴム弾入りの拳銃で応戦。しかし、正気を失った彼等は痛み程度など物ともせずに突撃を敢行し、もみ合いになる。


「くっ………!致し方ありません!班長、エリカ様を連れてお逃げなさい!―――『風纏バースト』!」


 総数は把握しきれていないが、それでも抑えきれる人数ではないと判断したリリィは異能を行使。直後、彼女を周辺に強風が巻き起こり、暴徒達は弾き飛ばされ、新見とエリカはその風に背を押されるように距離を取った。


「わ、分かった!エリカ!行くよ!!」

「ええ!リリィ、気をつけて!」


 状況こそよく分からないが、この場にいるのは危険だと判断した新見はエリカの手を取ってその場を逃げ出した。




 ●




 風の異能を発現した時、リリィは少し落ち込んだ事を覚えている。


 何しろ目に見えない。


 俗に四属性と呼ばれる地水火風の中で、一番派手さが無いと思ったからだ。当時はまだ子供で、そう言った派手なエフェクトこそが至高、と割と本気で思っていたのだ。


 だが、エリカと共に国軍の訓練を受けている内に自身の異能は非常に凶悪で有能だと気づく。


 見えないということは、相手が反応しづらいと言う事だ。そしてただ風を起こすという事象から一歩踏み込むと、様々な現象を起こせるようになる。


 旋風を操って意図的に真空を相手の周辺に作り出せば、体内気圧との差で切り刻まれるし、包み込めばそのまま呼吸困難だ。そこまでしなくとも、空気中の組成配分を弄ってやればそれだけで行動不能にまで追い込める。


(とは言え、そこまでやるといらない被害まで出ますし………!)


 故にこそ、リリィが選択したのは自身の上空からの打ち下ろし―――所謂、ダウンバーストの発生だ。

 風速が50mに迫るこの現象を前に、大抵の人間はまともに立っていられない。指向性を持たせず自身を中心に発動させたので、民間人も巻き込むが精々が転倒ぐらいだろう。


 場合によっては頭を打ったりと重篤化する可能性もあるが、緊急避難措置だと割り切ることにする。


「ぐ!何だこりゃ!前に進めねぇ!!」

「風の異能か!―――あの女だ!アイツを先に片付けちまえ!」


 案の定、身を屈めて地面にしがみ付くようにしている暴徒達だがまだ諦めていないらしい。


 適合者でも混じっているのか、この強風の中何とかリリィに肉薄せんとするものまでいる。格闘戦とするならば、この風を解除せねばならないと再び選択肢を迫られるリリィの足元から声がした。


「手伝おう」

「アズライト!貴方、どうして………」


 吹きすさぶ風の中で身を屈めて彼女の前に出たのは、黒猫だった。


 新見達について行ったかどこかに避難したものかと思ったが、リリィのそばにいたようだ。


「人と共に在るのが吾輩の命題だ。ならば彼等にも寄り添うべきなのだろうが………多勢に無勢、それも雌に寄って集る外道の類を人と呼びたくはない。それに―――猫の手も借りたい状況だろう?」


 首だけこちらに傾けて青い瞳を向ける猫に、リリィは小さく微笑して頷いた。


「お願いしますわ。―――『風爪エンチャント』」


 ならば、とテンプレートを紡いで事象を起こす。


 その先は自身ではなく、アズライトへだ。すると猫の四足に不可視の爪が形成された。


「ほぅ………器用だな」


 アスファルトをその爪で研ぐようにしてみれば、ガリガリと形容し難い音共に削れる。数度掻くと粒調砕石にまで到達した。


 その様子を暴徒達は勿論、SP達も青い顔で見ていたが。


「では、頼みますわね」

「心得た」


 リリィの指示で、アズライトが風に乗って容赦なく躍り出た。


 強風で殆どの者が動けない中、黒い猫の蹂躙が始まった。

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