Act.6

 夏が盛りを迎えていた。一年を通して冷涼な気候の国ではあるけれど、真夏には少し汗ばむ日もある。

 《調整人コーディネータ》が集まる会議への同行を終え、《運搬人ポータ》の車に乗り込んだ永は、小さく息を吐き、シャツの襟元をくつろげると、ぱたぱたと風を送った。特に体を動かしたわけではない。ビルの間から射す西陽のせいだ。

 後部座席の隣をちらりとうかがうと、兄はまるで暑さなど知らない顔で座っている。

 兄さんは暑くないのだろうか。そう、口には出さず、胸の内で呟いたとき、

「うん? あぁ……俺は寒がりなのかもな」

 兄は永に向かって、にこりと微笑みかけた。

「……俺、何も言ってないけど」

「あれ? 違った?」

「……っ、言わない」

 ぷいと兄から顔を背け、永は窓の外へと視線を投げる。

 兄の、こういうところが、最近、少し苦手だ。

 隠しておきたい胸の内まで見透かされてしまうのではないかと、不安になるから。



 兄と暮らしているやしきは、機関に宛てがわれたものだった。新市街に程近い、高級住宅地の一角。安全上の理由で決められたらしいが、兄も永も、ほとんど物を持たない人間であることもあり、その邸は二人で暮らすには広すぎて、部屋がいくつも余っていた。

「永、先にシャワー浴びて良いよ」

「……うん」

 顔を伏せ、永は兄の顔を見ないまま、脱衣室の扉を閉めた。

「……反抗期?」

 扉越しに、苦笑の混じった兄の声が聞こえた。意識的にも、無意識的にも、仕事以外の時間は、兄を避けてしまっている。

 反抗期なら良かった。

 シャワーのカランを最大まで回す。降り注ぐ水音のノイズで、自身の思考を掻き消そうとする。流れ落ちる水の中、薄目を開けた先には鏡がある。それは、十八になった永の体を、容赦なく映し出していた。兄と同じ、まっすぐな黒髪。兄と同じ、白い肌。……違う。兄は、もっと――

 戦慄した。自分自身に吐き気がした。目を背け、否定し、逃げ続けてきた感情が、追いつき、背中にぴたりと張りつく。足を絡め取り、這い上がり、眼前に突きつけてくる。これが、お前の心だと。嫌だ。見せるな。出てくるな。こんな感情。許されない。許さない。消えろ。消えてくれ。やめろ。やめろ。やめろ……


――兄に触れたい。


 愕然とした。呼吸が止まる。瞬きが止む。胸の中で、崩落したせきが流れていく。止まらない。止められない。嫌だ。こんなの、いやだ……

「……兄さんを……汚したくない……のに…………」

 バスルームを出る。雫の落ちる髪もそのままに、無造作に服を羽織った。

「……出たから、次、兄さん、入って」

 兄の脇をすり抜けて、背を向けたまま言う。うなじに感じる兄の視線が、何かを言いかけて揺れて、けれど言葉を結ばずに、ただ頷くだけに留まった。

 バスルームから、シャワーの音が響き始める。永は静かに、脱衣室の扉を開けた。ランドリーボックスに手を伸ばし、脱いで置かれた兄のシャツを取る。

「……ごめん、兄さん」

 最低なことを、しようとしている。

 頭の中は焼けつくように熱く、自身を罵倒する言葉で溢れているのに、心の奥底は凍えるほどに冷えていて、渇ききった虚ろが広がっていた。満たしたい。潤してほしい。けれどそれは叶わない。叶えてはいけない。ゆるされない。分かっている。なのに、止まらない。止められない。こんなのは、まるで亡者だ。

 自室に入り、ベッドに上がる。抱えた兄のシャツに、そっと顔をうずめる。

 甘く澄んだ兄の匂い。昔から、ずっと変わらない、兄だけの匂い。

 体の芯が疼く。左手で兄のシャツを抱きしめたまま、永は、そっと、右手を脚のはざまに進ませる。欲のしるしは明確に、永に絶望を教えていた。

 息を殺し、声を飲み込む。張り詰めた熱が苦しい。解放されたい。解放したい。右手に力を込める。助けて。兄さん――

 白い欲を、吐く。

 心は冷えたまま、渇いたまま、ただ、虚ろだけを広げて。

 上がった呼吸を抑え、固く閉ざしていた瞼を薄く開く。汚れた右手が目に入る。永は、それを、ぼんやりと見つめた。

「永?」

 不意に、ドアの向こうから、声が聞こえた。永の肩が跳ねる。この部屋に、鍵はない。

「永、大丈夫か? 具合でも――」

 待って、開けないで、見ないで。叫ぶ言葉は喉の奥で張りつき、声を結ばなかった。

「……永……?」

 開かれたドア。兄の瞳が、永を映す。

「……それ、俺のシャツ……?」

 兄の瞳が、瞬きを打つ。永の喉が、呼吸をあやめる。

 消えたい、と思った。今すぐ、この場から消えてしまいたい。兄の前から、自分を消し去ってしまいたい。自分の存在を、弟という存在を、最初からなかったことにしてしまいたい。こんな弟は、存在してはいけない。けがらわしい、自分のような人間が、美しい兄の弟であってはいけない。

 自分を見つめる兄から、顔を背けて、うつむく。兄の顔を、もう見ることはできない。全て見られてしまった。知られてしまった。自分の醜さを。汚さを。浅ましさを。おぞましさを。

「……ごめん……兄さん…………」


「…………愛して……いるんだ…………」


 ぽつ、と、握り込んだ永の手の傍に、雫が落ちた。透明で、温かな、それは、永の頬を濡らし、顎を伝い、きらきらと光を弾いて、白いシーツに染み込んでいく。

「永」

 兄の声が、ふわりと降りた。ベッドの傍にひざまずき、うつむく永の顔を見上げて微笑む。

「知っていたよ」

 その言葉に、永は、顔を上げる。見開かれた永の瞳を受けとめて、兄は頷いた。

「お前の気持ちを知っていて、気づかないふりをしていた。俺のほうこそ、ごめん」

 ぎゅっと眉根を寄せ、永は首を横に振った。やめろよ、兄さんが謝ることなんてない。拒絶してほしい。嫌悪してほしい。……いや、違う。本当は、ほんとうは……愛してほしい。受け容れて、ゆるして、愛させてほしい。

「……愛しても……良いの…………?」

 声が揺れる。心が震える。

「永」

 美しい兄の手が、永の頬を包む。穢れない兄の指が、涙に濡れた永のまなじりを拭う。

「俺も、お前を愛している」

 どこまでも優しく、やさしく。

「だから、永……」


「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」


 兄は、永の心のすべてを受け容れた。それが兄の愛し方だった。

 握り込んでいた指を、そっと、ほどく。兄に向かって、手を伸ばす。

 抱き寄せる。重なり合う胸。服越しに、兄の温もりが滲んでくる。命の音が流れ込んでくる。

 視界が揺れる。涙が溢れる。けれど、それは、さっきとは違う涙だった。渇きを潤し、虚ろを満たす、与えられた心そのものだった。

 この日、永は兄を抱かなかった。ただ、その体に縋り、泣きじゃくりながら、愛していると繰り返した。

 愛している――そう、兄に告げる言葉は、神に赦しを乞う告解に等しかった。


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