Act.1-2
この街の朝は早い。出稼ぎに行く者たちの姿が、駅に向かって続々と増えていき、彼らに朝食を提供する屋台の灯が、夜明け前の薄闇を払っている。
「おはようございます」
「あぁ、由くん。おはよう。今日もよろしくね」
スープを売る屋台だった。若い女性の店主が、大鍋を掻き混ぜながら振り返って微笑む。以前、店主が客に絡まれていたところを通りかかった由が仲裁し、それをきっかけに、由は店主の子供たちが学校に行っているあいだ、配膳や店番の仕事をさせてもらえるようになった。
「ふたりともは雇えなくて、ごめんなさいね」
由に弟がいることを知った店主は、そう言って苦く笑った。
「いえ。俺だけでも雇っていただけて、ありがたいです」
由は微笑んだ。大人でも仕事にあぶれる街だ。店主の子供たちが、由を雇うことに反対していることは知っていた。給料なんて渡したら、自分たちの取り分が減るじゃないか、と。
「銅貨三枚だけだから。それだけしか渡さないから、良いでしょう」
「分かったよ。でも気をつけてよ、母さん。いくら誠実そうに見えたって、
そんな会話が、由の背中で交わされていた。
警戒されるのも道理だと、由は思う。この街に暮らす、親のいない子供の一部は徒党を組み、窃盗や恐喝といった犯罪を繰り返していた。実際、由もかつて、仲間にならないかと誘われたことがある。
「お前が由だな。賭け事が強くて、揉め事の仲裁も得意なんだって? 俺たちのリーダーが、お前に興味を持ったんだ。どうだ? 俺たちのグループに加わらないか?」
勧誘に来たのは、二の腕に刺青をした、十五歳くらいの少年だった。
由は首を横に振った。なぜ? と相手は眉を
「俺たち親のいない子供は弱い。だから、群れて強くなる必要があるんだ。分かるだろ? それに、俺たちのグループに入れば、強い大人の支援も保護も得られる。誘いを断るなんて、ばかだよ」
「分かるよ。でも、君たちのグループには入らない」
「なんでだよ」
「一度、法に触れる仕事をすれば、以降、法に触れない仕事はできなくなるから」
その一線を越えたくはない。……今は、まだ。
由は静かに答えた。はっ、と相手の少年は、吐き捨てるような、
「真っ当ぶりやがって。あぁ、そうだな、お前がやってるのは賭博だけ。しかも、ここじゃあ、賭博は違法じゃねぇもんな。でもな、綺麗事でいつまでも生きていけるほど、この街は甘くないぜ。せいぜい、弟と一緒に、いつか冬を越せずに野垂れ死ぬが良いさ」
刺青の少年は
朝の客足が途絶え、昼のピークを前に追加の食材を調達するため、店主の女性は市場へと出ていった。店番を任された由は、ひとり、鉛色の寒空を見上げる。由が想うのは、たったひとりの家族である弟、永のことだ。
今日も弟は、仕事をもらうために駅へ行っているのだろう。永はまだ小さいから、働こうとしなくて良いのだと、何度も言っているのに……。
「由くん!」
不意に、張り詰めた声が飛んできて、由の思考を引き戻した。振り返ると、食材の入った紙袋を手に、店主の女性が息を切らして駆け寄ってくる。
「大変よ! 永くんが……っ」
弟の名前に、由の顔色が、さっと変わる。
「どこで、何が?」
「市場から戻る途中の……ホテルの前で……永くんが、男の人に殴られているのを見たの……男の人、すごい剣幕で……只事じゃなかったわ」
「分かりました。教えてくださって、感謝します」
目を伏せて、由は頭を下げた。
「すみません、店のほうは……」
「もちろん、店はもう良いから、行ってあげて」
「ありがとうございます」
屋台を出て、街路に飛び出す。人の流れにぶつかりそうになりながらも、駆ける足を速くはやくと急き立てて。
数分後、由が到着したときには、現場には小さな人だかりができていた。
「もう許してやれよ、旦那。ここらの子供には、よくあることだ」
「そうだよ。貴重品の入った鞄を預けるなんて、いくらなんでも無防備すぎだ」
野次馬の中から、恐るおそる、相手を
「なんだと? この街は、盗人の子供に味方するのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
人だかりの中心にいる男が、声がしたほうを
男の足元では、幼い少年が、片頬を赤く腫らして膝をついている。永だった。
「信じてください。俺は、貴方の時計を盗ってなんかいません。本当です」
痛みと恐怖に震えながら、それでも両手を握りしめて顔を上げ、永は必死で無実を訴えている。そんな永に、男は鼻を鳴らした。
「口では何とでも言えるだろう。だがな、状況はどうだ?
「……それは……」
「警察に突き出さないだけ、ありがたいと思え。……来い。部屋でたっぷり仕置きをしてやる。それで許してやろう」
口の端でにやりと笑い、男は永の腕を掴むと、無理やり引きずり、立たせようとした。
「待ってください」
凛とした声が、その場の空気を打った。由の声だった。人だかりを越えて、男の前に歩み出る。
「なんだ? お前は」
男は眉を寄せ、鋭い眼光で由を睨んだ。由は静かに、男を見上げる。
「兄です。状況は分かりました。……そのうえで申し上げます。弟は、潔白です」
「はっ、物的証拠がないから、儂の言いがかりだっていうのか? こいつが盗んで、仲間の誰かに、すれ違いざまに渡したのだろう。状況証拠は、いくらでもある」
「その状況証拠が、こちらにもあると、申し上げているのです」
「なに?」
男は目を細め、由を見下ろした。野次馬の視線が、由の横顔に、一斉に集まる。
「まず、弟の腕を掴んでいるその手を離していただけないでしょうか。それから、そこにある貴方の鞄を、どうか持ってみてください」
一言ずつ、丁寧な発音で、由は言った。男は
「ほら、持ったぞ。まったく……この鞄は、この通り、重いのだからな、荷物運びの仕事を頼むのは道理だろう」
「ええ。俺が示したかったのは、その鞄が、貴方のような大柄な大人の男でも無意識に両手を使って持つような重さであるということです」
「なんだと?」
「歩きながら鞄の中から何かを取り出すためには、どうしても鞄を片手で持たなければならない。果たして、まだ五歳の弟が、たとえその一時だけでも、その重い鞄を片手で持てるでしょうか」
「何を言うかと思えば……必死になれば、持てた可能性だってあるだろう」
「……そうですか。では、もうひとつ。その鞄は、
「それがどうした」
「鞄の
そこで一度、言葉を切り、由は静かに視線を周囲に巡らせた。
いつしか野次馬の数は増え、大きな人だかりとなっている。固唾を呑んで見守る彼らを一瞥し、由は視線を男に戻した。
「今すぐ、この場に警察を呼び、目の前で証明してみせましょうか。弟の腕の長さでは、この鞄を持ったまま中の物を取り出すのは不可能であることを……もちろん、その場合、俺は、貴方を、弟に対する傷害罪で訴えることも可能になりますが……」
「はっ、笑わせる。犯罪まみれの浮浪児の訴えなど、誰が聞くものか」
「この街の警官にも、良識のある人はいます。それに、弟も、俺も、窃盗を含めて、前科は何もありません」
静かに男を見据える由の瞳の中で、男の顔が憎々しげに歪む。その眉が、何かを思いついたように、片方、上がった。
「あぁ! そうだ、思い出したぞ。そういえば途中、そいつは、鞄を一時、道端に下ろしていたのだ。だから、儂は不安になって、ここで荷物を確認することにしたのだ。あぁ、きっと、あの時に――」
「そこまでにしてもらおうか」
カツン、と硬い革靴の音が、刹那、冷ややかに空気を打った。由が相対していた男よりも、さらに上質な外套をまとった、背の高い、若い男だった。明るい金髪を、オールバックに流している。
「貴殿の負けだ。これ以上は、見苦しい」
「なんだ、貴様は……」
ぎりりと歯ぎしりをして、年かさの男は、徐に現れた若い男を睨む。
「やめるんだ、旦那」
人だかりの中から、焦りで上擦った、
「その方は……この街を取り仕切っている組織の……ボスの右腕だ」
「いかにも」
声を受けて、若い男は、笑みの形に目を細める。
「貧民街とはいえ、我々にとっては大事な
年かさの男を見下ろし、若い金髪の男は、さらに笑みを深めた。ナイフの切先のように鋭い眼光だった。
「わ……わかっ……た……」
察した年かさの男が、
「なかなか綺麗な顔をしていたからな……っ、ちょっと可愛がってやろうと思っただけだ……っ」
それだけ言って、そそくさと荷物を両手で抱え、ホテルの階段を駆け上がった。
「やれやれ……あれが弁明のつもりか」
金髪の男が、呆れたように
「しばらく見させてもらったよ。なかなか弁が立つね、君。名前は?」
「……由です」
「ユキト、か。良い響きだ。憶えておこう」
にこりと笑みを置いて、男は
「永」
由は身をかがめ、永と視線を合わせて微笑む。
「もう大丈夫だ。早く帰って、傷の手当てをしよう」
「……ごめんなさい、兄さん……」
「永は何も悪くないよ。謝る必要なんてない」
そう言って、由は微笑んだまま、永に背中を向けて膝をつく。意図を察した永は、慌てて首を横に振った。
「足は何ともないから! 歩けるよ!」
「良いから、ほら、おいで」
由が促す。永は、きゅっと唇を引き結び、おずおずと、兄の背中に負ぶさった。
永の体は、まだ小さく震えていた。兄に顔を見られないで済むことに心がほどけたのか、やがて由の肩に、ぽつ、ぽつ、と温かな雫が滲んでいく。声を殺して、兄の背中で、弟は泣いた。悔しさ、怒り、悲しみ……様々な感情が、幼い心に抱えきれずに溢れていく。
俺は狡いな……。
永の体を背負い直しながら、由は胸中で小さく苦笑する。
弟が我慢しないで泣けるように、顔を見ないでいるために、兄は自分を負ぶってくれたのだと、弟は思っているだろう。
それは嘘じゃない。けれど、それだけでも、ない。
顔を見られずに済むのは、由も同じだった。
上手く笑顔を作れなかった。弟の前では必ず笑顔でいると、ずっと笑顔でいるのだと、心に誓っているのに。
だから、今だけは、見ないでくれと、背に負った。弟が泣き止むまでには、もう一度、ちゃんと笑顔を描けるようになっておくから、今だけは、笑顔でいられない自分を赦してくれと、自分自身に乞い願った。
弟を傷つけられた。誰よりも、何よりも、大切な弟を。
許せなかった。憎んでいた。恨んでいた。人も、世界も、由は、もうずっと。
この世界は、なぜ、善良な人間が報われずに虐げられ、害されるのだろう。
幸せは、今ここにないものから手に入れるものではなく、今ここにあるものから見つけ出すべきものだと、聖者は説く。ならば由は、聖者に問いたい。温かい寝床で眠ることは、空腹を抱えずに迎える朝は、暴力に
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