3

 座学が終わるころには、パン生地が完成していた。

 お好み焼きの生地っぽさは消えて多少は形を保つくらいの硬さにはなっているが、それでもめちゃくちゃ水っぽく見える。

 バークスライム(樹皮に擬態して人を襲う粘菌のモンスター)に似てる。


 ハイジはかごに布をしき、大量の粉をふると、そこに丸めた生地を入れた。そこにさらに粉をふり、布をかぶせる。

 そうして、あとはしばらく寝かせてから焼けば完成だそうだ。


 こう見ると数日がかりで工程も多くて大変そうだが、実際に作業する時間はほとんどない。パン種は混ぜて放置するだけだし、パン生地の世話も1時間に一度軽く混ぜているだけだ。

 なるほど、忙しい生活をしている人間にとっては、時間の管理がシビアなパンよりも、こういう合間時間を使って作れる、時間にシビアでないパンの方が向いているだろう。


 その上美味しいのだから言うことなしだ。


* * *


 掃除やら自主訓練やらで数時間経つ頃、パンを焼くぞとハイジに呼ばれてキッチンへ向かう。

 見れば生地が軽く膨らんでいる。

 それを鉄板の上にひっくり返し、ナイフで切れ目を入れて焼くけば出来上がりだそうだ。


「ついでだ。今日はいつもより少し凝ったことをしてみるか」


 そう言うとハイジはナイフを使って、スッスッと手際よく切れ目を入れていく。

 普段は端から端まで一本の切れ目が入っているだけなので、どうやら切り方を変えているらしい。


 切れ目を入れ終わると、外の釜に入れて焼き始める。

 釜と言っても、燻製を作るときに使ういつものレンガを積んだだけの簡易的なものだ。

 鉄板を入れるとハイジはレンガに水をふりかける。

 ジューと勢いのいい音がして、釜の中が蒸気で満たされる。


 割といい加減な作りなので、たまに煙突に手を翳したり、薪を放り込んだりと、細かい温度調整が大事になる。その場を離れて温度が上がりすぎたりしたら、一週間もかけて作った貴重なパンが台無しだ。

 そして温度管理の合間の時間が勿体無いらしく、ハイジはすぐ隣で薪を割り始めた。徹底的に時間の無駄を省くつもりらしい。

 薪ならあたしがレイピアで切ればいいと思うのだが、今は釜の温度を覚えることに集中しろと言われてしまった。


 だんだんと甘く香ばしい香りが漂ってくる。

 だが、いわくパンを長持ちさせるため、焦げる寸前まで焼く必要があるとのこと、まだまだ時間はかかりそうだ。


 パンの香りが煙突の煙と混じって空へ消えていく。

 コーン、コーン、と薪を割る小気味いい音が森に響く。

 

 一抱えもあるような巨大なパン。

 これでだいたい10日分くらいになる。特徴的な爽やかな酸味も、腐ることを防いでくれるらしい。

 寂しの森だとカビが生えることはほとんどないが、エイヒムで買ったパンだと何故か数日でカビが生えることが多い。

 そういえば買ってきたパンをハイジは表面を焼いたりして腐らせないように工夫していたような気がする。


「そろそろいいだろう」


 そう言ってハイジが釜を開ける。

 黒々とした巨大なパンがバチバチと音を立てながら釜から出てくると、プンと香ばしい香りが鼻をついた。


(おお)


 そこにあるのはいつもの一本の切れ目がぱっかりと割れた無骨なパンではなく、細かい模様の入った芸術品みたいなパンだった。

 あたしが歓声を上げると、ハイジは


「麦の穂の模様だ」


 などと言いながら、パンをひっくり返してこんこんと叩いたりして、仕上がりをチェックしている。

 なんでもヴォリネッリの伝統的な模様らしい。

 切れ目の入れ方で見た目だけでなく食感も変わるとかで、こうした細かい模様だと膨らみは悪くなる代わりにどっしりとした食べ応えのある仕上がりになるのだそうだ。


「悪くない」


 ハイジは満足そうにそう言って、パンを小屋に持っていく。

 焼きたてに齧り付きたい欲求はあるが、翌日から翌々日くらいが食べごろなので、今日は食べられない。

 少し残念だが、パンづくりの一部始終を見せてもらえて満足だった。


 最後は片付けだ。

 ハイジいわく、戦争でもパンでも何でも、準備と片付けこそ一番大事で一番難しく、それ以外の作業自体は大したことはないのだそうだ。


 あたしは窯を壊して冷却を始める。

 煉瓦はカンカンに焼けているので自然冷却を待つしかない。広げて冷めやすいようにしておく。

 消し炭が残っているので素焼きの壺に入れて密閉し(焚き付けに使うのだ)、残りの灰は小屋に燃え移らないように散らして軽く叩いて消火しておく。


 パンを焼くにも、燻製づくりでもこの煉瓦を使う。

 煉瓦はこの小屋の生活基盤を支える、大切な部材なのである。


* * *


 翌日の朝、出来立てのパンをナイフで切って口に運ぶ。


(うまー)


 香ばしく焼けた分厚くて硬い皮の歯応え。もっちりとした灰色の生地は甘くて、塩が効いていて、爽やかな酸味がたまらない美味しいさだ。

 とくにできた翌日のパンは最高だ。とくに甘さが違う。

 思わず目を閉じて「んー!」と声にならない声でバタバタ暴れて堪能していると、ハイジがパンで何やらやり始めた。


「どうしたの?」

「今回は上出来だったからな。少し遠出しよう」

「へぇ、お弁当ってこと?」

「そう、BENTO だ」


 ハイジはそう言いながら薄く切ったパンに乳脂を塗り、焼いた野菜や干し肉、そこらでちぎってきた野草を挟み始めた。

 野菜は細長いレタスやタンポポみたいな葉っぱで、夏の間はそこらに自生している。

 シャキシャキとみずみずしいが、だいたいどれも強い苦味がある。

 慣れると美味しく感じるようになったが、初めて食べた問いは閉口したのを覚えている。

 それでもサンドイッチににすれば、きっとすごく美味しいに違いない。


「これは美味しそうね」

「辛子がいい頃合いだからな。試食を兼ねている」

「頃合い?」

「ペトラの店でも出しているだろう。最近はおれが作ったものを使っているはずだ」

「あの粒マスタードみたいなやつ、手作りなの?!」


 ペトラの店で腸詰やポトフに添えてるやつだ。

 瓶詰めになったマスタードをたっぷりとパンに塗る。


「去年から作り始めた。簡単に作れる。良い値で売れるぞ」

「そう……」


 億万長者のくせに細かい男である。


* * *


 お弁当を持ってお出かけといっても、ピクニックとは縁遠い険しい行程である。

 山の方へと進むと白樺が少なくなっていき、代わりに低木や苔が多くなる。

 これは山側には湧水や小川が多く、湿気が多いためだ。

 あと、山からの吹きっさらしで、背が高く木質が弱い白樺が育ちにくいのだ。


 ゴツゴツとした岩場を歩きながら、人を襲う大きさの魔物を狩っていく。

 ジャッカロープやマーナガルムは少なく、代わりにネズミやカニみたいな小さな魔物が増える。

 魔物は基本的に人を見れば例外なく襲ってくるが、このサイズになると近寄って来なくなる――というか、ハイジとあたしの魔力のせいで近寄って来れないのだ。


 ではこの辺に大物がいないのかと言うとそんなことはなく、爬虫類や両生類の大型魔物が出るらしい。

 見たことはないが。

 なお、この世界では爬虫類と両生類の区別はなく、イモリもヤモリもサンショウウオも同じトカゲ扱いである。


 あと、湿気が多いので粘菌のモンスターが多い。

 バークスライムみたいな凶悪なものはそう多くないが、小さな子実体から胞子をばら撒いて人を昏倒させて食うようなやばいやつもいる。


「どこに向かってるの?」

「もうすぐだ。あの坂を登った向こうに小さな谷がある」


 こんな足場の悪い道なき道だというのに、ハイジは全く危なげなくまっすぐ歩く。

 なぜかいつもより大きな荷物を背負っているくせに、まるで平地を歩くかのごとき自然さである。

 こちらはブーツが滑らないように慎重になっているというのに――といっても万一転んだところであたしが怪我をするわけもない。

 頑張ってハイジに追いつく。


「ここだ」

「……!!」


 そこには小さな小さな小屋があった。

 一見すると物置小屋くらいのごく小さな小屋。

 湿気で木材が腐ったようにも見えるが、しっかりとしている。

 使われている木材が太くて立派だからだろうか、崩れそうな頼りなさはない。

 屋根が完全に緑の苔に覆い尽くされている。

 窓は小さく、割れない様にだろうか、木の板が打ち付けられている。


 なんというか、少しワイルドだけどメルヘンチックな見た目だった。


「なに? この建物」

「夏の間しか使わないが、山側を探索する時に寝泊まりするための簡易的な小屋だ。あまり長く放っておくと崩れてしまうので、たまにこうしてメンテナンスに来ている」

「え、ここで寝泊まりするの?」

「そうだ。理由があってな」


 そう言って、近くの岩の上に大きな荷物をどさりと置いた。

 ということは。


「もしかして、今日もここでお泊まり?」

「そうなるな」


 なんと、ハイジと二人っきりでお泊まりが決定していた。

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