「少年」と「こより」と「少女」 -後編-


中学に入って最初の期末テストが終わった日、俺は教室で一人残ってホッチキスをカッチンカッチンと動かしていた。

目の前にはやはりプリントの山だ。

軽く目を通せば夏休みの注意事項などというものが書かれている。

休みだからといって羽目を外さないように、夜の歓楽街には近づかないように。

似たようなことは普段から聞くことはあったけど、今の俺はどうにもこの文言が無視できなかった。

原因は目の前で俺と同じようにカッチンカッチンやっている笹村ささむら洋子ようこだ。

クラス委員長様である俺と違い、こいつは別に副委員長ってわけじゃない。

副委員長はクラスの女子で別にいるんだが、こいつは何故か時折、副委員長の仕事を代わりにやってやるのだ。


「ん? なに?」

「いや、別に……」

「そう?」


そう言って、カッチンカッチン、ホッチキスを動かし続ける。

こいつとは幼馴染の腐れ縁なのだが、中学生になってからセーラー服なんて着だしたもんだから、妙に雰囲気が変わって困る。

何と言うかこれまでと違い“お姉さん”っぽく見えるのだ。

去年、近所の一歳上のお姉ちゃんが中学校の制服を着たとたん、別人みたいに綺麗に見えた。

きっとあのときのイメージが強烈に脳にこびりついているんだろう。


「やっぱ、わたしのこと見てる?」

「ば、馬鹿、そんなことねぇよ」

「ふぅん、そうなんだ~」


洋子のヤツは口元を綻ばせて、明らかに何かに感づいたような顔をしたのだが、すぐにカッチンカッチンを再開する。

ああ、もう、認めるしかない。

俺はこいつを妙に意識してしまっている。

妙に気恥しくなったせいか静かな教室にホッチキスの音がだけが響く。

何だか声がかけにくい。

そうこうしている間に山のように積まれていたプリントは見事ホッチキスで打ち止められたのだ。


「終わったね」

「あ、ああ」


途中からは無言だったということもあるのだろう。

時計を見れば、下校時刻にはまだ時間がある。


「思ったよりも早く終わったね」

「そうだな……何だよ」

「さぁ、何だろ」


その言葉とは裏腹にこいつの目は楽し気に揺らめいている。

色素の薄いハシバミ色をしているせいか、悪戯好きの猫みたいに見えた。

そうして尻尾を揺らしながら猫は言うんだ。


「この前、レイジにさ。耳かきしてあげるって言ったの覚えてる」

「何だよ、それ?」

「えぇ、覚えてないの?」


むくれた顔で言う。

しなやかなに歩いてくる足取りもまるで猫だ。

俺はといえば、もちろんそのときの話は覚えていた。

あのときもこうして放課後、二人して残っていた。

厳密に言うと約束したってわけじゃないんだが、まぁ、そこはいいだろう。


「じゃあ、別にいいんだ」

「今日は耳に水が入ったわけじゃないからな」

「何だ、覚えてるじゃん」


断ったはずの俺の言葉を聞き洋子は口元が弧を描いた。

いつもの悪だくみをしている顔だ。

もっとも俺はどうにもこの顔が嫌いじゃない。


「だいたい耳かきって言っても、道具がないだろ?」

「ん? 綿棒ならあるよ」

「何で、そんなもん持ってるんだよ」

「何って、化粧用だよ」

「け、化粧!?」


その一言に動きが止まる。

洋子が化粧している。

たったそれだけのことなのに、俺は自分でもビックリするくらい動揺しているのだ。


「化粧って、お前、メイクしてるのかよ?」

「そうだよ。気づかなかった?」

「ああ……気づかなかった」

「え~、よく見てみなよ」


洋子のヤツは顔を近づける。

何年も見て見飽きているはずの顔なのに、これまでになくその顔は輝いて見えた。

肌は瑞々しく、瞳は潤んで、唇は艶やかだ。

あれ?

コイツってこんなに可愛かったっけ?

これが化粧の力か……スゲーな。

洋子がまるで別人みたいに見える。


「どう? 可愛く見えるでしょ」

「あ、ああ……そうだな」

「でしょ」


楽し気な猫は気がつけば俺の膝にすり寄っていた。


「じゃあ、はい」


突然、床に正座する。

その仕草に俺は目を丸くした。


「何してるんだよ?」

「何って、膝枕だよ」

「馬鹿! お前、そんなことしたら服汚れるじゃないか」

「え~、別にいいよ」

「俺は、良くないんだよ」


腕を引っ張って無理矢理立たせる。

まったくコイツはなんてことをするんだ。

スカートについた埃をはたいてやる。


「もう、別にいいのに」

「良くないだろ。汚れてるんだから」

「まぁ、いいか。でも、レイジってば優しいよね」

「別に、そんなんじゃ……」

「そう? 優しいと思うけどな、わたしは……それよりも耳かきするから早く座ってよ」

「あ、ああ…………ん?」


何か違和感を感じる。

だがその時には、俺は椅子に座ってしまっていて、悪戯好きの猫は綿棒を構えて待ち構えている。

そうして俺の見えない真横に座り「レイジはやっぱり単純だね」と唇だけで囁くのだ。


「じゃあ、動かないでね」

「お、おお」


躊躇いがちに応える。

コイツに本当に耳かきなんて出来るのかなんて疑問もあったが、以前に耳の水を抜いてもらった実績がある。

なので、そこまで緊張はなかった。


「ふぅん、レイジの耳ってさ、カワイイよね」

「何だよ、それ?」

「さっきかカワイイって言ったから、お返しだよ」

「別に、化粧したら誰でも美人に見えるもんだろ」

「うん、そうだね」


せめてもの意趣返しだったのだが、洋子にはあまり堪えた様子はない。

髭を揺らして楽しそうに笑った猫は、そのまんま俺の耳の穴に綿棒を忍び込ませた。


「うお!」


声が出た。

耳の粘膜が綿棒の先で刺激される。

それだけのことで背中にゾクリと震えが走った。


「レイジってば、今の声バカっぽいよ」

「うるせぇな」

「怖いなら、止めとく?」

「ぜ、全然大丈夫だよ!」

「そう? じゃあ、続きするね?」

「おう」


次はしっかりと心の中で準備して答える。

同時に再び白い綿玉が耳の中に侵入してきた。

今度はさっきと違って耳介の場所に当たる。

耳の外側の溝の部分。

綿棒はそこを何度も行き来した。


「うわ~、レイジの耳って汚れてるね。ちゃんと洗ってる?」


目の前に差し出された綿棒の先は茶色く汚れていた。


「うわっ、汚っ」

「だよね、ちゃんと綺麗にしないとダメだよ~」

「お、おお……そうだな」


洋子は茶色い綿棒が気持ち悪くないのか、先をクルリと反転させると、逆方についた綿玉で再び俺の耳の溝を掃除しだす。

それがけっこう気持ちいい。

迷路を攻略するように綿棒はくねくねと進みながら、耳の外壁をガッシリと掃除していく。


「あ~あ、もう一本ダメになっちゃった」


そう言って、洋子は別の綿棒をポーチから取り出す。

あの中に化粧品が入ってるのか。

そう思うと、見知った幼馴染が何だかとても大人びて見えた。


「ん? 気になる? でも勝手に中のぞいちゃダメだよ。この中には女子を変身させるための秘密が詰まってるからね」

「のぞかねえよ」


本当はかなり気になるんだが、ここは我慢だ。

そうして目を離した隙にもう一本綿棒を取り出したのか、耳掃除は再開される。

新たな綿棒が耳の入口の部分にちょんと触れたかと思うと、穴の淵をゆっくりと一周回り始める。

繊細な穴の奥とは違い、淵の部分は力を入れても問題ない。

捻りを加えられた綿棒の頭がゆっくりと入口を一周し、耳珠の裏側についた垢をこそぎ取る。

別に普段から入念に耳を洗ったりはしないもんだから、毛羽だった綿棒の先にはびっしりと垢がこびりついていた。

そうして手前の耳垢を取った綿棒はさらに奥へと進んでいく。

白い綿玉が触れ、グリっと回転する。

そこは太い指を突っ込んだだけでは届かない窪みの部分だ。

そこが緩く抉られる。


「…………っぅ」


また声が出そうになるが、一回目はなんとか堪えることが出来た。

そうして二回目、三回目と綿玉は緩く穴の淵を回り続ける。

まるで擽るような挙動だ。

まずは手前から綺麗にしていこうという事なんだろう。

手順としては分かるのだが、最初に奥の方を強く刺激されたせいか正直物足りない。


「……なぁ」

「ん? なに?」

「あ……いや、やっぱいい」

「そう?」


声が弾んでいる。

何だかろくでもないことを思い付いたのだろう。

それを形にするように、悪戯好きな猫が俺に問いかけるのだ。


「ねぇ?」

「何だよ」

「もう、ちょっと強めにして欲しい?」


見透かしたように訊いてきた。

実際にその通りなんだけど、そのまま答えるのが何だか癪だったこともあり、俺は強がって言ってしまった。


「どういう意味だよ」

「別に~、何だかそういう顔してたからさ」

「そ、そんなこと……」

「そう?」

「そうだよ!」

「あっ、そう……じゃあいいや」

「……うひゃぅ!」


おかしな声を出してしまったのは、洋子のヤツがまた耳の奥に突っ込んで来やがったからだ。

たださっきと違ってからかうようなことは言ってこない。


「奥が気持ちいいんだよね……レイジは」


指に捻りが加わっているのか、白い綿玉が耳道に張りついていた垢の層を剥ぎ取っていく。

一枚、また一枚と、丹念に弱い部分を撫で上げられると痛みと痒みが混じり合った感覚が脳髄を刺激する。

同時に背中に甘い電流が流れて腰が抜けそうになるのだが、俺は歯を食いしばって何とかそれをくい止めた。


「あれ? 気持ちよくないの?」

「べ、別に……」

「ふぅん、そう?」


弾む声音が「我慢なんてお見通し」だと言っている。

そうして耳の穴に入っていた白い棒が俺の中に出し入れされるのだ。

奥に入ってはザリザリと中身を掻きまわし、引き出してはズリズリと内容物を掻き出していく。

眩暈にも似た感覚が俺を襲い続ける。


「あ……ここ、大きいのがある」


グリグリ ―― 丸い切っ先が押しつけられる


「あれ? なかなか取れない」


ズザズザ ―― 何度も擦りつけるの繰り返す


「これなら、取れるかな?」


グボボッ ―― 微かな痛みの後、爽快感が吹き抜ける


「大きいの取れたよ」

「あ、ああ……」


恍惚に包まれる。

綿棒の先端についた黄色い塊も衝撃的なのだが、俺はそれよりめくるめく快感に放心寸前だった。

出したり入れたり。

これはスゴイ経験だ。

やりたい放題されているというのに、もう声も出ない。

まるで花を散らされた乙女のようだ。

知らない間に洋子のヤツは左側の耳に移動して「逆の方もしてあげる」と言っていたのだが、何と答えたのかは覚えていない、


記憶がはっきりしてくるのは、両耳が綺麗に掃除されて洋子が使用済みの綿棒をまとめてゴミ箱に捨てていたときだった。


「レイジってば、本当に単純だよね」

「どういう意味だよ」

「どうって……強いて言うならチョロイかな?」

「チョ!?」

「うん、そうだね。レイジってチョロイよね」


獲物を借り終えたばかりの猫は満足そうに尻尾を揺らす。

俺だって、我ながら自分がチョロイんだと感づいてはいるんだが、そのまま認めるのはやっぱり癪だ。


「チョロくて悪かったな」

「別に悪いことはないんじゃない」

「悪いだろ」

「そうかなぁ、わたしはそういうとこ好きだけど」

「え!?……お前、それって???」

「なんてね、嘘だよ」

「あ……」


思わず声を出す。

そして気がついた。

やっぱり俺はチョロいヤツだ。


「そういう冗談やめろよ」

「本気にしちゃった?」

「うるせぇよ」

「つれないなぁ、さっきはカワイイって褒めてくれたのに」

「化粧の力だろうが」

「でもカワイイんだ」

「化粧で作った顔がな」

「ああ、あれね……それも嘘」

「あ?」

「わたし化粧なんてしてないよ。学校でそんなのしてきたら注意されちゃうじゃない」

「え?」


頭がフリーズする。

ああ、もう。

またやられた。

また担がれた。


「いひひ~、わたしってカワイイんだ~」


人懐っこい笑みで近づき猫が笑う。

まるでアリスの猫みたいだ。

ニヤニヤ笑って人を煙に巻く猫。

だから俺はこの猫が透明になって消えてしまわないように、いつまでもこの笑顔を見続けるのだ。


「レイジもカワイイよ」

「うるせぇよ、バーカ」

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