15

「じゃあ、数学の前に算数よね」

「まずは四則演算かぁ。足し算と引き算だけはギリギリみんなできるんだけどね。だから掛け算……あっ、九九を教えるわけにいかないのか」

「そうなんだよね。九九なしでどうやって計算すればいいんだろう」


 この世界の言葉は、数字や単語はもちろん文法から何から何まで違う。

 ニニンガシ、などと言っても、みんな意味がわからないだろう。


「この世界風の九九を考えるしかないんじゃない?」

「まずはそこからかぁ……じゃあ、一の段はいらないとして、語呂がいいものを作っていこうか」

「気が遠くなりそう」


 仕方なく、二人で九九の表を作ることになった。


* * *


「ねぇ、森の生活について教えてよ」


 集中が切れてきたのか、ユヅキがそんなことを言った。


「いいけど……多分面白くないよ?」

「そんなことないと思うけど……」

「うーん、とにかく忙しいよ。朝五時くらいに起きて、一日中なにかしらの仕事をしてるって感じ」

「へぇ、ゆっくり生活してるんだと思った」

「現実は違うね」


 自主訓練や狩りがなければ多少はマシなんだろうけど。

 忙しさでいうと、日本時代よりもずっと忙しい。

 勉強と部活、母親の手伝いだけでよかった時代が懐かしい。


「狩りをすれば肉や毛皮の処理が必要だし、燻製や塩漬け肉、マスタードなんかも売るために作ってるよ」

「わ、全部自給自足なの?」

「うん、ほとんどは。パンやジャム、ギー……バターみたいなものも自分たちで作る。あとは掃除や洗濯、料理、空いてる時間は訓練って感じかな」

「すごい、それじゃ休んでる暇なんてないね」

「そうだね。でもあたしが来る前は、これ全部ハイジ一人でやってたんだよ。ようやるわって感じ」


 それを聞いたユヅキはおかしそうに笑った。

 そしてフッと真面目な顔をして言った。


「ハイジさんは? どんな感じ?」

「ハイジ?」

「あたし、ここにいるハイジさんしか知らないし。本が好きってことくらいしかわからないんだよね。森だとハイジさんはどんな感じなの?」

「たしかに本は好きみたいね。森でもよく読んでる」

「ここでも本ばっかりだよ。あと、お茶しか口にしないんだ」

「あの本って、中央政府ちゅうおうの『はぐれ』の人が送ってくれてるんだよね」

「らしいね」

「教師として呼べばいいのに」

「中央から? それは難しいんじゃないかな。きっと政府が手放さないよ」


 ……話が逸れた。


「そうね……森にいるときのハイジも、普段とあまり変わらないかな。会話はほとんどないし、黙々とやることをやるって感じ」

「え、リンちゃんともお話ししないの?」

「うん、理由もなく喋ったりはしないかな」

「えーっ、恋人同士なのに?!」

「ぶっ」


 なんだそれは。


「ちょ、なにそれ。あたしとハイジはそんなんじゃないよ」

「またまた……照れなくていいのに」

「いや、そうじゃなくって、マジで」

「……え、本当に? 照れじゃなく?」

「断じて違う」


 ハウ、と片手を上げて宣言する。


「そ、そんな……」


 ユヅキが心なしか顔を青くして愕然としているが、なぜなのか。


「じゃあ、なにか恋人らしいイベントも何も……?」

「ないよ! 最近じゃ狩りだって単独行動だし」

「……倦怠期?」

「じゃなくて! 元々あたしたちはそんな感じなんだってば。恋人とかじゃなくて……うん、相棒だから」

「それって、もしかして恋人や夫婦以上の関係だって言ってる?」


 惚気かよ、とユヅキが言うが、そんなつもりはない。

 ただの事実である。


「もちろんハイジのことは好きなんだけどね……なんだろう、人並みの恋愛関係になるとか、結婚するとか、そういうことは望んでないんだよね」

「そうなんだ……じゃあ」


 チラリとあたしを上目遣いで見るユヅキ。


「……たとえばあたしがアタックしたらどうする?」

「お好きにどうぞ?」


 肩をすくめてそう言うと、ユヅキは慌てたようにあわあわと両手を振った。

 なんだこれ。ニコみたい。


「冗談だよ! っていうか、とっくに諦めてるっていうか……。何年も頑張ったけど、一ミリも進展がなくてさ。脈はないんだなって」

「そうなんだ。……でもそれ、多分ハイジは気づいてないよ」

「えー、ちゃんと「大好き」って言ったよ?」

「そしたらハイジ、なんて?」

「そうか、って。……保護者の顔で」

「想像つくわあ」


 二人してはぁ、とため息をつく。


 っていうか、だんだん腹が立ってきたぞ。なんなんだあの男は。

 やっぱり狩りロボットか何かなのか。


 まぁ、あの男がデレデレになっているところなんで見たいとも思わないが。


 バカハイジ。


「でも、聞きたいのはそういうことじゃなくて……」

「ん、どういうこと?」

「……リンちゃんは気づいてる? 最近のハイジさん、何かがちょっとおかしいというか……」

「ああ……」


 うん、気づいてる。

 もちろん。


「ユヅキはどうしてそう思ったの?」

「それが……この前来たとき、ハイジさんが庭で素振りをしてたんだよ」

「素振り?」

「うん、何かを確かめるみたいに。今まで一度もそんなの見たことなかったし、あたしが来たらすぐやめちゃったんだけど」

「剣を新しくしたから、それを確かめてたんじゃない?」

「そうかもしれないけど……」


 不安を滲ませるユヅキを見て、あたしは関心した。


(ハイジが弱くなってきてることに気づいてるのか)

(さすが、ずっとハイジを想い続けているだけのことはある)


 だけど、心配するだけ無駄なのだ。

 あの男はきっと、あたしたちが何を言おうと、何をしようと変わらない。

 今だって、ヴォリネッリにハイジに勝てる戦士などいないだろうし、多少弱くなったって彼が英雄であることに変わりはない。


「心配は要らないよ。ハイジは歳だって言ってたけどね」

「……リンちゃんはそれを信じる?」

「うん。信じる」


 信じるに決まっている。

 ハイジが言うのであれば疑わない。

 たとえそれが嘘だとわかっていても。


「そう……」

「でも、そうね。ハイジの様子がおかしいってのはあたしも気になってるから。気をつけて見ておくよ」

「あたしじゃ、森にも戦場にも着いていけないからさ」


 ユヅキは祈るように手を組んで、強く目を閉じる。


「お願いねリンちゃん。ちゃんとハイジさんのことを見ておいて」

「もちろん。ちゃんと見てるよ」


 言われなくてね、とは言わなかった。


* * *


 チリリン、と呼び鈴がなって、「ハイジさんが来ましたよ」と声がかかった。


「え、あ、ちょっと待って、あたしこんな格好なんだけど」

「別にいいんじゃない?」

「や、その、人に見られるのはちょっと……」


 慌てるが、ユヅキは呆れたように肩をすくめて、


「おかしくないよ? 似合ってる」

「似合ってても嫌だよ!」

「もう遅いよ、着替えてる時間はないと思う」

「そんな……隠れるとこない?」

「隠れても無駄じゃない?」


 そりゃ無駄だろうけど!

 別にこの格好がおかしいと思っているわけでもない。

 でも、仕事でもないのに女の子っぽい服を着ている事実が恥ずかしいんだよ!


 ワタワタしていたが、庭からヌッとハイジが現れる。


「いらっしゃい、ハイジさん」

「邪魔をする」


 入ってきたハイジは、チラリとあたしを見て、それから何事もなかったかのようにソファに腰を下ろす。

 そしてサイドテーブルに置かれた箱から本を取り出すと、ゴロンと横になってそれを読み始める。


 感想、一切なし。


 ユヅキが同情するかのようにポンと肩に手を置いた。

 だけど、あたしは満足だった。一瞬とはいえ少し驚いた顔をしていたし、いつもと違うあたしをちゃんと認識したはずだ。

 制服姿を見せたときのように不快感をあらわにすることもなかった。

 ハイジにしては上出来である。


 というか、変に反応される方が恥ずかしいっての。


「会議はどうだったの? ハイジ」

「ヘルマンニとペトラがまだ騒いでる。おれは特にすることがないようなので抜けさせてもらった」

「そう。こちらはどうやって掛け算を覚えさせるかで頭を悩ませてる」

「そうか」


 一応返事はくれるが、相変わらずそっけない。

 その様子を見たユヅキは「なるほど」とうなづいた。

 どうやら森でのあたしたち二人がどんな感じなのか、ピンときたのだろう。

 

「じゃあ……ユヅキ、今日はありがと」

「えっ、もう帰るの?」

「帰るっていうか、ペトラの店に顔を出さないと」

「手伝うの?」

「まさか。あたしみたいな人殺しが人様のお酒や料理を運べないよ」

「そんな言い方……」


 それに、戦場で死んだあの名もなき『はぐれ』のことを思えば、あたしが人並みの幸せを手に入れられるなどと考えるのは不遜だ。


 今はハイジの隣で戦える。

 ハイジの横で生きていける。


 ただ、それだけでいいじゃないかと思っている。

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