第8話 美貌の兄
一年がまた巡って、春が訪れた。
あと一週間もすれば、私の3歳の誕生日だ。
年々植物の数を増やしていく庭が書斎の大きな窓から見える。色とりどりの花を咲かせた庭を我が家お抱えの庭師が丁寧に世話をしているのを見てからまた手元の本に目を移す。
季節が移り替わっても読書をする習慣はなくならず、未だにこの世界は私の知らないことだらけだ。と言っても前世でそこまで長生きしたわけではないので前世の地球でも世界のすべてを知り尽くしたわけではないのだが。
一人でコツコツ積み上げてきた魔法の知識とそれに伴う技術は絶対的に自分の身になっていると言えるだろう。たまに魔法書にはいつ使うのか分からない魔法が存在するが、私はその実行できる魔法をすべてこなしてきた。ペラペラとページをめくる音だけが書斎に響く音も、時折、外から聞こえてくる自然動物の音もだいぶ聞きなれてきた。
前世ではほとんど家か会社にいる生活を送っていたので、あまり自然環境に囲まれてこなかった。だからか、こちらの世界に来てから聞こえる自然の環境音はとても私の耳に届いた。毎日聞いていれば飽きるか、と聞かれれば答えは「ノー」だ。毎日環境音を聞いていて思ったのが、毎日すべて違う音が聞こえてくる、ということだ。同じように聞こえても、些細な音が違っていて興味深いところも多い。
ふと、廊下の方から賑やかな声が聞こえてくる。
これは兄のディオとルスの声だろうか。
「おまえな…さっきのは、一体なんだ?飼っているのか?」
「僕もよく分からないんだよね~。本人に聞いてみてくれない?」
「…お前、正気か?」
どうやら我が家に侵入者がいたらしい。人ではなさそうだが、ルスの知っている生き物ではあるようだ。私には関係がなさそうなことなので彼らの声を一種のBGMとして聞き流していると、書斎の扉が勢いよく開かれた。
「セレナ、遊ぼうよ!!」
元気よく一瞬でこちら側に移動してきたルスお兄様が開口一番に言う。扉の向こうを見ればディオお兄様があきれ顔でこちらを見ているのが見える。
「ルスお兄様、いったいなにで遊ぶのですか?」
とりあえず私は見ていた本を閉じて兄の話を聞く体制を取った。
「今年から、ジュリ兄が学園行くでしょ?きっと、これから寂しくなるだろうから、いたずらでも仕掛けに行こうと思ってさ~。」
「…兄に対してその態度はいいのか?」
少しずつこちらに歩いてきていたディオがふと疑問に思ったことを口にする。
「ディオ兄は寂しいでしょ?ちなみに僕はそこまで悲しくないし、きっとセレナもそこまで寂しいとは思ってないと思うけどね!」
「…」
ディオが何とも言えない顔をしていることからディオ自身もそこまで寂しいとは思っていないと察せられるが、口には出さない。ルスの言う通り、私自身はそこまで寂しいと思っておらず、一年生は特に泊りなどの課外活動が極端に少ないため、休みになればすぐに帰ってくることも相まって『離れる』という感じがしないのだ。
「それで、いたずらとは何をするのでしょうか?」
「セレナ意外と乗り気?それはね…演技対決とかどう?兄弟の中で誰が一番寂しそうな演技ができるかって対決!」
「それ、ジュリが知ったら悲しむやつだろ。…まあ、案は悪くないと思うけどな。」
的確な突っ込みをディオが入れるが、彼自身もなぜか興味があるらしく大分乗り気なように見える。私的にも我が家の演技対決というのはなかなかに面白い案だと思った。
「それでは他の兄弟に話をしに行きましょうか。」
私はそう言いながら椅子からゆっくりと降りる。机に積み上がっている本はメイドのモカが片付けてくれるらしく、「セレナリール様、ここは早々に片付けますのでお先に移動してください。」と言っててきぱきと片づけを始めた。
それからジュリ以外の兄弟を敷地内にある植物園に集めてルスが発案した内容を一通り共有した。
「とっても、面白そうですね!」
「いいと思います。」
双子の弟はどちらも目をキラキラさせながらこちらの意見に賛成してくれるようだ。一番この家で最年少だが、どちらとも長男が学園に行くことに寂しさは一切感じておらず、演技勝負と聞いてとても面白そうだという意見らしい。
「俺的には楽しそうではあるが、ジュリが哀れになってくるよな…」
「いいじゃん、たまには哀れな方が面白いでしょ!」
未だに悩んでいるのか遠くの景色を見ながらディオは独り言をつぶやいている横でルスがそれに反応していまいち納得できない独自の理由でディオを説得しようとしている。
「…」
ベリーは他の兄弟が割と賛成的な声を上げる中、一人長いまつげを伏せて、物憂げになにかを思案しているようだ。この兄は一番ジュリと交流があるのでなにか思うことがあるのかもしれない。黙ってうつむく様も芸術品のような美しさがあるのだから、『ヴァルキトア家のタンザナイト』と謳われるのにも納得する。
「ベリーお兄様、お兄様はどう思いますか?」
他には聞こえないように囁くように聞くと、薄い青い目がこちらを向いた。そして少し首を傾げた後にふわりと花が咲くように笑った。
「良いと思いますよ。ルスが提案した、というところを除けばですが。」
ベリーは何故か二つ上のルスだけを敵視しているような言動をすることが多々ある。実際は敵視しているというよりも、少し気に入らないといったような感じだが。
「ええ~、どうして僕が提案したのが良くないの?」
そしてその気に入らない言動というのがこれなのだろうということも分かる。どこから聞こえていたか分からないが、一番遠くにいたルスに聞こえているというところをみると、この兄の耳は本当に良いのだろう。
「何故…ですか。ご自分に問いてみては?」
「相変わらずベリーはお堅いな~、もっと楽に生きなよ。」
そういうルスにベリーは目を細めてから、諦めたのか深いため息をついた。
(内心は「貴方には、一生分からないのでしょうね。」と言っているようだね。)
「全員賛成なようなので決行日を決めましょうか。」
私は少し冷えた空気に耐えかねてその場のまとめ役を買って出る。その日は決行日を決めて、それまでの演技練習などは各自するということになった。練習している話などはまたどこかの機会に語らせてもらおう。
そうして、演技対決当日になった。今日はジュリお兄様が学園へと旅立つ日の前日だ。演技勝負の話は兄弟間だけでされており、両親はもちろんほとんどの使用人も知らないことだ。
それぞれ演技する時刻は自由、他の兄弟と時間が被っても良いというルールだ。採点方法は最後にジュリにネタバラシをして一番を決めてもらう、という単純なものだ。私はひとまず他の兄弟がどう出るかを観察することにした。
朝いつも通り起きて書斎で読書をしていると静かに扉を開く音が聞こえた。後ろを振り返ると今日のターゲット、ジュリお兄様がそこに立っているではないか。これはどうしたものかと考えていると開くタイプの大きな窓ガラスが、突然音を立てて開かれた。
春が来たとはいえまだ肌寒いのでひやりとした空気が室内を抜けていく。ゆっくりと扉から振り向き、窓ガラスの向こう側を見ると、そこにはルスお兄様が悠然と窓枠に立っていた。確か、ここは3階の書斎だったと記憶しているが、演技のためなら彼はこういったことをやりかねないだろうということが頭に浮かぶ。
「これは、これは…ジュリウスお兄様ではありませんか。」
開口一番、いつもとは全く異なる口調でジュリに声をかける。そして、音もなく床に降りてからコツコツと靴底の音をわざとらしくたてながらジュリの方へ向かっていく。
一方ジュリはというと、完全に弟が奇行に走っているので大分困惑した顔をしている。そして一歩ずつ近付いてくるルスに恐怖を感じたのか、一歩後ろに下がった。
「朝は冷えますからどうぞこちらを羽織ってください。」
そう言ってどこから取り出したのか、ルスの手にはブランケットがかけられていた。完全にキャラが変わっているところをみると、自分自身の性格自体を偽装してきたようだ。裏社会の人間ならではの本気の演技に舌を巻くところなのだろうが、今回は相手が自分の兄だということをルスは覚えているのだろうか。
「えっと、ルス?いったいどうしたんだ?」
困惑した顔をしたジュリはルスを見ながらそう言うが問答無用でルスはジュリの肩にブランケットをかけた。
「ジュリウスお兄様…最期ぐらい優しくさせてください。」
この兄は一体何をしているのだろうか。この演技対決の主旨は『学園に行ってしまうジュリお兄様のことを寂しがる』というものだったはずだ。今のルスのイントネーションで言うと今生の別れの言葉のように聞こえるのだが、気のせいだと思いたい。
「…『最期ぐらい』?いったい何を「っいえ、ジュリウスお兄様、無理に話す必要はありません。貴方にはいつも良くしていただきました。これはほんの少しの恩返しに過ぎません…あれは、天気に恵まれ、春の温かさに包まれた季節でした…」
ジュリが何かを聞こうとしたところを食い気味に遮って何か過去の回想が始まってしまった。きっと、その記憶は今この場で考えた捏造の話だ。
「…とまあ、様々な経験、様々な先人の知恵を私に教えてくださったのです。感謝しきれないほど私は貴方に助けられました。この度は学園に入学される、ということを耳にしまして…その出立は、なんと、明日と聞き及びました次第です。…っ…私は大変悲しいです…もう貴方に会えないなんて…。」
長い回想が終わり、この茶番ももうそろそろ終わるようだ。私の後ろに控えていたメイドのモカは話し終えたルスを何とも言えない顔で見ている。どうやら泣く演技もできるらしく、頬を一筋の雫が伝っては落ちて、を繰り返している。
「…そうか。どうか、お前の中にくすぶっているであろう心の病が直ぐになくなり、いち早く病魔が何処かに行ってくれることを私は祈っているよ。」
神妙な顔で本当に心配そうにルスの両肩を優しくつかんで言った後に薄く微笑んだ。ルスは完全にキャラが抜けたのかきょとんとした顔をしている。
「…何のこと?」
「…ははっ、どうやらもうどこかに行ってしまったらしい。ルス、洗脳でもされていたんじゃないか?さっきまで別人のようだったよ。」
「う~ん、これじゃダメか~。」
ルスお兄様は興味をなくしたのかそう呟きながら私の横を通りながら今もなお開け放たれている窓に戻っていった。
「セレナ、がんばってね。」
通り過ぎるときに小声でそう言ったのが聞こえた。
「あ、そうだ。セレナ、本を学園にもっていこうと思うんだけど、これ知ってる?」
そう言って本のタイトルが書かれたメモ用紙を取り出して見せてきたのでその場は本探しを手伝って適当に流すことにした。
少し話してから朝食へと一緒に向かうと早く着いたのか弟の双子がしょんぼりした顔で座っていた。もうすでに演技は始まっているらしい。
「…」「…」
いつも口数が少ないノースはまだしも、イルはいつも会うと必ず話しかけてくるのでジュリも双子の異変に気付いたらしい。
「二人とも、今日は元気がないみたいだけど、どうしたの?」
ジュリは二人が座っているところまで行って視線を合わせるようにしゃがんだ。
「…ジュリお兄様、明日学園に行ってしまうというのは本当ですか?」
「…実は昨日お母様が言っていたのです。」
今もなお視線を合わせないのは二人の策略なのだろう。
「ああ、そうだね。でも来週末にはセレナの誕生日があるから帰ってくるよ。」
「そうなんですね!よかったです!」「!」
耐えきれなかったのか、はたまたこれも策略なのか二人は同時に顔を上げて顔を見合わせて笑う。ジュリはというと、そんな二人を見て微笑ましそうにしている。
安心したのかジュリは立ち上がって自分の席に向かった。それから、着々と家族が集まり、朝食が始まると、いつも通り元気に話すイルと、それを静かに聞きながらたまにイルの説明を補うノースを見て、安心したように一息ついたジュリを私は見逃さなかった。
朝食も終わり、お父様が仕事に行くのでお母様がエントランスホールまで送りに行くために部屋を後にすると兄弟それぞれ席を立ち、自分の目的を果たしに行った。その中にはジュリお兄様に近付くベリーお兄様の姿もあった。
「ジュリお兄様、この後ご一緒にお茶でもどうですか?」
「ベリー、そうしたいのは山々なんだけど、明日学園に向かうから最終確認をしなければならないんだ。来週末に一度帰ってくるからその時でもいい?」
「…そう、ですよね。」
ベリーはそう言いながら視線を下におろした。
そして、間をおいてからもう一度顔を上げる。
「…わかりました。来週末を楽しみにしていますね。」
「…うん、ありがとう。」
ベリーはジュリの言葉を聞いてから淡く微笑んだ。
「ジュリお兄様、私で良ければ手伝いますよ。」
「そうしてくれると助かるよ。」
二人仲良く並んで廊下へ出ていく所をみると、一緒にジュリウスの部屋に作業をしに行くようだ。
「相変わらず二人は仲が良いんだよな…どうするか。」
最後まで座っていたディオお兄様はゆっくり立ちながら言う。どうやら彼も他の兄弟を見てから行動しようとしているらしく、いつ決行するか悩んでいるらしい。
私は音を立てないようにその部屋を後にして今日の課題を早々に終わらせるために自室へと向かった。
一通り課題が終わる…というより、勢いよくやりすぎて残り一週間分の課題を全て終わらせてしまったので、明日からする課題がないのだが…。一週間後には家庭教師のリース先生が国外の仕事から帰ってきて、楽しみなので残りの日数は去年の学会で新しく出た論文でも読み漁ってみようと思う。
とりあえず他の兄弟が何をしているのか見に行こうと思い、最初に敷地内にある剣技場へと足を進めることにした。
剣技場に着くとそこにはディオお兄様とジュリお兄様がいた。先ほどまで廊下で荷物を運んでいる音が忙しなく聞こえてきていたので、準備が終わったのだろうか。珍しく剣を握っている長男を見て珍しいものを見たと思った。
「…それで、別れるのが悲しいからってなぜ私とディオが剣を交えることになるんだろうね?私にはさっぱり君の思考回路が分からないんだけど。」
「まあ、いいだろ。いなくなる前に手合わせしたいってことだ。」
そういいながらディオは鞘から剣を抜いて、軽く剣を振って手ごたえを試している。
(演技対決というのは口実で、ただジュリお兄様の今の強さを知りたかった、といったところかな。)
「…まあ、いい。準備もひと段落ついたところだ。次付き合えるのがいつになるか分からないから、手加減はなしにしよう。」
そう言ってジュリウスも鞘から剣を抜いて構えた。
「じゃあ、いくよ~。」
突然、その場にルスお兄様がひらりと現れる。二人は何とも言えない顔を弟に向けてから何事もなかったかのようにお互い向き合った。
「始め!」
合図がかかった瞬間、二人とも動き出して10歳と8歳の子供の戦闘だとは思えないほど重い攻撃の音が聞こえてきた。
「いや~、激しいね。まだ詰めは甘いみたいだけど…。」
最初から気が付いていたのか、ルスお兄様は私のところまで歩いてきて独り言をつぶやく。一般人から見ると激しい戦いだが、裏社会の人間からするとまだまだ隙があるということだろうか。
「残るはセレナだけだね~。いつするの?」
ニコニコしながら上二人の兄を見ていたが、こちらをちらりと見て確認してきた。
「まだ、決めてませんよ。」
「そっか、じゃあセレナが終わったらみんなでネタバラシタイムにしよう!」
実際のところ大体の時間帯は決めているが、どこのタイミングで切り込むかは決めていない。嘘は言っていないので納得はしてくれたようだ。
そうこうしているうちに、二人の決着が着いたらしい。ルスは「終わったね。」と言って二人の方を振り返った。
そちらを見るとディオお兄様が地面を背に肩で息をしているところをみるとジュリお兄様が今回の勝者のようだ。ルスお兄様と共に二人のもとに行く。
「あー、やっぱ強いわ…いつも机に向かってるのにどこでそんな体力付けてるんだよ…。」
「今回は身長差もあったんじゃないかな?ディオはまだ身長が低いから、私の方が力を入れやすかったんだよ。」
「どっちにしても負けは負けだろ…ジュリ、またやろうぜ。」
「私が暇な時ならいつでもいいよ。」
「…お前、暇なときあるのか?」
「…おや?もしかして、心配されてる?」
二人で仲良く話していたみたいで、大分息も整ってきたらしく、私たちが到着するときには全く息切れをしていなかった。
「いや~、違うでしょ。たぶんディオ兄は剣術の相手が欲しいだけだと思うよ。」
どうやら、彼が三男だということは、こういうときに思い出させるようだ。普段は説明下手で何を言っているか理解されないことが多いが、こういう時に限って標準語を喋るので、しっかりと相手にダメージを入れているところは自由奔放な三男だということをひしひしと感じたのであった。
時間は夜になり、夜ご飯も食べ終わりそれぞれがなんとなく談話室に集まり、好きなことをし始めた。今回のターゲット、ジュリウスはゆったりと暖炉の前で必要書類をのぞき込んでいた。
セレナはというと、先ほどまで一人でピアノの練習をしていた、ということになっているので今談話室に足を踏み入れようというところである。
ガチャリという音を立てながらセレナが談話室に入室すると談話室でくつろいでいた兄弟の面々の視線が一転に集中することが分かった。そしてセレナが持っているものを見て誰もが少し目を見開いた。
コツコツと音を立てながら暖炉の前で座っているジュリウスの前に立ったセレナはそっとジュリウスの前にそれを差し出した。
ガーベラにスイートピー、カスミソウ、ピンクに紫、青と白の薔薇、様々な色の春の花が盛りだくさんの花束がジュリウスに向けられる。ジュリウスは妹が差し出しているので自然とそれを受け取る。
「・・・ジュリお兄様。」
セレナはジュリウスの顔を見ながら少し目を細める。二人の様子を窺っていた他の兄弟もその顔を向けられたジュリウス本人も息をのむ。
彼女は静かに涙を流していた。ただそれだけのことなのに何故かその情景から目が離せない。目を離してしまったらどこかに行ってしまいそうで、どこかに消えてしまいそうで、彼女のことを大切にしている兄弟全員は動揺を隠せなかった。
涙を知らないようないつも微笑みを絶やさない妹が、涙を流している。これが演技だとしたら彼女は相当な化け物だとジュリウス以外の兄弟は思ったのだ。これは演技なのだろうか。それにしては妙に生々しく、純粋に泣いているようにしか見えない。
しばらく静かに涙を流したセレナはあらかじめ用意していたハンカチを手に取って自身で涙を優しくぬぐった。そして何もなかったかのようにぱっと表情を変えてジュリウスに笑顔を向ける。
「…実は、ジュリお兄様の門出ということで、庭から花を摘んできたんです。」
少し恥ずかしそうに言う彼女の眼もとには、もう涙の痕はない。
「少し寂しくなりますが、学園でも頑張ってください。」
そう言って花束を持ったジュリウスに抱き着いた。
いきなり抱き着いてきた妹に驚きつつもジュリウスも返すように優しく彼女を抱きしめる。
「素敵な花束をありがとう、セレナ。」
少しの沈黙が談話室を支配する。
良い兄弟、良い家族、きっとこれから先はハッピーエンド、それからみんな幸せに暮らしました…と言いたいところだが、ヴァルキトア家にそんな平和は訪れなかった。
静かになった談話室に一人分の拍手が起きる。
「いや~、凄いね!セレナって演技の才能もあったのか~。」
ほんわり温かい雰囲気になった部屋を一気に雪山の山頂に変えたのはやはり三男、ルステランだ。
「…ルス、そういうのは明日あたりに言うのが妥当だと思うよ。」
そういいながらゆっくりとセレナから手を離した長男は何とも言えない顔で三男を見る。
「あれ?気付いてたの?」
「ルス、君は家族に対して素直で、正直なところはとても良いことだと思うけど、きっとその言葉は今は不要なんじゃないかな?」
「え~いつ気付いたの?」
完全に自由人三男が独自の暴走を始めたようで、氷点下を超えた部屋は逆に温かさを取り戻しつつある。
ジュリウスは深いため息をつきながら口を開いた。
「一番手のルスのところかな…あれはもはや別人だったからね。」
「僕、名演技だったと思うんだけどな~。」
「きっとルスを知らない人間から見たら名演技かもしれないけど、何年も兄弟をしている側からしてみたら人格がすり替わった何かにしか思えないと思うよ。」
「…なるほどね、参考にさせてもらうよ。」
珍しく悩まし気なポーズをとるルスは完全に仕事モードに入ったようで、ぶつぶつと自己分析をし始めてしまった。
「まったくもって、なぜ二つ年の離れた兄が、こうも空気の読めないのかが不思議ですね。」
やれやれというように首を横に振りながら呆れ顔でルスを見るベリーは完全に冷めた目をしている。
「それにしても、みんな上手くやってたよね。ルスのがなければ気付かなかったかもな…ルスのがなければ、ね。」
よっぽど強調したかったのかジュリは二回も同じことを言う。
「…それで?最後のセレナのこれは本心ってことでいいのかな?それとも演技?」
今度は私の方に視線がやってくる。
「…ご想像にお任せします。でも、門出を祝おうと思ったのは本心ですよ。」
「そうか…そうだね。ありがとう、セレナ、他のみんなも。何だかんだ楽しませてもらったよ。」
きっとジュリはセレナが送った花束の中にある一つ一つの花に意味があることを知っているのだろう。だって、貰った花束を慈しむように見ながら幸せそうに笑っていたのだから。
それから兄弟水いらずで、いろんなことを話していると夜は更けていった。子供が夜中まで起きているのは良くないという話になり解散してそれぞれの部屋に帰ったのは今さっきの話だ。
セレナは部屋に帰ってきて寝る支度を済ませてから外の月を眺めた。今日は月が5つ並んでおり、やはり異世界に来てしまったのだな、と一人感じていた。
「…ねえ、愛夢。君はあの時どんな気持ちだったんだい…?」
一人でつぶやいた言葉は誰にも聞かれるでもなく夜の空気に溶けていく。
前世でセレナが家からだいぶ離れた高校に通うことになり一人暮らしをするために家を出ることになった。いざこれから一人暮らしする場所に移るために家を出ていこうとしていた時に弟の愛夢が沢山の種類の花を使ったカラフルな花束を持って玄関先に立っていたのを今でも鮮明に覚えている。
前世ではたった一人の血のつながった兄弟で、家の事情でほとんど関りがなかった弟からの突然の花束のプレゼントにいつも動揺しないセレナでも大分驚いたのを覚えている。
ただ立っていただけなら父親に何か言われて花束を持ってきたと思っただろうが、彼は静かに涙を流していた。決して自分で拭うことはせずにただただ透明な雫がぽたぽたと服に落ちていて、その服を気にする素振りも見せずにただただこちらを見る瞳には私が映っていた。
あの時、彼は何を考えていたのだろうか。私にとっては『大切な弟』で、例え話す機会が少なかったとしてもどこかで繋がりがあると思っていた。しかし、彼は生まれた直後からほとんど私と顔を見合わせたことがないはずで、物心つく頃には一週間で1回、顔が見れれば多いほうだというぐらいに顔を見合わせる機会が少なかった。
そんな、彼にとっては繋がりの薄い姉が一人暮らしをするために出ていくとなったら涙を流したのだ。私にとって、彼の行動は不思議でたまらなかった。それは一度死んだ今でも分からないことだらけだ。
最期は初めてこんなに話したというぐらい沢山の話をしたのを覚えている。しかし、それまでほとんど会話という会話をしたことがなかったので、彼は私に対してぎこちない話し方をしていたのもよく覚えている。
「…今考えても、分からないものは分からないか。」
そう呟いて過去の回想はやめにする。
明日は長男の門出の日なのだから万全な状態で見送りをしたい。だから今日はもう考えないことにして、深く掛け布団を被って目を閉じる。
目の奥ではまだ脳裏に焼き付いている弟の顔があったが、次第に薄れていき、夢の底へと導かれていった。
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