「俺」と「煙草」と「先輩」 ― 裏 ―

「あっ!」


声を上げた。

理由は単純、ライターを買い忘れたのだ。机の上では煙草の箱が所在なさげに転がっている。青い箱の学生時代から吸い続けている銘柄だ。

今いるのは5階建て雑居ビルの4階だ。これからライターを買おうと思えば、このエレベーターのないビルの上り下りして駅前のコンビニまで行かないといけない。しかも外はさっきから雨がパラついている。俺はヘビースモーカーってわけじゃないが、吸わないと何となく居心地が悪くなる程度には脳みそはニコチン漬けになっている。


「仕方ないな……」


俺は階に行くことを早々に諦めて、奥にいる先輩に向かい言った。


「先輩、火ぃ貸してくれませんか?」

「あ?」

「ライター買い忘れたんすよ」

「ああ……」


先輩は耳の穴を太い小指でほじりながら頷くと机の上をガサガサ始める。その次に引き出しの中をガサガサ始める。学生時代柔道をしている先輩は巨漢の類で、本人の前じゃ言わないがガサガサしている姿は熊が餌場を漁っているみたいだ。そして最後に後ろにかけてあったジャケットのポケットをガサガサして言った。


「俺もないわ」

「マジっすか」

「ああ……」


絶句する。

先輩の脳みそも俺と同程度にはニコチン漬けなのだ。


「買ってこい」

「いや、外、雨ですし」

「買ってこい」

「いや、さっきからけっこうな降り方なんすよ」

「買ってこい」


3度言う。それと同時に窓の外が明るくなり、一瞬遅れて爆雷みたいな音が外から聞こえてきた。

落雷だ。

多分、向かいのビルに落ちたんだろう。俺の背すじがビクンと動き、先輩の表情も強張っている。


「しょうがねぇな」


舌打ちして先輩は諦めた。前の会社から独立した時ついてきて、そろそろ長い付き合いなのだが、こういったところは変わらない。

押しは強いが無理は言わない。だからこそ仕事のほうもボチボチやっていけているのだ。

俺は自分の席に戻ると引き出しを開ける。こういったときの奥の手がここには眠っているのだ。

新品のボールペンとホッチキスの針に隠れている茶色い箱。白い文字でフランスの有名な画家の名前が書いている。それは以前、地方に営業に行ったときに喫茶店に置いていた、最近ではめっきり見ることのなくなった店名入りのマッチだ。

残りは一本。

俺はそれを取り出すとマッチ棒の頭を赤燐の着いた側面に擦りつけた。小さいが炎の上がる音が聞こえると、俺は咥えた煙草を素早く近づける。

ライターと違いマッチの炎の寿命は短い。もって2秒程度。それ以上は軸に火が燃え移って自分の身を焼いてしまう。

扇のように振って黒焦げになった残骸を灰皿に入れる。吸い込んだ紫色の煙は口腔を満たして肺の中へと消えていった。タールの苦味が舌先を刺激し、血中に溶け込んだニコチンが精神を鎮静化させていく。

そうして俺はようやく一息ついた。


「おい」

「ああ、すんません」


煙草を咥えた先輩がそこにいる。俺は立ち上がると咥えた煙草の切っ先を向ける。先輩はその先に自分の煙草の切っ先を当てた。火種が揺らぐように明滅して、赤く灯っていた火が移る。

赤い火が二つに増えた。

それが離れると、先輩は俺と同じ色の煙を吐き出した。


「やんだら買ってこいよ」

「うっす」


先輩は耳をほじりながら自分の席へと戻っていく。相変わらず雨は降り続けている。落雷こそさっきの一回限りだが、雨足は強い。


「なかなかやみませんね」

「そうだな」


先輩は相変わらず小指で耳を掻いている。煙草の火が根元まで迫ってきている。俺はそれに気づくと名残惜しく思いながら灰皿の底に押しつけた。見れば先輩も同じように吸い殻を灰皿に捨てていた。そしてそのままの手で耳をほじる。


「耳……痒いんすか?」

「ああ」

「へぇ」


煙草はなくなった。

仕事もひと段落ついてしまった。


「耳かきとかしないんすか?」

「そんなにしないな」

「しないんすね」

「しないわけじゃないが、頻繁にはしない。最後にしたのは……いつだったかな?」

「何にしてもだいぶ前っすね」

「ああ、そうだな」

「へぇ」

「お前はそんなしょっちゅうするのか?」

「俺もたまにっすね。でも前回いつしたかは思い出せますよ」

「だったら俺よりはしてるな」


耳をほじる先輩の手首がグネグネとくねる。どうやら痒いところに届かないらしい。


「でも俺は自分がするより、他人にする方が多い気がしますね」

「お前が? 耳かきするのか?」

「ええ、前につき合ってた子がね、そういうの好きだったんすよ」

「ふぅん、普通はそういうのって逆じゃないのか?」

「……そうですね。よく言われます」

「そりゃ、そうだろ」


先輩は豪快に笑う。対して俺は苦い顔だ。その苦味を無理矢理飲み込んで苦笑に変えると、俺は先輩に問いかけた。


「何だったら、俺がしてあげましょうか?」

「お前が? 俺の耳かきするのか? 膝枕で?」

「さすがに膝枕はしないっすよ」

「どっちにしても気味が悪いな」


そう言って先輩は笑う。マンガの熊みたいな笑い方だ。太い小指は耳に入ったままだった。





次の日も先輩は耳をごそごそやっていた。


「耳、大丈夫っすか?」

「ああ、別に痛くはないんだけどな」

「あんまり気になるなら病院行った方がいいんじゃないっすか?」

「そこまでじゃないよ。ただ耳の中がゴロゴロいいやがる。耳クソ溜まってるんだろうな」

「あ~、音が鳴ってるんなら溜まってそうっすね」

「おい、あとで買い物行くとき耳かき買ってきてくれ。あとライター」

「ライターは買っときましたよ。これ領収書です」

「おう、助かるわ」

「あと耳かきはいるなら買ってきますけど、痒いの掻くだけなら爪楊枝でも使ったらどうっすか?」

「爪楊枝ぃ? そんなもん使ったら耳の中、血だらけになるだろうが」

「持ち手の頭の部分で掻くんっすよ。意外と気持ちいいっすよ」


そう言って、俺はコンビニで買った弁当についてきた割りばしの余りを手渡した。ビニールで包装された中には箸が一膳と爪楊枝が一本入っている。

先輩はそれを開けると細い爪楊枝を太い指先で摘まむ。その姿は熊がミニチュアで遊んでいるみたいだ。


「膝枕で耳かきしましょうか?」

「止めてくれ」


先輩の眉が嫌そうに八の字を描く。俺はそれを楽し気に眺めながら自分の席に着く。次に先輩が声をかけてきたのは一本目の煙草を吸い終わった後だった。


「おい」

「何っすか?」


振り返る。

そこにいるのは所在なさげに立つ熊の姿だった。よほど耳が気になるのか朝よりもイライラした雰囲気だった。そんな癇癪を起しそうな熊は俺に言う。

それは意外な一言だった。


「耳……掻いてくれ」

「え?」

「得意なんだろ。とにかく痒いんだよ」

「ああ、いいっすけど」


確かにそんな話はしたが、まさか本当に言われるとは思っていなかった。先輩はもう我慢が出来ないのか、俺の返事を聞かずに来客用のソファにどっかりと腰を下ろしていった。


「で、どうするんだ? 別に膝枕しなくても出来るんだろ?」

「ああ、出来ますよ」


苦笑する。

俺は新しい割り箸袋を取り出すと、そこから爪楊枝を一本抜き取った。


「そのまま動かないでくださいね」

「お、おう」


どっかり座った先輩の隣に俺も座る。そして先輩の耳の中を見て、思わず声が出た。


「うわっ、耳の中スゲーことになってますよ」

「そ、そうなのか?」

「ええ、穴全体が汚いっす」

「マジか?」

「マジです。見てるだけで痒くなりそうっすね」


その言葉の通りいつ耳かきをしたのか覚えていない耳の穴にはびっしりと垢がこびりついていた。これは思ったよりも大仕事になりそうだ。

手に取るのは爪楊枝だ。その頭の部分をそっと入れた。指先を通じてザクリとした感触が伝わってくる。


「うおっ、ザクってなったぞ!?」

「溜まってますからね」


本物の耳かきじゃないからいつもと勝手が違うのだが、これだけ耳垢が固まっていれば突き崩すのは問題ない。耳道の上の部分にくっついている一番大きな塊の部分。そこに向かって爪楊枝を入れる。

切っ先を突き刺した。

少し力を入れてやると白っぽい塊はあっさりと崩れていく。爪楊枝の持ち手の部分には溝が二本掘られているので、俺はその窪みを使って崩れた耳かきの残骸を引きずり出していく。

素早くしてはいけない。

今、使っているのは耳かきではなく爪楊枝なのだ。ゆっくりと、爪楊枝の頭を耳壁に擦りつけるようにしてズルズルと垢を運び出さないといけないのだ。


ズルズル……ズルズル……ゆっくりとだ。


耳から垢を引きずり出す途中で先輩な口から小さくうめき声が漏れた。


「ぅぉ……これは??」

「デッカいのが取れそうっすよ」

「そ、そうか……っくぅ」


最初は緊張して握っていた手から力が抜けていく。それが先輩の内心を物語っていた。


「ああ……そこだ。そこが痒いんだ」

「ここっすか?」

「違う、もっと奥の部分だ」


言われて、俺はもう少し。ほんの少しだけ奥の部分を棒の先端で刺激する。楊枝の先は弱い部分を刺激したのか先輩の背すじが反った。どうやらスイートスポットに当たったらしい。大柄な熊が女の子みたいな声をあげるもんだから少しだけ笑えた。

掻きだした白い塊が耳の外へとボロリと落ちる。それをティッシュで受け止めると先輩の中に出して見せた。


「デカいな……これが入ってたのか?」

「耳も痒くなりますよね」

「だな」

「もう一個デカいのありますけど、取りましょうか?」

「そうだな……頼む」


先輩はちょっと考えてから俺に言う。どうやらまだ耳の中が痒いらしい。

俺は細い棒の先で穴の周囲をぐるりと掻く。耳垢っていうのは意外と入口近くの方が溜まっているのだ。しかし先輩は鼻を鳴らして言った。


「そこじゃなくて、もっと奥まで入れてくれ」

「この辺っすか?」

「もっと奥……ああ、そこだよ。ガリガリやってくれ」

「あんまり強くしたら傷つきますよ。耳かきじゃなくて爪楊枝なんっすから」

「そうか……まぁ、そうだよな」


耳の安全を思い出して納得したのか、先輩は矛を納める。そうして耳壁を引っ掻かれる感覚に身震いする。


「まぁ、耳かきでもあんまりガリガリすんのは良くないとは思いますけどね。耳かきなんて別にしなくていいって言う医者もいるくらいですから」

「そうなのか?」

「でも先輩の場合は実際に耳にこれだけ埃や垢が溜まってるんなら、定期的にした方がいいとは思いますよ。医療的な根拠は何もないっすけどね」


少しずつ位置を変えながら爪楊枝の頭は外耳の天井を撫で回した。指先にざらついた感触を伝えながら天井に張りついた垢が落ちていく。それが結構な量だ。さすがに俺には聞こえないが、先輩の耳の中ではボリボリと音がなっていることだろう。


「しかし……気持ちいいな、耳かき」

「でしょ」

「ああ」


剥落する垢と一緒に痒みも落ちていったのか、先輩は心地よさそうに息を漏らし、俺に言った。


「やっぱり、あとでコンビニ行ったとき耳かきも買ってきてくれよ」

「いいっすよ」

「頼むわ」



その後、コンビニで買い物を済ませた俺は2段飛ばしで階段を上っていた。ビニール袋の中にはペットボトルのお茶と耳かきだ。


「先輩、耳かき買ってきましたよ」

「おう」


手渡した耳かきを受け取ると、ケースから取り出し野太い指が掴む。それを指の間でクルクルと弄ぶと、先輩は耳の中に入れることなく鞄の中にしまってしまった。


「サンキューな」

「え、ええ……」

「何だ?」

「いえ、使わないんですか?」

「ああ、こういうのは苦手だからな。だから帰ったらウチのにやってもらうわ」

「ああ……そうっすね」


そう言った左手の薬指には一年前からつけている指輪が光っている。

俺は煙草を吸うために背中を向けて机に手を伸ばす。置いてあるのは学生時代から吸っている銘柄の青い箱と、片付けられずに吸い殻が山盛りになった灰皿、昨日買ったばかりのライターだ。

俺はまず煙草の箱に手を伸ばし、あるものに気がついた。灰皿の隅で燃え尽きている黒い棒。先日俺の使ったマッチ棒の残骸だ。

視線を伏せてそれを見ると、無意識に口元が力なく緩む。

それを煙草を咥えて無理矢理に引き締めて振り返れば、先輩の同様に煙草を咥え始めていた。


「火ぃ、どうぞ」

「ああ、悪いな」


自分よりも先に俺はライターの火を差し出して、ついで自分の火をつける。

吐き出す煙の色はいつもと同じなのに、今日は少し苦い気がした。

その煙の苦さを存分に味わいながら、俺はもう一度背を向ける。


「耳かきってのは気持ちいいんだな。何か家に帰るのが楽しみになってきたぜ」

「そうですか、良かったです」

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