第3話

 6月2日

 あの時から三ヶ月が経って、マツダとわたしの関係は微妙に拗れていた。毎週のようにマツダはわたしを自宅に招き続けたが、あの日以来様子がおかしい。今まで聞きもしなかったこの仕事をしている理由だとか、わたしの個人的な趣味だとかをやたらと気に掛けるようになった。マツダは決して薄給ではないようだが、さすがにこの頻度で呼ばれると心配になる。そう言うと彼は照れ臭そうに笑うのだった。

 いつ来てもそれなりに整えられている家の様子を見るに、家事は嫌いではないのだろう。ほとんどはその快適な部屋で話をして過ごし、時々思い出したように身体を重ねた。

 この日出勤する少し前、出勤確認の電話を入れると珍しく店長が出た。彼は小太りの少し女性的な話し方の男で、時々わたしたちを仕事上がりに食事に誘ってくれる。

「あのねえゆりちゃん、今日なんだけど、マツダさんから電話が来ててね」

「はあ」

 歯切れの悪い彼の声はもじもじと手を合わせる姿を連想させ、どうも優しくしてしまう。

「いつものことじゃないですか」

「うん、それがね、オーラスなの」

 わたしの出勤時間は八時間ある。加えて店ではキャストのランクに応じて加算があり、交通費を除いても十五万は越えるはずだ。驚きと戸惑いが押し寄せ、柄にもなくわたしは動揺を露にした。

「それ、大丈夫なんですか」

「ちょっと心配だよねえ。ゆりちゃんの確認待ちにしてあるけど、どうする?」

「どうって、わたしはいいですけど」

 双方不安げに電話を切る。最後の確認に鏡を見ながら、わたしはそれでも不安を抑えられない。仕事内容を記載したメールでは、カード決済になっていた。風俗店でカードを利用すると、手数料が非常に高いと聞いている。それがわたしと現金のやり取りをしたくないマツダの願望なのか、それとも手元に現金がないせいなのか、いずれにしてもよくない傾向だった。

 最近彼は、わたしと外で会いたいと言っていた。はぐらかしてはぐらかして、そろそろ断る言葉もない。その手の攻防を八時間もするのも気疲れする。だめならだめで、すぐにアウトしようと心に決めた。

 二十時十五分に到着すると、部屋ではキャンドルと食事が待っていた。誰かのお誕生日会のように飾り付けられた部屋は、夜の仕事をする女を招き入れるための部屋とは到底思えない。

「あの、これ」

 マツダは、金のことを聞かれたときと同じ顔をする。

「今日は、ちゃんとゆりちゃんと話がしたいんだ」

 これが本当にマツダとの最後になるだろう。わたしは彼がそれほど嫌いではない。時間いっぱいプレイに使おうとする客ではないからというだけではなかった。マツダはわたしを人間として見てくれていた。時々迷惑な手土産や答えに困る質問もあったが、それでもわたしを受胎しない子宮として扱ったことは一度もない。出会った当初からそうだったのだから、きっと彼はそういう心根の人なのだ。人を人として扱うのは案外難しい。ともすれば立場と役割に託つけて人間性を無視しても、無視したことにも気が付かない。それを自然にやってのけるマツダに、わたしは親愛の念を抱いたこともある。

 わたしは観念する。どうやり過ごそうと直前までは考えていたが、こう出られてしまえばわたしに逃げ場はないのだ。

「マツダさんは何が聞きたいの?」

「まずね、これ」

 彼がテーブルの上に差し出したのは名刺だった。誰でも知っている製薬会社のある程度想像のできる役職に並んで、松田紘之と書いてある。手書きで見知った電話番号が書き込まれている。

「ゆりちゃんはどうしてこのお仕事してるの?」

「当て付けかな」

「誰に?」

 マツダは食事を進めながら何気なそうに訊ねる。きっと意外だったろうに、表情には出さない。料理はたぶんマツダの手作りだ。美味しい。

「わたしね、お姉ちゃんがいるんです。お父さんはいなくて、お母さんはスナックで働いてました。田舎のね」

 マツダは真面目な顔で聞いている。少し目の辺りが熱い。自分の話をしようとすると、わたしは何故かいつも涙が出る。

「お姉ちゃんは出来がよくて、わたしは何してもだめで。確かにだめなんだけど、でもがんばりたいって思っても、がんばってもだめでしょって先に言われる感じだったんです」

 このことについては色々と考えたことがある。肯定的に捉えてみようと頭を捻ったこともあった。恨みがましく一々事例を挙げて個別に思い返したことは数知れない。結局足りない頭で考えた挙げ句、わたしは開き直ることにした。

「お金もモチベーションもなかったから、高校出るときに家も出て、逃げてきちゃったんです。なんか、典型的で恥ずかしいんですけど。この後も典型的で、しばらくちゃんと働いてみてもやっぱり上手くできなくて。人と上手に付き合えなかったんです。家族からすら逃げ出すような人間が、他の人と上手くできるはずがなかったんですよね」

 わたしにはもう後がなかった。あの時はやっと自分の名前で契約した部屋の安い家賃を払うために必死だった。だからと言って、身の置きどころのない職場で笑えない冗談をかわす技量もなかった。一言で言えば若かったのだ。わたしはあの時若く愚かで、知っていることと言えばわたしの身体には男たちを跪かせる力があるということだけだった。

「それで結局また逃げたんです。まともな人に混じってまともそうなことをすることから逃げて、そういう人間にもできることが世の中にこれしかなかったんです。でもわたしはそれでよかったと思ってます。わたしが惨めったらしく生きていて、たぶん姉が一番軽蔑する仕事をしていて、そういう全部が、当て付けなんです。がんばらなかった自分と、がんばる価値を見出だしてくれなかった母と姉とに対しての」

 途中からマツダの顔を見ることはできなかった。マツダがどう思うかが怖かった。人前に自分の膿んだ傷口をさらけだすことが怖かった。無意味な涙を流しながら言い切って、また箸を進める。マツダは何も言わない。

「他に何か聞きたいことはないんですか?」

「ゆりちゃんの本当の名前は何て言うの?」

「百合香。百合の香りです」

「百合香ちゃんは、この仕事辞めたい?」

「どうでしょう、あんまり考えたことがないです。他にできることもないし、行くとこもないから、辞めたら生きていけません」

 本当は辞めなくてもいずれわたしの人生は詰む。年齢が上がれば店を移らねばならない。努力してもやがて客は付かなくなる。今はリピーターのお陰でそれなりの稼ぎがあるが、彼らだっていずれは飽きる。わたしたちはそういう先細りの道の上を歩いている。

「わたしからも質問していいですか」

「うん」

「なんでわたしにこんなに良くしてくれるんですか?」

「最初は顔が好みだったから呼んでみて、会ったら驕ったところのないいい子でびっくりしたんだ。何度か会ってもらってるうちに、細かい気遣いが嬉しくなって、そういうことのできる優しい子なんだって思って」

「お仕事だからかも知れないじゃないですか」

「でも、百合香ちゃんの腕、傷だらけでしょ。だからきっとひとりで泣いてるんだろうなって思ったら、苦しくてさ」

 わたしたちは互いに俯いて、食事を進める。

「それで、ちょっとでも休める時間になればいいと思ったんだ」

 わたしはそれに答えはしなかった。いくら馴染みであっても客は客で、時間を計っている限りわたしは気を抜けない。たぶん互いにそんなことはわかっている。

「あんまりそういうの、よくないです」

「百合香ちゃんには嫌がられてるって思ったんだけど、他にどうしていいかわからなくて」

「気持ちよく遊んでもらって、楽しかったと思ってお金を払ってもらわないと嫌なんです」

「そっか、百合香ちゃんはそう思ってたのか」

 失敗だったなあと、マツダは笑う。

「外に誘うのも困ります。自分のことを話すのも、あんまり得意じゃないんです。わたしは、松田さんに楽しく過ごしてほしいんです」

「僕は楽しんでたよ」

「そういうことじゃないです」

「ねえ、僕と結婚してくれないかな」

 脈絡なく言ったのは、たぶん彼の作戦だったのだろう。これだけ身構えさせておいて、中々嫌なタイミングで切り出されてしまった。わたしはついうっかり、商店から彼の顔を見てしまう。取り立てて整っている訳でもないマツダの顔が、妙な存在感を持ってわたしに向けられている。

「ちゃんと考えて言ってますか?」

「すごくちゃんと考えたよ」

「焦って妥協してませんか」

「僕は百合香ちゃんのことが好きなんだ」

「それはそうなんだと思いますけど、そうじゃなくて」

「顔出ししてても、長くこの仕事してても、僕は百合香ちゃんがこの先ちゃんと笑って暮らせるようにしたい。僕に百合香ちゃんを幸せにさせてください」

 マツダが頭を下げる。

「そんな急には」

「わかってる。すぐじゃなくてもいいから、考えてほしい」

 わたしはこれまで、罪悪感の記憶がない。気の毒だという気持ちはあるが、それが罪咎であって自分に課せられると感じたことがない。マツダに対してもまた、気の毒だとだけ強く思う。

「マツダさん、ベッド行きましょう」

 これはわたしにとっては、最後に差し出せるものだ。

 わたしが持っているものはたったひとつ、わたし自身の肉体だけで、それだってそれほど価値のあるものではない。ありふれたひとつの塊だ。マツダや、何人かの人々にとっては宝物のようにしてもらえるが、別の時には関節の動く人形と同じような扱いを受ける。わたし自身さして大事にはしてこなかった。なのに今誠実になろうとすると、これ以外には何もない。

 彼の手を引き、何度も足を踏み入れた部屋へ入る。鞄はリビングに置いてきた。今日は仕事道具は要らない。ベッドに腰掛けてもらったマツダに背を向けて、一枚一枚服を脱ぐ。下履きを脱がせたマツダの股間に顔を近付けた。

 彼は、柔らかくはないが限界まで充血している訳でもない。わたしは唇を舐めて、唾液を口にためてから舌を這わせる。次第に硬く大きくなる陰茎を、執拗にねぶる。支えは直ぐに必要なくなった。直立した器官のこの形を、わたしはよく知っている。少し楕円になった真っ直ぐな陰茎の上には、亀の頭と呼ぶには丸すぎる部位が乗っている。心行くまで慈しみ、裏側に張り付く動脈の柔らかさまで堪能する。

 ベッドに乗り上げて彼の横に滑り込むと、彼はわたしの身体を包み込む。首筋に何度か唇を触れさせ、彼の手をわたしの局部へ向かわせた。中央に沿わせた指はすんなり内側に入り込む。二本の指で彼は行儀よくわたしの内臓に触れる。下腹に力を込めて、肉を締め上げると、彼の指はより深い場所へと伸びた。

 ゆるやかに、探るように動く。やがてわたし自身が内側に膨張するような感覚が広がり、息苦しく唇を開く。その唇を塞いだマツダの口腔に舌を差し入れて、わたしは何か素晴らしいものが隠されているかのようにまさぐった。唾液が溢れる。それを飲み下す。

 彼がわたしを圧迫し、それに耐えきれなくなったわたしの内側で、何かが弾ける。収縮した内壁をまだ彼の指は彷徨っている。わたしが彼の口腔で宝探しをするように、彼もまたわたしの体内で宝探しをしている。何度もわたしは収縮し、脱力しかけてまた充血する。

 熱を放つ丸い先端を押し当ててみると、わたしはするりとそれを飲み込んでしまう。粘膜に粘膜が触れて、極度の多幸感が脳の髄から溢れ出す。この丸く張り出したものが、わたしの内部に一部の隙も与えず充満する。もうこれ以上入らないところまで入りきってしまうと、わたしも彼も息を吐いた。

「まだ動かないで」

 わたしはまだ、この形と圧迫感を楽しみたい。何か別の存在で自分が満たされていて、やがてそれから吐き出されるもので空洞の奥まで充足する予感に胸を膨らませていたい。しばらくそうしているうちに、動きもしないのにわたしの内部は収縮を始めて、差し込まれた他人の存在をより深い場所へ導こうとする。

 動き出した彼をもう止めはしなかった。何かを降りきるように彼は故紙を動かす。汗が流れ落ちて、わたしは目を閉じて、たぶん彼も目を閉じて、最後の時を待った。白く弾けて互いを区別できなくなる瞬間を、息を詰めて求めた。

 

「じゃあ、また。おやすみなさい」

 結局その後も二度彼はわたしの中に吐き出して、わたしはそれを生身で受け止めて、泥のように眠った。目が覚めると入浴して、どことなく身軽になった気で他愛のない話に興じる。ドラマを観てアイスを食べて、そうしているうちにいつの間にか時間がきた。

 去り際そう言い残してきつく抱き合う。見納めになると思うと、どうも去りがたく感じた。

 待たせていた真田に仕事用の鞄を渡して、もうマツダは他の子に対応させるように言う。理由は特に聞かれない。

「煙草吸ってもいい?」

「いいですって、好きにして」

 自宅に着くまでの会話はそれだけだった。わたしはそれが心地よく、自分も煙草を吸いながら流れる車窓に目を向ける。明け方の高速道路はまだ空いていて、暗い道路には化粧の剥がれかかったわたしの顔がぼんやり浮かび上がっている。

 わたしがこの仕事を始めて、気が付けばもう六年が経っていた。数え切れない客と出会ってきた。痛みと快楽の両方を彼らは現金と共にわたしにもたらして、そして去っていった。そのうち七人の男とは本番もした。そして彼が八人目になり、その誰とも二度と会うことはない。

 彼らは皆気の毒だ。心の底から気の毒だ。

 わたしの幸せを願ってくれる人と、わたしは二度と会うことはない。わたしはそういう存在ではないのだから、互いに分を越えたことをするべきではないのだ。もしかしたらこの中の誰かの言葉を受けていれいれば、少なくとも今よりもましな状況だったかも知れない。わたしはこれほど身の置きどころのない思いをしながら生きていなかったかも知れない。

 でもそれはすべて馬鹿馬鹿しい妄想なのだ。

 

 6月7日

 マツダを切ったからと言って、わたしの日常には取り立てて変化はなかった。出勤すれば予約が詰まっていて、朝までホテルや自宅と事務所を行ったり来たりする。時々気分の悪くなるような客に当たることもあるが、ほとんどは顔も身体もよく知っている相手と穏やかに過ごす。

 マツダからは店に何度か問い合わせがあったようだが、わたしはその報告を受ける度にマツダの顔が思い出せなくなっていった。あれで最後だと彼も思っているだろうと考えていたが、どうもそうではなかったらしい。

 この日は一晩中雨が降っていた。雨の匂いの中に勢いを増し始めた草の匂いも混じっていて、それがわたしの鼻の奥に残っているあの不愉快な臭いを紛らわせてくれる。香水のきつい女たちを軽蔑していたが、もしかしたら彼女たちもあの臭いに悩まされていたのだろうか。

 事務所で受け取った私物の鞄からは、着信を知らせる振動が絶え間なく続いている。連絡は受けていたが、まさかまだ鳴っているとは思っていなかった。鞄を手渡してくれた店長もやや眉をひそめている。

「ずっと鳴ってたけど、大丈夫?」

 曖昧に笑ってやり過ごす。送りの車内でも途切れることなく鳴っている。帰宅してしばらく置いておいたが、止む気配はない。わたしが観念して電話に出る決心をしたのは、ようやく七時になろうとしてからだった。

「はい」

「今すぐ帰ってきなさい」

 姉は挨拶もなしに、怒気を隠さずそう言った。

「お母さん、亡くなったの。礼服持ってすぐ来て」

 それだけを伝えると電話は切れた。

 

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白井家の葬儀 大槻 羊 @SeNNyou93622

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