Act.6
夏が盛りを迎えていた。一年を通して冷涼な気候の国ではあるけれど、真夏には少し汗ばむ日もある。
《
後部座席の隣をちらりと
兄さんは暑くないのだろうか。そう、口には出さず、胸の内で呟いたとき、
「うん? あぁ……俺は寒がりなのかもな」
兄は永に向かって、にこりと微笑みかけた。
「……俺、何も言ってないけど」
「あれ? 違った?」
「……っ、言わない」
ぷいと兄から顔を背け、永は窓の外へと視線を投げる。
兄の、こういうところが、最近、少し苦手だ。
隠しておきたい胸の内まで見透かされてしまうのではないかと、不安になるから。
兄と暮らしている
「永、先にシャワー浴びて良いよ」
「……うん」
顔を伏せ、永は兄の顔を見ないまま、脱衣室の扉を閉めた。
「……反抗期?」
扉越しに、苦笑の混じった兄の声が聞こえた。意識的にも、無意識的にも、仕事以外の時間は、兄を避けてしまっている。
反抗期なら良かった。
シャワーのカランを最大まで回す。降り注ぐ水音のノイズで、自身の思考を掻き消そうとする。流れ落ちる水の中、薄目を開けた先には鏡がある。それは、十八になった永の体を、容赦なく映し出していた。兄と同じ、まっすぐな黒髪。兄と同じ、白い肌。……違う。兄は、もっと――
戦慄した。自分自身に吐き気がした。目を背け、否定し、逃げ続けてきた感情が、追いつき、背中にぴたりと張りつく。足を絡め取り、這い上がり、眼前に突きつけてくる。これが、お前の心だと。嫌だ。見せるな。出てくるな。こんな感情。許されない。許さない。消えろ。消えてくれ。やめろ。やめろ。やめろ……
――兄に触れたい。
愕然とした。呼吸が止まる。瞬きが止む。胸の中で、崩落した
「……兄さんを……汚したくない……のに…………」
バスルームを出る。雫の落ちる髪もそのままに、無造作に服を羽織った。
「……出たから、次、兄さん、入って」
兄の脇をすり抜けて、背を向けたまま言う。うなじに感じる兄の視線が、何かを言いかけて揺れて、けれど言葉を結ばずに、ただ頷くだけに留まった。
バスルームから、シャワーの音が響き始める。永は静かに、脱衣室の扉を開けた。ランドリーボックスに手を伸ばし、脱いで置かれた兄のシャツを取る。
「……ごめん、兄さん」
最低なことを、しようとしている。
頭の中は焼けつくように熱く、自身を罵倒する言葉で溢れているのに、心の奥底は凍えるほどに冷えていて、渇ききった虚ろが広がっていた。満たしたい。潤してほしい。けれどそれは叶わない。叶えてはいけない。
自室に入り、ベッドに上がる。抱えた兄のシャツに、そっと顔を
甘く澄んだ兄の匂い。昔から、ずっと変わらない、兄だけの匂い。
体の芯が疼く。左手で兄のシャツを抱きしめたまま、永は、そっと、右手を脚の
息を殺し、声を飲み込む。張り詰めた熱が苦しい。解放されたい。解放したい。右手に力を込める。助けて。兄さん――
白い欲を、吐く。
心は冷えたまま、渇いたまま、ただ、虚ろだけを広げて。
上がった呼吸を抑え、固く閉ざしていた瞼を薄く開く。汚れた右手が目に入る。永は、それを、ぼんやりと見つめた。
「永?」
不意に、ドアの向こうから、声が聞こえた。永の肩が跳ねる。この部屋に、鍵はない。
「永、大丈夫か? 具合でも――」
待って、開けないで、見ないで。叫ぶ言葉は喉の奥で張りつき、声を結ばなかった。
「……永……?」
開かれたドア。兄の瞳が、永を映す。
「……それ、俺のシャツ……?」
兄の瞳が、瞬きを打つ。永の喉が、呼吸を
消えたい、と思った。今すぐ、この場から消えてしまいたい。兄の前から、自分を消し去ってしまいたい。自分の存在を、弟という存在を、最初からなかったことにしてしまいたい。こんな弟は、存在してはいけない。
自分を見つめる兄から、顔を背けて、
「……ごめん……兄さん…………」
「…………愛して……いるんだ…………」
ぽつ、と、握り込んだ永の手の傍に、雫が落ちた。透明で、温かな、それは、永の頬を濡らし、顎を伝い、きらきらと光を弾いて、白いシーツに染み込んでいく。
「永」
兄の声が、ふわりと降りた。ベッドの傍に
「知っていたよ」
その言葉に、永は、顔を上げる。見開かれた永の瞳を受けとめて、兄は頷いた。
「お前の気持ちを知っていて、気づかないふりをしていた。俺のほうこそ、ごめん」
ぎゅっと眉根を寄せ、永は首を横に振った。やめろよ、兄さんが謝ることなんてない。拒絶してほしい。嫌悪してほしい。……いや、違う。本当は、ほんとうは……愛してほしい。受け容れて、
「……愛しても……良いの…………?」
声が揺れる。心が震える。
「永」
美しい兄の手が、永の頬を包む。穢れない兄の指が、涙に濡れた永の
「俺も、お前を愛している」
どこまでも優しく、やさしく。
「だから、永……」
「お前が愛したいように、俺を愛してくれ」
兄は、永の心のすべてを受け容れた。それが兄の愛し方だった。
握り込んでいた指を、そっと、ほどく。兄に向かって、手を伸ばす。
抱き寄せる。重なり合う胸。服越しに、兄の温もりが滲んでくる。命の音が流れ込んでくる。
視界が揺れる。涙が溢れる。けれど、それは、さっきとは違う涙だった。渇きを潤し、虚ろを満たす、与えられた心そのものだった。
この日、永は兄を抱かなかった。ただ、その体に縋り、泣き
愛している――そう、兄に告げる言葉は、神に赦しを乞う告解に等しかった。
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