Act.2-2

 寮の二階の、東の奥。それが、兄とふたりの部屋だった。そっとドアを開けると、二段ベッドの上段に明かりが点いていて、上体を起こした兄が、顔を覗かせた。

「おかえり、永」

「ただいま、兄さん。……待っていてくれたの?」

「当然だろう。……無事で良かった」

 ベッドから降りようとした兄を、永は留めた。問いかけの瞬きをした兄を、永は、おずおずと見上げた。

「そっち……行っても、良い……?」

 永の言葉に、兄の顔が、ふわりと綻ぶ。

「もちろん。……おいで」

 兄がランプを掲げ、二段ベッドの梯子を照らす。永は、そっと、それを上った。

 兄と二人で、一枚のブランケットに潜り込む。陽溜まりと石鹸の清潔な香りと、そして微かに、兄の澄んだ甘い匂いがした。

「……あったかい」

 兄の温もりが、ブランケットの中で、心地良く永を包む。北方に位置するこの地では、夏でも夜は肌寒い。

「ずっと温かければ良いのにな」

 この夏が終われば、十五歳になった兄は、卒業して、ここを出ていく。しばらく会えなくなってしまう寂しさが、永の中に、とろのように満ちていく。

「……待っていて、兄さん……」

 ブランケットを、ぎゅっと握る。

「俺、絶対、機関に入るから……兄さんを追いかけて、入ってみせるから……」

 だから、待っていて。

「永……」

 兄の手が、そっと永の頭を撫でた。微笑んでいたけれど、その瞳はどこか悲しげだった。

「俺のことなんて、追いかけなくて良い」

「え……?」

 思いがけない言葉に、永は瞠目する。

 兄は視線を落とし、静かに続けた。

「お前は、…………」

 その先に続く言葉を、兄は言わずに飲み込んだ。けれど、永には、分かった。

 兄が言おうとした台詞――永、お前は、撃たないでくれ。

「……っ、どうして……」

 どうして、そんなことを言うの。

 撃てなければ……撃たなければ、守れないじゃないか。

 兄さんを守って、生きられないじゃないか。

「兄さんが、誰も死なせない《調整人コーディネータ》になるなら……俺は、兄さんを死なせない《護衛人ボディガード》になる。……なりたいんだ」

 一緒に、生きるために。

「……《護衛人ボディガード》……」

 目を伏せて、兄が呟く。《護衛人ボディガード》は、《調整人コーディネータ》を守る《キャスト》だ。

 第九機関において、《調整人コーディネータ》は、最も失いたくない人材であり、それゆえに、最も狙われやすい弱点でもある。だから《護衛人ボディガード》をつけて守るのだ。

「……《護衛人ボディガード》は、だめだ」

 兄が静かに、首を横に振る。

「どうして?」

 永は眉根を寄せる。

「危険だから? そんなの、どんな《キャスト》だって同じじゃないか」

 もちろん、《キャスト》を決めるのは〝上〟の人間だと分かっている。それでも願いたかった。望みたかった。兄の《護衛人ボディガード》になる。そのためなら、どんな任務だって、生き延びてみせるのに。

「……そうじゃない」

 兄は、なおも、かぶりを振った。永は、ますます眉尻を下げる。

 自分が追いつくのを楽しみに待っていてほしかったのに、どうして……?

 泣きそうな顔で見つめる永に、兄は静かに答えた。

「……《護衛人ボディガード》だけは、《調整人コーディネータ》の采配で動かせない」


「《調整人コーディネータ》が、唯一、守れないのが、《護衛人ボディガード》だからだよ、永」


 その言葉に、永は、刹那、呼吸を止めた。ずきん、と胸の奥が、重く痛む。

「兄さん……俺は、いつまでも、非力な五歳の子供じゃないよ」

「永……」

「守らせてよ。これからは、俺に……今まで、守ってもらった分を、返させてよ」

 上体を起こし、兄を見下ろす。ブランケットが落ち、身を包んでいた温もりが、夜気にさらわれ消えていく。

「俺は、兄さんの《護衛人ボディガード》になる。何年かかっても、絶対になる。だから……俺が守るまで、兄さんも絶対に死なないで」

 それだけ言い置いて、兄のベッドを出る。梯子は使わず、柵に手を掛け、ひらりと身軽に下の段へ――自分のベッドへ飛び降りた。

 ブランケットを頭から被り、永は、ぎゅっと目を閉じる。独りきりのベッドは、ひんやりと冷たい。じわじわと、心のふちに、後悔が滲んでくる。

 一方的に、兄に言葉を投げつけてしまった。

 けれど、どうしても、譲れない想いだった。

 しばらくして、ふっと、明かりが消えた。兄は眠ったのだろうか。ブランケットから、永は、そっと顔を出す。二段ベッドの下からでは、上にいる兄の様子を窺い知ることはできない。

 今、どんな顔をしているの。

 何を考えているの。

 ねぇ、兄さん……。

 問いかける言葉は、永の喉の奥で、声にならずについえていった。


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