室温のミネラルウォーター
ずいぶん丁寧な言葉遣いだった。
過去の思い出から引き戻される。
好奇心で、間違い電話を続けるのは愚かだ。
正直、電話をするために左手を上げ続けるよりも、副業がうまくいかない方が堪えた。
コーヒーを飲んでも重い体にうんざりする。もうどうにでもなれ。この女子高生が通報しないことを祈るしかない。
「友人がいたずら電話でかけてくるんですよ。正体が分かったら電話を切ってメールをするっていう遊びが、高校の頃流行ったんです。今もたまにかかってくるんです」
「ずいぶん変わったことをなさるんですね」
「なさる」とはずいぶんな言い方だ。
「もし君が本当に相談したいなら、ちゃんと番号を確認してかけなおしなさい」
もう電話を切ろうとするが、受話器の向こうからは必死な声が届く。
「待って下さい。お願いですから」
ついその声に手を止めてしまう。
本当に悩んでいるんだったら、ちゃんと訓練を受けた人間に聞いてもらうのが一番だ。
素人は、下らない講釈を垂れる。そういうものだ。だいたい俺は、他人に意見できるような生き方はしてない。
「お嬢さん、悩みなんてのは他人に相談してもどうにもならないんだよ」
本当だ。女子高生も俺も同じだ。
他人にアドバイスをもらっても、今の俺には何の役にも立たない。
「そうでしょうか」
「そうだよ。人に話したくらいで問題が解決するなら、それはたいしたことはない」
向こうが静かになってしまう。これで、電話も切れるだろう。
「でも誰かに聞いてもらいたいんです」
「友達は?」
なんでこの子は切らない。
「いえ」
「家族は?」
誰か一人くらいいるだろう。
「家族とは話しません。唯一話せる人は、仕事で忙しいんです」
全く知らない人間と会話するのは疲れるのに、野次馬根性が出てしまう。
家族と話さないとはどういうことだろう。
「今も外にいるけど、誰も興味なんてないんです」
かまってもらいたい、ということなのかもしれない。
「早く家に帰るんだ」
誰でもいいから外の人間と話したいというのは分からないでもない。ただ時間は選んだ方がいい。もう午前二時を過ぎた。
「お嬢さん、大人には悪いやつだっているんだよ。帰りなさい」
こんなことを言えば反発されるだろう。
「平岡さんは、今まで一度も私を騙そうとはしませんでした」
「何で知ってるんだ」
初めて、元気そうな笑い声が耳をくすぐる。やっぱり俺の予想は当たった。
「いたずら電話の犯人を当てるゲームです」
面白いおもちゃを見つけた、子供のようだった。
「私の正体に心当たりはありませんか」
んなもんある訳ないだろう。
喉がひりつく。パソコンの隣にあった、ペットボトルが目に入った。ぬるい水を一口飲み下す。
「ちょっとだけ付き合ってくれませんか」
懇願する言い方は、わざとだ。
ああ、俺は本当に意思が弱い。
「どんなゲームか聞かせて」
「さすが、平岡さん。そうこなくちゃ」
わざとらしく、少し高い声で言う。
一、名前を聞くのは反則です
二、期限は夜明けまで
三、質問は十個まで
四、解答権は二回まで
つまり一回しか間違えられないよ。
相手の目的が達成させられたら終了。
沈黙は五分だけ。
いつもとおんなじ。
簡単でしょ。
「あなたが好きなものは?」
「好きなものですか」
繰り返す声に、嘘をつこうという気配はない。自信があった。
このゲームを十年以上やっていたのは、夜中の目覚ましが必要だったものある。途中からは、嘘を見破って探偵気分を味わうため。
「最近はよく分からないんです」
きっと初めから相談することが目的だったんだろう。違うのか。
「辛い時は、美しいものだけを見ることにしてる」
命令されてもおもしろくないはずだ。あくまでも、俺のストレス解消法だ。
「美術館に行くとかですか?私、よくわからないんです」
「別に詳しい必要なんかない。自分が綺麗だと思うか、好きかくらいわかるだろ」
「そうでしょうか」
「あと美術館は涼しい。映画館も同じ」
電話越しに反応が届く。
笑い声を鈴を転がすとか言うけれど、本当にそんな笑い方をするなんて。
部屋が暑いせいか、すぐに喉が渇く。飲みかけのペットボトルを手に取る。
室温に近づいた水は、ゆっくりと滑り落ちて胃に納まった。
「独りで行くのは怖いです」
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