逆光の樹影、ガラスのリノウ

七海けい

逆光の樹影、ガラスのリノウ


「──すみません。高崎先生は今、どちらに?」

 夏休みの、午後4時頃。

 ひとけもまばらな小谷高校の美術室を、一人の女性が訪ねてきた。

「ぁの……っ。ぇっと、……どちら様ですか?」

 幽霊部員ばかりの美術部の中で、唯一の皆勤賞かいきんしょう持ちにして部長の2年生男子──東山とうやま隼人はやとは、慌てて手元の紙を引っ繰り返した。

 ほぼ貸し切り状態の美術室で夏コミ用のR15同人誌を描いていた俺は、予期せぬ怪しい客人に対して、警戒心を露わにする。

 寒色系のワンピース。小脇に抱えた白い帽子。小さなショルダーバッグ。年齢は、俺の親と同じくらいか、やや若いくらいに見えた。一応、来校者用のスリッパを履いている。

「わたくし、南雲なぐも詩音しおん先生と面会の約束をしている西条さいじょう十和子とわこという者です。4時過ぎに美術室で……ということだったのですが、何か聞いていませんか?」

 西条と名乗った彼女は、辺りをキョロキョロと見回しながら、美術室に入った。

「特には何もうかがっていませんが……、南雲先生なら準備室にいますよ」

 俺は席を立ち、美術室の隅にある準備室のドアを叩いた。

「せんせー。西条さんという方がいらっしゃいましたよー」

 俺の呼び掛けからややあって、ドアノブがガチャリと回転した。

「……ぁー、スミマセン。少々準備に手間取っておりまして。お待たせしました」

 白衣にジーパンという出で立ちの短髪の女性──南雲詩音は、頭をポリポリと掻きながら現れた。小谷高校の美術科教師である彼女の専門は陶芸。いつも通りの、やや湿っぽくて生臭い粘土の匂いをさせている。

「ぁ、それで、南雲先生。くだんの絵は見つかりましたか?」

「ありましたよ。どうぞ、こちらへ」

 南雲先生は、──お前も来い。といった顔で俺を一瞥した。


***


 美術準備室の長机の上に、額に収められた3枚の油絵があった。

「一番号数サイズの大きいものが、くだんの絵──『逆光の樹影、ガラスのリノウ』です」

 南雲先生は、どこかの美術展でもらった薄い団扇うちわをあおぎながら、テーブルの上を見やった。

「これが……」

 西条さんは、半歩退いたような距離から『逆光の樹影、ガラスのリノウ』を見た。


 背後から白い光を浴びて、黒々と見える樹木の周りに、鋭く歪なガラスのカケラが十数片、辺りを七色に照らしながら舞っている。そんな絵だった。


「この絵が、どうかしたんですか?」

 俺は、南雲先生に訪ねた。

「この絵は、私の前任者──トウドウ・テルヒロ先生の作品かもしれない」

「……かもしれない?」

 南雲先生の返答に、俺は首を傾げた。

「詳しいことは、私にもよく分からないんだよ。トウドウ先生は3年前に病死されているし、そもそも、この絵がうちの学校にあるということ自体、西条さんからの問い合わせで初めて知ったんだ」

「へー……。校長室かどこかに飾ってあったんですか?」

「いや、準備室の隅っこでホコリをかぶっていた」

 南雲先生は肩をすくめた。

「ぇ、ここにあったんですか?」

「そうだよ。ちなみに『逆光の樹影、ガラスのリノウ』というタイトルも、西条さんからの電話で初めて知った」

「何だか、分からないことだらけですね」

「全くだ。……ぁー、ところで、西条さん。くだんの絵は、この絵で間違いなさそうですか?」

 南雲先生は、西条さんの方を見やった。

「まぁ、逆光の樹影と、ガラスも描いてありますし、多分、この絵なんだろうと思います」

 西条さんの返答は、歯切れの悪いものだった。

「ところで、『リノウ』って何のことですか? 聞き慣れない単語ですけど」

 俺は、西条さんに聞いてみた。

「それが……、私にも何のことかサッパリなんです。私は、死んだ父のメモの中に、『オダニHS トウドウ 逆光の樹影、ガラスのリノウ 心のこり』とあるのを見つけただけで」

「わざわざ『心のこり』なんて書き残されると、気になっちゃいますね」

「でしょう? 父は寡黙な人で、日本中をフラフラ旅して回ることも多かったから、よく分からないことが多くて。この際、親戚で手分けして色々調べてみましょうって話になったんです」

「西条さんのお父様は、画商であり、コレクターでもあったそうですね」

 南雲先生の確認に、西条さんは首肯する。

「はい。美大生の作品から、200年前の絵画まで、色々と、手広くやっていたようです。亡くなったのは昨年ですが、遺品の整理には苦労しましたよ」

 西条さんは、苦笑気味に答えた。


 絵画のみならず、美術品が遺産に含まれている場合、相続税の計算は非常に煩雑なものになるという。鑑定士を呼んで、美術品全ての価値を数値化し、うっかり高値が付いてしまった場合は、その取り分と、跳ね上がった相続税を巡って、遺族が大いに揉めることになるのだ。


 南雲先生は、色あせたチラシを一枚、テーブルに差し出した。

「トウドウ先生は、都内の美大出身で、若い頃は画家として食べていくつもりだったらしい。一度、個展も開いている」

 チラシには、薄れた字で『帝都芸大卒 TODO TERUHIRO展』とあった。

「だが、恐らく個展の反響はイマイチだったんだろう。専業画家として食べていけるメドが立たなかったトウドウは、一度高校教師に鞍替えして、実績集めやパトロンの確保に時間をかけることにした。西条さんのお父様は、彼のパトロンだった可能性が高い」

 南雲先生の語り口は、トウドウ先生の半生を追体験したかのようだった。

「知らない人の人生を、……ちょっと邪推しすぎじゃないですか?」

 俺は、色あせたチラシを見ながら言った。

 当然と言えば当然だが、チラシには、展覧会の表題と開催日時・場所以外の情報は載っていない。

「初っぱなの個展で大当たりしていたら、私は今こんなところにいない」

 南雲先生は、拗ねたような口調で答えた。この人もこの人で、苦労人なのだろう。

「ところで、西条さん。『逆光の樹影、ガラスのリノウ』の他に2枚、一緒に出てきた絵があるんですが。そちらについては、何か心当たりはありませんか?」

 南雲先生に促され、西条さんは他の絵に目を移した。


 一枚は、黒褐色に乾き、腐った桃と、懐中時計が並んで置かれている絵。

 もう一枚は、頭に月桂冠をいただく透明で筋肉質な男性の絵だった。よく見ると、男性の足元にはイバラが這っており、右足から腹部にかけて、ヒビが入っている。


「さっきの絵に比べると、ずいぶん暗い印象の作品ですね」

 俺は、率直に感想を述べた。

「長寿や魔除けのモチーフである桃が腐り、寿命を暗示する時計が置かれ、恐らくはトウドウの自画像だろうガラスの男性像は、イバラの棘に蝕まれている。病苦と闘うトウドウの内面を、よく表しているとも言える」

「ですね」

「確かに」

 南雲先生の手際よい考察に、俺と西条さんは頷いた。

「逆光の絵の方も、それだけ見ているとよく分からないが、照らされている樹影は、朽ちた桃の木に見えなくもない。飛び散っているガラス片も、トウドウ自身を指しているのかも知れない」

「先生にそう言われると、もうそうにしか見えませんよ」

「さすが、現役の美術の先生ですね」

 感心する俺と西条さんを余所に、南雲先生はクリアファイルから、一枚の紙を取り出した。

「……最後に、もう一枚。絵ではないのだが、その3作品と一緒に見つかったものがある」

 南雲先生は、取り出した紙をテーブルに出した。

 それには、以下のような短い詩が綴られていた。


―――


『偽装』

なおりのわるい、かさぶたのように、おそくかわくニスをぬり

運にまかせて、ひびわれて、コーヒーの雨をあびるキャンバス

古風な額におさまって、すました顔でまぎれこむ。骨董市の朝


―――


「タイトルが不穏ですね。でも、何が言いたいのかよく分からない……」

「……」

 首をひねる俺の隣で、西条さんは、ゴクリと唾を呑んだ。

「内容は単純だ。タイトル通りだよ」

 南雲先生は、団扇を口元に当てた。

「遅く乾くニスは、とにかくヒビが入りやすい。それも、不規則にだ。コーヒーは、古ぼけた色合いを出すのに重宝する。描き上がった絵の上にインスタントコーヒーをぶちまけると、あら不思議。それらしい雰囲気が出るんだ。どちらも、経年劣化した絵を再現するのにピッタリの道具だな。年代物の額縁に収めて、骨董市に並べれば、素人を騙すには十分な『贋作』ができあがるだろう」

「贋作……?」

 ただならぬワードに、俺は目を丸くした。

 早とちりするなよ。という風に、南雲先生は団扇を俺のほうに向けた。

「実際に、トウドウが贋作づくりに手を染めていたのかどうかは分からない。仮に、何かやましいことがあったとして、それと西条さんの父がどう関係するのかも分からない。推測できるのは、彼を蝕んでいたイバラは、どうも病気だけではなさそうだということだけだ」

 南雲先生の言葉に、南条さんは神妙な面持ちで俯いた。

「……これ以上、何か分かりそうなことはありますか?」

「貴女のお父様も、トウドウも、既に亡くなっています。3枚の絵と、短い詩文から分かることは、これで全ていって良いでしょう。あとは、他の親戚一同が持ち寄った情報を突き合わせるしかありません」

「そう、ですよね……」

 ややあって、西条さんは、決意したように顔を上げた。

「この絵と、その詩文。全部、私が引き取っても宜しいでしょうか?」

「はい。トウドウのご遺族からは、美術室や準備室にある彼の私物は勝手に処分してもらって構わないと承諾をいただいています」

 南雲先生は、梱包材一式と紙袋を既に用意していた。

 西条さんは、何か分かったら連絡します。と言って、南雲先生とメールアドレスの交換をしてから学校を後にした。


 二人だけが残った美術準備室で、俺は南雲先生に質問した。

「結局『リノウ』って何だったんでしょう?」

「一番あり得そうなのは『リウ』の書き損じだろうな。志半ばで死んだトウドウの人生と、砕け散ったガラスの男性像。彼の人生にピッタリの表題だ」

 俺と南雲先生は、やや熱がこもった準備室を後にして、冷房がよく効いた美術室に戻った。

「リソウ、ですか。……何か、切ないですね」

「もっとも、宮沢賢治の『くらむぼん』的な造語かもしれないがな」

「ぁー。そう言えば、小学校の教科書に載ってましたね。謎の生物『くらむぼん』が死にまくるお話」

「? 微妙に間違ってないか、それ?」

 俺の適当な記憶力に、南雲先生は苦笑する。

「まぁ、何か分かれば西条さんから連絡があるだろう。全く違う真実が明らかになるかもしれないし、もっとダーティーでエキサイティングな物語が暴露されるかもしれない」

「エキサイティングって……。ちょっと不謹慎じゃないですか?」

「トウドウ自身も、自分の感情を持て余したから、あんな単純で散漫とした作品群を作る羽目になったんだろう。彼は、自分のことを透明なガラスで表現したようだが、あのチョイスは微妙だな。無駄にマッチョなのも頂けない」

 南雲先生は、団扇をパタパタと仰ぎながら窓外を見やる。

「人間は、多かれ少なかれ、透明な色に塗り潰された、まだらな感情を持っている。それは、逆光が見せる樹影ほど黒々としたものでもなければ、ガラス片に乱反射する光ほど朧気でカラフルなものでもない。もっと、くすんで、湿っぽい、灰色だ」

 窓の外には、夕立を予感させる強すぎる日差しと、異様に大きな入道雲が見えた。


 逆光を受け、影が落ちる南雲先生と、夏日に照らされた窓ガラス。

 どこか、トウドウの絵を思わせる風景だった。


「そういうものを覆い隠したくなるのも、人間のサガなんじゃないんですか?」

「私は、さらけ出している方が好みだな。……例えば、学校でエロ本を描けるくらい図太いヤツとか」

「っ!」


 あはははは。と、南雲先生の笑い声が、美術室に響いた。











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