第2話 小豆まんまの唄
母親を求めてむずかる娘を、無骨な男親が懸命になだめるすがたの哀れさは……。
川に流され風になったわたしを、くるおしく身悶えさせずにはおきませんでした。
最初のうちは「母ちゃん、母ちゃん」と家の内外を探しまわっていた菊乃ですが、幼心に悟ったものか、あるときから、ふっつりわたしの名を口にしなくなりました。
――春になったら、これを履いて、おんもに出ましょうね。
亡き母親の声を思い出しながら赤い鼻緒の草履を小さな胸に抱きしめると、乳臭さの抜けない頬で、漆黒の切り提髪がサヤサヤと水辺の茅のような音を立てるのです。
🩴
さびしい父子にもどうやらこうやら月日が流れ、明くる年の秋がやって来ました。
鱗雲を蹴散らすように現われた不気味な黒雲から、ぽつり、雨が降り出しました。
来る日も来る日も篠つく雨ばかり、ところを選ばず侵入して来る水滴でそこら中が湿っぽく、
そんな天候もあってか、夏の盛りの頃から気怠そうにしていた菊乃は、秋が深まるにつれてますます生気をなくし、ついに床から起き上がれなくなってしまいました。
先年の怪我が治りきっていない夫は不自由な足を引きずって険しい崖を這い上り、木材の伐採の手伝いなどをして、なんとか父子ふたりの暮らしを立てていたのです。
連日の豪雨のため日銭稼ぎの方途を失った生活は、たちまち追い詰められました。
頬骨もあらわな娘と、目ばかり光らせる夫……ふたつの命はもはや風前の灯です。
🐶
そんなある日、無精ひげだらけの思い詰めた顔を上げた夫は病床の娘に訊ねました「なあ、菊乃や。なにか食べたいものはないかい。父ちゃんがきっと適えてやるぞ」
しばらく考えていた菊乃はカサカサに乾いた唇を開きました「父ちゃん、あたい、いつか母ちゃんと一緒に庄屋さまのとこで食べた……小豆まんまが……食べたいな」
「なに、小豆まんまとな、よし!」娘を見る夫の目は、
「わあ、父ちゃん、ありがとう!」病床の菊乃は久しぶりに無邪気な声をあげます。
そのとき、趣味の(笑)穴掘りに飽いたのか、黒い毛糸玉のようなゴローが縁側の近くに来て、ねえ、おいらにも~というように「クフ~ン」と甘え声を出しました。
八の字の困り眉でいかにも人(犬)の好さそうな丸い顔をした仔犬は、夏の夕方、鎮守の森で鳴いているところを、たまたま通りかかった夫と娘が連れ帰ったのです。
🥎
あくる日……貧しい家に「父ちゃん、小豆まんまはうんまいね。のの(仏)さまになった母ちゃんにも食べさせてやりたいね」菊乃のうれしそうな声がひびきました。
ふしぎなことに、このときをさかいにして、菊乃は奇蹟的な快復を見せたのです。
いざ起きられるようになると、おとなしく布団に寝ていられるはずがありません。
折しも、あんなにも凄まじかった雨が、だれかが天に梯子をかけて袋の口をきつく結わえたとでもいうようにぴたっと降りやむと、待ちわびた薄日が射してきました。
枕元に飾っておいた母親の形見の赤い鼻緒の草履を履いた菊乃は、裏庭の葉のない柿の木の下で手鞠をつき始めました。仔犬のゴローも、うれしげにじゃれつきます。
――とんとん とんとん ととんが とんとん
あたいと 父ちゃん 小豆まんま 食べた
母ちゃんも 一緒に 小豆まんま 食べた
さあさ つきましょ ととんが とんとん
たまたま、表の道を通りかかった若いお役人さんが、幼い歌声に首を傾げました。
「この凶作に小豆まんまを食うたとは……よからぬ者の格好の
不安に鳴り騒ぐ胸を押さえつつ、椿の生垣から百姓家を覗いてみれば、冬枯れの柿の木の下で手鞠をついているのは、先年の大水で母親を亡くした小さな女の子です。
「母恋しさゆえの
心やさしいお役人は、笠の下の目を拭いながら、そっと立ち去ってゆかれました。
👿
同じ頃、庄屋さまの屋敷では、
冷酷な身勝手さと強欲ぶりにおいて、呆れるほど似た者同士の庄屋さま夫妻です。
夫婦で小作人の悪口を言い合っているところへ若いお役人さんがやって来ました。
事態を察知したお役人さんは、あの子に嫌疑がかからぬ手立てを考え始めました。
ところが、欲得と復讐の権化と化した庄屋夫妻はここを先途と言い立てて来ます。
「お役人から進んでしょっぴいてくださるのが筋というもの。お役目、ご苦労さま」
そこへ血相を変えて駆けこんで来たひとりの百姓がおりました「大変だ、大変だ。庄屋さまのお蔵に忍びこんだ不届き者は、おらんちのすぐそばにおりやした、へえ」
この男はうちの畑から芋を盗んだことがあるのですが、都合のつくとき返してくれればいいと、いっさいの他言をしなかった夫をかえって疎ましく思っていたのです。
弱みを握られている目の上のたん瘤を永遠に葬り去る願ってもない機会と見た男のもっともらしい告げ口を聞いた庄屋夫婦は、鬼の首を取ったようによろこびました。
卑しい告げ口男の前で、若いお役人さんは無念の眼差しを笠の下に向けています。
このときすでに、庄屋夫婦の肚の底には、おぞましい計画が渦巻いていたのです。
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