密室だけどゲームじゃない
隆宏の家は少し路地を入ったところにあって、タクシーで直接乗り付けることができないようだ。荷物の量が多くて、隆宏だけでは持ちきれない。しょうがないから私もいくつか紙袋を持ってあげた。
私が隆宏の自宅を訪ねるのは初めてだ。今日は絶対に玄関先で帰る。そう思っていた。
ふとポツポツと雫が落ちてきた。空が暗い。この時期の雨はすぐに激しくなる。傘なんて役に立たないほどの土砂降り。急いで向かわなきゃ。
近くで雷鳴が鳴っている。早く行かないと。隆宏は、私が持っている荷物の片方を取って自分の腕にかける。もう一方の手を握られる。そして、そのまま手をつないで走る。
心臓がバクバクした。胸が高鳴りはじめた。どうしたらいいかわからない。顔が火照るのが分かる。耳まで熱い。隆宏に手を取られて、これから変なことをされるんじゃないかと考えている自分が恥ずかしくて仕方がない。
私たちは走った。ただ走るしかなかった。
「もうすぐです。あのアパートメント」
隆宏が指さした先は少し古い集合住宅だった。庭の片隅で大きな金木犀が咲き乱れている。
あと三十メートル。そう思ったところで、私たちは全身ずぶ濡れになっていた。
***
隆宏の自宅に着いたときには、二人とも下着までぐっしょりと水浸しだった。
「とりあえずシャワー浴びてください。風邪ひいちゃいますよ」
隆宏はバスタオルを渡してくれる。
「うん、ありがと」
私は素直に受け取って浴室に入る。いくら南国の夏とはいえ、雨に濡れたままでは寒かった。
着替えはどうしようか。いま身につけているものは、下着以外はすべて脱いで自宅で洗濯するしかない。下着は……なんとかして乾かさないと。タオルに挟んで、あとはヘアドライヤーで乾かせるくらいで我慢かな。だって独身男性と二人きりというのに、つけないというわけにも行かないでしょう。
下着さえなんとかなってしまえば、それ以外の着替えについては隆宏に借りればなんとかなりそうだ。なんかこういうのって、彼氏彼女の関係みたいでいいかもね。
「ヒロ君、悪いけど、着替えを貸してくれない? この格好じゃ外に出られない」
「いいですよ」
隆宏はタンスの中から、適当なTシャツとハーフパンツを取り出してくれた。
「サイズ合わないかも」
「平気だよ。ありがとう」
温かい湯を浴びると、冷え切った体がじんわりと解きほぐれていく。
「ああ、気持ちいい」
私はシャワーを止めて、頭を振る。長い髪が広がって、毛先が踊るように揺れた。
脱衣所に戻って、生乾きの下着をつけて服を着る。そして気がつく。平気じゃなかった。隆宏が貸してくれたTシャツは、胸がちょっときつかった。隆宏が華奢なのか、私が大きいのか、またはその両方か。とにかく、このパツンパツンの格好で隆宏の前に出ることはできない。
この状況で、手に入る着替え。さっきお店で買ったアオザイしかない。大丈夫かな。試着室での隆宏の目線はちょっと怖かったけれど、いくらなんでも襲ってくるようなことはないでしょう。
胸を押さえながらリビングに行って、買い物した袋からアオザイを取って戻った。さいわい、隆宏は玄関先で濡れたものをいろいろと片付けていたみたいで、鉢合わせしなくて済んだ。
「ヒロ君、おまたせ。シャワー空いたわよ」
着替え終わってバスルームのドアを開ける。隆宏はなにか緊張しているのか、びくりとして、こちらを見る。
「あ、はい、分かりました」
隆宏が立ち上がる。
隆宏が私の方を凝視している。なんか目つきがいやらしい気がする。
「髪、濡れてるよ。シャワー浴びないと、風邪ひくわよ」
雰囲気を変えたくて私は言った。すると隆宏はハッとしたような顔をして、
「あ、はい、すみません。すぐに入ります」
と言って、バスルームに駆け込んだ。
お互いに腫れ物に触るようで、ちょっと変な雰囲気。外を見れば雨はまだ降り続いている。けれども止むのは時間の問題だろう。こんな危険な状況からは一刻も早く抜け出さなければならない。
私はリビングのソファに座って、隆宏のシャワーの音を聞きながら、部屋の中を眺める。
(本当にきれいにしてあるなぁ)
本棚もテーブルもクローゼットも、何もかもがきちんと整頓されている。でも、少し殺風景かもしれない。花の一つも飾ればいいのにと思う。奥にはベッドルームが見える。布団が乱れているのに気がついて、余計な想像が頭を過る。いかんいかん。そんなことを考えたらダメだ。私は首を振り、自分の邪念を払う。
妄想が膨らんでしまって、いま隆宏が戻ってきたら困ったことになる気がする。いたたまれなくなった私は、逆に隆宏に声をかけることにした。
「隆宏、大丈夫?風邪引かなかった?」
「は、はい、僕は大丈夫です」
隆宏の返事は心ここにあらずといった感じだ。どうしたんだろう、
「隆宏、どうかしたの? ボーッとしているみたいだけど……」
「い、いえ、何でもありません」
隆宏の声が動揺しているのは明らかだった。
シャワーから上がった隆宏に私は訊ねた。
「隆宏、なんか様子がおかしくない? どうしたの?」
「べ、別に……なんでもありませんよ」
隆宏は答えようとしない。その様子でなんとなくわかったから、私はこれ以上追及するのは止めた。ごめんね、大事なときに声かけちゃって。だが隆宏はアオザイフェチで確定だ。
隆宏はキッチンの方に歩いていった。
「アイスクリームバー、食べますか?カナさんの分もありますよ」
隆宏にしてはなかなか気が利く。この蒸し暑い天気で、私もちょうど食べたいところだった。私は大きな声で元気に返事をする。
「食べる!」
「はい、どうぞ」
隆宏が棒付きアイスを差し出すと、私は遠慮なく受け取った。
棒付きアイスを綺麗に食べるのは難しい。独りで食べるときには、かぶりついたり、口の中に含んでちゅぱちゅぱと吸ったり、先の方をペロペロなめたり、そういうやり方でもOKだけれど、こういったものを女性が男性の前で食べるのにはそれなりの上品な食べ方がある。加えてせっかく買った新しい服を着ているのだ。アイスの白い濃厚なミルクをこぼしてしまってはたいへんだ。ゆっくり慎重に食べる。
「アイス、溶けちゃいますよ?」
「あ、ヒロ君、ごめん。お皿ある?こぼしちゃったらたいへんだから」
「すみません。気がつかなくて」
隆宏はもう一度立ち上がって、食器棚を漁ってくれた。そして小さめのガラスのお皿を出してきた。
「これでいいですか?」
「うん、ありがと」
私はさっきから、隆宏の視線が気になってしょうがない。三秒に一回は私の胸を見ている。気になるのだろうか。いくらアオザイマジックがかかっているとはいえ、この執念には感心してしまう。欲しいなら少し分けてあげてもかまわないくらいなのに。
「あの、ヒロ君、あんまり見つめられると困っちゃうんだけど」
私がそう言うと、
「えっ、あっ、す、すいません」
隆宏は謝って下を向いた。別に責めているわけじゃないんだけど……。
私は気まずくて黙っていた。独身男性と個室で二人きり。おまけに二人は風呂上がりで、私はアオザイ姿、そして手には棒アイス。こんなに気まずいことはない。
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