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ハイジとの訓練は座学的なものが中心となった。
あたしとしては実戦形式のほうが好みではあったが、傭兵として、あるいはこの森で生きていくならば知っておかなければならないことは多い。
あたしが森ではなくエイヒムで過ごすことを期待していたハイジは、これまでそうしたことを教え損ねていたという。
これもようやく相棒として認められた証として喜ぼう。
そもそも少し前までは傭兵になることも頑なに認めようとしなかったハイジだ。
大きな変化といえよう。
* * *
木箱に入れたトナカイの乳をプロペラのような道具でパタパタと混ぜる。
いわゆるバター作りだ。
トナカイの乳は脂肪分が多い。そのまま飲んでもめちゃめちゃ美味しいが、牛乳に慣れていると少しクドく感じる。それに日持ちしない。
しばらく暖かいところで放置すると乳は上下に分かれる。上が生クリームだ。下の方は普通の牛乳みたいな乳脂肪が少ない状態になるので、それは飲むなり料理に使うなりして消費する。使うのは生クリームの方だ。
生クリームと言っても泡立てたらトロリとしたりはしない。ただの脂っこいミルクみたいなものだ。
これを木箱でパタパタやると、だんだんと脂肪と液体に分かれていく。
これがバターだ。
頑張ってどんどん取り出す。さすがトナカイの乳。見た目三分の一くらいはバターが取れる。
とれたてのバターをハイジのパンに乗せて食べる。
「『至福!』」
思わず日本語で叫んでしまった。
何だこれは。神々の食べ物か。
「太るぞ」
などとハイジは言うが、この世界は運動量に対して食事が少なすぎると思う。
それでも痩せたり太ったりしないので、きっと何らかの補正が働いているのだろう。
「だって火を通しちゃったら味わえないじゃないの」
できたバターは集めて焦がさないように弱い火にかける。
すると澄んだ部分と濁った部分に分かれるのでさらに澄んだ部分だけ掬い取り、また弱火にかける。
水分を完全に飛ばして澄ましバターにするのだ。
そして瓶詰めにして無菌状態を作ってやれば日持ちするトナカイのギーになる。
これがキッチンに常備されていたチーズっぽい香りのする白い油の正体だ。
こうなるとパンに乗せて食べるのには不向きだ。油っぽすぎる。
出来立てのバターを乗せたパンは、バター作りの過程の中の一瞬の贅沢なのである。
先日仕込んだベリーのジャム――いつも肉に乗せているやつだ――と一緒に乗せて食べると、それもう天にも昇るお味である。
それを見たハイジは肩をすくめ、薪割りのために出ていった。
(美味しいのに……)
そんなことを思いながら、あたしは残りのトナカイ乳を掬って箱の中に流し込んだ。
* * *
早朝から昼にかけてバター作りに勤しんだあたしは、昼食後に自主練を兼ねて森の探索に出かける。
ハイジは留守番――もはや狩では連れ立って歩く必要はない。なんなら一人のほうが効率が良い。
つまり免許皆伝というか「もはや教えることは何もない」状態なのだという。
たしかに、山側はともかく寂しの森に危険なんて存在しないわけで、言いたいことはわかる。
でも。
「どうせだったらデートがてら一緒に狩をしたかったなぁ――っと」
あたしの射った矢がウサギに突き立つ。
結局あたしは三本以上の同時射ちは覚えることができなかったが、時間を短縮すればほとんど同じ効果がある。
最近は大型は駆り尽くしてしまったが、ウサギやら猪はまだ多い。
それでも年々魔物の数は減っているらしく、ハイジ曰くこの調子で行けば魔物の領域は二、三十年で半減するだろうとのこと。
エイヒムの近くに魔物の領域は他にないのでそうなればエイヒムは安全な土地になる。ハイジが森に住む必要もなくなる――と思ったのだが、ハイジには森を出る意思はないらしい。
「というより、この辺りはおれの土地だ」
「え」
「ライヒ伯に任された」
「それって厄介な土地を押し付けられてない?」
「いや、武勲をあげた時に褒美に欲しいと言ったのはおれだ」
「……なんでまた」
「誰かがやらなければならないことだからだ」
「……物好きな……」
というわけで、この辺はハイジの持ち物なんだそうだ。
まぁいい。
ハイジにはそう言うところがある。
「どうしたいか」よりも「どうすべきか」を優先するというか、自分よりもコミュニティの利益をを優先すると言うか。
最初は滅私奉公なのかと思ったが違う。
ハイジは個人ではなく世界でものを考えている。
誰かのためとかそういうのではなく、
プライベートな望みを叶えることなんかよりもずっと欲深いのかもしれない。
単純にそれにかかるコストを計算に入れないだけで。
そんなわけで、魔物の森を散策しながら、あたしは一人で狩を続けている。
しばらく狩を続けていると荷物(獲物)が増えて動きが取れなくなる。
そんな時には一人でお茶を沸かす。
エイヒムで買った携帯焚き火台にマグカップで掬った小川の水を乗せ、湧いたらハーブを突っ込む。
一口啜って、はぁと息を吐く。
冬とは全然違う夏の森。
暑さとは無縁だが、厳しい寒さからも解放され、なんというか快適である。
あたしとしてはあの一面の雪景色も嫌いではないのだが、夏には夏の良さがある。
魔力を広げるとそこらじゅうに命の気配がある。
そのほとんどは小さな魔物たちだ。
さらに広げてみても、ハイジの気配は見つからない。気配遮断しているのだろう。
しかし、なぜかハイジの気配がわかる。
森全体を覆うような、うっすらとした安心感。
なんとなくあたしがサボってお茶をしているのもバレているような気がするが、気にしない。
やることはやっているし、自主訓練にも余念はない。
ハイジも何も言わない。
自由にさせてもらっている。
お茶で魔力を補充すると、あたしは焚き火を消す。
熱を持った焚き火台を小川の水で洗ってケースに入れる。
そして山盛りのウサギたちを担ぎ、小屋を目指す。
この数だと、捌いて肉の処理をして、毛皮を洗って防腐処理をするのに二〜三時間くらいはかかる。
そろそろ急がないと夕飯までに終わらないかもしれない。
先週の塩漬け肉の処理はハイジがやってくれているだろうが、夕飯はあたしが作りたい。
あたしは小屋への道を急いだ。
* * *
夕飯後、矢や剣の手入れも早々に、ブーツの手入れをする。
この世界のブーツにはゴムは使われていない。靴底も含めて全て魔獣の革でできている。
接着にも魔物から取れた
今履いているのはあたしの足に合わせて職人に作ってもらった夏用だ。
どうやら甲が薄く幅が狭い、細長いあたしの足だと既製品は合わないらしい。
仕方ないのでエイヒムの職人に作ってもらったが、出来上がるのに半年くらいかかった。なんでもそれでも急いで作ってくれたらしい。
時間がかかっただけあって履き心地は悪くない。そして一生物だ。ちゃんと手入れをすれば、痛んだところを補修しながら一生履き続けられる。
ブーツの手入れには、主に溶かした蝋を使う。
構造上中に水が入ってくることはないが、革自体が水を吸う。
そこで蝋を塗り、そのあと布でごしごし擦ってやると、撥水効果を持つピカピカの革になる。
とくに靴底を支える糸の部分と編み上げ部分は徹底的に磨く。
手入れを怠って水溜りでも踏んだら最悪だ。
布でブーツを磨きながら、傷んだところがないかチェックする。
流石に革製品の補修までは自分でできはしない。プロに任せた方が良いからだ。
しかし傷みの発見は自己責任である。
先日の山側探索で岩場を歩いたので靴底をしっかりとチェックだ。
(傷だらけだけど大丈夫そう。次エイヒムに行ったらチェックしてもらおう)
靴の修繕には時間がかかる。
一応は予備もあるが冬用なので分厚くて重い。
もう一足作ってもらった方がいいかもしれない。
そうして、森の夜は更けていく。
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