白井家の葬儀

大槻 羊

第1話

 6月13日

 夜半過ぎに雨は上がったらしい。庭の草木はしっとりと濡れて、冷やされた空気は朝らしく気持ちがいい。土の濃い匂いが立ち上ぼり、その奥に草の生々しい匂いと花の香りが揺らめく。

 この庭は母が丹精込めて世話をした、百合のための庭だ。白く黄色く濡れて輝く、あの百合たちのための庭だ。母が死んだというのに百合たちは何も知らないような顔をして今日も匂い立っている。薄情なものだ。もしここまま百年が経っても、百合は何も気にすることなく咲き続けるのだろう。分厚い花弁と無恥な花芯と、それから強壮な茎と葉を擁しているのだから、彼女たちが何も恐れないことは何の不思議もない。あれほど甲斐甲斐しく世話をしてくれていた母がいなくなったのに微動だにしないのだから、きっと百年経っても千年経っても変わるまい。

 低い塀に囲われたこの小さな庭は、母を君主とする王国だった。いつも身綺麗だった母が手を汚して世話をするこの庭を、どうしても蹂躙したくて踏み荒らしたことがある。といえ可愛いものだったはずだ。少し花を折ったくらいだった。それでも母は激怒した。あの時は怖かった。あんたなんか捨ててやる、もう二度と帰ってくるなと、母は泡を飛ばして叫んだ。張られた左の頬には母の美しく整えられた爪が走った。赤いみみず腫の、あの潔い一文字までよく覚えている。

 今でもわたしは、何気なく左の頬をなぞることがある。頬骨の直ぐ下から鼻の脇にかけてだ。痛みはもう覚えていないが、あの時の悔しさはよく覚えている。百合の花は、いつもわたしよりも丁重な世話を受けていた。いつもわたしは百合の花に負けて、後回しにされて、惨めだった。

 後にも先にも、母がわたしに手を上げたのはあの一度きりだった。他のことで母はわたしに怒りをぶつけたことはない。それと同じくらい期待をかけたこともなかった。母の怒りも、期待も、すべては姉に向けられていた。

 姉は、たぶん母が最も愛した百合だったのだろう。出来のいい百合香、しっかり者の百合香、大事な百合香、百合香、百合香百合香百合香。母の声は、この家にいるとどこからでも聞こえてくるような気がする。その声はいつもわたしではなく、姉を呼んでいる。

 わたしは縁側から腰を上げると、居間を横切って台所へ向かう。古く軋む廊下にはもう塵1つない。五日がかりで掃除をした甲斐がある。独特の臭いは染み付いて離れないが、それにも少し慣れてきた。

 仏間に差し掛かる。積み上げた段ボールと、その影に男の足が伸びているのが目に入った。草臥れた靴下を着けたその足は、隠れるようでいて存在を示したがっている。わたしは周囲を少し伺う。姉の姿はない。たぶん今は台所で、あのしょっぱすぎる料理を作っているのだろう。何でもできるわたしのお姉ちゃんにも、いくつかは苦手なものもある。その一つが料理だ。

 わたしはそっと爪先に忍び寄る。たぶん、彼からもわたしの足が近付くのは見えている。段ボールの影に座り込む男の頭頂部が表れ、次いで彼が広げた卒業アルバムを膝に乗せているのが見えた。

 鳥の巣のような柔らかい髪にそっと触れる。頭そのものには触れない。髪だけを指先に絡めて、薬指を捻る。彼がこちらを向いた。何かを期待するような、あるいは当然餌が与えられると思っている犬のような目が、野暮ったい眼鏡の向こう側にある。

「何見てるの?」

 わたしは少し指を彼自身に近付ける。足は、彼の立てた膝の両側に置く。伸ばした膝と膝の間に、折り曲げられた膝が収まった。少しだけ、膝を閉じ合わせる。彼の太い足はわたしの足の間で縮こまっている。そのまま上半身を彼に寄せて、手元の冊子を覗き込んだ。

 それにはこの家で唯一わたしの写真が乗っている。彼の指の先には、まだ化粧気のなかった頃の、幼いわたしが微笑んでいた。わたしは逆さまになって曖昧な微笑みを浮かべている。強張った顔だ。笑えと言われて、嫌々口の端を持ち上げている。

 少し口を開いて、上目遣いでこちらを見る男に対して、わたしは格段に上手くなった微笑みを見せる。誰かに上手に笑って見せることはもうそれほど難しくない。目の前の相手を最愛の人だと思い込むことがこつだ。久しぶりに会った最愛の人だと思う。そうすると、自然と頬は緩やかに収縮し瞳孔は開いてくれる。

「春子ちゃんは昔から変わってないんだね」

「ほんと、恥ずかしいからやめてって」

「なんで?かわいいよ」

 彼の手はアルバムを離れて、わたしの膝の裏に回る。わたしは彼の掌に応じて膝を折り、できるだけ時間をかけて彼の膝に乗った。少しかさついた固い指が、わたしの腿の裏をなぞる。すぐに彼の手はわたしの足の付け根に到達し、その乾いた感触が薄い布の内側に滑り込もうとする瞬間、わたしは身を起こした。

「ね、百瀬さん。アイス食べたい」

「え?」

「アイス、食べたくなっちゃった。先に行ってくれない?わたしもすぐ出るから、先に買いに行ってて。ふたりで外で食べよ」

 ごく軽い口付けを額に与えて、すぐにわたしはその場を離れた。彼はのそのそ立ち上がり、出ていく。この男のこういう従順なところが、わたしは堪らなく気に食わないのだ。

 わたしは男とは反対に、家の奥へ向かう。今度こそ台所へ辿り着く。姉は案の定三人分の朝食の支度をしていた。男が家を出た物音が遠くから聞こえる。魚の焼ける香りと、脂のはぜる音、姉の手元で食器が立てる高い音が、幸福を演出しようと寄せ集められた作り物のように台所に充満している。

 似合いもしないエプロンをかけた姉の背中はいかにも無防備だった。辛うじて結ぶことのできる短い髪は、母やわたしとはちっとも似ていない。三人の中でひとりだけ、染めていないしそのくせ艶もない。その実用的な様子が姉らしい。

 たぶん、彼女が振り向いたら、そこには化粧を施していないつるりとした顔がある。人懐っこいが真面目そうな、とにかく信用できそうな女の顔をモンタージュ写真で作ったら姉の顔が出来上がるだろう。だが姉は振り返らない。姉も母も、手を止めてわたしを見ることをしない。そういうところは二人はよく似ている。

「おはよう、お姉ちゃん」

「はる、良輔さんは?」

 姉は手を止めずに言う。実はわたしは、この背中に対して繰り返し何か突拍子もないことをしでかしてやろうと考えてきた。宿題をする姉の背中、本を読む姉の背中、家事をする姉の背中に対して、わたしの呼び掛けに作業を止めない姉の動きを止めてこちらに目を向けさせるための、何か突拍子もない作戦だ。たとえば水をかけてやるとか、大きな音を立てるとか、そういう企てを子どもの頃から飽きもせずに考えてきたのだ。

 今日これからすることは、その作戦をいよいよ実行するに過ぎない。そう思えば心なしか胸が高鳴るような気がする。

「さあ、知らない」

「はあ?もうすぐご飯なのにどこ行っちゃったのよ」

「こっちやっておくから、連絡してみたら?お魚見てればいいの?」

 わたしはできる限り平静に言いながら、姉の背中に迫る。

 彼女がここで振り向けば、全部やめてみてもいいかも知れないとさえ思っている。だって、わたしのしようとしていることはほんの子どもの頃の思い付きの延長なのだから。こんなばかばかしいことを、今になってすることはない。だからもしも姉が、わたしが彼女に辿り着くまでの間にわたしの顔を見て話をしてくれたら、わたしだって二度とこんな下らない企てを立てたりはしない。

 姉とわたしの間には、五歩の猶予がある。おそらく五歩だ。わたしはできるだけゆっくりと、小さな歩幅で歩く。姉はまだ振り返らない。

「はるは料理なんかしないでしょ。作っちゃってからでいいよ」

「これくらいできるのに」

 あと四歩、わたしには踏み止まる余地がある。今まで一度も振り返ってくれたことのない姉が、今日に限って振り返ることなどあり得ないとわかってはいる。なのになぜわたしは、ひとりでこんな一世一代の賭けに出ているのだろう。

 わたしは左手で流しから包丁を取り上げる。右に持ち直し、刃を上に向けて柄を短く握った。

「わたしだってひとり暮らし長いんだから、お魚焼いて出すくらいできるって」

 まだ三歩、残っている。ここで、たった一度振り返るだけで、すべてを水に流していい。姉はいつも必死だった。わたしはいつもその背中を見ていた。だからたった一度でいい。

「はるは何にもできないでしょ。どうせ男の人に頼りきりなんじゃないの」

 二歩。

「ねえお姉ちゃん、こっち向いてよ」

 一歩。

「何、しつこいな」

 わたしは姉の肩に手を掛けた。

 姉の肩は薄く骨張っていて、すんなり反転する。左手を肩にかけてそのまま首もとに押し付けて体重をかけると、姉の体は勢いよく後ろに倒れた。

 わたしと姉の背丈はほぼ同じだ。だからわたしの肋骨の少し下から上向きに差し込んだ包丁は、姉の肋骨を下から上に潜り込む。体重を乗せてぴったりと姉に覆い被さりながら一緒に倒れてしまえば、包丁は丸々その姿を姉の内に消してしまう。柄だけがわたしの手の中に残っている。臍の上辺りに固い柄を感じる。

 鼓膜が心臓になったようにうるさい。高く細い耳鳴と拍動が、姉の叫びと拍動のようだ。だが、姉は叫びなど上げただろうか。

 わたしは、姉の顔を見ることなく身体を起こす。わたしの身体から直接生えている臓器の一つのように、包丁もまたわたしと共に姉から離れた。

 姉の顔は、改めて見ると母によく似ていた。こんなことに今更気がつくなんて、わたしたちはどれほど目を逸らし合っていたのだろうか。もしかしたら姉は見ていたのかも知れない。少なくともわたしは、あれほど見てほしいと思いながら、母の顔も姉の顔もまともに見ることはできなかった。

「お姉ちゃん?」

 姉は、半ば口を開けている。濡れた歯が口腔に規則正しく並び、乾いた唇が謹み深くその歯列に覆い被さる。姉は本当に綺麗な肌をしている。わたしの不摂生が祟った皮膚とは大違いだ。何気なく触れてみる。温かい。そして柔らかい。そのまま、乱れて目を覆い隠すように垂れた髪を掬い上げてみる。姉は目を向いていた。これは驚きの表情だろうか。

 こんなに大きく目を開けている姉を見るのは初めてだ。何だか笑ってしまう。あんなに拗れてしまって、ややこしく救いがたかったこの家族が、あっという間にわたしひとりになってしまった。悩みに悩んだのは何だったのだろうというくらいに呆気ない。

 魚はまだ焼けている。脂が香ばしく音をたてている。

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