第2話

 3月9日

 明け方が近くなってもなお、夜の町は閑散としたりはしない。ホテル街の角には何時になろうとも数人の女が立っているし、送り迎えの車は往き来する。

 どの女もすれ違うとほのかなボディソープと香水の入り交じった、鼻に付く匂いがする。甘ったるく清潔な匂いだ。わたしは自分が今出たホテルに入れ違いで入ろうとする女に目を向ける。

 典型的な夜職の女だ。

 下ろした髪、不摂生な顔色、ハイヒールに素足、そして年齢不相応にひらひらとした服と、大きく重そうな鞄を持っている。彼女はたぶん、少し苛立っている。三時を回って入る客は正直嬉しくはない。よっぽど電話のならない日であれば話は別だが、基本的には夜が開けきる前に帰りたい。彼女が不機嫌そうな無表情でフロントに部屋番号を告げるのを聞きながら、わたしはエントランスを抜けて迎えの車に向かった。

 後部座席に乗り込む。鞄から水を取り出して一口含み、煙草に火を付ける。運転席から真田が振り返ってあからさまな笑顔を見せた。

「ゆりちゃんさ、もう一本いける?」

 わたしは鞄から剥き出しの現金を取り出して、真田に差し出した。三枚の一万円札が、わたしの手を離れて真田の手の中で数えられる。札をしまうと真田は再びわたしに目を向ける。

「あ、煙草吸っていい?」

「別にいいですよ。誰?知ってる人?」

「マツダさん。どうしてもゆりちゃんがいいんだって」

 マツダと聞いて、わたしは安堵する。彼はまだ若い部類だが、プレイなんかほとんどしない。わたしの身体を触ることは好きだが、わたしから何かすることは求めていない。

「一二十分までならいいかな」

「一八十がいいって」

「やだ。一二十でだめなら今日はもう上がりで」

 真田は頷いてから、事務所に電話を始めた。低いだみ声と厳つい顔のせいで真田は店の女たちから人気はないが、わたしはこの男が気に入っている。余計なことを言わないところが気持ちいい。だからと言って無口な訳ではないことがなおいい。

 真田が通話を終えてすぐ、わたしにメールが飛んでくる。確認しているうちにエンジン音が入り、わたしと真田を乗せた車はマツダの自宅に向けて走り出した。

「今のお客さんどうだった?」

「いい人でしたよ。ちょっと本強しつこかったけど、別に乱暴な訳じゃないし」

 高速を飛ばしながら、真田はわたしに新規の客について詳しく聞いた。少し前まで全裸で息を荒げていた客について思い出しながら、わたしは店に必要な話をする。チップを一万円くれることやケーキを買ってきてくれたことは話さない。

「あ、さっきの人がくれたお菓子。後ろに置いとくんで事務所でどうぞ」

「ゆりちゃんはほんと色々もらってくるねえ」

「皆こんなもんでしょ」

 マツダの家は、住宅街の奥まったところにある。小綺麗なマンションだが交通の便はよくない。マンションの手前で真田は車を停めた。わたしは見覚えのある道であることを確認すると、マツダに電話をかける。彼はワンコールもしないうちに出た。

「こんばんは、ゆりです。今大丈夫でしたか?」

「ゆりちゃん、もう着く?」

「うん、マンションの下。飛ばしてもらっちゃった」

「あ、ほんとだ」

 エントランスを見るとマツダが手を降っている。わたしは満面の笑みで電話を切った。

「行ってきます。迎えは早めでお願いします」

 駆け寄り、抱きつく。左手を彼の手と絡めて、ぴったりと身体を寄せてエレベーターへ向かう。

「あ、マツダさんお風呂上がりだ」

「そう、待ってる間にね」

 マツダは典型的な恋人らしさを求める客だ。わたしにとっては諸刃の剣という意味になる。簡単な仕事ではある。太くもある。だが少し均衡が崩れれば、一番面倒でもある。

 いつもと同じ、ソファの右端がわたしに用意されていた。ローテーブルにはまだ湯気の出ているコーヒーが置かれ、わたしがここに座ることをマツダとマツダの部屋が待っていた。彼は跪く。それからそれなりに筋肉のある腕をわたしの腰に回す。胸のちょうど下の辺りに彼の顔が来た。吐息の温度と、腕の力強さがわたしの胸を冷たくする。

「今日、疲れちゃった?」

「少しね」

 くぐもったマツダの声を受けて、わたしは服をたくしあげる。彼が手を回しやすいように身体を前傾させて、彼が昼間受けた傷と屈辱を受け入れるための準備を整えた。

 彼が外した下着ごと、衣類を持ち上げる。マツダは何も言わずにわたしの胸へ沈み混み、深い呼吸を繰り返した。何かを確かめようとしているように、マツダはしばらく動かない。わたしも野生の生き物を手懐けようとする人のようにじっとマツダの動きを待った。

 やがて左に顔を傾けたマツダは、恐る恐る唇を開く。そしてまた時間をかけて舌を出す。ゆっくりと、彼はわたしの乳房全体を丁寧に食んだり舐めたりする。彼がやがて飽きてしまうまで、わたしは辛抱強く適切な対応を続けた。つまり、時々荒い息を吐いてみたり掌に力を込めたり身動ぎをしたりしながら、規則的に彼の頭を撫で続けた。

 実のところ、わたしにはいまだにこの時の男たちの心情がよく理解できない。日中立派に社会における自身の務めを果たして、そういった毎日を辛抱強く続けてきた彼らが、どうしてここまで無意味で愚かな行為に耽溺するのだろうか。彼らは今知性や社会性をかなぐり捨てている。何も持たずに、同じく何も持たない女に対して懇願するのだ。

 下腹を膨張させたマツダは、いつまでもわたしの乳首をねぶる。身を逸らしてソファに背中を預けるわたしの動きに合わせて、彼は半ば身を乗り出した。高い体温を布越しにわたしに擦り付けて、それでも彼はわたしの導きがなければ何もしないのだ。

 わたしは身体を左に傾ける。つられてマツダもまたソファに滑るように乗り上げた。彼の後頭部に回した腕で彼の舌が乳房から離れないように支えながら、彼を横たえる。

 わたしと彼の隙間から腕を伸ばすと、スウェットの上部から逃れ出ようとするそれに手が当たる。上から包むように押さえ、形をなぞってから下着の内側に指を入れる。たぶんわたしの手は冷たい。軽く声を上げたマツダの口を塞ぐと、素早く下腹まで身を滑らせる。肝心なのは何かを言う隙を与えないことだ。話したければ終わってから離せばいい。こういう時の話ほど迂闊なことを言いかねない。

 彼がしたことと全く同じことを、今度は彼に行う。ゆっくりと口を開き、戦くように舌を伸ばす。内蔵そのもののような熱い器官を、唾液で汚してから口に含む。わたしは彼が目を閉じていることを確認しながら後ろ手で鞄からローションを取り出すと、掌に少量落とす。舌を這わせると塩の味がする。体毛からは清潔な香りが体温と共に香った。

 自分の臀部に擦り付けたローションが体温に馴染むのを待って、わたしは彼に跨がる。いかにもわたし自身の体内に収めようとするように、掌と尻の間に挟み込む。先端までしっかり手の内で包み込むように神経を配らなければならない。この時はいつも慎重に、わたしに持てる優しさすべてを注ぎ込む。

 マツダの目は固く閉じられたままだった。彼はその目蓋の裏に何を描いているのだろう。動きに合わせて乳房が揺れる。乾き始めた唾液が体温を奪って、不快な匂いが鼻に付く。

「ねえ」

 わたしは彼の手を掴む。マツダは指を絡めて、反対にわたしの手をとらえる。体重を支えようとするように上下に組み合わせた手を口元に引き寄せて、特に意味もなく彼の人差し指を舐めてみた。

「触って」

 だがわたしは別に彼と手を繋ぎたくはないし、彼の手を愛撫したい訳でもない。快適に、そして一刻も早くこの行為を終わらせたいのだ。指を唇から離して胸元に導いてやると、彼は右手でわたしの胸を包み込む。目一杯開いた掌の中で、溺れた人のように乳房の奥の何かを掴もうとする。

 やがて彼は鬱憤と生気を吐き出した。弛緩して微睡んだマツダを、わたしは胸に抱え込んで一緒になってベッドに横たわる。期待を裏切ってプレイすることにはなったが、それでもあっさり出すだけ出して落ち着いたマツダは良客に違いはない。

「ゆりちゃんはさ、何でこの仕事してるの?」

「急にどうしたの」

 少し顔を上げたマツダは、まっすぐわたしを見る。中年と言うにはまだ若い。だが疲れた様子はしている。こんな明け方に店を使うくらいなのだから当然だ。

「両親がね、いい加減結婚しろって。それで婚活してみてるんだけど、やっぱり何か違うんだよね。色んな人と出掛けてみたり連絡取ったりしてみてるんだけど、どうしてもゆりちゃんが頭から離れなくて」

 たぶんこの時、マツダの脳は溶けて精液と一緒に身体から排出されてしまったのだと思う。わたしが、というより店の女が魅力的なのは当然なのに、彼はそんなことも判別できなくなってしまったのだ。

 マツダはわたしの髪ごと頬を撫でる。掌は温かい。

「それでさ」

「マツダさんはどんな女の人がいいの?」

「清楚で、優しい感じの人。一緒にいて寛げる人がいい」

「そっかあ、なかなかいないよね。せっつかれてもすぐにどうこうできることでもないし。大変だったね」

 わたしは彼の掌を握る。マツダがしたい話ではないことは承知の上で、タイマーが鳴るまでわたしはマツダを労い続けた。どうもこの男とはそろそろらしい。

 去り際、いつも通りの抱擁を交わす。マツダの乾いた唇に自分のものを重ねた。

「また来てくれる?」

「うん、呼んでもらえるの待ってるね」

 エントランスを出ると外はもう明るい。まだ早朝と言っていい時間だが、わたしがうろうろするにはやや気が引ける時間になっていた。朝日は弱々しくとも眩しく、罪悪感とも言えないほどの微かな不快感がせりあげてくる。

 外では真田の車が待っていた。金を渡し、私物を受け取り、ものを整理してから仕事用の鞄を渡す。受け取り表に名前を書いて給与を受け取った。送り代を引いて八万七千円を手渡される。

「マツダさん、そろそろ切るかも」

「何かあった?」

「ガチ恋気味で。次はまだ行くけどその後は他の子でお願いするかも知れないです」

 真田はそれ以上聞こうとはしなかった。わたしはいつも本強のしつこい客と本当に恋愛をしたがる客はすぐに切ってきた。彼らに女の子がいくらでもいるのと同じように、わたしにも客はいくらでもいる。わざわざ負担のかかる客に関わって磨り減ることもない。

 自宅にわたしを送り届けた真田は店に戻っていった。わたしは挨拶をして見送ると、化粧を落として横になる。外では子どもが登校し、車が行き交う音がし始めている。

 一日の中で、この時間が一番憂鬱になる。彼らは皆わたしたちのような存在が夜通し誰かの傷や汚さを受け止めてきたことを忘れ去って今日を始めるのだ。そしてまた、今日受けた屈辱やら疎外感やらを、夜には見知らぬ誰かに吐き出すのだろう。

 世界中の何もかもを遠ざけたくてわたしはカーテンをしっかりと閉じ合わせてイヤホンをつけた。色々なことを忘れたい。客の言った言葉も、触り方も、匂いも何もかもだ。暗くした部屋ではホテル街の明るさが目蓋にちらつく。清潔にしているはずの寝具からも唾液と性器の匂いが立ち上る気がする。

 やっと微睡んだ頃、電話が鳴った。切れてはまた鳴る。何度も鳴る。薄々電話の相手はわかっていた。どうせ母だ。このところ繰り返し電話をかけてくるが、わたしは一度も出なかった。

 母は、わたしの地獄そのものだ。

 十年近く前、高校を出てからは全く会っていない。家を出てから今まで連絡を寄越したこともなかった。住所すら知らせず家を出たわたしが今どうしているか、彼女は知りもしないのだ。

 母はいつも忙しくしていた。わたしたち姉妹と彼女が会うのは夕方の一時で、暗くなると母は仕事に出てしまう。それから後は姉がわたしの面倒を見てくれていた。一昔前の典型的な父なし子、それがわたしたちだった。とはいえ母を誇らしく思っていた時期もある。他の家庭の母親よりも、はるかに身綺麗だったからだ。わたしの学校行事に来てくれたことはなかったが、家では優しくもあった。

 それが勘違いだったと知ったのは、中学の頃だった。五つ年上の姉は中学でも高校でも成績を厳しく管理されて、よく母に叱責されていた。だが放任されて育ったわたしは真面目に勉強することなど思いもよらず、散々なテストを見て青ざめたのだ。姉もさすがにまずいと思ったらしく、半分泣いているわたしと並んで座って母の帰りを待ってくれた。

 その日は土曜日だった。朝方帰宅した母に叱られることを覚悟して、わたしたちはテストを見せた。頭の中では言い訳を色々考えていた。これからは真面目に勉強をすると、母に謝ろうと思っていたのだ。

「別にいいわ、春子は。春子はやってもできないでしょう」

 母は食卓に並べたテストを手に取ることもしなかった。わたしにも、目を向けなかった。それから姉に向き直ると、真剣な顔をして言った。

「百合香はだめよ。百合香はちゃんと勉強して、良い会社に入りなさい。あんたはこんな風になっちなら許さないからね」

 母とまともに顔を合わせたのも、それが最後だったかも知れない。外泊しようが髪を染めようが、庭と姉に関わりなければ母はわたしに何も言うことはなかった。

 人生を方向付けるような出来事は、ふとした瞬間に起きる。たまたますてきな先生に出会ったことや、またまた見た絵画が気に入ったことや、映画の台詞や父母の言ったこと、そういう些細な出来事が知らぬ間に人の性を決めていたりする。わたしの場合は、たまたま母が何の気なしに言ったあの言葉がそれだっただけだ。わたしは別にいいのだ。わたしはやってもできないのだから。

 母からの着信を示す画面を見ていると、徐々に息苦しくなる。わたしは電源を落として、再び眠りに付いた。

 

 

 3月12日

「さすがランカーはお高くとまってるね」

 全裸の男が一回り以上年下の女に足蹴にされながら言う言葉として、これ以上秀逸なものはないと感心しながらわたしは店に電話をかけている。

 妊婦のように膨らんだ腹に隠れた陰部は、そう言いながらもまだ怒張している。思わず鼻で笑ってしまった。再三の注意をのらりくらりと交わして本番に持ち込もうとしたこの男は、残念なことに口開けの客でもある。久々に新規でこれほどしつこい客に出会ったことで労働意欲はすっかり削がれてしまった。

「おい無視すんなよ」

「あ、すいません。本強ありました。迎えお願いします」

 意図せず絶好のタイミングで繋がった電話に必要なことだけを言うと、わたしは向こうの返答も聞かずに電話を切る。店に近いホテル街の一室で無謀なことをしようとする客もいるものだ。どうせ十分足らずで店の男性スタッフが部屋に入ってくる。もちろんお金は返ってこないし、よほど慣れていない限り身分証と裸のまま念書を持った写真を撮られることになる。狙うのであればもっと気の弱そうな女にしておけばよいものを、運のない奴だ。

 しみじみこの愚かな男を観察するうちに、三人の顔見知りのスタッフが部屋に雪崩れ込んできた。入れ違いでシャワーを浴びて、身支度をして部屋を出る。去り際まだ男はスタッフたちに問い詰められながら念書を書かされているのが見える。まだ時刻は九時半、つまり入室して三十分弱で彼はこんな災難な目に遇ったということになる。

 スタッフの中には真田もいた。わたしが少し視線を向けると、彼は早く出るように顎をしゃくる。

 店に戻り、店長にことの経緯を説明する。気の毒そうにしてくれる。だがこれしきのことで、と心の中では思っていることだろう。何と思われようがもう今日は働く気がしなかった。手当てを含めた給料を受け取って、送りの車に乗り込む。

 私物の鞄からはバイブ音が続いていた。車を降りるまで確認はしなかった。自宅に戻って一息ついてもまだ鳴っている。嫌な気がしながら画面を確認すると、知らない番号が表示されている。どうしようかしばらく悩んだが、わたしは結局電話に出ることにした。後ろめたいことの多い生活ではあるが、後ろめたい出来事を自覚しないままというのも座りが悪い。

「はるちゃん?」

 声にも覚えはない。女の声であることにまずは少し安堵した。男であれば判別などできそうにない。どうも母の声に似ているようにも思うが、彼女はわたしをはるちゃんなどと親しみを持って呼んだことはない。

「もしもし、はるちゃん?」

「どちら様ですか」

「お姉ちゃんの声もわからないの?あなた、母さんからの電話ずっと無視してたでしょう。そういうことは止めなさい。それでね、一度家に戻れない?母さん調子がよくなくて気落ちしてるの」

「あのさ、お姉ちゃん」

「なに?嫌だとか言わないでよね。それくらいの時間はあるでしょう」

「ないよ」

「は?」

 十年ぶりの姉は、母によく似た断定的な話し方をする。わたしはわたしの中で、何かが膨らんで内臓を圧迫しだすのを感じた。

「ごめんね、わたし忙しいの。お母さんも別にお姉ちゃんがいればいいと思うし。悪いけど巻き込まないでほしい」

「あんた何言ってるの。育ててもらった人にそんな態度取っていいと思ってるの?」

「感謝はしてるけど、わたしにだって色々あるから」

 煙草に火を付ける。溜め息が電話の向こうで聞こえた。姉が今考えていることはよくわかる。やっぱり春子はだめだと思っているのだ。

「すぐにはいけないの。都合付いたらちゃんと顔出すからさ、今日はもう勘弁して」

 ほとんど一方的に通話を終わらせた。姉のあのきんきんとした高い声は耳に響いて仕方がない。これ以上姉の話を聞いていたら、内臓を圧迫する何かが弾けて口から溢れ出しそうな気がした。春子は別にいいのだと反芻する。そうだ、春子は別にいい。どうせ何もできないのだから。

 微睡んでいるうち、わたしは眠りに落ちた。

 夢には母と姉がいた。昔のままの若く美しい母と、幼く生真面目そうな姉だ。ふたりは居間にいて、食卓を挟んで向かい合っている。時々笑いながら何かを親しげに話す。ふたりの視線は交差する。たまに互いに手を伸ばして、手は触れあう。穏やかな家族の時間だ。わたしがいつも見ていたものだ。

 わたしはいない。白井家にとっての家族団欒とは、あのふたりの時間なのだ。急にふたりの声が耳に入る。あの子はいいのよ。別に春子のことは放っておけばいいの。わたしはそれを聞いて安堵する。よかった、わたしがいないことにはなっていない。母も姉もわたしのことは気にしてくれないけど、それでもはじめからいなかったことにはなっていない。だって、仕方がないのだ。母はひとりで生計を立てねばならず、姉は母の期待に応えなければならないのだから。誰もわたしに構う暇なんてない。ふたりは自分のことで忙しいのだ。

 次の場面では姉とわたしがいた。母は庭にいる。百合の手入れをしているのだろう。母の鏡台には綺麗な化粧品や装身具が乱雑に乗っている。粉の飛び散った鏡は煙を吹きかけたように曇っている。鏡に映る姉妹は、驚くほど似ていない。よく目を凝らせば輪郭が共通しているような気もするが、ふたりで並んでみても互いが全く別の血縁のように感じてしまう。

 わたしはかつて実際にやってみたように、母のネックレスを手に取った。姉もまた口紅に手を伸ばす。そしてわたしたちは思い思いに身を飾ってみる。とてもへんてこな妖怪が二匹、鏡の前で目を輝かせている。姉が唇に塗った暗い色の口紅は妙につやつやとしているし、わたしは大きすぎる指輪を落とさないように奇妙な形に手を緊張させていた。

 母は大股でわたしたちに歩み寄る。わたしたちはそれに気が付いていない。母の派手な色のスカートは確かに鏡に写っているのに、わたしたちはお互いを笑うので必死なのだ。突然母は姉の胸ぐらを掴む。驚いたわたしたちは硬直して言葉もない。母は姉の頬を張った。これは実際に起きたことだったろうか。確か、姉はあの時ひどく叱られて泣きじゃくっていた。躾の場にもわたしはいない。姉だけが叱られている。

 母に座らせられて叱られた姉は、わたしを指差す。当たり前だ。をたしたちはふたりで遊んだのだから、姉がわたしを告発するのは何もおかしくはない。わたしもまた神妙に身を縮込める。だが、胸のうちでは自分には関係ないと思っていた。母がわたしを叱るはずがない。

「別にいいわ、春子は」

 母と姉は急にこちらを向いて、声を揃えてそう言った。

 

 3月18日

 二十時から翌日の四時まで、わたしはシャワーを浴びたりベッドで奮闘したり、ソファで歓談したりする。時々ひどい悪天候だったりすると、待機所で暇を持て余している時もある。客のところに行くのは大体気が進まないが、それほど嫌でもない。動くのが億劫なだけで行為自体には何の感情もない。

 聞いたことはないが、夜働く女たちは皆そうだと思っている。いちいちどうこう考えるには、わたしたちは疲れすぎているのだ。

 浅い時間の客ほどトラブルになることは多い。遊び慣れていないのだ。彼らは時々信じられない無茶をする。それはプレイの内容であることもあれば、遊び方であることもある。

 サトウと名乗ったこの男は、プレイで無茶をするタイプだ。わたしは背中を男に支えられて、今は洗面台の鏡の前で股を開いている。

 入室早々服も脱がずに荒々しく指を入れられた時から、正直嫌な予感はしていた。わざとらしく喘ぎながらインコールをして金を捩じ込まれた鞄を投げ出してから、彼は殆どわたしの性器から指を離していない。思春期の学生のように執拗に責め立てる。細かい凹凸の待ち構える入り口側を太い指で押し広げ、臍側の少し余裕のある空間を見つけると、以降は気が触れたように指の腹で擦り上げている。

 彼はどうやらハイヒールに憧れを抱いているらしい。確かに日中まともに働く人間は、八センチのピンヒールは履かないし、絵に描いたような網目の派手なガーターを身に付けてはいない。夜であってもオプションだ。

「履いたままでいて」

 サトウからの要望にわたしは無言で頷いた。先のとがったパンプスで不安定なわたしを背中からぴったりと支えるサトウの腰に腕を回す。そのまま陰茎を自分の股の下に潜らせて、空いた手で触る。

「見て、いやらしい顔してるよ」

「やだ、恥ずかしい」

 何と馬鹿馬鹿しいことか。見慣れた顔が映る鏡から目を伏せる。

「ちゃんと見て。ほら、おっぱい揺れてるよ」

 揺らしているのだから揺れるに決まっている。だがこう言われたからには恥じらわねばならない。わたしはサトウの陰部から手を離して、嫌がるように片手で自分の胸を包み込む。すべてを隠してしまうことはせず、乳首はサトウからも見えるように指の合間から溢しておく。固く充血した乳頭は、押さえ込まれて膨らみを増した乳房の中央で自己主張を強めた。

「見ないで、お願い」

 泣きそうな鼻声でわたしは囁く。この手の男はこういうのが好きなのだろうと、わたしは勝手に思っている。意図せず腰が揺れてしまうというように、サトウの股間に股を擦り付けた。内腿を塗らした体液が、サトウの下腹を汚す。もうわたしにも、この湿り気が生理的なものなのかそうでないのかわからない。

 股間はじくじくと痛み始めている。こういうとき、わたしが今流している体液は実は血液なのではないかと恐ろしく思う。痛みの表情は快楽のそれとよく似ていて、当人以外にはほとんど区別も付かないものだ。早々に果てて欲しいと願うが、サトウを含む男たちがこの気持ちを汲んでくれることは先ずない。

 サトウは乱暴に指を動かし続ける。わたしは喘ぎ声を上げながら隙を常に伺う。しばらくはこの不毛な戦いが続いた。特異なこと男が口にしたのは、わたしの脚力と忍耐が底を見せ始めた頃だ。

「目隠し、してもいい?」

 オプションで目隠し自体はある。だが事前に事務所を通して申請するものであって、直接交渉するものではない。拒否するキャストももちろんいるし、別途の料金も掛かる。

 ただこの時、わたしは疲れていた。正直数千円はどっちでもよかった。面倒になって渋々頷くわたしを見ると、サトウは枕元に用意していたらしいアイマスクを取り出す。

 暗闇でわたしは、彼の両手をいかに自然に掴むかを次の目標とした。こうなったらもうプレイを最後まで行う必要はない。先ずは組み敷かれる。わたしの顔に馬乗りになったサトウに舌を伸ばす。唾液が溢れないよう口を開けて、陰茎を支えるために手を添える。それほど高い位置ではないはずだと胸の辺りに当たりを付けた。

 おもむろに手を伸ばすと、案の定固く冷たいものに手が当たる。

「これ、なあに?」

 目隠しをはずして問うと、サトウは口ごもった。退くように促す。コールするのも面倒で、録画していないと言い張るサトウからスマホを奪い取る。

「ほんとに仕事のメール確認してただけだから」

「そう?でもちょっと心配だから、確認させてね」

 窓を開けて、ホテルの下に広がる太い通りに人がいないことを確かめる。少し離れたところに真田の車があった。サトウのスマホを投げ捨て、真田に電話する。

「真田さん、ちょっと今落としたやつ轢いてくれません?」

 真田は胡散臭そうな返事をしつつも言われた通りにしてくれた。

「ごめんなさい、サトウさん。手が滑っちゃった」

「そこまでするかよ」

 わたしは答えなかった。

「ちょっと撮っただけだろ、なあ」

 いつも思うが、楽しみたいならルールは守った方がいい。それに、ルールを破りたいならもっと後のなさそうな女を選ぶべきだ。店にちゃんと守られてて、客もちゃんと付くような女を相手に無茶するのは悪手でしかない。だがそれを伝えるほどわたしも親切ではない。

 インからそれなりに時間が経っていたことを幸いに、わたしは呆気に取られるサトウを放置して部屋を出る。真田にはあれはプレイの一環だと言った。真田も解っていただろうが特に突っ込まない。

 四時四十分、最後の客と別れて事務所に戻る。金と私物を受け取って、送りの車に向かう。精液の匂いがする。たぶんそれは錯覚だ。首から上は触らせず、首から下は幾度も洗った。それでも車内に不快な匂いが充満している気がして仕方がない。

 帰宅しても、湯船に浸かっても、この匂いは纏わりつく。何もかもを忘れたかった。

 

 3月19日

 姉からの電話はしつこく続いていた。この日とうとう根負けしたわたしは、覚悟を決めて電話に出た。朝帰宅してから眠れず過ごしてしまったせいでもある。

「春子?」

「この前の話なら断ったと思うけど」

「あんたね」

「都合がついたらちゃんと顔出すから、お母さんには適当に話しておいてくれない?」

「わたし結婚するのよ」

 わたしは言葉をつまらせる。姉が結婚するということも意外だったし、その報告をわたしにすることはもっと意外だ。あの母を見てきてよく結婚しようという気になったものだという言葉を飲み込んで、代わりにわたしは祝いの言葉を辛うじて吐き出す。

「だからあんたにも挨拶に来てほしくて。ちょっとくらい時間作れるでしょう」

「ほんとにごめんね、忙しいの」

「そんな訳がないでしょう」

 金切り声が左耳に響く。またむくむくと内臓を圧迫する何かが成長しているのを感じた。

「あんたがそんなに忙しいわけないってお姉ちゃんわかってるのよ。いい加減にして」

 こっちは日銭で暮らしているのだ。忙しいに決まっている。たとえ一晩で十万稼ごうが、性病検査に引っ掛かれば二週間は無収入になる。稼げる時に稼がなければ誰にも何も保証されないのだと、吐き出しそうになる。

 代わりに大きく息を吸う。広がった肺で膨らみ始めた何かを押し戻そうとする。息を止めて、少し笑ってみる。言いたいことがあるときは笑うのだ。笑って全部を飲み込む方が面倒は少ない。

「お姉ちゃん、結婚は本当におめでとう。どんな人と結婚するの?」

「誠実な人よ、わたしにいつも合わせてくれる優しい人」

「そっか、いい人と出会えてよかったね。その人にもよろしくね」

 そっと電話を切る。たぶんこれはまたかかってくるが、これ以上耐える自信がなかった。顔を会わせて何だと言うのだろう。顔もわからないくらい長い間会っていない妹と婚約者を会わせて、姉に一体何があるのか。

 後にも先にも何もない。この先には本当に何もないのだ。

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