私の中のパンデモニウム

 それは雨期も初めの頃のことで、朝から少し曇り空だった。私は毎週のように隆宏の家に遊びに行っていて、くだらない遊びやどうでもいい話をする日々だった。その日もそんな感じの一日を過ごすつもりだった。


 私が隆宏の家に着いたときには、隆宏は今週のレポートをほとんど書き終えていた。

「あとは提出するだけ」

 隆宏は私が来たことに気がつくと嬉しそうに言った。


「ヒロ君、ずいぶん手が早くなったのね。この間まであんなに苦戦していたのに」

 私は少し嫌味っぽく言う。隆宏が、

「僕だって成長するよ。カナさんにコツを教えてもらってから、絶好調で。このままだと優等で卒業できるかも」

 と言うので、私は

「よかったわね。じゃあ、これからも頑張らなくちゃね」

 と言った。


 私の声が厳しく聞こえたのか、隆宏はちょっと困った顔をした。

「うん。だから、これからもよろしく」

 隆宏は言った。


 それからしばらく話をしていた。しかし、きょうは隆宏の様子がいつもと違っていた。何だかそわそわしてる。


 気になって訊いてみた。

「どうしたの? なんか落ち着かないみたいだけど?」


 すると隆宏は答えた。

「実は、カナさんに見せたいものがあって……」

 そう言うと、隆宏はベッドルームに行って、小さな箱を持ってきた。箱に入っているのはネックレスだった。


「これ……カナさんに似合うと思って」

 そのネックレスは花をモチーフにしたものだった。シルバーのキャストで、花の部分がガラスになっている。チェーンは、たぶんロジウムのメッキ。


 私はそれを見て、推定三十ドルかな、と思った。値段はともかく、デザインはかわいかった。


「かわいいね。ありがと。大事にする」

 私は、そう言って笑顔を見せた。隆宏は、ホッとしたような表情をした。


 この日、私たちはマリオカートをして遊んだ。普通にゲームするだけだと当たり前だから、罰ゲーム付き。ゲームが終わるたびに勝った方が負けた方を十秒間くすぐるのだ。


 言ってはなんだが、私はマリオカートが得意だ。大学時代に同じことを弘樹とやって、勝てるように必死に練習して、おかげで弘樹のことを散々くすぐり倒したから。


「ほら、また私の勝ち。覚悟なさい」

 と言って、隆宏をこちょこちょとくすぐる。

「ちょっと待って、ちょっと、脇の下はだめぇ」

 隆宏は悲鳴をあげる。


「よし、もう一回」

 隆宏の無謀な挑戦は続く。


 一時間近く遊び続けた頃。隆宏はずいぶん上達していて、何度も私に勝ちそうになっていた。


 私も真剣に勝負をするようになった。

「次こそ勝つぞ」

 隆宏は言った。私は笑みを浮かべて答える。

「かかってきなさい」


「よっしゃ!」

 隆宏が雄叫びの声を上げる。ゴール前、私は最後のカーブで狙いすぎてスピン。コースアウトしてしまった。

「あーん、もう! 悔しいっ」


「それじゃあカナさん、遠慮なく行きますよ」

 私は涙目になって隆宏に訴える。

「ちょっと待って。心の準備が」


 隆宏はわざとらしく両手をワキワキと動かしながら近づいてくる。

「ゆるしてぇ〜」

 私もわざとらしく身を捩る。


 隆宏が私をくすぐりはじめた。

「ひゃっ! きゃぁはははははは!」

 隆宏は容赦ない。私のおなか、腋、首筋と、次々にくすぐってくる。

「ぎゃああああっははははははは!! ギブ、もう許してえ!!」

 私は笑いながら言った。


「もう、エッチなのは反則よ」

 私が少しむくれてみせると、隆宏は

「だって触りたかったんだもん……」

 と悪びれることなく言い放つ。


 いつもの絶妙な雰囲気。気がつけば三時間が過ぎていた。


 お互いにくすぐり疲れて、少し休憩している時だった。


 隆宏が急に真面目な顔で私を見つめた。私たちは無言で顔を近づけてキスをする。隆宏が舌を入れて私の口の中を探る。唾液の交換。甘い。


 隆宏は私から離れると、私のことを抱きしめて胸に顔を埋める。そして、私に囁いた。

「いい?」

「う、うん……」

 なんか雰囲気がちがう。私は恥ずかしさのあまり、消え入りそうな声で返事をする。


 隆宏は私のブラウスの前を開けて、ハーフカップのブラをつけたまま、胸を露出させた。


 隆宏は、いつものように鼻を胸の谷間に埋めて、私の匂いを嗅ぐ。そして私は隆宏の頭を撫でてあげて、ぎゅっと抱きしめてあげるのだ。


 これをしばらく続けた後、最後に私が隆宏を満足させてあげて、私たちの「ごっこ遊び」は終わる。この時、私はそう思っていた。


 ところが今日はいつもと様子が少し違う。


 隆宏は私の胸に顔を埋めたままで、

「カナさん……してもいい?」

 と言い出したのである。


 私とセックスしたいと言っているのだろう。隆宏が私にこんなことを聞くのは初めてだ。


「だめに決まってるでしょ!」

 私は反射的に怒鳴ってしまった。

「でも……したい」

 隆宏は、まるで子供が甘えるように、私に言った。

 しかし、ダメなものはダメなのだ。

「だめよ」

 私はもう一度はっきりと答えた。

「お願いだよ」

 隆宏は懇願する。私は首を横に振る。しかし、隆宏は食い下がる。

「一回だけ。ほんとに」

 私は毅然とした態度で隆宏を拒絶する。

「ダメ。絶対にダメ」


 すると隆宏はもういちど私の胸に顔を埋めてきた。分かってくれたのかなと思ったのも束の間。


 彼の手は私の後ろに回っていて、一秒もかからない早業でブラのホックを外してきた。


(ヒロ君。すごい、一体どこで練習したの?)

 驚きを隠せない私だったけれど、さすがにそんなにのんきなことを言っている場合ではない。


 ブラが外れて先端が露わだ。私は、とっさに胸を隠して、「キャッ」と声を上げた。それは普通の状態ではなく、乳輪がぷくりと膨んで、乳首はピンと尖っていた。


 私は慌てて胸を手で隠すと、部屋を出てトイレへ駆け込んだ。鏡を見ると、私の方もすっかり興奮している。


 こんな状態の胸を隆宏に見られてしまった。どうしよう。トイレから出たら襲われるかもしれない。しかし、このまま籠もりっぱなしにというわけにもいかない。


 ブラを元に戻して、胸の先っぽが目立たないようにして、トイレを出る。


 私は、おそるおそるリビングルームに戻っていった。

 隆宏はソファに座って、私のことを待っていた。


「ごめんね、カナさん」

 と隆宏は言った。隆宏の表情からは怒りも悲しみも感じられない。ただ、とても寂しそうだった。

「もう、しないでくれるよね」

 私は言った。念を押しておかないと。


 隆宏は黙ってうなずいた。これで、終わったはずだ。


「じゃあね、ヒロ君。また来るね」

 と私は言って、玄関のドアを開ける。隆宏は黙って手を振って私を見送ってくれた。たぶん私がこの家に来ることはもうないだろう。


 私は帰りがけに考えた。


「ダメ男製造機」

 そういえば昔、美菜子にそう言われたっけ。


 私は彼に何をしてしまったのだろう。


 もし彼があのままセックスできていれば、彼は男性として一段成長することができたのだろうか。私は彼を安全なおもちゃにすることで、彼の成長の機会を奪い、男性としての尊厳をも傷つけてしまったのではないだろうか。


 そう考えたとき、私の頭に学生時代の弘樹とのことが浮かんだ。


 何度お願いしても、どうしてもセックスしてくれなかった弘樹。私は気がつかないうちに若い弘樹を同じように傷つけていて、そのなれの果てが現在の弘樹なのかもしれない。


 私は罪深い女なのか? もしかしたら私の中には、男性をサナギのまま腐らせてしまう、悪魔のような毒蠅の性質があるのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る