一つ屋根の下で
隆宏はダイニングのテーブルの上に突っ伏して、いかにもやる気がなさそうな声で、私に抗議の言葉を吐く。
「香奈さん、いくらなんでもそれはひどいですよ」
私は自分の身体を見おろして言う。
「ごめんね。弘樹といるときにはいつもこうだから」
私はお風呂上がりに、ショーツ一枚、いわゆるパンイチの格好でバスローブを羽織ってリビングを歩いていた。そしてダイニングの椅子に腰掛けると、両方の乳房をテーブルの上に置いて、うちわを使って下から扇ぐ。さすがに隆宏には気を遣って、上からタオルを掛けて、致命的なところを隠してはいる。
隆宏は頭を上げて、上目使いに私を見上げる。いかにもやる気のない感じで彼は言う。
「旦那さんのいない家で、そんな無防備な姿にならないでくださいよ。いろいろ見えちゃいますし、いろいろ想像します」
私はゆっくり、言い訳じみたことを言う。
「しょうがないじゃない。こうやってよく乾かさないと、胸の下の方が蒸れて大変なことになるの」
そう言いながら私はパタパタと小刻みに風を送る。
隆宏は突っ伏したまま、首を横に振る。
「ああ、僕はそんなこと知りたくなかったなぁ……」
私は隆宏の嘆きを無視して、話を続ける。
「ひどい格好だとは思っているわ。悪いけど、ちょっと別の部屋に行っていてくれたら、うれしいんだけど」
隆宏は突っ伏した姿勢のまま答える。
「どうしてダイニングなんです? もっと人目のつかないところでやってくださいよ」
「だって、このテーブルが一番冷たくないのよ。他は大理石とかでしょう」
隆宏は体を起こして、呆れたように言う。
「わかりましたよ。こんな姿を毎日見せられたら、僕は女の人に興味がなくなるかもしれないです。責任取ってもらいますよ」
私は笑いながら答える。
「大丈夫。あなたはちゃんと女性に反応するわ。何度も確かめたもの。私が保証する。だから安心して」
隆宏はまた、テーブルに突っ伏す。
「僕、泣きそうですよ。本当に。もうちょっと言動に恥じらいを持ってください。お願いします」
私は隆宏の言い分を聞き流すと、隆宏に
「ヒロ君、わるいんだけど、洗面所に行ってベビーパウダー、持ってきてくれる?」
とお願いした。
隆宏は無言で起き上がって、けだるそうに歩いていく。
「まったく、僕の憧れと純情を返して欲しいですよ……」
そう言いながら洗面所に消える隆宏の背中には哀愁が漂っていた。
私との生活にゲームみたいなラブコメ的展開を想像していたのだろうか。だとしたら残念、これが現実です。隆宏もいつものように部屋にこもっていれば良かったのに。弘樹の代わりに話し相手になってくれようとして、こんなことになっている。
隆宏が戻ってきた。手にはベビーパウダーの丸い入れ物。
「ありがとう。ごめんね。いつも弘樹がいるときにはこうだったから」
と言い訳しながら、私はベビーパウダーをぱたぱたとはたく。
そして隆宏を気遣う言葉を探そうとする。
「えっと、もしよかったら、ヒロ君、向こうの部屋でテレビでも見ててくれないかしら。ほら、風邪引くといけないし」
隆宏はテーブルに突っ伏したまま首を振る。
「いいですよ。ここで香奈さんを見ています。早く服を着てください」
私はため息をつく。
「ここにいても良いけど、せめて見ないでくれるかしら。恥ずかしいし、申し訳ないし、すごく困るのだけど」
隆宏はまた、力なくテーブルに突っ伏す。
「なんですか、それ。ひどいですよ。男心がわかっているようで、わかっていない」
隆宏は結局見たいのか見たくないのか。
どちらかはっきりしないのは私もちょっとムズムズする。
「ごめんね。でも、男の人がこういうことを嫌がるのは知っているの。だから、お願いしているのに」
隆宏は頭を横に振った。
「違います。そういう問題じゃないんですよ。香奈さんがどう思っているか、わからないことがショックなんです。あと、普通、女性の方は、夫や彼氏でもない人に肌を見せるのって抵抗があると思うのですが」
私は軽く笑って答える。
「あら、ヒロ君はもう家族みたいなものじゃないの。私の裸を見たいの?だったら、見せるわよ。見たいのなら、下着にまでなら脱いであげる。ヒロ君の前で服を脱いだことは何度もあるし、いまさらよね」
「……いえ、けっこうです。自分でもわけがわからないくらい混乱しています」
「やあねぇ。そんな深刻な顔をしないで。ヒロ君のことが嫌いで言ってるんじゃないのよ。ただ、私はヒロ君とセックスする気はないだけ。そこはわかって欲しいかな」
隆宏はうつむいて頭を抱えた。
「あの、僕、香奈さんの言っていることが理解できないです。好きな女性と二人きりで部屋にいられるというのに、手を出さない理由がどこにあるのでしょうか。しかも、目の前で無防備に体を晒しているのに。香奈さんは、やっぱりどこかおかしいと思いますよ。貞操観念がずれている」
「そうね。それはたまに言われる。気をつけるわ。とりあえず、私はもう少ししたら寝間着を着てくるので、それまではそっとしておいてもらえたら助かるのだけど」
私は寝室に行き、着替えて戻ってくる。
「ごめんなさい。お待たせしました。これでいいかしら」
私は部屋着のパーカーを羽織り、その下にはTシャツを着て、ホットパンツを穿いている。
隆宏は絶望した様子で下を向いて答える。
「あ、はい。なんか、すいません。僕が慣れていないせいですね。もういいです。わかりました。極力見ないようにします」
私はにっこりと微笑む。
「ありがとう。そうしてくれるとうれしいわ」
隆宏が何か言いたげにしているので、私は尋ねる。
「なぁに? 他にまだ、何か言い足りないことがあるの?」
隆宏は口ごもっていたが、思い切って切り出した。
「いえ、香奈さんが気にしていないなら、それでいいんですけど。でも、ひとつ確認しておきたくて」
「うん? 何だろう? 遠慮せずに聞いて」
「その、香奈さんと弘樹さんは同じベッドで眠っているのですか?」
私は吹き出す真似をして答える。
「なにそれ、どういうこと?」
「いや、つまり、夫婦の営み的な話ですよ」
「あっはははははは! そんなわけないでしょう。私と弘樹よ。ありえると思ってるの?」
「思っていますよ。だって、香奈さんはかわいいし、弘樹さんもやさしいし、素敵なカップルだと思っているので。正直、憧れているといいますか、理想です。あんなふうになれたら幸せだろうなって」
「やだ。私たちが幸せなのは認めるけれど、体の関係はもう無理よ。少なくとも、いまの弘樹とは。多分、昔みたいに戻れたとしても。結婚して、いろいろなことがあると難しいのよ。いろいろとね」
「うーん。それも寂しい現実ですねぇ……」
何を思ったのか、隆宏は突然私を見つめて言う。
「それにしても、香奈さん、スタイルいいですねぇ……。ほんと、すごいです」
「いや、褒められても嬉しくないんだけど」
いやらしい視線を感じて、とっさに両腕で胸を隠す。
「いや、本当に綺麗ですよ」
「ちょ、ちょっと、やめてよ。触らないで!」
隆宏は身を乗り出して私の胸をさわろうとする。
「大丈夫ですよ。減るものじゃないし」
「ダメ。セクハラで訴えるわよ」
「ちぇっ。残念」
隆宏はテーブルに突っ伏したままでいる。
「あの、香奈さん。僕はあなたが好きです」
「……いきなりどうしたの?」
隆宏はテーブルの上で頬杖をつく。
「いや、やっぱり香奈さんのことが好きなので、香奈さんにも僕のことを好きになってもらいたいんです。だから、ちゃんと隠してほしいなと」
「えっと、それはごめんね。気をつけるようにするわ」
私が申し訳なさそうに謝ると、隆宏がさらに続けてきた。
「いや、香奈さんが隠してくれるなら、べつにいいんです。できればもう少し気をつけてほしいだけで」
「わかった。これから気をつけるね」
***
次の日、朝早く目が覚めた。いつものように顔を洗い、朝食の準備をする。
今日は日曜日なので、ゆっくり眠らせてあげようと思い、私は一人でコーヒーを飲む。
しばらくして、キッチンで音がしたので振り返ってみると、そこには寝起きの隆宏がいた。
「おはようございます。香奈さん」
「あら、ヒロ君、早いのね。まだ六時前なのに」
「僕も昨日は緊張して眠れなかったんですよ」
隆宏は笑顔で答える。
「ふぅん、そうなんだ。まぁ、とりあえず、顔洗ってきたら?」
「そうします。あ、それと、香奈さん」
「はい」
「あの、お願いがあるのですが」
「なぁに?」
私は隆宏が母親に甘える無垢な子供のように見えて、ついかわいらしく思ってしまう。彼はいずれ蝶になって飛んで行ってしまう運命だろう。私は隆宏に何か懐かしい愛着を感じていて、どうすればこの芋虫を自由に飛び立つ蝶にすることができるのか、私はずっとそればかり考えていた。
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