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森で生きていくために必要な知識は、戦いについてものばかりではない。
たとえば魔物の肉の処理。
毛皮の防腐処理。
燻製の温度管理。
ジャムの煮詰め方。
戦闘服を目立たない色に染めたり、生地が傷めば繕ったりもする。
武器の手入れはもちろん、ブーツや脛当てなどの革のケアも大事な作業だ。
そして今日はいよいよ、これまで謎に包まれていた「ハイジのパン」の秘密を教えてもらえることとなった。
「ハイジのパン」などというと、どこぞのアルプスの少女が食べているふわふわの白いパンをイメージしそうになるが、こちらのハイジは少女ではなく肉食動物みたいな筋肉の塊である。
傭兵ハイジの作るパンはふわふわどころか、黒々とした焦茶色の鎧のような硬い皮を持つ、中がどっしりと詰まった重たいパンである。
めっちゃ硬い。そして慣れるとこれがめちゃくちゃ美味しい。
もはやふわふわのパンでは満足できなくなるほど美味しい。
その謎が――今解き明かされる!
* * *
「パンに必要なのは粉と水と塩だけだ」
「え、イーストは?」
たしかパンはイースト菌とかいうのを使って膨らませていたはずだ。
当時、陸上ばかりであまり興味もなかったが、母親がたまにパンを焼いていたのでそのくらいは知っている。
だが、ハイジには意味がわからなかったらしい。
「イーストとはなんだ?」
「え? えっと……」
(そもそも微生物という概念がないんだよな、
拙い知識を総動員し、四苦八苦しながらなんとか説明する。
どうやらこちらではイーストを使わず、かわりにパン種というものを使って作るのが一般的らしい。
そういえば戦争から帰ってきた日、瓶に入ったパン種(あたしには腐ったスライムみたいに見えた)が酸っぱくなりすぎたと言って処分していた。
パン種は、小麦粉と水を混ぜて作る。
最初は冗談かと思ったが、本当にそれだけだった。
あとは毎日少しずつ粉と水を足して混ぜていくと、だんだんと気泡が発生するようになる。
五日もするとブクブクいいはじめるので、それを使ってパンを作るという。
なんでももっと長期間育てた種で作ると風味が断然よくなるらしい。
といってもハイジにとってはパン作りはあくまで栄養補給のためのものなので、あまり熟成させずにさっさと使ってしまうようだが。
なお、瓶は温度管理のためにハイジの自室に置いてある。
何気にハイジの部屋に入るのは初めてでどきどきしたが、見ればベッドと本箱しかない、極限まで無駄が削ぎ落とされた、何もない部屋だった。
あたしはがっかりした。
これと比べたら殺風景だと思っていたあたしの部屋も随分と飾り気が多いくらいだ。
あたしの部屋には小さいながらもテーブルと椅子もある。いろんなところにレリーフが彫られてているし、壁には鏡がかかっている。
それと比べてハイジの部屋ときたら徹頭徹尾、休息しか考えていない。
本箱だけはなかなかに立派だが、あとは剣と弓、それに床にいくつか瓶が並んでいるだけだ。
あたしは早々にそこを立ち去ることにした。
* * *
そうやって育てたパン種をハイジは水で薄め、粉を加えて混ぜ始めた。
なんだかデロデロのお好み焼きの生地みたいだった。
それに色が灰色っぽい。
あたしの知ってるパン生地と全然違う。
母親が作っていたパンは確か、もっとお餅みたいな感じだった。
「随分水っぽいのね。これでちゃんとパンになるの?」
「ああ。何度か捏ねることを繰り返すうちにちゃんとパンになる」
「へぇ……」
「この生地は水が八割ほどだが、お前なら六〜七割くらいのほうが作りやすいだろう」
「そんな適当でいいの……?」
ハイジがお好み生地に塩を加えると、少しだけパン生地っぽく変化した。というか、長芋をすりおろしたとろろ汁みたいに、液体なのにひとかたまりな不思議な物体である。
この作業を休ませながら数回繰り返すらしい。
* * *
生地を待っている間に座学の続きである。
「じゃあ、どうすれば敵の能力を見破れるの?」
「観察するしかない。能力を見破る能力など存在しないからな」
「えー」
まぁ、この世界に存在する魔術の特性上、それはそうだろう。
一人につき一つの能力しか手に入れられない上に、あまり複雑なことはできない。
あたしみたいに複雑な能力を持っているように見えても、それは使い方の問題で、実際はシンプルな一つの現象でしかない。
すなわち、自分の中に流れる時間を一時的に早めたり遅めたりするだけだ。
自分の中に流れる時間を一時的に短縮する。すぐに元に戻されてしまう。
自分の中に流れる時間を一時的に引き伸ばす。すぐに元に戻されてしまう。
つまり、世界にとって辻褄の合わなくなることはできない。
これはあたしに限らず、全ての能力がそうであるらしい。
そういえばハイジの能力も時間に影響を与えるものだ。
近い将来に自分に起こりうる出来事を、体験として前借りする能力。
体感を伴う予知。
考えてみればこれ以上厄介な能力もないだろう。
しかし、現実にはなんの影響も与えない、ささやかな能力でもある。
「観察かぁ……戦場でそんな余裕あるかな……」
「能力者と出会ってしまったら、特別な理由がないかぎりすぐに逃げろ」
「え、逃げちゃうの?」
びっくりして聞き返すと、ハイジは「当然だ」といって頷く。
「逃げるのも戦闘の技術の一つだ」
「そりゃそうかもしれないけど……敵前逃亡にならない?」
「いや、そのままやられてしまう方が問題だ。離れて観察し、勝ち筋を見つけたら倒せ」
「その間に仲間の兵たちが殺されちゃわない?」
「自分がやられれば、もっと多くの仲間が失われる」
いつだったかハイジは「人の死は数えるもんじゃない」と言っていたが、こういうところは現実的だ。
実際今回の戦でも、ハイジやあたしがやられればハーゲンベックとの戦いは長引き、ライヒが勝つことは難しかっただろう。
でも感情的にはなんとなく抵抗がある話だった。
「逃げたら負けとでも思っている顔だな」
「まぁね、他の兵が殺されるかもしれないのに尻尾巻いて逃げるのはちょっと抵抗あるかな」
「戦場では感情は捨てろ。
「……はい」
ハイジの強めの口調に思わず敬語で返事してしまった。
その様子を見てハイジは軽くフッと笑って、
「先ほども言ったが、敵を斬るのも、観察するのも、逃げるのも、必要な戦闘技術だ。そこに優劣はない」
「逃げるのも技術……そうかぁ」
「アレとの戦闘の場合、向こうがこちらに執着していた。悠長に観察している余裕はなかったので排除を優先した」
「なるほど?」
「必要なのは適切な判断だけだ。そこに自分の
ハイジは感情を「気分」と表現した。
そう言われてしまうと、それは戦場に持ち込んでいいようなものではないような気がしてくるから不思議だ。
「あたしにはまだそこまで割り切るのは難しいかな……」
「当然だろう。おれだって簡単ではない」
「ハイジも?」
「ああ」
「ハイジが戦闘に感情を持ち込むとは思えないけど」
あたしが言うと、ハイジは方をすくめる。
「
「ああ……」
「冷静なつもりでも、咄嗟の時に頭に血が昇る時がある。おれもまだまだだということだ」
ヴォリネッリ随一の暴力装置が謙虚なことだ。
「おれの師匠も割と感情的な人だった。意外とそんなものなのかもしれん」
「そうなんだ」
「ああ。すぐ怒るし、弟子のためなら何でもするような人だった」
そう言ってハイジは少し目を細めてみせた。
昔を懐かしむ様子に、あたしは少なからず驚きを感じた。
(ハイジが思い出話なんて珍しいこともあるものね)
ハイジのルーツ。
育てのお母様の話は聞かせてもらったけれど、青年時代のことをあたしはほとんど知らない。
「へぇ。どんな人だったの?」
あたしは興味をそそられてつい雑談に気を取られたが、
「そうだな……機会があれば話してやろう」
と、ハイジはそれをサラッと受け流した。相変わらず
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