湖上にて

 ★★★


「そろそろ行こう」


 荷物は懐中電灯と父のカメラだけ、という軽装で私たちはホテルをあとにした。


 ホテルから湖までは徒歩で十分くらいだっただろうか。

 気晴らしの散歩に向いていそうな距離だった。


 湖につくと父は「これに乗るぞ」となぜか一隻だけ岸につけられているカヌーを指差した。

 父曰く、このカヌーを借りるために昼間出かけていたらしい。


 こうして私たちは、パドル片手に夜のグレートスレーブ湖へと繰り出したのだった。

(今思えばこれも、とても危険な行為だったように思う。)


 ★★★


 夜の湖というのはあまりにも静かだった。

 パシャン、パシャン、とパドルが水を切る音だけが耳にじんわりと絡みついてきた。


 岸からやや離れた所で父はカヌーを止めた。


「この辺なら大丈夫だろう」


 その時は分からなかったのだが、父は他の観光客たちの邪魔にならないようにと、事前に場所を考えていたらしい。


「そろそろ来るぞ」

「……?」


 一体何が来るというのだろうか。


 父の言葉を聞いて、真っ黒な湖面から大きな目をした怪物がザバァンと飛び出してくるのを想像した私は、恐る恐る水中へと目を向けた。


 すると突然、今まで真っ黒だった湖面にほんのりと明るい緑白色の光が映し出された。

 いよいよ怪物のお出ましか、と身構える私に父はやや興奮気味に教えてくれた。


「宏太朗、ほら、空を見てみろ」


 父に促されて顔を上げると、湖面に映っている光と同じ色をした何かが、夜空にくっきりと浮かんでいた。

 幾重にも重なったそれらは、何とも形容しがたいものだった。

 美しくも不気味、そして神秘的。少なくとも一つの言葉で収まる類のものではなかった。


「すごいだろ。これはな、オーロラっていうんだ」


 私の前に座って夜空を見上げる父の横顔は、絵に描いたように生き生きしていた。

 圧倒的な自然現象を目の当たりにする高揚感と、それを我が子にも共有できたという喜びで満ち溢れている、そんな表情だった。


 一方の私はというと、初めて目にするオーロラになかなか心を惹かれながらも、湖にひそむ得体の知れない怪物の脅威から逃れられないでいた。


 この超常的な現象は何かの儀式であって、湖面に映し出された緑白色の光を合図に、水中から禍々しい何かが踊り出てくる……そんなイメージを頭から払拭できなかったのだ。


 なにせグレートスレーブ湖は北アメリカでもっとも深いとされる湖である。

 まだ幼かった私が、水底に棲まう未知なるものへの恐怖を抱くのも決して不思議なことではなかった。


 ――早くここを離れなきゃ。


 私は湖上に浮かんでいる限り、オーロラの美しさを心から堪能することができなかった。 

 昼間は穏やかそうに湖を囲っていた木々さえも、おぞましい舞台の始まりを今か今かと待ち構える群衆のように思えた。


「さあ、帰ろうか。宏太朗、もういいか?」


 持参したカメラでの撮影も終え、オーロラを充分に堪能したらしい父から発せられた言葉に、私は心底ホっとした。

 ついに怪物は、その姿を表さなかったのだ。


 再びカヌーを漕ぎ出した父の背中は、活力と充実感に溢れており、とても頼もしいものに感じた。


★★★


 再び岸まで戻ってきた私たちはカヌーを元の場所に停泊させた後、寝床を求めてホテルの部屋へと足を急がせた。


 陸地に足をつけたことで心に余裕が生まれた私は、ほとんどの子どもたちがとっくに寝ている時間帯であることを思い出し、少し清々しい気分になった。


 ホテル付近に差しかかった頃、ようやく安心してオーロラを鑑賞できるようになった私は夜空を見上げてみた。

 湖上で見ていた時と変わらず、私の頭上には緑白色のオーロラが燦然と輝いていた。


 真夜中に現れる秘密の時間は、もうしばらく続いていくようだった。

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