「少年」と「こより」と「少女」 -前編-
「耳が気持ち悪い……」
放課後の教室。
ついに我慢出来なくなった俺は声に出してしまっていた。
目の前の机の上には山積みのプリント。
正面には幼馴染の腐れ縁、
「そういやレイジ、さっきからずっと耳、触ってたわよね」
「プールの水がさ……抜けないんだよ」
右耳を下にして頭をボンボン叩くのだが、くぐもった音が聞こえるだけで溜まった水が出てくることはない。
「ジャンプしたらいいじゃん。私はそれで抜けるよ」
「何度もやってるよ。でも抜けない」
「そうなんだ」
そういって洋子は席を立つ。
その動きを何と無しに目で追っていると、気づけば俺の隣にいた。
色素の薄いハシバミ色の瞳が、猫の目のように興味深げに揺れる。
「ふぅん、やっぱり見ただけじゃ分かんないわよね」
「当り前だろ」
「それもそうか」
無防備に覗き込んでくる顔にちょっとドキっとしたのは俺の中だけの秘密だ。
こいつときたら、つい半年前までランドセル背負ってたくせに、セーラー服に着替えただけでものすごく雰囲気が変わって見えるんだ。
「おい、引っ張るなよ」
「いや、水が見えるかなって」
「見えねえよ」
「やっぱ、そっか」
そう言って、摘まんでいた耳から手を離す。
冷たい耳たぶから指の温かみがすっと抜けていくのが少し惜しい。
それを誤魔化すように俺は言う。
「まぁ、放っておけば、そのうちに抜けるよ」
「ふぅん、ならいいけどさ」
「それよりも早く片付けようぜ」
机の上にあるプリントの山。
それをまとめてホッチキスで留めていかないといけないのだ。
こういうのは本当はコピー機で設定すれば勝手にやってくれるのだが、担任のヤツがどうやら操作をミスったらしい。
四月のジャンケンで負けちまった俺は、ありがたくもクラス委員なんてものを拝命していて、こうしてクラスのために身を粉にして担任の尻拭いをやらせれているのだ。
カッチン、カッチンと教室にホッチキスの音が響く。
すると、洋子のヤツが思い出したように思い出したかのようにポツリと呟いた。
「そう言えばさ、従妹の姉ちゃんの子がさ、よく中耳炎になるんだってさ」
「あ?」
「レイジはさ、中耳炎なったことある?」
「いや……ないと思うけど」
覚えている範囲ではない。
とはいえ、小さい時のことまでは自信がない。
そんな俺の顔を正面で見ながら洋子は言う。
口角が上がり唇が弧を描くと、洋子の顔はやっぱり猫みたいに見えた。
これからネズミのおもちゃで遊ぼうか、そんな顔だ。
そうして猫は舌なめずりして俺に言った。
「すごい痛いんだってさ、熱が出てさ。耳の中から黄色い耳垂れがたらーって出るんだってさ」
「マジで」
「うん、マジだよ。わたし見たもん」
「おいおい、マジかよ」
中耳炎って名前は知っていたけど症状はあんまり知らない。
痛いとか、熱が出るのは何か想像がつくけど、耳から何か出てくるのかよ。
「レイジもさ……中耳炎とかになったらヤバイよね」
「そ、そうだよな」
自分の耳の穴から黄色い液体がダラダラ流れてくる。
それを想像してみてゾワリと肌が粟立つ。
こういう時、どうしたらいいんだろう。
保健室?……いや、最初から耳鼻科に行けばいいのか?
だとしたら、こんなところでホッチキスしてる場合じゃねぇ。
俺は慌てて、紙を束ね、ホッチキスをカチカチとスピードアップさせる。
けっこう必死だ。
だというのに、この悪戯好きな猫はしなやかな動きで俺の隣にやってくるんだ。
「ねぇ……」
「何だよ。早く終わらそうぜ」
「わたしがさ」
「あぁ?」
「レイジの抜いてあげようか?」
は?
一瞬、頭が真っ白になる。
隣で笑うのは悪戯な猫だ。
ハシバミ色の瞳が楽し気に揺れる。
手に持っているのはポケットティッシュだ。
「レイジってば、何か溜まってるみたいだしさ。わたしがスッキリさせてあげようか」
「お……おい」
嫌に大きな音を立ててティッシュが一枚引き抜かれる。
その音に心臓が大きく脈打った。
しかも洋子のヤツが近づくたびにどんどん早くなっていく。
思ったよりも小さな手が俺の肩に触れたとき、胸の中の太鼓隊は演奏は最高潮に盛り上がっていた。
そんなときだ。
「何? ヤラシイこと想像した?」
「あ……いや」
洋子のヤツが摘まんでいるのは俺の耳だ。
ああ、くそ、担がれた。
顔が赤くなる。
こいつはいつもこうだ。
尻尾があるならゆらゆらと揺れているのだろう。
こいつはやはり悪戯好きの猫だ。
憤懣混じりの鼻息を吐くが、猫はそんなことは気にしない。
細い指で器用にティッシュを破ってこよりを作ると、俺の目の前で振って見せた。
「ほら、耳の中の水、抜いてあげないと中耳炎になっちゃうよ」
「おう……」
頭の中はすっかりテンパってしまい、俺は言われるがままに右耳を洋子に差し出してしまっていた。
「レイジは単純だよね」
「あ?」
「ううん、こっちの話だから。それよりも早く耳の水を抜いてあげないとね」
「あ、ああ……」
洋子は右側に回り込んで、俺の視界から消える。
だからそのときコイツの唇が「やっぱり単純」と声に出さずに言っていたのだが、当たり前のように俺には見えないのだ。
「そんじゃあ、始めるね」
「ああ」
耳元で洋子が囁く。
同時にスルリとこよりの先が耳孔に侵入していった。
ティッシュで作ったこよりが細く、先の方だけが僅かに広がっている。
その扇のように広がった部分が耳の入口でカサカサと音を立てた。
少しくすぐったい。
その後にチリチリと音が鳴り、薄紙が優しく耳壁を掻きむしる。
心地よい痛痒だ。
それが奥の方へと消えていき、じわりとした熱いものが耳の奥から外へと抜けていく。
「うおっ! 何か出た!?」
「うん、多分、水が抜けてるんだよ」
「お、おお……何かスゲーな」
率直に口に出る。
何かこれスゴイ。
温かい液体が身体の外へ排出される。
こよりがその液体を吸ったのか、液に浸されて重くなったこよりの先はじっとりと濡れて耳道にへばりつき、さらに軸まで浸食しながら体外へと向かっていく。
思ったより大量に水が入っていたのか、結構な長い時間をかけて水はじわじわとこより越しに吸い取られていく。
ひょっとしたらこのままこの液体がこよりの軸を伝わって洋子にまで届いてしまうんじゃないか?
そんな馬鹿な妄想が頭を過ったとき、耳の奥に収まっていたこよりは無情にも引き出されていった。
同時に温かいものがごっそりと吸い取られてしまったような、妙な快感に脳をかき混ぜられた。
「おひゃっ!?」
その初めての感覚に変な声が喉から這い出てくる。
対照的に洋子は声を出して笑った。
「レイジ、何それ。すっごくバカっぽいよ」
「うるせぇな。耳の穴なんて刺激されたら、誰だってビックリするっての」
「ふぅん」
「何だよ?」
「ん~っとね、ホントにそれだけだったのかなぁってね」
猫の瞳が楽し気に揺らめく。
何だかもう尻尾どころかヒゲまで見えてきた。
「…………」
「ん? 何か言いたそうだね?」
「……別に」
「そう?」
洋子は首を傾げるものの、先ほどまでのじゃれ合いなんて忘れてしまったかのように対面の椅子に座りなおすと、大人しくホッチキス作業を再開した。
クソ、本当に猫みたいに気分屋なヤツだ。
まぁ、これで中耳炎の恐怖からは解放された。
それで善しとしよう。
そう思って、俺も作業に戻る。
その時だった。
何かを思い出したかのように洋子は手を止めて、俺の顔を見た。
「ちなみにさ……さっきの嘘」
「はぁ?」
「中耳炎の話。別にプールの水が入ったからって中耳炎にはならないよ」
「は!?」
何だ、そりゃ?
だったら、何でさっきあんなこと言ったんだ。
耳から黄色い汁が出てくるところを想像して、俺はマジでビビっちまったていうのに。
「何でそんな嘘つくんだよ」
「さぁ、何でだと思う?」
「知るかよ」
本当は知りたいし、本当は言いたい言葉もあったのだけど、俺はそれを誤魔化すようにホッチキスを留め続けた。
「今度は膝枕で耳かきしてあげようか?」
「!?」
弾かれたように前を見ると、そこにいるのは悪戯好きの猫だ。
まったくコイツときたらいつもこんな感じだ。
それも最近、ますます酷くなってきているし、俺もそれが何だか嫌じゃなから始末に負えない。
「ねぇ、ねぇ~」
「うるせぇよ」
俺はぶっきらぼうに答える。
だが結局、その言葉はNOでも、いいえでも、否でもないのだ。
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