ヴァンパイア

次に僕の目に入ってきた光は、月のそれではなく、見慣れている太陽の光だった。よくわからないが、どうやら無事に朝を迎える事ができたらしい。


昨日の出来事が全部夢であればいい。なんてことを思ったが、背中に当たる冷たくて硬い感触がそれを否定した。

どうやら僕は気絶してしまっていたらしい。仰向けで寝転がる僕の身体には、1枚の毛布がかけられていた。目を瞑ったまま、ゴソゴソと手探りでそれをどけようとする。


「おはよ」


思わずビクッと身体を跳ね上げる。耳に飛び込んできたのは、柔らかい声と冷たい吐息。素早く体を起こして横に目をやると、そこには見覚えのある少女の姿があった。


「おっとー、大丈夫?」


隣に座り込んでいた彼女は、僕の大袈裟なリアクションを見て満足そうに微笑んだ。


廃校三階の音楽室。昨晩の不気味な雰囲気はやや薄れ、陽の光に照らされたグランドピアノはノスタルジックな雰囲気を演出していた。割れた窓からは、青く涼しい風が絶え間なく通っている。

一つ気にかかる事があるとすれば、昨日殺されたはずの怪物の死体だけが、まるで何事も無かったかのように消失している点だ。


僕は警戒しつつも、自分の記憶を辿りながらゆっくりと彼女を観察した。その可憐な姿は、記憶の最後に残っているあの少女と全く相違なかった。


満月の下でなびいていた白い髪は、三日月の装飾が付いた小さな髪留めで肩の高さにまとめらている。

こちらに向けられている温かい笑みは、あどけない少女のそれだったが、目を引くのはやはり彼女の瞳だ。赤黒いその眼はまるで血液をそのまま固めて作られたみたいだったが、眺めるほどに温かさと懐かしさを感じさせるような、そんな不可思議な魅力も放っていた。あんまり見つめ過ぎると吸い込まれてしまいそうだ。


自我を取り戻すまでの数秒間、互いに見つめ合っている状況に気恥ずかしくなった僕は、誤魔化すように視線を下ろす。

彼女のフード付きの黒いコートは、前側のボタンが外されており、そこからは汚れと返り血で染まりつつあるぶかぶかの白いTシャツと、太ももの半分ほどの長さのジーンズ。

そこから露出しているスラッと伸びた真っ白な脚は、まるで一度も日焼けした経験が無いかのように美し………

次の瞬間、彼女はバッとコート引っ張り、服を隠して眉間に皺を寄せた。



「……えっち」



「いやいやいやいやっ!! 違くて! 僕はただ…!」


僕はただ、君を観察していただけなんだ!

なんて言う訳には当然いかず、慌てふためく僕を余所に、彼女は大笑いし始めた。


「あははははっ!冗談だって。あーほら、少しは緊張、解れたんじゃない?」


赤くなってしまった顔を手で隠してやり過ごそうとする僕。

それを彼女は横から覗き込み、グイグイと距離を詰めながら僕の手を引き離そうとする。

まったく、なんなんだよ、この子は。歳は僕よりも少し下に見えるけど、ずっとタメだし。


本当に色々なことが立て続きに起こったせいで、僕の感情はもうめちゃくちゃだった。

だけど、昨晩感じていた震えるほどの恐怖に比べれば、今の彼女を見て湧き上がるこの感情は何だか少しだけ心地よかった。


楽しそうに笑いかける彼女を見ながら、僕は頭の中で今目の前にいる女の子と、昨日助けてくれた美しい少女を重ねる。

それが同じ人物であるとは思えないほど、受ける印象には大きな差があった。


……差。昨日の彼女の、月明かりに照らされた横顔の美しさ。


そして、化け物を躊躇なく殺した冷酷さ。


今僕を映している丸くて優しいこのつぶらな眼差しは、昨夜、怪物を睨み付けるために使われていた。

今僕に微笑みかけている口元。そこから伸びる2本の歯は、昨夜、確かに怪物の首を貫いていた。

そして、今僕の腕をどかそうとしているこの小さくて可愛らしい手。この手が、昨日、怪物の頭を……


背筋を指でなぞられるような、ゾッとする感覚が僕を襲う。彼女の手を乱暴に振り払い、もう一度しっかりと顔を見る。


彼女は払われた手を悲しそうに見送ると、姿勢を正して僕に向き直った。


僕は彼女に、聞かなきゃいけないことがある。いいや、もはやその答えは出ているも同然だった。しかし、こんな現実離れした馬鹿げた考えを立証するためには、彼女の口から答えを聞かなければいけないと、そんな気がしてならなかった。


2度3度と深く、深く息を吸い込んで、震えそうな声を押し殺しながら、僕は意を決してそれを口にする。



「……君は、何者なんだ」



途端に彼女は目を丸めた。

僕の問いに動揺したのかと思ったが、その推理は即座に覆された。


「―――っぷ! あはははははははは!」


一体何が起きたというのか、彼女は再び笑い転げてしまった。

張り詰めた空気は綺麗に壊れ、代わりに僕の方が目を丸める。


何か変なことを言ってしまったか?

だけど僕はずっと大真面目だ。


一通り声を出し終えた彼女は、笑い混じりのため息を一つ吐いてから、スッとその場に立ち上がった。


「そうかそうか……」


彼女は何かを悟ったように呟きながら、後ろを向いて黒のフードを深く被った。



「教えてやるよ。ニンゲン」



発せられた声は先程よりも低かった。

彼女は壁に向かってゆっくりと歩を進め、やがて一切日の当たらない教室の隅に辿く。


風はいつの間にか消えていた。

音のない世界が不穏な雰囲気を加速させる。

陽の光だけは変わらず窓から指し続けるが、その光度が増せば増すほどに、彼女を包む影はより濃く、深くなっていた。


暗闇に、小さなシルエットが揺らいでいる。

彼女の笑い声で緩んだはずの緊張感が、今度は彼女自身から僕に向かって少しずつ侵食してくる。


そして、僕が唾を飲み込むのとほぼ同時に、彼女は素早くこちらを振り向いた。


ブワァッと勢いよく翻る黒いコート。


そこから見えたのは、死人のように白くて細い脚。

ギッと顔の前で立てられた五本の指は血管が浮き出ており、先端からは、数十秒前よりも明らかに伸びた鋭利な爪がこちらを向いていた。

瞳は変わらず燃えるような赤を放っているが、その中の瞳孔は黒く大きく開き、射殺すような鋭い眼光は獲物を、いや、僕を冷たく捉えていた。

否応にも呼び起こされてしまうのは、昨日目撃したあの凄惨な光景。


惨い殺され方をした怪物。


吹き上がる鮮血。


それをいとも簡単にやってみせた人物。


それが今、僕の目の前に立っていた。



恐怖が、少しずつ形を取り戻していく。

そんな僕の心象とは裏腹に、ニィッと不敵な笑みを作る彼女。


フードの内側で光る歯は、左右の2本だけが獰猛な獣のように尖り、伸びきっていた。



―――その瞬間、僕はついに確信した。



人の姿をしていながら、首からその生き血を貪る様。死んだような白い肌と、血を吸うために用いる鋭い歯。


きっとそれは、架空の存在なのだと思い込んでいた。

ずっとそれは、本や都市伝説で語られるだけの存在だと思っていた。



きっとそれは…………いいや、彼女は……!




「ヴァンパイア。君は見るの、初めてかい?」





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