手帳の殺意

秋月 八雲

第一話

 霧雨の降る夜だった。仕事を終えた男は日付が変わる前に家に帰ろうと家路を急いでいた。急いだ所で帰宅時間は数分しか変わらないのだが、日を跨ぐか否かは決定的な差であるような気がして自然と焦燥感が募った。

 男の家と最寄り駅の間には大きな公園が横たわっており、通勤は何時も公園を横切るのが習慣となっていた。公園にはいくつものベンチが設置してある。男はその中の一つに目が留まった。何時もと同じはずの公園の風景の中に何だか一つ違和感があったからだ。

 それは黒い手帳だった。

 ベンチの端に黒い手帳が置いてあった。本物を見たことがある訳でもないのだが、警察手帳のようだと、男は思った。小さいサイズの手帳で表紙は黒く艶光している。霧雨の水滴がその艶をさらに目立たせていたので目に留まったのだろうか。

 表紙にも裏表紙にも名前らしき記述は無い。念のためぱらぱらと捲ってみるが持ち主を示すような名前、住所、連絡先の類は何も書かれていなかった。

 男は持ち主が返ってくるだろう事を思案し椅子に再び手帳を置いた。だが勢いがついてしまったのだろう、置いた拍子に手帳のページがめくれてしまっていた。

 その白いページには信じられない単語が書いてあった。それは偶々なのか、必然なのか分からないが男の興味を十分に引くものだった。

 男の頭の中からはもう帰宅時間などという思考は消え去っていた。目の前の単語に全神経を集中する。ベンチに座ってもう一度手帳を手に取る。だが、霧雨の降る光の少ない深夜では思うように文字を読むことが出来ない。

 男は周りを見渡し、人が来ていないことを確認すると手帳をポケットに仕舞った。たかが手帳。拾ったところで重罪に問われることもないだろう。

 男はそう思いながら家路を急いだ。

 男が家に着いたのは時間は二十四時を十分過ぎた時間だった。



 天沢美琴の今特別な精神の集中状態にあった。目の前のディスプレイには文字が溢れている。スポーツ選手がトランス状態でプレーできることをゾーンと言うらしいが、それに近いものなのかもしれない。

 今美琴の脳内には、興奮に満ち生き生きとした情景のイメージとそれから溢れ出る言葉の波が溢れている。美琴は十時間ぶっ続けで小さな画面に向かい合っていた。だが不思議と疲れはない。むしろこの心地よい快感がいつまでも続いてほしいという思惑の方が強かった。

 結局更に三時間ほど作業をしてからベッドに直行した。


 みこと、と言えば今を時めく流行作家の中でも五本の指に入るだろうというのが世間の評価だった。黒髪で幸の薄そうな白い肌は世の民の想像を何倍にも掻き立てた。まだ二十代だがその繊細な恋愛小説は若者に響くだけでなく、過去のノスタルジアを求める世代にも突き刺さると評判だ。

 だが、その頭の中には才能が溢れているだけではなかった。人と異なる才能を持っている人間はその逆も然りなのかもしれない。



 水上孝之は久しぶりの休日に心躍っていた。大学を卒業して就職したコンサルタントの会社は聞いていていた以上の激務で、殆どの日が終電での帰宅となってしまっていた。休日出勤も多く、偶の休みには研修という名の勉強会が入ってくることも多かった。だが、今日と明日は本当に、完全な休みだ。上長の出張や業務の隙間が重なった結果の事だった。

 完全な休みは四カ月ぶりの事だ。

 水上はとりあえずたっぷりと寝ることにした。起き出したのは十二時を過ぎてからの事だ。起き出した時の感覚がいつもと全く異なるそれであることにまず最初に驚いた。慢性的な睡眠不足に陥っていたのだろう。脳の血流がが運動後の痕の筋肉の様に凝り固まっていることに、背伸びをして初めて気が付いた。

 その後起き出すと昼食を取ろうと起き出すが、終電間際の帰宅が定常化している男の家に何も食べる物が無いことは明白だった。

「仕方ないか、外に食べに行こう」

 水上は独り言を吐いた。



 美琴は四時間ほど睡眠を取ると、原稿の見直しに取り掛かった。もうすでに脳の回転数は落ちているもののその残痕が心地よく、スムーズに作業は進んだ。書き上げた時のような高揚感が無い分、時間を掛けて噛みしめるように推敲を進めた。

 美琴は見直しを行う前にはどんなタイミングでも一度睡眠を挟むようにしていた。昨日の様にゾーンに入っている場合でも冷静な視点は必要だ。有り余るエネルギーは往々にして暴走することがあることを経験からよく知っていた。

 作業を終えると編集者にメールを送った。マウスで送信アイコンをクリックした瞬間、肩の力が物理的に抜けるのが分かった。

 窓の外は夕方になろうかというところだ。大きく伸びをすると窓から入ってくる西日が作り出す影も一緒に動いた。

 一仕事終えた美琴の脳は糖分と睡眠を欲していた。

 まずはキッチンに放置していたチョコレートの欠片を覚めてしまったコーヒーと一緒に流し込む。じんわりと黒い塊が喉を通過する。その栄養を吸収しようと血液が活動的に脈動するのがわかった。

 次に必要なのは睡眠だ。四時間睡眠を取ったとはいえ、それまでの作業時間を考えると全くと言っていいほど釣り合っていないと言えた。下着になって布団に潜り込むと直ぐに意識は遠のいた。


 その喫茶店は小さな駅の裏口から歩いて五分程のところにあった。大通りから外れた人通りの少ない雑居ビルの一階に位置しており、お世辞にも客商売に適した場所とは言い無い場所だ。だが客足が悪いということは無く、少ないながらも一定数の常連客はいるような店だった。

 水上が入店したのは十三時を少し過ぎてからの事だ。この店は学生の頃に見つけて何度か通っていた。就職してからは疎遠になっていたが、久しぶりに旨いものを食べようと思案を巡らせた結果、思いついたのがここだった。

 カフェ・サカタと少し控えめに書かれた看板は、初めて見たときと同じ様に埃をかぶっていた。もう何年も掃除さえされていないのではないかといった風貌だ。だが、店の中は清潔感のあるインテリアでまとめられている。ヨーロッパの田舎町を思わせる、アンティークの木目が美しい机と調度品でまとめられたその空間は心を落ち着かせた。仄かに香るコーヒーの匂いがその効果を倍増させる。

「いらっしゃいませ」

 客商売にしては少し控えめな挨拶で出迎えてくれたのはこの店の主だ。この店全体から醸し出される控えめな雰囲気は元をたどればこの店主に辿り着くのだろうと水上は思った。

 マスターはロマンスグレーの髪を綺麗にオールバックで纏めた、映画に出てきそうな老紳士と言った雰囲気だ。漆黒のチョッキも相まって、外界と隔絶されイギリスにでも来たのではないかと錯覚してしまいそうになる。

 店内には新聞を読んでいる男性客が一人居るだけだ。音楽に疎い水上には何の曲かは分からなかったが、クラシックのBGMも心地が良かった。

 水上はカウンターに腰をかける。

 いらっしゃいませ、もう一度そう言いながらマスターが冷水を差し出した。それにつられるように軽く会釈をする。何故かその一連の動作すらも心地よい会話の様だ。

 メニューを開くと学生時代と全く同じそれが並んでいた。

 雰囲気が良いのは基より、ここは食事だけでも三本の指に入るというのが水上の評価だ。コーヒーの美味しさを気付かせてくれたのもこの店だったし、何種類かあるパスタは、どれもチェーン店には出せない味付けで気に入っていた。

「すみません、ブレンドコーヒーと、和風パスタのセットをお願いします」

 水上がそう言うと、はい、ありがとうございます、と上品な声が答えた。

 店内にはクラシックの音と料理をする音だけが響く。自然の中で小枝のこすれる音を聞くように心地が良かった。

「お待たせいたしました」

 音もなく目の前にパスタとサラダが並ぶ。コーヒーは食後が希望であることをマスターはまだ覚えてくれていたようだ。

「ありがとうございます」

 綺麗にナプキンの上に置かれたフォークは家での普段使いのものと違い、ずっしりと重い、毎回銀製なのだろうかという思考が横切るが水上にそれを確かめる程の眼力は無かった。

 久しぶりの味だったが、記憶の中にあるそれを寸分違わず、美味いパスタだった。

「旨い」

 水上は声に出したつもりは無かったが、漏れてしまっていたのだろう。マスターがそれに答えありがとうございます、と頭を下げたのを見て初めて気が付いた。

「相変わらず美味しいです、パスタ」

 声が漏れてしまったことに少し照れながらも、改めてマスターに声を掛けると、カウンターから恐縮です、と返事があった。

 湯気の立つコーヒーが目の前に置かれると湯気を伝わるかのようにコーヒーの香りが鼻を擽る。コーヒーを手に取る前に一度大きく香りを吸い込むと深実のある中に酸味が隠れているような、何層にも形成された香りであることが分かった。

 水上はコーヒーの味を判断できる舌を持っている訳では無かったし、そんなものを気にした事も無かったが、ここのコーヒーだけが、美味しいと感じた事がある唯一のそれだった。

 コーヒーの最後の一滴を飲み干すと、再びゆっくりとした時間が流れた。

 少し落ち着いたところで水上が取り出したのは黒い手帳だった。仕事帰りに夜中公園で拾ったものだ。

 この手帳、よく見てみるとこのアンティークな喫茶店にマッチしているのかもしれないと水上は思った。机の上に置くと黒光りした表紙とシックな調度品とよく合う。


七月十一日 晴れ

 今日、駅前で女を見つけた。周りに女の匂いを振りまきながら歩く、嫌な女だ。あのような若くて目立つ女はこれまで何の苦労もせずにちやほやされて生きてきたに違いない。見ているだけで虫唾が走る。だがその一方で吐き気と共に自分の中の感情が昂ぶるのもわかる。この虫唾が多ければ多いほど、目的を達成したときにはその快感が最高潮に達するということを私は知っているのだ。

 女は坂本美香と言った。近づくと化粧品の酷い匂いがした。車に乗っている間窓を開けておくことで何とかやり切ったが、もう少しで我慢できなくなるところだった。

 途中コンビニでジュースを買ったが礼も言わない。その高飛車な態度は鼻につくが今はこれからの興奮を高めるスパイスとなり、私の鼻を擽る。

 トイレに行きたいと言ったので途中道の駅に寄った。何をしているのか分からないが嫌に時間が掛かった。

 ダムの近くにある病院の廃屋に着くと周りを見渡しながら不思議な表情をしていたが、一発レンチで殴ると一度悲鳴を上げて倒れた。何やらつぶやいていたが、それはもはや言葉にはなっていなかった。

 女は良い表情をしていた。こうして後から思い出してもその興奮が鮮明に思い起こされる。レンチを振り下ろした瞬間の何が起きたのかわからない、驚愕の表情。自分が傷つけられたと分かった時の苦悶の表情。そして最後に苦しさの中に感じる死を感じた時の無念の表情。短時間に変わるそれぞれの表情が甚割の自分の中に染み込んでくる。

 念の為に身体をロープで拘束すると、まだもぞもぞと動いている。時折呻き声を上げるが、その表情が何とも言えずにすっきりとした気分になる。

 結局そのまま女の息が絶えるまでその顔を見続けた。こんな女が最後に見た景色が自分だなんてそれだけでも興奮する。

 ダムの近くのこんな工場跡で自分が最期の時を迎える何て思ってもみなかっただろう。

 ナイフを首に入れると血が勢いよく噴出した。まだ心臓は動いているようだ。


 水上はそこで手帳を閉じた。

 手帳の持ち主は何のためにこの日記を認めたのだろう、考えるまでもなくその答えは明らかだった。持ち主はこの日記を読み返して過去の興奮を反芻していたのだ。

 その大事なノートを、何故か公園に忘れてしまった。

 坂本美香という名前をネットで調べると、警察の行方不明者のリストの一番新しい欄にその名前があった。行方不明になった日は七月十一日。日記の日付と一致する。今から一ヶ月ほど前だ。駅で友人と別れたのを最期に消息を絶っている。

 水上はもう一度手帳を読み進める。続きのページには同じような殺人の描写が続く。描写を信じるとすると、手帳の持ち主は合計で三人を殺している様だ。一人目の坂本美香、二人目は石井聡という名前の若い男性、三人目は坂田麻衣という名前の中年の女性だった。坂本美香と同じく残りの二人も警察の行方不明のリストに名前があった。どちらも出会いから殺人の状況まで事細かに記してある。

 水上は手帳の持ち主について想いを巡らせた。

 どんな人間なんだろうか。男か、女か。若いのか、それとも中年か。仕事は何をしているのだろう。どうしてこんなことをしようと思ったのか。殺人は三人だけなのか、もっと他のノートもあるのか。そうであれば……

 水上が思索していると、からからと入り口のベルが鳴った。誰か新しい客が来たようだ。水上は一度目立たないように手帳を閉じる。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 若い女性の声だ。その声に店主が応じる。

「あ、水上さん」

 突然の呼名に一瞬困惑したが、その声は過去に聞いたことがあるものであった事を思い出す。

「美琴さん、お久しぶりです」

 水上はこちらに向かってくる女性に向かって言った。彼女は天沢美琴と言った。会うのは久しぶりなので少し表情が引きつってたかもしれない。

 女性は水上の隣に座るとアイスコーヒーを注文した。そうだ、確か彼女はいつもアイスコーヒーだったような気がする。

「お久しぶりですね、水上さん。最近来てくれてなかったじゃない。ねえ、マスター」

 マスターはそれに合わせるように笑顔を向ける。

「すみません。仕事が忙しくて」

「そっか、水上さんももう社会人なんだよね。じゃあ、しょうがないですけど」

 からからと乾いた声で笑った。

 これが世間で言われている姉御肌というものなのだろうか。水上にとっては初めて接する人種だったため最初はかなり戸惑ったことを覚えている。まだ学生の頃の話だ。だが、そんな戸惑いもここで何度か話していくうちに少しづつ薄れていった。

 彼女は水上よりも少し年上に見えた。二十代中盤から後半くらいだろうか。艶のある黒い髪は後ろで一つにまとめられている。黙っていれば、はっきりとした輪郭と凛とした印象で日本刀のような美しさがある。

 だが、水上のようなコミュ障の人間には少しばかり強烈な人となりでもあった。

「何してるんですか?」

 水上は一瞬手帳を隠そうとしたが、すでに美琴の視線に入っていることに気が付きそれを諦めた。

 それと同時に美琴は早速視線をそちらに落とした。

「それ?手帳ですか?」

「あ、はい」

「もしかして水上さん日記とか、書いちゃってたりします?」

 そのものズバリを言い当ててしまう察しの良さに少し驚きながらも返事を返す。

「まあ、日記と言えば日記なんですが」

「何ですか、煮え切らない答えですねぇ」

 乾いた声で笑いながら答えた美琴に対し、水上は少し声を潜めながら言う。

「実はこれ、拾った手帳なんです」

「拾った?」

 水上に合わせるようにくぐもった声で答えた美琴は、まるで珍しい動物を見るかのような視線を手帳に向ける。

「ええ。

 しかも、この日記が本当だとしたら、持ち主は殺人を犯しているみたいなんです」

 美琴は最初他人の日記を勝手に読んだ水上に軽蔑するような視線を向けていたが、殺人というワードに反応したのか、一転して手帳に対する興味が湧いたようだった。

「殺人て、本当なんですか?」

「まあ、この日記に書いてあることが本当なら、ですけど」

「私にも見せてくださいよ」

 そう言い終わらないうちに目の前の女は手帳を手に取っていた。

 美琴は手帳を開くとしっかりと文字を追いながら読み進めている。

「成程」

 読み終えると内容を噛みしめる様に感想を捻りだした。

「これ、被害者の名前が書いてありますが、ニュースになっていたりするんでしょうか?」

「一応ネットで検索してみたんですが、捜索願が出ているだけで、まだ死亡が確認されたという話は無いみたいです」

「ということはまだ遺体はそのまま放置されているってことですか?」

「まあ、そうですかね」

「それ、探しに行きませんか?」

 彼女は目を輝かせながら言った。



 彼女の車は青いAudiの小型自動車だった。車種までは分からなかったが、小型で可愛らしい女性のために開発された様な車だな、と水上は思った。

「その日記によると、コンビニによって道の駅によって、ダムの近くの病院の廃屋で殺人をしたってことですね」

 美琴はそう言いながら車を運転している。

「心当たりあるんですか?」

「まあ、心当たりまではいかないんですけど、条件に合うんじゃないかという廃墟を一つ知ってますよ」



 廃墟は車を降りて山の小道を登ったところにあった。本当は立派なアスファルト道路が通してあるらしいのだが、そちらは厳重に封鎖されていて通れないとの事だった。

「美琴さん、廃墟探検が趣味なんですか?」

「いえ、廃墟探検が趣味という訳ではないんです。アウトドアが好きで、昔登山道を探しているうちに見つけたんですよ」

「へえ、そうなんですか」

 水上は美琴の意外な趣味を知ったような気がした。

 正面の方に回ってみたが、玄関らしきところは板を打ち付けてあって入ることは出来ないようだった。一階は窓が多かったがガラスはすべて割られ板が打ち付けてある。

 裏の方に回ると、大きな湖が目の前に広がった。

「これ、日記の中にあったダムでしょうか」

「だと思いますけど……ダムの近くにある廃病院なんてそうそうないと思ってるんですが……」

 もうすぐ一周しそうだが、入れそうな場所はまだない。

「入れるところ、ありそうですか」

 水上はすでに入り口を探す気は無く、一周回るのを待っている状態だったがそういう時に限って自分の思う通りにはならないものだ。

「あ、ここ入れそうじゃないですか」

 美琴が水上に嬉しそうに話しかけた。

 そこには確かに人が一人くらいなら通れそうな穴が開いている。美琴は水上の方を一瞥するとこちらの意思を確認しようともせずに一人でその穴へ吸い込まれていった。

 水上も美琴が吸い込まれていった穴に近づく。最初は小さな穴に見えたが、よく見ると襤褸切れが被さっている。汚れた布を避けると大人でも腰を屈めれば通れるほどの穴が開いていた。少し除くとその向こうはトイレの様だった。リノリウムの床に無機質なタイルで囲まれた部屋は古典的なトイレと言った印象だ。だがしかし、壁が崩れているせいで一部に木のクズや壁の資材が散らばっているのは何だか異様な雰囲気だ。

 自分の後ろから漏れる光は数メートル先までしか照らしてくれていない。それ以上は真っ暗な闇だ。その中を一つの光が動いていた。美琴のスマホから放たれている光だ。

「何かありますか?」

 少し大きめの声で水上は問いかける。

「いえ、まだ。何も」

 一応こちらの問いかけには応じるものの、その足を止める気はなさそうだ。

 水上もスマホのライト機能で足元を照らし、先んじた光を追う。

 暗闇の中、円形の光だけが水上に情報を与えてくれる。

 広い通路の左右には病室が並んでいるようだ。規則的に並んだドアはこの建物が無限に続いているのではないかと錯覚させる。

「水上さん」

 大分前を歩いていた美琴が声を掛ける。それと同時に彼女の光がこちらを向く。

「どうしました?」

「これ、見てください」

 駆け足で美琴に駆け寄ると、彼女はとある部屋の前でこちらを見ていた。

 部屋のは廊下と同じく埃っぽい空気が充満していた。その空気の向こうに赤い寝袋が置いてある。その周りだけは埃が取り除かれており、比較的最近まで使われていた事を予想させた。

「日記の持ち主でしょうか」

 水上は相手を見ずに聞いた。

「かもしれません。が、ただ浮浪者が住み着いているだけという可能性も」

 寝袋の他にはジュースの空き缶、ペットボトル、菓子の袋が散乱していた。

 水上は食事と呼べるような痕跡が無い事から、住み着いているというのとはまた違うのでは無いかと思ったが、それを口にすることはしないでおいた。

 一階の端の部屋まで一通り調べたがそれ以上の手掛かりが見つかることは無かった。

「二階も、行ってみます?」

 美琴の言葉に頷き、水上も一緒に二階への階段を上った。

 二階も一回と同じような病棟が並んでいるようだった。水上と美琴は打ち合わせをしていたかのように左右に分かれそれぞれの病室を見て回った。

 一つ目、二つ目。

 三つ目の部屋は光を当てる前から少しの違和感があった。廊下や他の部屋は埃でまみれていたのに、その部屋は開けた瞬間にむせかえるような埃が鼻腔を襲うようなことは無かった。光を当てると床の埃は綺麗に掃除がしてあり、病院のベッドから拝借したのだろうか、部屋の真ん中にはマットが敷いてあった。

 だがそれは病院という言葉から連想される真っ白なマットではなく、黒に近い赤が形作る斑点と大きな血の塊がマットの中央に諮られたように形成されていた。

 さらにその中央には何かの塊が見えた。多分マットの上にあるべきなのは人の遺体なのだろう。自分たちはそれを探しに来たのだし、赤い血の上に横たわっているのは人間の死体と相場が決まっている。だが、水上が一目見たときにそれが人間の遺体であるということは即座には分からなかった。人間の遺体とは、まさに人型であって初めてそれだと認識できるのだが目の前にはいくつかの塊があるだけだった。

 視覚で幾つかの情報を処理しながら、もう一つの感覚に違和感があることに気が付いた。ものすごい死臭が水上の鼻を襲っているのだ。

 水上は思わず鼻を塞ぐがその死臭は鼻奥に粘りついて離れない。だが水上の脳は何とか目の前の状況を理解しようと視覚を働かせた。

 その塊の一部に人の腕と思しき部品を見つけてやっと水上はそれが人の遺体の一部であるという事に確信を持つことが出来たのだ。

「美琴さん」

 水上は息継ぎもかねて廊下に出るが暫くは声にならない。彼女の事を呼ぶことが出来るまでには数分を要した。

 美琴はすぐに水上の方へ向かってきたが、水上の位置から確認できた時にはすでに顔は歪んでいた。

「何、この匂い」

「あれ、坂本さんですかね」

 鼻の中の臭気を必死に追い出そうとしながら声を出すものだから、何だかつたない言葉になってしまう。

 水上がせき込みながら呼吸を整えている間に美琴は部屋の中に入って行ってしまった。

 水館は不意に部屋の空気を吸ってしまったのでダメージを受けてしまったが、美琴は気を付けていたので耐えることが出来たのだろうか。しばらく経っても外に出てくることは無かった。

 それを確かめると水上も部屋の中に入った。確かに、一回目の衝撃よりは多少和らいだ感もあるが、それはまだまだ十分に厳しい刺激だった。

 美琴はスマホのライトを遺体に当てながら細かく調べている。その姿はまるで鑑識が遺体を調べるそれの様だ。

「何か、分かりましたか?」

「いえ、こんな状態になってたら何もわからないですよ。かろうじて手足のパーツがわかるくらい。それが無かったらこれが遺体ということも分からないと思います」

「そうですよね」

 水上も後ろから死体を覗き込みながら答えた。

 水上はもちろん死体を見るのは初めてだ。まだこの匂いにも慣れることが出来ないが段々と目の前の光景を細かく観察する余裕は出てきたような気がしていた。

 表面は服だった布切れが覆っているが元の色は何だったのか分からないくらい赤黒い染物となっている。手の形はわずかに分かったが、よく見ると体のあちこちに蠅が塊になって肉の部分に群がっていた。

 自分の体も一歩間違えばこんな肉会になってしまうのかと思うと、何だか必死に生きてくのが億劫になってしまう様な気がした。

「これ、やっぱり警察に届けた方がいいですよね?」

 水上が聞くと美琴は頷く。

「そうですね。もうこの時点で私たちの痕跡が残ってしまっているような気がするんですよ。髪の毛とか、服の繊維とか。

 なので、下手に逃げてしまうと後で見つかった時に面倒な気がしますね」

 確かに。後で遺体が見つかって鑑識作業で自分の髪の毛でも出てきたら、最悪犯人に疑われかねない。水上は美琴の言葉を飲むしかなかった。

「確かに。自分をトラブルから守るためにも通報はしておいた方がいいかもしれないですね」

「でも、それは今すぐでなくてもいいかもしれないですね。こんな事滅多に体験できることではないですから」

 美琴は興味深そうに遺体を調べている。

 だがその次の瞬間、美琴の視界は暗転した。



 美琴が最初に認識したのは真っ暗である、ということだった。それは自分の意識が存在する事を確認したという事でもある。闇を認識した後に段々と自分の身体があるということがわかってきた。だが身体があるということを認識しただけで、感覚としてはわずかな痺れがあるということがわかる程度だった。

 さらに時間が経つに従って、まずは美琴の身体の輪郭ははっきりとしてきた。朧げな四肢の感覚が先鋭化される。指先、足、肩。自分の身体の形が脳の中で作り出されていく。だがその信号の一部は想定外に増大しており、人体の異常を知らせるほどだった。まずは足と手だ。手と足には夫々を囲うように線状に痛みが走っている。霞のかかった頭脳で少しずつ感触を確かめると、それは紐のようなものではないかという考えに至った。

 どうやら自分は拘束されているらしい。美琴は少しずつ覚醒していく意識の中でようやく認識することが出来た。

 手足だけではない。後頭部にもいつもと違う感覚が存在している。だがそれは手足の痛みの様に鋭いものではなく、鈍いそれだった。

 もしかしてこれは、誰かに殴られたのか。

 そう思いながら美琴は目を開いた。

 そこは何処だろうか。暗い場所だ。最初に抱いたイメージは病院だった。光沢のある床と白い壁、カーテンレール。美琴は自分がなぜ病院にいるのかを思案する。

 そうだ、自分は水上と病院の廃屋に来たのだ。美琴は随分と元の働きを取り戻した脳の記憶を辿る。

 とすれば当然危害を加えたのは水上となる。だが当の本人は目の前に居ない。どこかに行ってしまったのだろうか。

 そこまで考えて、この部屋を僅かに照らしているのが自分のスマホから出ているという事に初めて気がついた。ということは水上は自分のスマホを灯りにしてどこかを徘徊しているという事なのだろうか。

 美琴は手足を縛られて床に打ち捨てられている。先程からこの拘束を何とかできないかと動いてみるが四肢の拘束は思ったよりも確りとしていた。

 一瞬、廊下の方で何かが動いたような気がした。その方向をよく見ていると光が一瞬揺らいだ。自分のスマホは当然動いていない。

 その揺らぎは廊下の奥から漏れてくる光によるものだった。その光を見つめていると揺らぎは段々と力強くなる。その増大と共に靴の音も聞こえてきた。

「あ、美琴さん。お目覚めですね」

 思ったよりも陽気な挨拶だ。

「水上さん、これはいったいどういう事でしょうか」

 何だか拍子抜けしてしまった美琴は変に冷静になってしまっていた。

「そうですね、僕前から美琴さんの事大好きだったんですよ。だからこれから愛の告白をしようと思っています」

「嘘ですよね、それ」

「はい」

「そういう感じの無駄なやり取り、苦手なんですけど」

「分かりました、すみません」

「私、殺されるんですか?」

 美琴は水上の目を見ながら問うた。

「はい」

「どうして?経緯は教えてもらえるんですよね?」

「もちろん」

 水上は動けない美琴の横を静かに歩きながら言った。

 美琴は水上を追いかけながら視線を動かした。それで気がついたのだが、この部屋は最初に死体があった部屋とは別の部屋の様に見えた。だが埃まみれな訳ではなくある程度綺麗に掃除されていた。部屋がある程度広く仮に廊下と同じような状況なのであれば綺麗にするのには何時間もかかるだろうと思われた。ということは、この部屋はあらかじめ用意されていたということになる。

「切っ掛けは一冊の手帳でした。それは雨の中打ち捨てられていました。そのノートには殺人の記録が残っていました」

「それがお店で見せてくれたノートね」

「はい」

「僕が手帳を拾ったのが金曜日の夜」

「一昨日」

「そうですね。それを拾った僕は中身を見てびっくりしました。殺人の状況が事細かに描いてあるんですから」

 美琴には、段々と水上の語気が高揚しているように聞こえた。

「それを見てどう思ったんですか?」

 美琴がその質問をした瞬間、水上の身体がぴくりと震えた。

「どう?

 一言で言うと、素晴らしいと思いました」

「素晴らしい?というと」

「手帳の文字情報を一文字一文字追いながら自分の頭の中でその光景を再構築していくと、今まで味わったことのない高揚感と興奮が自分の中に湧き出てくるのが分かったんです。

 大切な大切な命を自分の手で終わりにする。

 そう考えると何だか、自分を抑えることが出来なくなるんです」

「射精、したんですか?」

「ええ、もちろん。すごく良かったですよ。

 僕はその時思いました。記録の文字情報だけでこんなに良いんだったら、実物があったらもっと興奮するんじゃないかって。

 だから次の土曜日必死に探しました、この病院を。美琴さんもやっていたように、大体の位置は見当がつくものの、僕はこんなところに廃墟があるなんて知らなかったから随分探しましたよ。

 結局ここに辿り着いたのは夜遅くになってからでした」

「成程、エロの力は偉大なんですね」

「勿論。全ての欲望は性欲につながりますから」

 水上は微笑みながら美琴の頬を撫でた。

「それで、生は気持ちよかったですか?」

「ええ、勿論。本物は手帳の文字とは比べ物にならないほどでした。こんな快感がこの世界にあるなんて信じられない。そう思いました」

「良かった。で、それがどうしてこの状況に結びつくのか聞いても大丈夫ですか?」

 美琴は束縛を何とかしようと藻掻き続けるが、水上は悦に入っているようで何も気に掛ける様子はない。

「僕はそれから考えました。どうすればもっと気持ちよくなれるのか。さっきの遺体、美香さんは見て分かる通りちょっとばかり新鮮さが足りない。

 美香さんは中々素晴らしい身体でしたが少し古くなってしまっている。これが新鮮なものだったらと思うと私は居ても立ってもいられなくなってしまったんです。それに自分の手で最後の時を演出することが出来るなんて。もうそれだけで絶頂に達してしまいそうです」

「成程、つまり要約すると私を殺して気持ちよくなろうと」

 美琴は水上を見上げ名から言った。

「ええ、その通りです。理解していただき助かります」

「助けて、と言っても助けてくれるわけではないんですよね、多分」

「はい、申し訳ないのですが」

「どうしても?」

「はい、どうしても」

「むう、残念ですね」

 水上はしゃがみ込んで美琴に視線を近づけながら言った。

「冷静ですね。自分が殺されそうだというのに」

「そうですか」

「ええ、もう少し絶望感を出していただけると助かります」

「申し訳ありません、これが限界なんです」

「そうですか。わかりました」

 水上はそう言いながらナイフを取り出した。

 だが、その刹那後、暗転したのは水上の視界だった。



 意識を取り戻した水上の視界は片方がつぶれていた。見えるのは左だけだ。右側はなぜか瞼が開かない。段々と意識と身体の表面の感覚がはっきりとしてきた。右の目にはぬるりとした液体のようなものがへばりついている。血かどうか、確かめようとしたが水上は自分の腕が後手に縛られていることに気がついた。

「どうも、お疲れ様です」

 女性の声がした。

 さっきまで自分が立っていた場所に、女性が一人立っている。

「美琴さん」

「大丈夫ですか?」

 水上の目の前の女性は心配そうに覗き込む。

 水上は起動し始めた自分の脳を奮い立たたせながら自らの過去の記憶を辿る。

「そうだ、確か美琴さんを殺そうとしてたのに」

 水上の記憶は美琴を縛り上げて殺そうとしたところで終わっていた。

「そう。私は水上さんに殺されかけた。拘束もされてた。

 でも本当に拘束するなら、もう少しきちんとやらないと、駄目ですよ」

 そういわれて水上は自らの拘束を外そうと試みたが、その感触は自分が行ったそれとはまったく異なっていた。

「私を殺そうとしたのなら、自分が殺される覚悟も当然できていますよね?」

 美琴は水上の頬をさすりながら小さな声で囁く。

「殺す、んですか?」

「はい」

 美琴は笑顔で答える。

「ごめんなさい、出来心なんです」

 水上は震えながら美琴に縋る。

「大丈夫。私も水上さんの気持ちよくわかるんですよ」

 美琴は言った。

「それ、どういうことですか?」

「だって、美香さん殺したの私ですから」



 水上は直ぐに彼女の言葉を理解することが出来なかった。

「美香さんを殺したのは美琴さん、なんですか」

 水上はやっとのことで言葉を捻りだす。

「そう、嬉しいでしょう、同じ趣味の人と出会えて」

「どういう事なんですか、一体。全く分からない」

「どういう事と言われても。美香さんを殺したのも私。そして手帳に日記を書いたのも私。で、わざと写しを水上さんが見つけやすいところに置いたのも私。そして日曜日に水上さんを付け回して良い頃合いの時に声を掛けたのも私」

「どうして、そんな事を?」

「水上さんは同類だと思ったから」

「同類……」

「実際美香さんの変わり果てた姿を見て興奮しちゃったんでしょう?」

 水上は答えない。

「水上さんは必ず、新たな扉を開いて人を殺そうとすると思ったわ。

 で、私はそんな人を殺そうと調子に乗っている人間を殺すのに興奮しちゃうって事。もう普通に殺したんじゃ欲求を満たせなくて」

「そんな」

「そうそう、それそれ。その表情」

「美琴さんは、あのノートに書いた人全員を殺したんですか?」

「いいえ、あんなもんじゃないわ。十二人からは数えてない」

「そんな」

 水上の表情はさらに歪む。

「そうそうそれ、その表情がたまらない。射精しちゃいそう」

 その次の瞬間、水上の意識は次こそ永遠に暗転した。


                           了

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手帳の殺意 秋月 八雲 @akizuki000

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