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 それからというもの、月に二度程度はエイヒムに顔を出すようになった。


 人間、どんなストレスにでも慣れるものらしい。

 まだ少し面倒ではあるけれど、慣れればどうということはなくなった。

 変化といえば、毛皮をまとめたり、燻製や塩漬けを完成させたりするタイミングに気を遣うようになった程度だ。


 エイヒムに行けば会議に参加するが、全員参加でなければサボりたいところ。

 あたしが参加する意味はあまりなさそうだ。

 早々に抜け出して、ユヅキと合流して教本テキスト作りに勤しむのが常だ。


 その甲斐あって、九九はなんとか形になりつつある。

 今は口ずさみやすいように調整中。

 こういうのはリズムだ。……というか、これに集中するあまり、あたしは日本語のほうの九九がパッと出てこなくなってきた。


 なお、調べてみたらこの世界でも九九に近いものは存在した。

 九九というか、貴族の子弟になると一桁かける一桁は暗記させられるのだ。

 ただ、語呂合わせではなく普通に丸暗記。つまり二かける二なら「ニニンガシ」ではなく「二ヲ二バイスルト四」みたいな感じで暗記である。

 勉強することに慣れていない貴族たちはそれにえらく苦労するらしく、成人(十五歳)するまでに覚えられればまだマシというレベルなのだそうだ。

 そんな事情もあってか、リズムで覚える九九をトゥーリッキに提案したらめちゃくちゃ喜ばれた。


 あと、サーヤ姫が計算が非常に得意だったという話を聞いた。

 たぶん日本の学校教育で九九を覚えていたとおかげだと思うけど、それは言わぬが花だ。

 彼女の特異性は学力よりもコミュニケーション能力にあるのだし、まだ小さかった彼女が多少チートで無双しても、そのくらいは許されるんじゃないだろうか。


 思うに『はぐれ』優秀論は半分以上嘘だと思う。

 あたしも大学に落ちて浪人が決まってたし、ただの陸上バカだったわけだし。


* * *


「こんにちは」


 いつもよりちょっとだけ丁寧に声をかけて扉を開ける。

 ここはエイヒム唯一の教会である。


「お、リンじゃねぇか」


 返事をしたのはヤーコブだ。

 教会をねじろにして――というか、たぶんボランティアで教会で住んでるだけだが、とにかく浮浪児たちのリーダーをやっている。

 ものすごく背が伸びていて、あたしより背が高い。


* * *


 ヴォリネッリにはあまり多くの宗派はない。だいたいどこも同じ聖霊信仰である。

 それも当然。神様の姿が見えなかった精霊の国アースガルズと違い、中つ国ミズガルズには聖霊が当たり前に存在している。

 解釈の違いなど生まれる余地がない。


 だから教会といっても絢爛豪華な建物ではない。

 信仰者を繋ぎ止めておく必要がないからだ。

 言うなれば、教会とは祭祀のための寄合よりあいなのである。


 同時に、教会は貧民救済などの福祉を担っている。

 基本的には税金と寄付で成り立っているが、ものすごく貧乏だ。

 ぎりぎりカツカツの予算でなんとか切り盛りしている。


 なお、この世界の教会には神父・牧師的な存在はおらず、領主が兼任している。

 ライヒ伯爵は福祉には熱心だからエイヒムは恵まれている。たとえば旧ハーゲンベックだと、孤児イコール死だったのだ。


 ただし、ライヒ伯爵は貧困から抜け出すための教育やシステム作りを重視していて、単純にお金を出してくれるわけではない。

 身体上の理由がない限りは、貧困から抜け出すために何かしなければならない。

 どんな小さな子供であっても何もしなければお金が出ないのである。


 昔、教会の孤児たちがいつもお腹を空かせていたのは、天から降ってくる恵みを口を開けて待っていたからだ。

 今は、何かしら仕事を探し、冒険者として独り立ちする子供も出てきている。

 いい流れが出来てきてると思う。


* * *


「おひさ。食べ物持ってきたよ」

「サンキュ、ガキどもがお腹すかしてやがる」


 どさっと食べ物の箱を置く。

 中には大量の薄焼きパンと瓶詰めが入っている。


「ペトラが『足りなきゃ働け、働きゃ食わせてやる』って言ってたよ」

「「わかってます」つっといて」

「ニコは?」

「裏でガキどもをいじめてる」


 ヤーコブの言い方にクスッとする。


「ニコ、五級に上がったんだって?」

「ああ。オレから見たらまだまだだけどな」

「ヤーコブは? 今何級?」

「オレも五級。試験を受けてる暇がねぇから……うわっとぉ!?」


 ヒュン、と細剣レイピアを居合い抜きしてやると、ヤーコブがすぐさま短剣でそれを受けた。

 ヤーコブが逆手に持った短剣ギリギリでレイピアが止まっている。

 寸止めしなければ短剣を切り落としていたかもしれないが、これ以上は求めまい。


「何しやがる! 危ねぇだろ!?」

「ちゃんと鍛えてるじゃない」

「当たり前だろ、オレは群れのリーダーだぜ?」

「着々と名を上げているようだし、安心したわ」


 キンッと剣を鞘に収める。


「ニコは裏ね。ちょっと顔を出してくる」

「ああ。……その、さ、リン」

「ん?」

「ありがとよ。おかげでオレは犯罪者にならずにすんだ。それに市民権も得て、ニコとも結婚できるようになった」

「よかったね。でもそれはヤーコブの努力よ」


 あたしは何もしていない。


「ニコを泣かさないでね。もしいい加減なことをしたら叩っ斬ってやるから」


 そう言って背を向け、ヒラヒラと手を降る。

 と。


 ――――ガキィン!


 ヤーコブが短剣であたしの背中を襲ってきたので、弾き飛ばしてやった。

 喉元に剣先を突きつける。


「く……ッツ!」

「生意気よ」

「参った」


 剣を鞘に収めると、ヤーコブがフーッと息を吐いた。


「まだ当たんねぇか」

「うん。食べ放題はお預けだね」

「んなの期待してねぇよ」

「そう?」

「……なぁ。オレ……どうやったらお前に恩を返せる?」

「はぁ? 何それ」

「オレたちがお前とハイジさんから受け取った恩はデカすぎる――お前らが生きてるうちに返さないと寝覚めが悪いだろ」

「バカね。ハイジはそんなこと求めてないわ。あたしもハイジの命令に従っただけ。恩を感じる必要なんてない」


 だけど、ヤーコブは俯いて唇を噛んでいる。


「でも、殺気を隠して攻撃できるようになったじゃない。ちゃんと成長してるよ、ヤーコブ」


 あたしはそう言って、今度こそヤーコブのもとを後にした。


* * *


 教会の裏は四方を壁に囲まれた庭になっている。

 ギルド裏の訓練場みたいに開けてはおらず、雑木が生えていたり茂みがあったりして、ほとんど整備されていない。

 だけど、その複雑な環境をうまく活かして、子どもたちは訓練に勤しんでいた。


(おお……すごいなこれ)


 ニコが子どもたちに攻撃されていた。

 その全てをひょいひょいクネクネと余裕を持って避けているニコ。

 子どもたちは真剣な顔つきだけど、ニコはどこか楽しげな表情だ。


 何がすごいって、全員が無言なこと。

 あたしが教えていた頃は、どの子も「やー」とか「ちくしょー」とか余計な声を上げていて、とうとう矯正することができなかったのに。


(上位者の訓練って、側から見てるとこんな感じなのか)


 お世辞じゃなくなかなか見応えがある。

 それもそのはず、ニコは剣の才能が認められ、ペトラからも免許皆伝をもらっているのだ。

 級は五級。パーティを結成できる資格を持っている。

 エイヒムの冒険者としては、上位五パーセントに入る実力者だ。


「はい、やめ!」


 ニコがそう言うと、子どもたちは「はーっ」と言って倒れ込んだ。

 どうやらそこそこハードな訓練だったらしい。


「こーら、まだ終わってないよ。ちゃんと並んで!」

「「「はーい」」」


 ニコに言われて子どもたちはあわてて立ち上がり、ニコの前に並ぶ。

 ニコは木剣を構えて、鋭く言った。


「じゃあ、『かまえ』ッツ!」


 ざっと棒切れを構える子どもたち。


「『打て』ッツ!」


 全員でニコの剣に打ち込む。

 ここここん、とちょっと頼りない音が響いた。


「はい、終わり。おつかれさまー」

「「「ありがとうございました!」」」

「明日も頑張ろう!」

「「「はいっ!」」」


 パチ、パチ、パチと拍手をする。


「リンちゃん!」

「や、ニコ」

「いつから見てたの?!」

「さっきだよ。すごいじゃない、見事な訓練だった」

「やだ、恥ずかしいよ」


 照れながら、汗を拭きつつやってくるニコ。


「あたしより教えるのは向いてそう」

「それはわかんないけど、ペトラよりは上手だと思うよ」

「あははは!」


 ペトラは教えるのが下手なのである。

 そのせいでトゥーリッキ氏に絞られている。


「最後のあれ、何?」

「んー、実際に当てる経験って大事だと思って。まだ打ち合いには早いから、あたしに向かって思いっきり剣を振る練習中」

「なるほど、いいね」

「リンちゃんとの訓練のときさ、全部避けられてたから当てる感覚がわかんないままだったんだよ」

「あー」


 確かにそうかもしれない。

「一撃でもかすったら、全員に奢り」という誓約のせいで、あたしは結局一度も当たってやることはなかった。

 それでは肝心の「打つ感覚」が手に入らない。

 

 その後、ペトラとの訓練に代わって、ニコは強くなった。

 あれは「打ち方」を学んだから、ということか。


「そういうことなら、打ち合ってみる?」

「え、今から?」

「疲れてるならまた今度でもいいけど」

「まさか。まだまだいけるよ」

「じゃあ、子どもたちに見せてやろう」


 見渡すと、どうやら噂の『黒山羊』が珍しいらしく、子どもたちがもじもじしながらこちらを見ている。

 ニコの実力を見せつけるいい機会だ。

 それに、師匠の本気を見れば、きっといいモチベーションになる。


 あたしは近くにいた少年から棒切れを受け取る。

 お金がないからだろう、ただの枝でしかないが、よく打ち合っているのか表面が綺麗に削れている。


 うん、いい『剣』だ。


「よーし、今度こそ負けないよ」

「あたしも手を抜くつもりはないよ。能力はなし、魔力も使わず、で勝負だ」

「お手柔らかに。じゃあ、よーい」

「はじめ!」


 二人して一気に合間を詰めて鍔競り合いに入る。

 ガキン!……と木と木の当たったものとは思えない音が響いた。

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