第23話 最後の戦い
偽イリーナは理性のない獣になっていた。
クラウスが制御不能云々といっていた意味がよく分かる。
人間離れした力で船長室の木製椅子を片手でつかみ、マコトに向かって叩きつけた。
椅子は壁に当たって粉々に砕け、木の破片がマコトの頭上に降り注ぐ。
マコトはテーブルの下に隠れ、テーブルや椅子を盾にしながら、隙をついては何度も偽イリーナの喉笛を突いた。
「ダメか」
しかし、強化された皮膚を貫くことができない。
船長室ではトミーやクラウスを倒すのに使ったような罠の材料も見当たらなかった。
マコトは部屋の奥へ奥へと追い立てられる。
後ろは壁で、脱出可能な扉も窓もない。
クラウスやユルゲンとの戦いで、正直、マコトの身体は限界だった。
肋骨は砕けているだろうし、肩口の刀傷も深手だ。
身動きするたびに激痛が走るし、血も止まらない。
何とか持ちこたえられているのは、マコトの強い意志の力と、偽イリーナの攻撃が荒々しく力強いものの、雑で正確性に欠けるものだったからだ。
もういいかなと、マコトは、ふと思った。
ここは個室で、扉は気密性能を有する頑丈なものだ。
このまま、偽イリーナを自分と一緒に船長室に閉じ込めてしまえば、あとは地球連邦宇宙軍の戦闘部隊が何とかしてくれるだろう、そう思った。
「マコト!」
サムとベン、そして、アイーシャとクリスが、マコトと偽イリーナの後を追って、船長室に入ってきた。アイーシャは剣を携えている。
「来るな!」
普段、戦闘訓練をしている自警団員でさえ、全く歯が立たないのだ。
アイーシャはともかく、サムやベン、クリスが戦いに参加しても、犠牲が増えるだけだとマコトは思った。
「そうはいくか!」
しかし、サムはズカズカと船長室に入ってくる。
そして、上品な木製家具に並べられた洋酒の瓶を見つけると、偽イリーナに向かって力いっぱい投げつけた。瓶は壁や偽イリーナに当たって砕け、中の液体が偽イリーナに降り注ぐ。
「私のブランデーが、秘蔵のコニャックが」
船長がクリスの後ろで呆然と呟いた。
船長室の中に強烈なアルコール臭が漂う。
偽イリーナが力任せに木製の椅子をマコトに向かって叩きつけ、壁に当たって粉々に砕ける。
マコトは椅子の破片を浴びながらも、船長の執務机の陰に伏せ、大きなケガは免れた。
マコトの眼の前に、机の上に置いてあった古風なオイルライターが落ちてくる。
船長の数少ない、そして、困った趣味である喫煙道具だ。
「これって?」
船長の趣味である強い酒と喫煙のためのライター、この二つがマコトの頭の中で結びつく。
うまくいく保証はないが試してみる価値はあるとマコトは思った。
だが、そのためには、ひと手間かける必要がある。
「この部屋のスプリンクラーを切って! はやく!」
手のひらによる攻撃をかわし、偽イリーナの喉元に突きを入れながら、マコトは叫んだ。
「わかった!」
クリスが何の疑問も持たず、弾かれたように部屋から出て行く。
一方、アイーシャは剣を手に偽イリーナへの接近を試みた。
「危ないから、敵から離れて!」
アイーシャの動きを見てマコトはそう叫ぶ。
そして、オイルライターに火をつけた。
意図が分からず、サムとベンが固まる。
船長は狙いに気づいたらしく蒼白になって叫んだ。
「危ない! みんな出口へ!」
マコトの頭部を狙って偽イリーナが腕を振り下ろした瞬間、マコトはアルコールを滴らせる偽イリーナの頭に火のついたオイルライターを投げつけた。
自分に向かって飛んでくる炎を素早く腕で振り払った偽イリーナだったが、その腕に青白い炎がまとわりつく。
「がっ」
獣のような反応で、咄嗟に炎を消そうと試みた偽イリーナだったが、身体に浴びせられた強い酒に引火して身体全体が青白い炎に包まれる。
やがて、炎は床に移り、マコトの周囲も火の海になった。
「マコト!」
「扉を閉めて! 早く!」
マコトの身を案じるアイーシャの悲痛な叫びと、他人の安全を第一に考えるマコトの叫びが交錯した。
マコトの計算では、密閉空間での火災となれば、例え偽イリーナの皮膚が炎に耐えることができたとしても、最終的には酸欠で行動不能に追い込むことができると考えていた。
そうなれば、当然、マコトも偽イリーナと運命を共にすることになる。
それでもクリスたちを救うことができるのなら安いものだと思っていた。
炎に包まれた偽イリーナは、苦しいからか、それとも憎いマコトを食いちぎろうとするためか、大きく口を開き、歯をむき出しにしてマコトに野獣のように襲い掛かってきた。
犬歯が長く伸び、まるで牙のようだ。
「!」
マコトは、普通であれば恐怖を覚えるはずの偽イリーナの形相に、大きなチャンスを見出した。ひょっとしたら相打ちではなく、完勝することができるかもしれない。
反射的に突きを繰り出し、刀の切っ先を偽イリーナの口の中、咽喉の奥へと突っ込んだ。
偽イリーナの突進が止まり、刀の切っ先は偽イリーナの首の後ろに貫通する。
『勝った』
マコトは勝利を確信した。
首を貫かれて絶命しない人間などいない。
偽イリーナの手のひらがマコトの二の腕を掴んだが、悪あがきに過ぎないと思っていた。
やがて、脱力するはずだ。
しかし、偽イリーナは凄まじい力でマコトの腕を締め上げた。骨が軋む。
「うぉっ!」
圧力に耐えかね、骨が砕けたのが分かった。
激痛がマコトを襲う。
頭がどうにかなってしまいそうだ。
おまけに偽イリーナを焼く青白い炎が、滴るアルコールとともにマコトに燃え移ってきた。
髪が焼け、睫毛が焦げる。
顔が熱くて、痛くて、息苦しい。
『ちくしょう、ここまでか』
マコトは死を覚悟した。
意識が遠のいていく。
みんなを守ることができて満足だった。
しかし、心残りはある。
クリスに告白できなかったことだ。
チャンスは山のようにあった。
そして、これからも、ずっとチャンスはあると思っていた。
サムに言われて今日か明日にでも告白しようと考えていた。
だが、もうチャンスはないのだ。
それでいいのか?
何かがマコトの心の中で閃光を放った。
急に遠のいた意識が戻ってきた。
相変わらず凄まじい力でマコトは押さえつけられていたが、最後の悪あがきに過ぎない。
よく見ると、偽イリーナの目には何の光も宿っていなかった。
亡者がしがみついているだけなのだとマコトは気づいた。
なら地獄に付き合ってやる必要などない。
マコトは必死に抗った。
「マコト!」
サムやベンやアイーシャが近くに寄ってくるのが分かった。
偽イリーナをどかそうとしていてくれる。
「マコトくん!」
聞き慣れた声が聞こえた。
マコトにとっての天使の声だ。
ガス状のものが噴き出す音が聞こえ、周囲を白い靄が包んだ。
青白い炎が次々に消えていく。消火器だ。
やがて、カランと消火器を床に転がす音が聞こえた。
亡者となった偽イリーナはマコトの上からどけられ、マコトは周囲を白い光に包まれているように感じた。
「大丈夫! マコト君」
「クリス、ケガは?」
自分が大丈夫じゃないのは分かってる。
大切なのはクリスが大丈夫かどうかだとマコトは思った。
ぼやけた視界の中で、真ん中にいるクリスだけは、はっきり分かる。
「私は大丈夫。マコト君のおかげよ」
「よかった。クリスが無事で」
マコトは思わず、笑顔を浮かべた。
しかし、焦点がクリスに結ばれ、クリスの表情がよく見えるようになると、クリスの悲しそうな表情が気になった。
いつも太陽のように、明るく周囲を照らすその笑顔が失われ、涙にくれている。
「どうしたの、クリス。どこか痛いの?」
「ううん、どこも」
「でも」
「ありがとう、マコトくん。ほんとにありがとう」
クリスはそれ以上、言葉を出すことができなかった。
マコトの視界が急に暗くなる。
何も見えなくなる直前、アイーシャの寂しそうな表情がマコトの視界の隅をよぎった。
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