13
エイヒムの学校設立のため、月に三回程度の会議が行われることとなった。
今までなら「毛皮が溜まったから」とか「燻製が仕上がったから」など、こちら都合でのエイヒム入りだったが、これからはギルド指定の日時で向かう必要がある。
これが想像よりもストレスが大きい。
手間としてはどうということはない。
指定されなくとも似たようなペースでエイヒムに用があったわけで、つまり大して変わらない。
だけれど、これまでは日々の生活に追われつつも、必要になった時に不定期で良かったことが長期的な予定として組み込まれてしまった。
これがしんどい。
今まで自分たちがどれだけ自由に生きていたかがよくわかる。
(考えてみれば日本に居た頃って、時間は予定で埋め尽くされていたよな)
(そりゃストレスも溜まるわ……人間、予定なんて無いほうが普通なんだよ)
と言っても「予定が無い」だけでこの世界、段違いに忙しい。
なにせ毎日必死にならないと食事もままならないし、冬になれば薪を大量に消費するから夏のうちから毎日集めなければならない。
他から買うにしても値段が高い。
ついでに傭兵稼業という身分である。戦争が起きれば他の何もかもをほっぽり出して戦いに赴く必要がある。
予定なんてあったものでは無い。日々生きるのが精一杯だ。
だけれど、ちょっと先の予定が決められただけで強烈なストレスを感じるのだから、本来人間というものは未来を考えながら生きられるほど合理的な生き物ではないのだろう。
日本は豊かで便利だったけれど、その代わりに割に合わない何かを差し出していたように思う。
つまり。
(教師なんてあたしに一番向いてない仕事だと思う……)
ということなのだが、ハイジは「するべきことは変わらない」と平気な顔だ。
「だいたい数学だって別に得意じゃないんだけどな」
戦い方ならともかく(それだって自己流なので怪しいものだが)、何なんだ「論理的な考え方を教える」って。
意味がわからないぞ。
「ペトラのところで帳簿をやってたと聞いたが」
「……あれか!」
教員については、ペトラも内定していたはずだ。
ということはペトラか。いらんことをトゥーリッキさんに吹き込んだのは。
がっくりと項垂れる。
「まぁどうせ逃げられないんだし、やると決まればやるだけよね……」
逃げても無駄なら逃げない。
それだけだ。
(……ってこういう考え方だから妙な期待をさせてしまったのかも)
とりあえずは、寂しの森のスローライフに「予定」という楔が打ち込まれてしまったというわけだ。
さらば自由の身よ。
* * *
ギルドに到着すると、ミッラにすぐ奥に通された。
エイヒムでは未だ戦勝ムードが抜けきれていない。捕まってしまえば大騒ぎに巻き込まれてしまう。それは避けたい。
だからこうした気遣いはありがたい。
「こんちゃ」
トゥーリッキーの部屋のドアを開けると
ユヅキだった。
「リンちゃん! ハイジさんも!」
「ユヅキ!」
ユヅキは花のような笑顔であたしたちを迎え入れてくれた。
ユヅキはいつもの化粧を落としてすっぴんだった。
服装は相変わらず色っぽい。まず黒いワンピースというのがもうこの世界では珍しい。腕も肩から剥き出しで、それもこの世界の感覚だとちょっとはしたない。
そのかわり全体にガリガリに痩せている。服装の色っぽさとプラスマイナスゼロって感じ。お胸についてはあたしよりも慎ましいというか、完全に平坦である。
うん、陸上向きの体型だ(褒め言葉)。
対してあたしはなんの色気もない戦闘服の上下である。
中身もお察し。
武器は
ユヅキははしゃいだ様子で「座って座って」とあたしたちをソファに招き、ニコニコしている。
「リンちゃんが受けてくれて良かったぁ」
「断ったつもりだったんだけどね……もしあたしが断ってたらどうしてたの?」
「そりゃあ説得してたよ。まぁ、一人でも受けるつもりではあったんだけど……」
「あ、そうなの?」
「だって、せっかく
「まぁね」
本当はあまり日本のことを思い出したくないんだけれど、同志を求める気持ちもよくわかる。
それにユヅキは職業柄ほとんど娼館に閉じこもりっぱなしのはずだから、別の用事で出歩くのは新鮮であろう――「普通の世界」に憧れがあるのかもしれない。
あたしの仕事もある意味「普通」ではないから、その気持ちはわかる。
それに、この世界じゃ娼婦に偏見は少ないとはいえ、普段なら出歩くだけで関心の対象になるだろう。
目や髪の色も含めて。
それならそれで、もう少し普通の格好で出歩けばいいのにと思わなくもないが、そこは私にはわからない事情があるのかもしれない。
それにユヅキのことは個人的に好きだったりする。
同郷がどうとかというよりも、女性として可愛いと思う。
もうとっくに三十を過ぎているはずなのに、あまり年上という印象がないし、ハイジのことが好きで信頼しきっている姿に共感が持てる。
それならあたしをライバル視しても良さそうなのに、仲良くしようとしてくれるのも嬉しい。
(仲良くというか……なんだか懐かれたって感じだけど)
だからまぁ、あたしとしても個人的な友人として仲良くしたい。
だけど、あたしはあえて意地悪な顔を作ってユヅキを小声で突っついた。
(そんなこと言って、本当はハイジを誘いたかったんでしょ?)
(まさかぁ。っていうか……まさかハイジさんが了承するとは思ってなかったもの)
(あれっ? そうなの?)
(うん、だってあたしが誘ったときに「断る」ってはっきり言ってたもの)
(!?)
思わずバッとハイジを見るが、トゥーリッキさんと話し込んでいてこちらに気づいた様子はない。
(いや、何が「必要なことだからだ」だよ、あんたも受ける気なんてなかったんじゃないか)
(だったら断ってくれたらあたしもこんな面倒なことをしなくて済んだ……あっ!)
あたしはなぜハイジが受けたのかに気づいた。
――――お前もやるというのであれば、断る理由もないな。
ボッ、と顔に火がついた。
その様子を見たユヅキは顔を半分隠しながら「リンちゃんかわいー!」などとキャーキャー騒いでいる。
うるさいよ!
* * *
しばらくして、かなりの人数が集まった。
見知った顔も多い。
ヴィーゴさん、ヘルマンニ、ペトラである。
よく知らない顔の人も混じっているが、ポヒュ……何とかとか、ニャ……何とかみたいな、なんだか難しい名前の人が多くて覚えられない。
ガヤガヤしていたが、トゥーリッキ氏がパンパンと手を叩くとスッと静かになる。
(うーん、どこかの空飛ぶ家庭教師を思い出す姿だ……)
などと考えるが、それを口にしたところで同意を得られることはない。
それからトゥーリッキ主体で自己紹介だの何だのが続き、学校の概要が発表された。
「じゃ、学校ができるのにまだ数年かかるんですね」
「他領の貴族なども呼ぶ予定だからな。それなりの施設が必要だ」
「へぇ……」
何でも学校はそれなりの規模で、かなり立派な建築物になるという。
曰く、経済学の授業でライヒ伯爵も教壇に立つというから、本当にライヒ肝入りの事業なのだろう。
と、トゥーリッキ氏が言った。
「それまでにみなさんにやっていただくことがあります」
「何でぇ、やることって」
ヘルマンニが反応する。
どうもヘルマンニとペトラもトゥーリッキ氏のことは少々苦手らしく、随分とおとなしい。
トゥーリッキ氏が続ける。
「
「テキスト?!」
「はい。ライヒ卿はすでにかなりの数の書籍を執筆しておられます。ですが、経済学以外の分野については、テキストらしいテキストが存在しないのです」
「それは、他領にも?」
「聖書、歴史書、数学、錬金術など、あるにはありますが……」
トゥーリッキ氏が少し眉間に皺を寄せる。
「……信頼に足るものはありませんでした」
「どういうことだ?」
「いろいろな権力者の手によって都合よく歪められたものに価値などありません。数学は稚拙で、錬金術に至っては……いえ、私の口からは申し上げません」
「な、なんだか恨みがこもってますね……」
「とにかく、この私が参加するのであれば、既存のテキストは一切当てにはしません。エイヒムをヴォリネッリの教育の中心にしてみせます」
「は、はぁ……」
「でもあたし、字が書けないんだけど……」
ペトラが恐る恐る手を上げるとトゥーリッキーはにっこりした。
「戦闘教員にはそこまで求めていません」
「ほっ、良かった……!」
「口頭で構いません。文書としてまとめるのはこちらで」
「免除じゃねぇのかよ!?」
(うわぁ)
(どの人もこの人も、そういう仕事に向いてるように見えないもんなぁ)
皆が戦々恐々としている中、ハイジはどこ吹く風である。
「ハイジは? 文章を書いているところなんて見たことがないけど」
「書けなくもないが、向いてはいないだろうな」
「その割に平然としてるけど」
するとトゥーリッキ氏がそれを引き継いだ。
「ハイジ君については、ライヒ卿より「変に文章など書かせるな」と仰せ使っております」
「な、なんで?」
「見かけたらいつでもかかっていってよい、
「は、はぁ……」
……戦い方は他の連中に教えさせて、ハイジで試すってわけか。
「……ていっ」
不意をついてみたが、パシッと掴まれた。
なるほど、変に文章化するよりも実践の方が向いているのは間違いなさそうだ。
子供たちを鍛えるときもずっとダンマリだったし、実践で鍛えた方がモノになるというのはヤーコブたちやあたしで実証済みだ。
「で、あたしは……」
「数学と、論理学についてお願いします」
「ですよね〜……」
どうせ逃げられないと思っていたがトゥーリッキ氏、『はぐれ』の知識を端から端までしゃぶり尽くすつもりのようだ。
「一緒にがんばろ! リンちゃん!」
「ユヅキ……」
「エイヒムにいる間は、
「あ、ありがとう……」
なんだか妙なことになってしまった。
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