Act.1-3

 数日後、由は再び、賭博場である酒場を訪れた。屋台の仕事が終わってすぐに、身なりの良い見知らぬ男から呼び出しを受けたのだ。酒場の主人も客たちも、困惑したような、そして、どこかへつらうような、いびつな愛想笑いを浮かべて、由を迎えた。

 奥のテーブルには、記憶に新しい、若い金髪の男の姿があった。

「驚かないんだね」

 男は笑った。

「……予想は、していましたから」

 目を伏せて、由は答えた。

「ほう。それは、ますます期待できるな。楽しめそうだ」

 まずは席に着きたまえと、男は向かいの椅子を勧めた。その指には金のリングが光っていた。

「そういえば、自己紹介がまだだったね。私の名は、久彌ヒサヤ・クメキだ。君は、ユキトといったね……由・クロセ」

「……はい」

「聞けば、君はカードだけでなく、チェスの心得もあるそうじゃないか。是非、手合わせを願いたいと思ってね」

 クメキが、ちらりと店主に目配せをする。

 店主の肩が、びくりと跳ねた。慌ててバックヤードに走り、チェスの盤を持って戻ってくる。カタカタと震える手で、店主は、それをテーブルの中央に置いた。

「そうそう、君は、いつもギリギリのところで少しだけ勝つという、甘い勝ち方をしているそうだね。必要最低限の金を稼ぎつつ大人の反感を買わないためかな? なかなか殊勝な心掛けだが、私には、そんな遠慮は無用だよ。君の全力が見たいからね」

 無論、クメキは、由が本気にならざるを得ない勝負を仕掛けるつもりだ。

「そうは言っても、ただ勝負するだけではつまらない。やはりここは、賭けるものがなくては」

 クメキは緩やかに指を組んだ。側に控えていたスーツ姿の男が、テーブルの端に、紙幣の束を、数段、重ねる。

「これが賭け金だ。私と君、同額だよ。君が勝ったら、この金は全額、君のもの。私が勝ったら、君には同額を、私に支払ってもらう」

 とん、とクメキは、札束の天辺を指先で叩く。

「当然、君には、到底、支払えない額だ。担保がなくては、ね」

 担保。その言葉の意味するものを察し、由の顔色が変わる。クメキは満足そうに頷いて、にやりと口角を上げた。

「ご明察。これはね、この辺りの子供、一人あたりの相場の値段だ」

「っ、弟は――」

「兄さん!」

 刹那、由を呼ぶ幼い声が響いた。店の戸口に、スーツ姿の男に両腕を拘束された永の姿があった。そのまま引きずられるように、テーブルの傍に連れて来られる。

「おっと、騒がないでくれたまえよ。これから、君の兄さんと、大切な勝負をするからね」

 騒いだらその口を詰め物で塞ぐよと、クメキは唇の前に人差し指を立てる。

「言っておくが、この期に及んで勝負に乗らないなんて、ナンセンスなことは言わないでくれたまえよ。私の部下が、癇癪かんしゃくを起こして、君の弟の腕の一本でも折ってしまいかねないからね」

 クメキの視線が永に流れる。永を拘束する腕の力が強くなり、永が小さく悲鳴を飲み込む。

「やめてください!」

 思わず席を立ち叫んだ由に、クメキは愉快ゆかいに小さく鼻で笑った。それを合図に、永の腕を掴む男の手の力が緩められる。

「そうそう。それくらい、必死になってもらわなくては」

 まぁ座りたまえよと、クメキは一層、柔和に笑う。

 由は唇を噛んだ。遊んでいるのだ、この男は。まるで、偶々目についた野良猫をなぶるように。自分たちを、娯楽の玩具にして。

「勝負は受けます。だから、弟には手を出さないで……」

 低く抑えた、怒りを含んだ声で、由は言った。

「兄さん――」

「大丈夫だ、永」

 永の声を遮り、由は微笑む。

「さて、準備も条件も整った。君が負ければ、君の弟は、このままそこの人買いに売却される。もし、それが嫌なら、我々の組織で働いて、その金額を稼ぐと良い。でね」

 最後の台詞を、殊更に丁寧に発音して言った、クメキは、知っているのだ。由が、子供たちのグループに勧誘されて断ったことを。あのグループの背後に強力な暴力組織があることは分かっていたが、他ならぬクメキの傘下だったのか。

 膝の上に乗せたこぶしに、ぎゅっと力を込めて、由は、小さく、深く、息を吐いた。

「……いいえ。まだ、条件は整っていません」

「ほう?」

 クメキの片眉が上がる。

「どこに不足が?」

「俺の値段です」

「なに?」

「俺の値段は、幾らですか」

 凛とした声で、怜悧な瞳でクメキを見据えて、由は言った。クメキの瞳が、刹那、僅かに大きく見開かれ、そして破顔する。

「ハーッ、ハッハ! 面白い! 実に面白い! それでこそ、私が見込んだ甲斐があるというものだ」

 良いだろう、とクメキはパチリと両手を打つ。側近の男が、再びテーブルの上に、もう一段、札束を積み上げた。さっきよりも、一束、多く。

「せっかくだから、君には弟よりも高い値段をつけてあげたよ。これで申し分ないだろう」

「はい」

「決まりだね。では、始めよう」

 チェスの駒に手を伸ばす。今、盤面の上は、世界そのものだった。たったひとりの弟を、たったひとつの幸せを、世界から守り抜くための闘いだった。

 どうして、世界は、自分たちを、穏やかに生かしてくれないのだろう。

 どうして、笑顔でいさせてくれないのだろう。

 救わないなら、触れないで。

 保護の手を差し伸べることがないのなら、せめて、侵さないで、破らないで、放っておいてくれれば良いのに。なぜ世界は、こんなにも幸せを壊そうとするのだろう。

 これは何かの罰なのか。もし、そうなら、どんな罪を犯したというのか。

 何を償えば、幸せを払わずにいられるのか。

 何を捧げれば、幸せを供さずにいられるのか。

 ごめん、ごめん、永。

 また、怖い目に遭わせてしまった。

 また、危険に曝してしまった。

 また、笑顔を奪われてしまった。

 ごめん、永。頼りない兄で、ごめん、ごめん……。


――どうすれば、お前を守れる? 永。


「さぁ、私を楽しませてくれ」

 相手がビショップで大きく攻め込んでくる。狙われたルークを後退させ、ポーンで阻む。クイーンはまだ動かさない。ナイトで奇襲を仕掛け、逆に相手のルークを取りに行く。しかし、相手も易くはない。再びビショップを使い、ナイトを牽制。ポーンの守りを崩しにかかる。

「どうした? ペースが落ちているぞ」

 挑発だ。クメキは速い。こちらが駒を進めてすぐ、次の手を打ってくる。それはクメキの強さが可能にする戦術だ。焦燥が敗北に直結することを知っていて、急き立てているのだ。ならば、こちらは、その逆を行く。相手の速さに呑まれないよう、あえて、ゆっくりと駒を進めて、

「ほら、のろいから、取ってしまった」

 ナイトを片方、犠牲にして、ルークをおとりに、準備をする。

 大手を掛ける、準備をする。

 彼は強い。今まで対戦した誰よりも。けれど、全く勝てない相手じゃない。

「このルークも取らせてもらおう。そろそろ、君のキングは、丸裸だ」

 誘い込めた。そこから、こちらのキングまで、最速でもあと三手はかかるだろう。ならば、こちらは二手で仕留めるまで。お気に入りのビショップで、彼がこちらのクイーンを殺しにきた瞬間、こちらも同じビショップで、彼のキングを追い詰める。

「おやおや、あっという間にチェック目前だ。さぁ、どう逃げる?」

 クイーンに接近。掛かった。

「……逃げませんよ」

 一手目。ついにクイーンを大きく動かす。この時を待っていた。

「なに……?」

 クメキの眉根が寄る。

「特攻のつもりか」

 咄嗟とっさにキングを守ろうと、クメキがクイーンの行く手にルークを置く。

 間髪入れずに、由はビショップを手に取った。本来の、由の手の速さで、二手目を――最後の一手を、打つ。

「……チェックメイト」

 トン、と静かに、水面にさざなみひとつ立てずに降り立つように、由のビショップが、クメキのキングをとらえる。ナイトよりも鋭く、ルークよりも軽やかに、そして、クイーンよりもしたたかに、鮮やかに。

「……はっ……」

 クメキの喉から、笑い声が漏れ落ちた。

「ハーッ、ハッ! クイーンやルークでなく、ビショップで討ち取ってくるとは! いやぁ、楽しい! 実に!」

 椅子の背にもたれ、高らかに笑う。

「良いだろう。今日の勝負はここまでだ」

 笑みを浮かべたまま、クメキが席を立つ。それを合図に、永の拘束が解かれた。駆け寄る永を、由はしっかりと抱きとめる。クメキは、それを、愉快そうに見下ろした。

「気に入ったよ。是非また遊びたいものだ」

 カツン、と響く、硬い靴音。クメキがテーブルから去っていく。

「……待ってください」

 しん、と静まった店内に、由の声が、クメキの靴音を縫いとめる。

「何かな?」

 足を止め、クメキが振り返る。

 テーブルの札束に、由はおもむろに手を伸ばした。全額を両手で掴み、クメキに差し出す。

「何の真似だ?」

 クメキの片眉が上がった。

「それは君が手に入れた賭け金だ。今更、私に返すなど――」

「返すのではありません。お支払いするのです」

「ほう……?」

 クメキの目が、鋭く細くなる。

「面白い。その額に足りるものなら応じよう。私から、何を買おうというのだ?」

 獰猛どうもうな牙のような視線が由を刺す。背にかばった永が小さくおびえた吐息を飲み込む気配がした。大丈夫だ、永。心の中で、由は永に微笑みかける。

「この金は、貴方がつけた、俺と弟の値段です」

 クメキの視線を正面から受けとめて、由は続ける。

「ならば、俺たちは、この金で、貴方から買うことができるでしょう」


「俺たち、ふたりの、安全と自由を」


「……成程」

 クメキの瞳が牙をおさめ、柔和な影が修飾する。

「悪くない交渉だ。だが、大切なことを忘れているよ」

 由に向き直り、一歩、距離を詰めると、クメキは由を見下ろした。

「価格がついたものを手に入れるには代金を支払わなければならない法はあるが、逆に、金を積まれたからといって、必ずしも売らなければならない法はない」

 売る側が、売ることを拒めば、買う側は、買うことができないのだ。

「しかし、私にも、私なりの条理はある。……良いだろう。君と遊ぶのは今回限りにするとしよう。君たち、ふたりに、もう手は出さない。どこへでも、

 由の手から、札束を受け取る。僅かに口の端に冷笑を引き、クメキはきびすを返した。ぞろぞろと、側近の男たちも店を出ていく。

「……行こう、永」

 永の手を取り、ぎゅっと繋ぐ。一歩、踏み出せば、店の客が、波を分けるように避けていった。声を掛ける者は、ひとりもいない。誰も彼もが、由から目をらし、一切の関わりを拒絶している。店主さえ、カウンターの向こうで肩を震わせながら背中を向けていた。

 だから由も、何も言わずに店を後にする。目を伏せて、振り返ることなく。

 彼らの選択は、間違っていない。権力者に抗った人間と関われば、どんな火の粉が降りかかるか知れない。

「……ごめん、永。今すぐ、この街を出るよ」

 弟の手を引き、夕闇の迫る街路に出る。吹きつける北風は冷たく、まもなく冬が来ることを教えていた。

 ふたりだけだった。世界で、たったひとりの弟と、ふたりだけだった。

 守るのも、守れるのも。

 信じるのも、信じられるのも。

 凍えていく世界の中で、ただひとつ、繋いだ手だけが温かかった。


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