第2話 不思議な青年 下
湿った匂いが漂う廃墟と化した教会の地下、顔の欠けた聖母マリアの像の足元に、アスタロト教信者はその姿を隠していた。
傷がつき古びた壁に囲まれ、息が苦しくなるような雰囲気に包まれた地下の中心には光が蝋燭の灯火しかない暗い空間でも目にすることができる大きな金色の魔法陣が描かれていた。
ルネを含めたアスタロト教信者は魔法陣を囲むようにその場に直立している。
そんななか、気を失ったアスベルは部屋の隅で床の上で横になっており、手は縄で縛られていた。
「ああ、アスタロト様……アスタロト様……!」
ルネは両手を胸の前で握りしめ、歓喜の声をあげている。
頬を赤く染めた姿にルネがアスタロトという者にどのような思いを寄せているのかがよく分かる。
「ルネ、静かになさい。今から儀式が始まるのだから」
他の信者とは違い、服に装飾が施された老女がルネを制する。
その老女の声にルネはピクリと身体を揺らし、小声で「ごめんなさい……」と呟くと顔を下へと向けた。
老女はルネを注意したあとまた身体を魔法陣の方へと向ける。
「それでは生け贄をここに」
老女がそう言うと何人かの男達は動き出し、部屋の隅で転がっていたアスベルを魔法陣の真ん中へと運び出した。
アスベルの足や腕には力が入っていない。
運ばれたアスベルは魔法陣の中央に仰向けで寝かされ、縄も外された。
アスベルを運んだ男達は皆自分がいた場所へと戻っていく。その様子をみて老女が話し出す。
「儀式を始める前に……皆で祝いましょう! 今回の儀式でアスタロト様のために捧げた生け贄は記念すべき100人目となるのですから! 」
その老女の声で魔法陣を囲んでいた信者達は笑顔を浮かべ、一斉に拍手をし始めた。
信者のなかには泣き始める者や「アスタロト様、万歳! 」と声をあげる者もいる。老女はそんな者達へ笑顔で目を向けていた。
「それでは皆儀式を始めましょう」
老女のその声に今まで声を大きくして歓喜していた信者達の間に一瞬で静寂が生まれる。
待ちに待った、願い続けたことが今やっと叶うのだという興奮の空気も漂った。
「さあ、アスタロト様のために祈りなさい。我らに祝福と恩恵を」
老女が胸の前で十字架を逆さに持つと他の信者達も取り出した十字架を逆さに持つ。
信者達の様子を見たあと老女はそっと目を閉じた。
「アスタロト様、アスタロト様。愚かな我らにその知恵を、加護をお与えくださいませ」
そう老女が唱え始めると他の信者達も一緒に唱え始める。
それはだんだんと重なるようになり、信者達の声は部屋に響き渡る。その声に応答するかのように魔法陣が淡く輝きだした。
「陰気くさいなあ」
声が聞こえた、と同時に青年は起き上がった。
生け贄として魔法陣の上で気を失っていたアスベルが目を覚ましたのだ。
アスベルは立ち上がると服についたホコリを手で払い落とす。
「まあまあホコリっぽいね~。こんなところに呼ばれる神様、なんかかわいそう」
儀式中に目を覚ましために何人かの信者達は驚いていたが、老女は冷静に対応する。
「おや、目覚めましたか。ですが寝てもらわないと困ります。アスタロト様への捧げ物になることを光栄に思いなさい」
「僕が捧げ物なんて
口角を少しあげたアスベルに自らが信仰している神に向かって「あっち」などと言われ、老女の口調にも怒りが混ざる。
「もう一度寝かせなさい」
その言葉に男の信者達が動き出し、もう一度アスベルを気絶させようとするが。
「遅いよ」
男達は確かにアスベルをその目でとらえていた。
だがアスベルが腰に携えていた剣を抜いているのを見たのが最後だった。その姿は瞬きをした瞬間に消え、男達は次の瞬きをすることもなく倒れたのだ。
魔法陣の上で倒れているのはアスベル、ではなくアスベルを襲おうとした男達であった。
「なっ!? 」
その事態を予想していなかったのか老女が驚いたような声をあげる。老女の不安が広がったのか他の信者達もざわめきだす。
「あー、大丈夫大丈夫。峰打ちだから」
余裕のある笑みを浮かべたアスベルは驚いているルネの方へと身体を向けた。
「助かったよ、ルネ。君が案内してくれたおかげで予定より早くたどり着くことができた」
「わたし、の……」
「そう、それに君がアスタロト信者であることは分かってたしね」
アスベルの言葉にルネは目を見開き、固まる。
ルネはアスベルを連れていく過程で自らがアスタロト信者である証拠は何一つ見せていない。
それだというのにアスベルはルネがアスタロト信者であることを見抜いていたのだ。
「ど、どうして? どうして私がアスタロト様の信者だなんて……」
「ほぼ勘なんだけどさ。君と僕が出会ったときに君は男達から逃げるために森中走っていた、と言っていたよね。森の地面って滑りやすくて服についたら中々落ちない。それに加えて夜に目なんて使い物にならなくて、いつ転んでもおかしくないような場所で走っていて」
アスベルは視線をルネの表情から服へと移動させる。暗い空間でもルネの純白の服はよく映えていた。
「そのワンピースに泥一つ付いていないなんてすごいよね」
そう、ルネは本当に男達から逃げていたわけではない。そういう風に見えるように演じていたのだ。「それと……」とアスベルはコツコツと魔法陣に足の爪先を当てる。
「君、一度だけアスタロト様って言ったの気付いてない? 」
『村ではこの近くでアスタロト様を信仰しているアスタロト宗教という宗教団体が………』
ルネは自らがこぼした言葉を思いだし、血色のいい顔が真っ青になっていく。
「おかしい、と思ってさ。お母さんを連れていった奴らなのにそいつらが信仰している神なんかに様をつけるなんて。そういうのって自分も信仰していないと出てこないよね」
笑みは消えず、それでもその目はルネをとらえていた。
その目から感じる気に意識を持っていかれそうになり、ルネはスカートを力一杯握る。
「まあ、話はこれくらいにしといて……。一応僕達、依頼があってここに来てるわけだからさ。君達を捕まえなきゃいけないなんだよね。おとなーしくしておいてくれるとこっちとしてはうれし……」
「そんなこと、我々がするとでも? 」
「ですよねぇー」
アスベルのほんの少しの希望をのせた言葉であったが、虚しく散っていった。
「あなた一人で我々を捕まえられるわけがないでしょう? ここにいる者のなかにはギルドに入っていた者もいるのですよ。いくらあなたに実力があるのだとしても数の差には勝てないでしょう」
その言葉に数人の男女が懐から武器を取り出していく。
槍を持つものがいれば、鞭をもつものもいる。
しかし、アスベルは動揺などしなかった。多くの敵を見てもその表情からは焦りを感じない。
「僕一人でも君らを倒すのに一分もかからないけど……」
髪をくしゃりと掻き、目の前に敵がいるというのに剣をしまうアスベル。
「あんまり調子にのると怒られるんだよね」
大きな破壊音と共に地下の天井が割れる。
そして瞬く間にアスベル達に石の塊が降りだす。すると二つの影も地下へと降り立った。
その二人にはアスベルと同じ、顔に牙の形の刺青のようなものが描かれていた。
「遅いんだけどー。ローラン、エルマ」
口を尖らせて文句を言うアスベルの頭にエルマと呼ばれた狼獣人の女がごつんっと拳を落とす。
痛みで頭を押さえるアスベルを見てローランと呼ばれた燕鳥人の男がため息を吐く。
「あんた合図が遅いのよ、何やってたの! 」
「居眠りでもしてたのか」
「いやいや! タイミングを計ってただけだから! 」
まだ痛むのか涙目になりながら否定するアスベルをジト目で見つめる二人。
いきなりの出来事で考えが追い付いていないルネの横で老女はそのしわだらけの顔を真っ赤にして怒鳴りちらしだす。
「あなた達! 神聖なるこの場所に何ということを! 」
「いや、確かにこれはやりすぎじゃない? 」
老女に同情の目を向けるアスベルをよそに狼の女ーエルマは老女の方へと向き直った。
「何言ってんの? あんた等がやってきたことに比べたらほぼ廃墟の教会の床ぶち壊すのってちっぽけなことじゃない」
拳を握りしめ、人差し指を地下の天井だったものへと向ける。
そこで老女や他の信者が何かの異変に気付く。
燕の男は薙刀のような武器を持ってはいるが、狼の女は拳に籠手のようなものをつけており、それ以外はほぼ丸腰の状態であるということだ。
しかし、女の話からはまるで自らが床を壊したかのような言い方である。震える声で老女はエルマにたずねる。
「ま、まちなさい。もしや、あなたがこの天井を……」
「ええ、廃墟になっているせいか脆すぎて簡単に破壊できた」
その言葉に恐れを為したのか何名かの信者が逃げだした。老女もこれほどの者だと思っていなかったのか、顔を真っ青にして今にも倒れそうである。
三人のうち一人がいなくなっているのも気付かないほどに。
「こいつらはどうすればいい」
燕の男ーローランが逃げようとした信者達を気絶させ、立っていた。誰もが彼がそんな行動をしていたことに気付いていなかったのだ。
適当に転がしといて、とエルマが言うと気絶した信者達をかなり乱暴に隅へと移動させていた。
「あなた達、一体何者……なの……」
そう質問する老女の顔は泡を噴くのではないかと思うほどに恐怖に満ちていた。老女の言葉に三人は顔を見合せ、アスベルに回答を託した。
「ただの、ギルドに所属するしがないパーティーメンバーですよ」
恐ろしく爽やかな笑顔を老女に向けるが老女にとってそれは悪魔のような笑みだった。
老女は床にへたりと座り込み、そのまま本当に泡を噴いて気絶してしまった。ルネはその様子を見つめていただけであった。
空が明るくなりはじめた頃、ギルド直属の依頼書に載っているお尋ね者を連行する馬車が教会へと到着し、次々とアスタロト信者を乗せていった。
アスベル達はその様子をじっと見ている。ふと背後に気配を感じてアスベル達は振り返る。
そこには手を縄で繋がれたルネの姿があった。表情は長い髪のせいでよく見えない。
「……ねぇ」
今にも消えそうな声でルネはアスベル達を呼ぶ。
「……どうして私達は捕まらないといけないの……」
震える声を出し、今だにうつむいたままのルネにアスベルは目を細め、真剣な表情で話し出す。
「君達がやっていたのは誘拐と殺しだよ。アスタロトという神様の生け贄と称して何人もの人を誘拐して、儀式が終わればすぐに殺していた。その遺体をこの教会の近くに埋めていたんでしょ? これは立派な罪になる。だからこれ以上君達が罪を重ねないように、他の被害者が出るのを防ぐようにと僕らはギルドから依頼されて……」
「──何が悪いの」
今まで黙っていたルネがアスベルの言葉を遮るように話し出す。
「拐ってなにが悪いの、殺してなにが悪いの! 私達にとってアスタロト様は希望だったの、生きる理由だったのよ! あの人のためなら私は死んでもよかったし、どれだけ罪を重ねてもよかった。それが私の幸せだった! お母さんだって生け贄として差し出したのに! どうしてそれを奪うの!? どうして壊していくの!?」
ルネの言葉をアスベル達は黙って聞いていた。
否定も肯定もせずにただただ黙ってルネを見つめていた。ルネが肩で息を吐くとアスベルは口を開く。
「やり方が間違っているんだ」
一言、まるで自分やローラン、エルマにも問いかけるような口調だった。
「何かにすがるのは別に悪いことではないよ。どんな人でも心に光は必要なんだから。だけどその光だけを追ってはいけないんだ。自分を失ってはいけないんだよ」
その言葉にルネは見開いた目から涙を流し、泣きだした。
嗚咽と共に「分かってた……分かってた……」という言葉が漏れだす。抜け出せなかった沼からやっと足をだすことができたのだ。
「大丈夫、だよ。必ず変えられる。そうやって君達は生きてきたんだろう?」
アスベルはルネに微笑みかけるとローラン、エルマとともに馬車へと乗り込んだ。
アスベル達が行ったあとルネも他の信者達と同じ馬車へと乗る。走り出した馬車の中でルネは先ほどアスベルに言われた言葉に違和感を覚えた。
その言葉は自分ではなくここにはいない遠い誰かに言ったような、そんな言葉だった。
「アスベル、エルマ 気付いたか? 」
「ええ、一瞬自分の鼻を疑ったわよ」
走る馬車のなか、事態は収まったというのに今だに三人の顔からは緊張が抜けていなかった。
「アスタロトっていう神、気になるなぁ」
アスベルは馬車の席に奥まで座り込み、腕を組む。
「どうして、あんなところから父さんを感じたんだろう……」
解くことができなかった謎を残しながら、三人を乗せた馬車は長い道を駆けていった。
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