本編 承
第二十三章 狂犬のブルース
子供の頃から反骨心が旺盛だったのは自覚していた。
押さえつけられれば反発するし、親にぶん殴られては殴り返していた。ちっとも背は伸びず、身体も大きくならない分、有り余るエネルギーが凝縮したようにその少年は暴れまわっていた。小学校に上がるまではまだ大目に見てもらっていたのだろう。実際、幼稚園児の腕力では暴れると言ってもちょっと、いや結構腕白な範疇に収まっていた。
だが、小学生に上がる頃に補助輪が取れた自転車という機動力を手に入れ、暴走行為に拍車がかかった。
大人を困らせるのは当たり前で、同級生は従えるもの。上級生は喧嘩を売るもので、例え一度負けても問題ない。飯時だろうが風呂時だろうが寝ている時だろうが、何時でも何度でも襲撃して噛み付いて最終的には下す。
その頃になると近所でも評判の悪ガキの名を欲しいがままにし、少年の周りには舎弟か敵しかいなかった。
そんなある日、小学2年生の時にクラス替えがあった。
舎弟達も全員ではないがばらばらになり、まぁそれはまた新しいクラスで作ればいいと考えていた。
さぁ、まずはどいつをぶん殴ろうか。
そんな風に新しいクラスを見渡すと、一際目立つ少女がいた。長く艷やかな黒髪に、垂れ目に澄んだ瞳。身につけている綺麗な洋服の影響もあってか、まるでビスクドールのような精緻な造形であった。
少年は一目でその少女を気に入った。恋だとか愛だとか、そうした感情は未発達ながらも、この少女を言いなりに出来れば自分の株が上がる―――等と本能に近い部分で理解していた。
女は弱いし、ぶん殴れば言うことを聞く。泣こうが喚こうが先公に言いつけようが知ったことか。言うことを聞くまでぶん殴ってオレはこんな綺麗な女を手に入れたのだと、トロフィーのように周りに見せびらかして自分の力を見せつける―――そんな蛮族ライクな思考をしていた。
彼にとって不幸だったのは、たった3つ。そんな考えを矯正するような大人が周囲にいなかったこと。相手が女だからと言って、イコール男より弱いと考えるのは実に浅はかだったということ。もう一つは―――。
「おいお前、オレのおんなになれ」
「いやです」
その少女が、非常に頑固だったこと。
即答された少年は一瞬鼻白んだ。しかし次の瞬間には頭に血が上って、その少女の綺麗な髪をひっつかみ引き倒した。顔面から倒れる少女を見て、少年はざまぁみろと思った。弱い女がオレに逆らうからそうなるのだと。泣きわめいて許しを請えと。そうすればオレのおんなとして優遇してやると。
しかし少女は、鼻血を出しながらもこちらを睨みつけてきた。澄んだ瞳に射抜かれて、少年は僅かに動揺する。
「いや、です」
紡がれたのは、拒絶の言葉。
事ここに至って少年のタガは外れた。いいだろう、ならとことんまで痛みつけてやると。幼くも、故にこそ容赦がない加虐心に火が付き、いかなる苦痛でこの少女従えるか―――そう考えた瞬間だった。
横合いから、右頬に今まで感じたこと無い衝撃を受けて少年は吹っ飛んだ。
まるで車にでも跳ねられたかのように吹き飛んで転げ回った少年は、よろめきながらも立ち上がる。口の中に違和感を感じてぺっと地面に唾を吐き出す。それは唾液ではなく血で、感じた違和感は折れた乳歯だった。
殴られたのだ、と理解が追いつく。一体誰が、と視線を向ければ自分より二周りは大きい、ブロンドの髪色の少年がいた。少女を庇うように立ち塞がり、こちらをまるで親の仇のように睨んでいる。
理由は分からない。だが本能的に理解する。
コイツは敵だ。
血液が瞬間的に沸騰する。敵を倒せと、本能が少年に呼びかける。だから少年は拳を握りしめて―――それよりも速く敵の拳が飛んできて、少年は意識を失った。
次に覚えている記憶は、見知らぬ天井だ。初めて病院の天井を見上げた少年は、自分がまるで交通事故にでもあったかのようにボロボロだったのに驚愕する。
負けたのだ、と身体の痛みよりも心が気づく。
これより数年して、少し賢くなった少年が少女に対する感情の意味を知った時、この苦い敗北経験に名付けをする。それを誰かに笑い話として語って聞かせるには、もう少々の時間が必要になるが―――それでも、自分らしくて悪くないと思えた。
初恋は、血の味がしたと。
●
単車を転がしながら
折角愛車に跨っているというのにも関わらず、どうにもテンションが上がらない。何が原因かと言えば昨日見た夢だ。子供の頃の、今では黒歴史とも言える情けない過去。その追体験。
何が理由で見た夢なのかは不明だが、精神的に来るものがある。それに加えて、朝から近所の爺様を手伝って畑の収穫なんぞしてたから身体も些かだるい。
(あー、フケてぇな………)
今年で成人、そして教練校生になった木林ではあるがそれで何かが変わったわけではない。喧嘩や戦闘は好きだが勉学は嫌いだ。作戦行動だとか集団で動くのも苦手だし、周りに合わせるなど以ての外だ。
脳が焼かれるようなスリルや世界を周回遅れにするようなドーパミンはこの上なく大好物だが、平和だとか予定調和とかは酷くつまらない。折角消却者などという人類の敵がいるのだから、もっと世の中荒れねーかな、と思う。
あの長嶋武雄に師事するようになって、そして彼が運営する教練校に入ったのだ。心置きなく、思う存分に暴れられるかと思えば、そんなことはない。この間、第一班と特班の模擬戦を見てその派手さに自分もあんな風に大暴れできるのかとワクワクしたものだが、アレは一種のデモンストレーションだったようで、実際の模擬戦は真剣を使用ではないし異能も制限されている。
ここしばらくは体力向上のための基礎訓練と異能の発動訓練、それからオママゴトのような模擬戦しかしていない。
こんな事なら蠱毒と揶揄される七菱に行けばよかった、と入校早々後悔する木林であった。
とは言っても、彼の教練校があるのは九州圏。親が遺した家があり、それを手放したくはないので統境圏住みの木林では通いは無理。そこも入寮は出来るようで行こうと思えば行けたのだが、一応の師である長嶋が『ウチに来る?』と誘ってきていたのですぐに乗ってしまったのだ。
木林をしてバケモンと思う、あの武神が運営する教練校だ。きっと毎日のように凄まじい訓練を行い、魑魅魍魎のような修羅達が集っているに違いない―――そんな風に期待していたのだが、入ってみれば何てことはない。想像の斜め下をぶっちぎるぬるま湯仕様。本当にここは士官学校なのか、と眉を顰めた程だ。
調べてみれば教育委員会とか言う政治屋もどきが『子供達のため』と言う頼んでもいないお題目を掲げて旧世紀の学校に近い仕様に歪めたと知って、家特定して襲撃してやろうかと思った程だ。視察とかで来たらぶん殴ってやろうと心に決めて、フラストレーションを溜めつつそろそろ三週間が経つ。そろそろ発散したい。
(―――そうだな、今日はワザと遅刻して、そろそろあの教官に喧嘩売ってみるか)
入学してすぐに直接の上司になる諸先輩方には売った。ボコられたし、ボコった。人となりよりも先に腕を見たかったのでそれは叶えられ、こんなもんかと理解はした。
確かに強いは強かったが、思った程ではなかった。所詮一年先に行ってるだけだからそんなもんかと思った木林だが、あの武神に弟子入りしてスリルを得るために結構ハードな訓練を無自覚に行っている彼がおかしかったりするのだが、それには気づいていない。
ともあれ、先輩達はそれなりに扱いはするが下手に出る必要はないと判断した木林は、次なる獲物を探していたのだ。その中で、目についた相手が彼が所属する第五班の副担当教官だ。
名を、リースティア・飛崎・ロックリードと言った。
何でも元傭兵で、義弟が日本に帰国する際にくっついてきたとのことだ。副担当とあってそれほど知っている訳ではないが、彼女を見ていると本能が妙にざわつく。
見てくれは美人であるし、そうした男の本能かと思ったが、どうにも違う。警戒に近い感覚。アレに逆らうな、と心の奥底が呼びかける。そんな妙な危機感に触れるのが大好きな木林としてはちょっかいを掛けずにいられない。火傷を恐れて火遊びは出来ないのだ。
時刻は八時前。もう少しで始業だ。
(ババアんとこで時間潰すか)
元々、長嶋家に届け物があった。朝から労働もしたし、腹も減った。朝食を用意させ、それをゆっくり食べれば軽く遅刻だろう。確実に注意されるし、そこで喧嘩をふっかけることにする。
そうと決まれば気分が良くなってきた。鼻歌を歌いつつ幹線道路をかっ飛ばし、目的地に到着。長嶋家、と表札の掛かった平屋建ての道場付き日本家屋。道場併設なので武家屋敷のような古めかしさがある。神奈川州でこの豪勢さは庶民から妬まれるレベルの敷地面積で相当な金が掛かるはずだが、何しろあの武神の家だ。金子の類は有り余っているに違いない。
庭先にバイクを止め、リアシートにくくりつけてあったダンボールを解いて抱える。そのまま玄関に行き、手が塞がっているのでスライド式の玄関を足で開けた。おそらく留守じゃないとは言え相変わらず不用心だなこの家、と思いつつ声を張り上げた。
「おーい!ババァ、いねぇか!?」
声を上げてから一拍置いて、はーい、と奥から返事があった。ぱたぱたとスリッパの音がして、見知った顔が現れる。長嶋静流。武神の嫁で、木林にとっては母親代わりのような女性だ。
「あら、カツ君。朝からどうしたの?」
「おら、
「あらあら。立派なキャベツ。ありがとうね」
ダンボールの中を覗いて、大玉のキャベツが敷き詰められているのを喜んだ彼女がダンボールを受け取ろうとすると、木林はそれをすっと避けた。
「ババアが無理に肉体労働すんな、腰言わすぞ。どーせ台所だろ。運んでやっからどけよ。ついでに腹減ったから何か寄越せ―――あん?」
そのまま靴を脱いで土間から廊下に足を掛けた時に、その先の影から頭だけを出してこちらを覗く視線に気づいた。小さな人影。子供だった。
「何だそのガキ。見ねぇツラだな」
「あら
その小さな影―――久遠はじっとこちらを見据え、おずおずと身を乗り出し。
「―――がぁっ!」
「っ!」
木林が威圧して引っ込んだ。
「こらカツ君。意地悪しないの」
その無体に長嶋静流は、ぺしりと軽く木林の頭を叩いて叱った。しかし叩かれた本人はケケケ、と笑うだけで堪えた様子など無い。
「へっ。殊更悪ぶってるつもりはねぇが、ユートーセー扱いは虫酸が走んだよ」
「そんなこと言ってー。そのキャベツだって収穫手伝ったんでしょー?岩田おじいちゃん、この間夜のお店でハッスルしすぎてギックリ腰になって救急車呼ばれてたらしいから」
「あのジジイ、オレには死んだ嫁が枕元に立ってビビって腰抜かしたつってたぞオイ」
どっちにしても自業自得臭いが、と木林は思いつつ長嶋家をまるで我が家のような勝手知ったる歩みで闊歩していく。
「まぁオヤナシの跳ねっ返りの面倒を独り立ちすんまで見たから、その借りを返してるだけだ。オレはテメー等近所のジジババ共に育てられたようなもんだからな。じゃなきゃぁ、誰が好き好んで死にかけのジジババなんぞ手伝うかよ。面倒クセェ」
「もう、素直じゃないんだから」
すぐに台所に到達し、邪魔にならない所にダンボールを置くと、またしても視界に久遠が入った。意外と好奇心旺盛なのか、先程よりも距離が近い。また威圧してやろうか、と思ったが静流の笑顔に圧を感じ、やめておくことにする。
「で?何だよあのガキ。知らねー内にジジイと新しく拵えたんかよ?―――死ぬまで現役か、あのエロジジイ」
「ここ数年この家に出入りしているんだから、あの子が私の子供じゃないことぐらいは分かるでしょう?それに武雄さんはこの間食堂のパートさんに色目使ってたから強制禁欲中」
「何だ、貞操帯でもつけてんのかよあのヒヒジジイ。ザマァ」
「おかず抜きの白米生活よ?タンパク質も亜鉛も取れなきゃムラムラしても役に立たないと思って」
「虐待介護かよ。………武神が戦場じゃなくて糖尿とか脚気で死ぬとかちょっと笑えねーからやめてやれ」
思ったよりも厳しい罰に木林は思わず素面に戻った。若ければどうにかなるかも知れないが、今年で古希の長嶋に耐えられるのだろうか。せめて玄米生活にしてやってほしい、と木林は自分の師の健康を珍しく気遣った。
「あの子はね、日中に限って預かっているだけよ。ほら、久遠ちゃん、おいでー」
静流が呼びかけると、久遠がトテトテと近寄ってきて、彼女に抱かれるように掲げられ。
「はい。この子が三上久遠ちゃん。何と、正治君と小夜ちゃんの娘さんです」
「―――はぁっ!?」
告げられた幼女の正体に、木林は顎が外れるかと思うほど驚愕した。
実らなかった初恋は、知らない内に物凄く遠いところへ向かっていた。
●
第一班との模擬戦から二週間が経った。
異能有り、自前武装有りで行われた第一班と特班の模擬戦は教練校中に中継されていたし、リプレイも見ることが出来たためにその日の内に関係者全員が知ることになった。大凡の目論見通り生徒達には発破ともなり、ロイヤル二人組に対する扱い方の指針にもなった。
特に後者の影響が大きい。何しろ風間が異国の姫様を一本背負いして下している。そこだけ恣意的に切り出すといっそ開戦理由にもなりかねない字面だが、リリィを筆頭にSPが公式に『模擬戦でのことなので問題は無い』と声明を出していた。当人であるエリカも『負けたのは悔しいけれど、試合なのだから問題ないでしょう?』と太鼓判を押した為、おっかなびっくりだった教練校生達の硬さも少しは取れた。
本人の気さくさもあって、エリカは他の教練校生に声を掛けたり掛けられたりと人気者街道を驀進している。因みに、その急先鋒となってしまった風間は一部から勇者などと呼称されている。更に余談だが、エリカが持参している扇子に達筆で本当にサインをする羽目になり、『引退したら忍者村のスタッフも悪くないな………』とか言ったとか言わなかったとか。
閑話休題。
そんな風にエリカとリリィが鐘渡教練校に馴染みだした頃、特班の日常は座学に実技とそれなりの忙しさに彩られていた。単語だけならば些か堅苦しさが残るが、この時代の感覚で言えば学生の、特に教練校生にとってはありふれた極々普通の学生生活だ。
朝から夕方までの日常タスクを熟すと、放課後である。この頃になると特班の面々もルーチンが出来ていて、それぞれの動向を知るぐらいには親密になった。
班長である新見は日報を教官に提出すると、バイト先に一直線。去年から懇意にしているらしく、町工場での雑用をしているとのことだ。シフトが無い時は知り合いの猫と遊んでいるらしい。
飛崎は傭兵時代に稼いだ金があるらしく、『急いで働く必要もねぇしフラフラしてるよ』と街をぶらついているようだ。多分、特班の中で一番私生活が自由で謎であると皆は共通認識していた。
エリカとリリィは公務、と言う程ではないがそれなりに政府との付き合いがあるらしく、よく高級車で送迎されている。住んでいる場所も寮ではなく一等地のようで、一度特班全員でお邪魔したのだが余りの豪邸っぷりに小市民である新見と三上は竦み上がっていた。因みに、公務がない時は他の班の女子達と街に出掛けたり学生らしい放課後を満喫しているようだ。特に映画が気に入ったようで、休みの日には発端となった新見が連れ回されているとのことだ。
そして、三上はと言うと―――。
「あー、身体が凝るな………」
ごきごきと強張った身体を解しながらとっぷりと暗くなった夜道を歩いていた。
時刻は21時前。15時には教練が終わり、16時にはバイト先で勤労していたので、5時間の労働。たかが5時間ではあるが、それでも普段使わない神経と筋力となると恵体と称しても良い三上の身体をして疲労を感じる。
仕事内容は服飾デザイナーのアシスタントだ。
主に資材の運搬や裁断、ミシンがけやら買い出しやら何やら、およそ雑用と言っても良い仕事を任されている。何故にそんなバイトを選んだのかと言えば、偏にコネである。
バイト先はアトリエ・フォミュラ本店。式王子家のお膝元。よりぶっちゃけて言うと恋人のコネである。
本来、三上は土木関係の肉体を生かしたバイトをするつもりでいた。性格的にもそちらのほうが向いているし、体を鍛えるのにも丁度良いと思っていたからだ。実際、最初に学生会を訪ねた時こそあまりの斡旋先の多さに目を回したが、そちら方向に舵を切る考えで当たりはつけていた。
考えの変更を余儀なくされたのは、およそ2週間前、唐突に父親代わりになったからである。
15歳で父親、と言うと何だか憂鬱になるので父親代わりとか義父とか、一応そのように周りには言っている。勿論、それを直接久遠には言えない。泣かれるだけならまだマシだが、それを自覚した時に幼い心が壊れないか危惧しているからだ。
父親も母親もおらず、時代にさえ取り残された五歳の少女が、果たしてその孤独に耐えきれるかどうか。
久遠の事情を知った大人達には分からず、まして本当の父親になったことがない三上では分かろうはずもない。今できるのは、嘘でもいいから彼女の心を安し、少しずつこの時代に慣れさせてやること。
本当の親子でないことを告げるのは、彼女が事実を受け入れられる年齢になってからでも遅くはない。それは三上家と式王子家、両家で話し合って決めたことだ。
さて、話は最初に戻るが、そうした事情もあって三上と式王子は大人達からのバックアップを受けることになった。
まずは住む場所と家財一式。住む場所は長嶋が気を利かせて用意してくれたので、暮らしに必要な諸々の家財や久遠の衣服、そして移動用の足として中古の軽バンを譲り受けた。現代では15歳で車の免許は取れるし、三上は誕生日が5月なので去年の春には取っていた。その後に右腕を失っているので免許の条件に義手着用と但し書きを記載する羽目にはなったが。
家財はともかく何故車もなのかというと、久遠の事を考えてだ。まだ5歳、しかも不可思議現象を経由して現代に流れ着いたであろう彼女の身体は、如何な不具合を抱えているか分からない。精密検査で特に以上は見つからなかったが、子供というのはただでさえすぐに体調を崩す。まして久遠の場合、先述の事情もあってそれが彼女の身体にどのような作用を齎すか不明。とあれば、緊急時に病院に駆け込めるように足は用意するようにした方が良い、と大人達は結論したのだ。
さて、次なるバックアップは金銭関係だ。
とは言っても、社会的には既に成人している彼等に働かずとも暮らせるだけの生活費を渡す、と言うのは些か不健全というものだ。成り行きやなし崩し的、と言う同情の余地は多分にあるものの一児の父、一児の母になった以上、どうやっても責任というのが付随する。にも関わらず生家におんぶに抱っこでは、責任感はやがて薄れる。その末路は想像に難くない。
だから、彼等には仕事を用意した。それがアトリエ・フォミュラのアシスタントだ。
日中はともかく、夕方以降は鐘渡教練校の託児所から久遠を引き取らねばならないので、一日交代で三上と式王子はバイトに出ている。今日は三上の番であった。
服飾関係のアルバイトなどしたことが無く不安がっていた三上ではあるが、デザインやパターンはともかく、式王子の趣味に付き合っているので裁断やらミシンがけぐらいは気づかぬ内に仕込まれていた。装飾などを手縫いで付ける後加工は少々苦手だが、機械式義手のお陰で『ショージ君めっちゃ正確にミシン走らせるね………流石うちの子の未来の旦那!』と社長にして式王子小夜の母である式王子
(でも身体凝るんだよな、ミシンがけ………)
元々体育会系の性格もあって肉体労働は全く苦ではないが、筋力よりも手先を重視される労働は不得手な方だ。とは言え、こちらの事情を加味して対応してくれる職場であるのも事実。久遠に何かあればすぐに休めるし、時給だって相当いい。フォミュラで働いている社員にもこちらの事情をある程度告知しているし、三上は元よりご令嬢である式王子小夜が趣味で鍛えた腕前を以て無双しているので、好意的に受け入れられている。特に納期が迫っている現場に彼女を放り込むと女神扱いされている。
ここまでこの特殊状況に理解のある職場はそうない。それぐらいは社会人経験が浅い三上にも分かる。
(頑張らなきゃな、色々………)
不安もある。懸念材料もある。だがそれも既に日常に成りつつある。どの道なんでもは出来ない凡人の身だ。少しずつでも良いから環境に適応して、最善でなくてもマシな未来を目指そう。
三上はそんな事考えつつ、アパートに辿り着き、鍵を開けて部屋に入る。そしてぱたぱたと駆け寄る足音共に。
「パパ、おかえりなさい!」
小さい影が三上の腰に飛びついてきた。久遠だ。既に風呂に入った後なのかパジャマ姿だった。
三上は彼女の頭を撫でて。
「ああ、ただいま」
まるで本当の父親のような優しい声音でそう告げる。
例えそれが、仮初のものだとしても。
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