海沿いの道で
次の日、朝早く目が覚めた。いつものように顔を洗い、朝食の準備をする。今日は日曜日なので、ゆっくり眠らせてあげようと思い、私は一人でコーヒーを飲む。
しばらくして、キッチンで音がしたので振り返ってみると、そこには寝起きの隆宏がいた。
「おはようございます。香奈さん」
「あら、ヒロ君、早いのね。まだ六時前なのに」
「僕も昨日は緊張して眠れなかったんですよ」
隆宏は笑顔で答える。
「ふぅん、そうなんだ。まぁ、とりあえず、顔洗ってきたら?」
「そうします。あ、それと、香奈さん」
「なぁに?」
「お願いがあるのですが」
「なぁに?」
「なんでもありません」
隆宏はそう言うと、私に背を向けた。そして、そそくさと、顔を洗いに行った。
朝食を食べながら、隆宏は何か大事なことでも決めるみたいに私に言った。
「午後からちょっとお出かけしませんか。もちろん、香奈さんの予定さえよければですけど」
普段とは少し違う表情に戸惑いながら、私は尋ねる。
「いいわよ。どこに行きたいの? でも、急にどうしたの?」
すると隆宏は照れたような笑みを浮かべる。
「えっと、この近くに大きな植物園があるじゃないですか。そこに行きたいなって思って。ダメですか?」
「ううん、全然オッケーだよ。じゃあ、帰りにアイスクリーム買おうね。私、チョコレートアイスが食べたいな。それで、公園で一緒に食べよう」
私たちは、十五分ほどの距離を歩いて、近くにある植物園に着いた。植物園は広くて、いろいろな植物が植えられていた。花が咲いているエリアもあれば、木が生えているだけのところもあった。
私は、隆宏に尋ねてみる。
「ねぇ、ヒロ君、ここに来たかったの?」
「はい、そうなんです。香奈さんとここに来たかったんです。香奈さんと二人で、この風景を見てみたくて」
「ふぅん、そうなの。それはよかったわね。それじゃ、せっかくだから、いろいろ見て回りましょう。きっと素敵な景色がたくさんあるはずよ」
「はい、ぜひ」
私たちの目の前には、一面の青い空が広がっている。波の音が聞こえる。鳥の声も聞こえてくる。潮の香りもする。遠くの方では飛行機雲が見える。
風が気持ちよく吹いていて、汗ばむ陽気だ。遠くに黄色い自転車の看板が見える。あれはレンタサイクルだろうか。
こんな日に近くを散歩するだけなんてもったいない。そう思った私は
「気持ちのいい天気ね。こんな日にはサイクリングなんて最高じゃない?」
と言って、遠くにある看板を指さす。
「そうですね。せっかくだから、自転車を借りてどこかに行きましょうか。そうだ、どうせだったら二人乗りのやつ」
と隆宏が言う。
「うん、賛成。二人で自転車を漕いで、それでどこまでも走っていけたら素敵よね」
二人乗りの自転車は、二つサドルがあって、二人で漕ぐタイプの自転車。隆宏が前に乗って、後ろに私が乗る。
隆宏は後ろを振り向いて私に話しかける。
「香奈さん、準備はいいですか?」
「いつでもオッケーだよ」
「それじゃ、出発!」
隆宏は勢いよくペダルを踏み込む。私も隆宏に合わせてペダルを漕ぐ。
自転車はグンと加速する。スピードがどんどん上がっていく。
隆宏は叫ぶ。
「うぉー、楽しい! もっと速く走りたい!」
「ヒロ君、飛ばしすぎないでね。危ないから」
「わかってますって。大丈夫ですよ。それより、もっとスピード出しちゃいますね」
隆宏はさらに自転車の速度を上げる。
自転車は、まるで、空を飛んでいるかのように、ぐんぐんと進んでいく。普段はタクシーで通り過ぎる海沿いの道路を、自転車で走っている。
隆宏は叫ぶ。
「気持ちいいですね、香奈さん」
「えぇ、気持ちがいいね、ヒロ君」
二人は笑い合う。
この二人乗りの自転車は、思ったよりも相手の身体を感じることができる乗り物だ。上り坂で私の力が足りないときに、隆宏が力強くペダルをこぐと、私の体がぐっと前に加速される。隆宏が力一杯こいでいるときには、私が少し力を加えることで、隆宏は少し楽になった様子を見せてくれる。私はそれが嬉しくて、何度も隆宏にお願いをする。
「ねぇ、ヒロ君、もう一度、漕いでみてくれない?」
「いいですけど、どうして?」
「ほら、もっと私も一緒に漕いでみたいかなと思って」
「無理しないでくださいね。僕は、香奈さんが後ろにいるって感じられて幸せですから」
「そうなの? なら、いいんだけど」
「二人で自転車に乗るのがこんなに楽しいとは思いませんでした」
「本当ね。ずっと二人でこうしていられたらと思うわ」
「僕も、そう思っていますよ」
自転車は海岸沿いの道を抜けて、市街地に入る。私たちは風になったように町を駆け抜ける。街を抜ければ、またすぐに海岸に出る。
「なんだか懐かしい感じがしますね。僕たちが初めて出会った場所が、このあたりでしたっけ」
「そうだったかしら。もうずいぶん前のことのように思えるけれど」
「香奈さんと過ごした時間は、とても濃密で大切な思い出ばかりですよ」
「ありがとう。私にとってもそうよ」
隆宏はハンドルを握りながらつぶやく。
「ここで香奈さんと出会っていなかったら、いまの自分はなかったかもしれません」
「そんなことはないと思うよ。だって、私が隆宏と出会わなかったとしても、あなたはいつか誰かと出会うだろうし、その人と恋をするはずだよ」
「そうかもしれないですけど……」
「それに、もしもの話をしたところで、何も変わらないよ。過去を変えることはできないのだし、未来は誰にもわからないのだから」
「確かにそうですね」
「とりあえず今日のところは、二人でのんびり過ごせればいいかな。あとは、ヒロ君のやりたいことをやろう」
「僕のやりたいことですか?」
「うん。何かやってみたいこととかないの?」
「そうですね。たとえば、海沿いを散歩したりとか。できればこのままちょっと遠くまで行ったりとか。どうですか?」
「うんうん、わかる。それじゃ、そういうことにしよう」
「いいんですか? うれしいな」
「いいに決まっているじゃん」
「それじゃ、どこに行きましょうか?」
「そうだねぇ……、どこがいいかな?」
「やっぱり、あそこかな」
「あそこって何ですか?」
「ほら、前にヒロ君と行ったことのある海辺だよ」
「あぁ、そういえば、二人で一緒に夜の海に行きましたね」
「そうそう、そこでクラゲを見たじゃない」
「はい、覚えています」
「あの時のクラゲって、まだいるのかな?」
「どうでしょうね。ちょっと季節ではないかもしれません」
隆宏は、二人乗りの自転車を運転しながら言う。
「行ってみますか?」
「行こう行こう。クラゲを見るぞぉ」
「はい、レッツゴー!」
隆宏の運転する自転車は、ぐんぐんとスピードを上げていく。海沿いの道をしばらく走ると、大きな砂浜が見える。私たちは、自転車を降りて歩く。
「いい天気で気持ちがいいね」
「本当ですね」
隆宏と私は手をつないで歩き出す。砂に足を取られないように注意して歩く。少し行くと、潮騒が聞こえてくる。そして、波打ち際が見えてきた。
「クラゲがいるといいですね」
「きっといるよ」
波打ち際に近づいていくと、足に冷たい感触があった。
「ひゃっ」
私は声を上げた。
足元を見ると、数ミリの大きさの、ピンク色でぷにぷにした生き物がたくさん泳いでいた。
「これは、オニヒトデの赤ちゃんですね。こんなところでめずらしい」
丸い形をしたまんじゅうみたいな生き物。よく見ると、瘤のような短い腕が十本くらい生えている。隆宏は、その生き物に指先でつんと触れた。
「あっ、動いているね。ヒトデなのに、まだ五角形じゃないんだ」
「はい、なんだかかわいいですね」
隆宏は私にその生き物を差し出した。
「はい、香奈さん」
「ありがとう」
私は隆宏から受け取ったヒトデの赤ちゃんをじっと見つめた。
「どうかしましたか?」
「うぅん、なんでもないよ」
「もしかして、怖いですか?」
「まさか。ただ、不思議なだけ」
私はそう言うと、ヒトデを海に放した。ヒトデはゆっくりと沈んでいった。残念ながら近くの海にはクラゲはもういなかった。
私たちは手をつないだまま、海に向かって歩いていった。空を見上げると、真っ青な空が広がっている。太陽の光がキラキラ輝いている。私たちはゆっくりと時間をかけて、砂浜を歩いた。
やがて、目の前に大きな海が広がった。波が静かに寄せたり引いたりしている。風が吹くと、海面が揺れて、私たちの身体に水滴が跳ねかかってくる気がする。
「いい天気で気持ちがいいね」
「本当ですね。絶好の海日和です」
「海はきれいで好きだな」
「はい、好きです」
思い切って大きな声で叫ぶ。
「海ーっ! 大好きぃっ!!」
私たちは砂浜に並んで座っていた。
隆宏の距離が近い。私は恥ずかしくて
「そんなにくっつかないで。私、汗臭いから」
と言ったら、隆宏は
「気にしないでください。全然平気です」
と言って、私の肩に手を置いて引き寄せた。
「ちょっとぉ、やめてよ」
「どうして?」
「だって、みんな見ているよ」
「大丈夫。誰も気づかないから」
「でも……」
「お願い」
隆宏は私を抱き寄せる。
「ちょっと、ヒロ君」
「いいから、いいから」
隆宏は私の唇にキスをした。
「ヒロ君、誰かに見られたらまずいよ」
私は顔を赤くして照れる。
「大丈夫。誰にも見られないから」
自転車を漕ぎすぎたせいだろうか。すっかり汗をかいてしまった。まだ日が高い時間だったけれども、私たちはアイスクリームを買って、自宅に帰ってシャワーを浴びることにした。
バスルームから出て来ると、隆宏が後ろを向いて待っていた。私はいつもの通り下着一枚。バスローブを脱いで、ベッドに横になる。
隆宏は私に言う。
「ごめんなさい。先に謝っておきます」
「別に構わないわ」
「今日もたくさん触ります」
「好きにして」
隆宏は私に抱きついて、キスをする。
「ヒロ君、好き」
「僕も好き」
隆宏は私を仰向けに寝かせると、胸に吸い付く。
乳首を舌で転がされる。
私は「ん……」と声を上げる。
さらに、もう片方の胸を指でいじられる。私は「あっ……」と小さく悲鳴を上げて、腰を動かしてしまう。隆宏は「かわいい」と言って、私のおへそに口づけをして、そのまま、どんどん下へと移動していく。
私は隆宏の手をつかんで、隆宏のことを止める。
「ねえ、そろそろお願い」
私の手には化粧水の瓶があった。
うつ伏せになって、背中を隆宏に向ける。隆宏は私の背中に化粧水をたっぷりとつけて、手のひらで塗り広げる。
「ああ、気持ちいいわ」
撫でるようなタッチで、背中をマッサージしてもらう。
「ああん」
私は甘い吐息を漏らす。
「ヒロ君の手、とっても気持ちいい」
隆宏は黙って私の体を愛撫し続ける。
やがて隆宏は手を止めると、私の背中にキスをして、自分の胸を押し当ててきた。隆宏は何か小声でつぶやいて、私の首筋に優しくキスをする。
「香奈さん、好きです」
隆宏の目からは涙がこぼれている。
「ヒロ君、泣かないで」
「無理ですよ」
「ヒロ君」
「だって、ずっと我慢していたんですから」
「もう泣かないで」
「僕は香奈さんのことが大好きです」
「わかっているよ」
「今もこれからも大好きです」
「ありがとう」
「香奈さん」
「なあに?」
しばらく黙っていた隆宏は、やがて真面目な顔で答えた。
「僕、いまお世話になっている会社に就職するのはやめようと思うんです」
私は驚いて言う。
「あんなに気に入られているのに、いいの? 本当に」
「僕、今とは別の会社で必ず一人前になってみせます。そうしたらかならずカナさんのことを迎えに行きます」
隆宏は涙を浮かべている。
「待っていてください。絶対に後悔させません。カナさんを幸せにして見せます。約束します」
私は少し驚いた。けれども、隆宏のために言うべきことがあると思った。
「ありがとう。ヒロ君。気持ちだけで十分だよ。ヒロ君は優しいね」
私は微笑んで言った。
「カナさん……」
「でも、ごめん。ヒロ君は私なんかじゃなくて、もっと未来のある女性を好きになった方がいいよ」
「…………」
「私は、ヒロ君に幸せになってほしいんだ。私のせいでヒロ君が不幸になるのは嫌なの」
「カナさん、そんな悲しいこと言わないで下さい。僕はカナさんと一緒にいられるだけで幸せなんですよ」
「ヒロ君、ありがとう。でもダメなものはダメなのよ」
「カナさん、お願いです」
私は隆宏の頭を撫でる。しかし、私はこの男を私の手の中で腐らせてはいけない。
夕方になって、近くの中華料理店で夕食を食べる。二人で食事をしながら、いろいろな話をした。仕事のこと、プライベートなこと、これからやりたいこと、過去の思い出話など。楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
そんなわけで、私はこの日、わざわざ近くのホテルに泊まって、隆宏と一緒に眠った。それはあまりに罪深く、甘くて優しい夜だった。
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