君のため人をやめてみた

水無月 久遠

それは、満月よりも美しく

月明かりが照らす黒い草の上を、僕は死に物狂いで走っていた。


【夜】がこんなに危険なものだとわかっていたのなら、【奴ら】の存在を最初から知っていたのなら、こんな時間に家を出るなんてバカな選択はきっとしなかっただろう。


冷たい風に撫でられた木々が、僕から遠ざかるように不気味にさざめく。僕の体力はもう限界だった。


「なっ……なんなんだよ!アイツらは……」


昼間の雨で湿った草を荒く踏みつける足音が、背後からいくつも迫ってくる。

3、いや5人はいるだろうか。耳にその音が入るたび、僕の心臓は締め付けられ、逃げる足をさらに前へと進ませた。

もし今ここで走るのをやめてしまえば、もう二度と動くことはできない気がしていた。


「ギャハハッ!!モットダッ!モット……!モットハシレェ!!」


飢えた猿のように甲高い声を響かせて、奴らは僕をさらに深くまで追い込んでいく。

その声は、まるでこの状況を楽しんでいるようだった。

僕は自分の命が既に自分の手中に無いことを悟っていた。

これは奴らにとっての狩りのようなものか。それともただの享楽だろうか。どちらでもいい。

どちらにしろ、きっと僕は今日、ここで殺される。


長時間逃げ惑ってたどり着いた先には、一つの廃墟が聳えていた。僕は数秒だけ迷ったが、背後から近づく足音と、何かに睨まれているような不吉な感覚が背筋を伝い、縋り付くようにその建物へ飛び入ってしまった。

古びたコンクリート製の構造、長い一本の廊下と左右にいくつも広がる部屋。恐らく元は学校か何かだったのだろう。

突き当たりまで進んだ先には、上へと続く階段があった。

引き返す選択肢を失っていた僕は、迷わずその階段を駆け上がる。


ここまで進んでようやく、僕は自分で自分を追い詰めている現状に気がついた。

閉鎖された空間に身を投じてしまったからには、もうどこにも逃げ場なんて無い。

首から流れ出る血と汗を袖で払い、そのまま自分の涙を拭った。

働かせ続けた両足はふらついて、三階にたどり着いた頃にはもうほとんど使い物にならなくなっていた。

僕は自分の最期の場所を、音楽室と書かれた部屋に決めた。


著名な音楽家達の肖像画に囲まれた不気味な空間には、ボロい机とイスが転がっている。

部屋の正面に配置されたグランドピアノだけが、わずかな光沢を帯びていた。


「……あぁ……」

情けなく漏れ出てしまった声には、疲労と絶望が滲んでいた。

床に転がるガラス片を足でどかしながら、僕は割れた窓から月を眺めた。

どうやら今夜は満月だったらしい。

薄い光が窓から差し込み、皮肉にも、この教室中を暖かく包み込んでくれていた。


「ミツケタッ!」


ビクッと肩を跳ねらせ、後ろを振り向く。そこにはさっきまで僕を追っていた奴の一体が、【人の形をした黒い影】が、ドアの前に立ち塞がっていた。

まるで幽霊のように不安定に揺らめく体のシルエット。ハッキリと形があるのは、むき出しになったギザギザの歯と、燃えるように真っ赤な眼。

ソイツは不気味な笑みを浮かべながら、僕にグイグイと近づいてくる。


「ニンゲン……!チ…!アァ……!ガハッ!ギャハハハハハハ!!」


奇声を上げるその異形から、これ以上逃げる気力なんてまるで残っていなかった。僕はその場で膝から崩れ落ち、子猫のように震え出してしまった。情けをかけられることは当然無く、一歩、また一歩と、ソイツは僕に向けて歩を進める。


「ニンゲン…チ…キョウフ……チ……ニガミ……ウマミ……アァ……!!」


僕はソイツを力なく見上げた後、全てを諦めて目を瞑った。もう、できることは何も残っていなかった。

死が近づいてくるのを肌で感じる。

一番悲しいのは、こんなときですら僕に思い返せるような幸せな記憶が一つも存在しないという事だ。

思い出の代わりに想起されたのは、ここに至るまでのいくつもの後悔。


あぁ、【夜】に外へ出るなんて愚行をしなければ、こんな化け物と出会わなければ……

今更思い返してもどうにもならないような考えが、僕の頭に浮かんでは消えていく。数時間前まで、ただ布団に篭っていただけの僕だ。

いきなり迫り来る死を受け入れる準備なんて当然していなかった。

手を固く握りしめ、この場を打開できる何かを必死に考える。

意表を突いて殴りかかれば、勝算はあるんじゃないか……いや、そんな体力は残っていない。説得すれば少しの時間なら稼げるんじゃないか……いや、とても話の通じる相手ではない。

限られた時間で素早く思考を巡らせるが、どれも役に立たないものばかりだった。


しかし、全ての思考が否定された後、ふと、ある一つの疑問が頭をよぎった。


―――他のヤツは、どこに行った……?


この廃校に来るまで、僕は確かに複数の化け物に追われていた。少なくとも三体はいただろう。

人間みたいな姿をしているけれど、あのバカみたいな喋り方。知能は明らかに低く、譲り合いの精神なんて持ち合わせてないはずだ。

諦めたのか……?いや、それは考えにくい。

僕がこの廃校に入ったことで、ヤツらはようやく追い詰めることに成功したんだ。

じゃあ、一体なぜ?

何かが頭の奥に引っかかって離れない。

そして廃校に近づいたときから感じていた誰かの視線、この違和感。

やはり何かがおかしい……!ここには、僕の知らない何かがまだ……!

考えを整理しようにも、化け物はもう目の前にまで迫っていた。

グッと目を瞑った状態でも、荒い息遣いと肉が腐ったような臭いが、僕の中に直接入ってくる。

両肩をギッと掴まれ、鋭い爪がくい込んでくる。


「ツカマエタ!!アァニンゲン…!ツカマエタァ!……イダダキマァァーースッ!」



―――グヂャァ!!



あぁ、間に合わなかった……!


皮膚を貫かれ、肉を破られ、血が吹き出るような惨い音が反響する。

僕は本当に死んでしまうのか……?あれ、でも……なぜだろう、痛みがない……?

僕は理解が追いつかず、瞑っていた目をそっと開けてみた。そして、目の前に広がる光景に、思わず息を呑む。


満月に照らされた音楽室には、恐怖に押しつぶされ、力なく座り込む一人の少年。そして彼を追い詰めた奇怪な化け物。さらにその後ろには、音もなく現れて、背後から化け物の首に食らいつく少女がいた。


ジュゥゥーーーーーー……ペッ!


「不味いな」


フードを深く被った彼女は、噛み付いた口を離すと、吸い出した血を地面に吐き捨ててそう言った。

化け物は自分の身に何が起きたのかを全く理解出来ていない様子で、必死に後ろを向こうとしている。

しかし、ものすごい力で押さえつけられているのか、頭はギシギシと音を立てるだけで少しも動く気配は無かった。


「オマエェェェ!!ナニヲシテ……」


刹那、言い終える間も与えられず、化け物の首は勢いよく胴体から引き剥がされた。天井に向かい、赤黒い血が吹き上がる。少女は頭だけになった化け物をひょいと持ち上げ、自分の顔の前に持ってくる。


「お前らこそ、アタシの縄張りで何してんだよ」


彼女はそう吐き捨てると、もう片方の手でフードを払った。

月明かりに照らし出されたのは、息を呑むほどに美しい少女の姿だった。流れるような白い髪と、化け物よりも深くて濃い赤の瞳。

彼女は化け物から僕に視線を移すと、ニヤリ不敵な笑みを作った。艶やかな口元からは、鋭く尖った二本の歯がよく目立つ。

そして何を思ったのか、彼女は右手で掴んだ化け物の頭を、抜け殻になった僕の膝の上に投げ捨てた。


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