布の服は武器

 隆宏からのメールは深夜に届いていた。朝になって、私は思わず顔が綻ぶのを止められなかった。たった三行のメールなのに、油断するとにやけてしまう。


「お、何かいいことがあったのか」

 弘樹が私を見つけて、声をかけてきた。


「あら、分かる?」

「そりゃあね」

「古い友達から送ってもらったメールが、ちょっと面白かったの」

「ふうん。そりゃあよかった」

「あら、どんなの、って聞かないの?」

「女の会話に首突っ込むほど野暮じゃないよ」

「あら。そうなの」


「それからカナちゃん、この間の結婚記念日、一緒にいられなかっただろ」

「そうね」

「すまなかったね。せめてと思って、記念の指輪だけは取り寄せてあるから。ずいぶん遅れたけど、昨日届いたらしい。今度いっしょに見に行こう」


 弘樹は本当に素敵な男性になった。男の子っていうのは、どうしていつの間にか私たちを追い越して行ってしまうのだろう。


(ごめんね弘樹。あなたには迷惑かけないから)

 そう思いながら、私はトイレに籠もって隆宏からのメールを読み返した。


 ***


 私が隆宏と出かけたのはその翌週のことだった。目的はズバリ、服装の改善。この男にファッションというものを教えてやろうと思ったのである。


 今日の目的地はシンガポール最大のショッピングモール、オーチャード・セントラル。ここには世界中のあらゆるブランドの店が入っているので、服を買うにも事欠かないはずだ。


「さ、ヒロ君。まずはここで服を買いましょう」

「僕は別にこれでいいですよ」

「でも……せっかくカッコいいのに勿体ないよ。服とか買わないの?」

「うーん、あまり気にしたことがないです」

「気にしたことがないって、どう言う意味?」

「あんまり服が欲しいと思わなくて」


 この無関心ぶりはなんだろう。この年頃の男の子と言えば、女性に興味津々で、 そのために精一杯努力するものと思っていたのに。


「ヒロ君、もしかして女の子に興味ないの?」

「そんなことはないですけど、ただ、別にいいかなって」

「良くないでしょ。せっかく男に生まれたんだから、ちゃんとした服ぐらい着ようよ」

「すみません。やっぱり似合わないと思います」

 隆宏は少しだけ申し訳なさそうにする。

「あのね、そうやってすぐにあきらめるのもダメだよ」

 私がそう言っても、隆宏はひたすら困惑しているようだ。


 私は思った。この消極的な反応、いつもと違うのは、日本に残してきた元恋人とやらに何か原因があるのかな。だとしたら、ファッションよりもそっちが優先かもしれない。


 それはそれとして、今日は私が隆宏を着せ替えて遊ぶのだ。


「ねえ、ここの店で、ヒロ君の着るシャツとズボンとパンツを選んであげてもいいかな」

 さらっとセクハラしたけど、バレてないよね。

「え、僕の?」

「うん」

「僕、こういうの苦手で」

「いいの。ヒロ君が着ればいいの」

「いや、でも僕なんかにこんなの」

「遠慮しないで。試着室、こっちにあるから」

「着ていくところもないんですけどね」

「そんなこと言わずに着てみてよ。絶対ヒロ君に合うと思うから。ね、お願い」

「ええ、わかりました」

「ありがとう!それじゃあさっそく着替えてみよう」


 隆宏に着替えてもらう。

「どう?似合ってるでしょ」

「はい、よく分かります」

「ほんと?嬉しいなあ」

「なんかちょっと照れくさいですね」

「じゃあ、次はこれを着てみて」

「あの、もういいですか。僕そろそろ帰らないと」

「もうちょっといいでしょ。まだ来たばっかりなんだし」


 隆宏は私に逆らえない。結局何枚も服を着替えさせられる。私は隆宏のファッションセンスをすこしばかり向上させたと満足して、次のステップに進む。


「もう疲れた。休ませてください」

「何言ってるの。あとは美容院に行って髪を整えてもらいなさい」

「なんでそんなことを」

「なんでもいいでしょ。とにかく行ってきなさい」


 隆宏は渋々出かける。私は一仕事を終えて、満足感に浸りながらコーヒーを飲む。

「はあ、やっと終わった。今日は久しぶりに動いたわ」


 あれこれ考えているうち、隆宏が美容院から戻ってきた。コーディネートした服に合わせて髪型を変えたら、すっかり垢抜けて素敵になっていた。


「ほらっ、見違えちゃった!」

「あ、ありがとうございます。なんかちょっとだけ雑誌のモデルみたいになってるような気がします」

 モデルと比較するとはいい度胸だ。だけど、実際そんなに悪いわけじゃないよ、と私は心中で思った。


 この人はもっと女性に関心を持った方がいい。そう思って私は

「ヒロ君、私の服も選ぶから、付きあってよ」

と言った。隆宏は正直うんざりといった表情だったけれど、おとなしくついてきた。


 さて、どんな服を選ぼうか。


 若さに任せて一緒に下着を選んだりするのも憧れるけど、三十代既婚の私がそれをやると、痴女・セクハラ案件になりかねない。


「ヒロ君、あなたは私にどんな服が似合うと思う?」

 無難なコースで行ってみることにした。


「知りませんよ。そんなことは旦那さんに聞けばいいんじゃないですか」

 そりゃもっともなご意見ね。ごめんね機嫌悪くさせちゃって。でも私は負けない。


「ねえ、お願いだから教えてよ」

「いや、いいですよ」

 私は食い下がる。

「たまには若い人の意見も聞いてみたいのよ」

「うーん、仕方ないなあ」


 あちこち歩いて、隆宏はひとつの服を指さした。

「これ、いいと思います」


 隆宏が選んだのはアオザイ。ベトナムの民族衣装で、いま私たちの目の前にあるのは、若い女性が着るやつだ。色は白か水色。布地は薄くて涼しそう。ちょっと透けてる?


 アオザイは、デザイン的には上下のツーピースの衣装。大きな特徴は、上のピースから前後に布が垂れていて、スカートのように膝丈まで伸びていること。前後の布の間は深いスリットになっていて、足から腰上くらいまで、すっぱりと切れ込んでいる。もし上だけを着たとしたら、脚からお尻、脇腹までがチラチラと見える、かなり大胆な構造だ。


 もっとも、普通は長ズボンのような下を穿くから、そんな破廉恥な格好にはならない。それでも視線が向かうことは間違いなくて、その流れるようなシルエットと相まって、さすが、女性の美しさを追求した民族衣装であると納得せざるをえない。


 この巨大ショッピングセンターの、数あるファッションの中からこれを選ぶとは、隆宏、なかなかやるではないか。しかしずいぶんマニアックなチョイスだな。クラゲといい、アオザイといい、隆宏はどうしてこう変なものが好きなんだろう?


「えっと、これはどういう趣味なのかしら?」

「いや、そういう服の方が、似合いそうだと思って」

「そう?」

「ダメでしょうか?」


 ここへ来て初めての積極的な発言。少し掘り下げてみるとしましょうか。


「アオザイに何か思い出があるの?」

「いや、べつに」


 恥ずかしそうに俯いて無言。ははぁ。さてはカノジョに着せたりして遊んでいたんだな。


「だれかに着せたいと思ってるの?」

「カナさんに……着てほしくて」

「はい?」


 私にこれを着ろと?


「アオザイ……」

「いやいやいやいやいやいやいや」

「え、だめなんですか?」

「だめに決まってるでしょ。何考えてるの」


 ごめん。私はもうこんなの着れないよ。だらしくなく緩みかけた脇腹をお目にかける羽目になっちゃう。うーん、そういうことならダイエットかな。まあ、今すぐには絶対無理だ。


「無理。普通に無理」

 私がそう言うと、隆宏は

「そうですか……すみません」

 と言って、黙ってしまった。


 ああ、そんな世界が終わったみたいな悲しそうな顔、しないでほしいな。私が困ってしまうじゃないか。まったく、しょうがない奴だ。


 で、着てみた。白は未婚の女性用だそうなので、そこは自粛して水色の方を。


 試着室で自分の姿を見る。


 下を穿いたときから気がついていたけれど、このアオザイはけっこう下着が透ける。今日のは薄いピンク色だからそれほどでもないけれど、青とか黒だったら危なかった。


 それにしてもこのスリット、思ったより深くて、脇の下まで見えるんじゃないかしら。前の方も頼りなくて、少しぺらっと風でめくれたら、おへその方まで丸見えだ。


 試着室の前に隆宏が張り付いている。楽しそうだな。


「カナさん、開けてもいいですか」

「え、待って、だめ」

 私はあわててカーテンをつかむ。

「着替えたら、見せてくださいね」

「わかったから、待ってて」

 隆宏は待ちきれない様子で待っている。


 着替え終わった。あと覚悟も決まった。


「ヒロ君、外、だれもいない?」

「大丈夫です」


 私は思いきってカーテンを開けると、堂々とした足取りで隆宏の前に立った。

「ヒロ君、どう?」


 隆宏は私の方をまじまじと見つめている。

「あ、似合ってますね」

「どうも」


 そうは言いながら、隆宏がじっと見ているのは、脚でもなくお尻でもなく、胸。アオザイは胸元はきっちり詰まっていて肌の露出はないんだけど、ラインはかなり出ていて、ぺらっと一枚布になっているように見える感じのつくりが胸の大きさを強調する。うう。そういうことだったのか。


「ほら、そんなに好きならいくらでも見なさい」

 そう言いたいところだけど、私の方が耐えれない。思わず両手で胸を隠した。


 それに気がついた隆宏はあわてて目線を外して、「あ、ごめんなさい」と謝った。


(ごめんなさい、ベトナムの人)

 隆宏に代わって、心の中で謝罪する。


 しょうがないから私はこのアオザイを買って帰ることにした。ありがとう、ベトナムの人。


 ***


 帰り道は荷物が多くて、私は隆宏をタクシーで自宅まで送ってあげることにした。


 荷物を積み込んで、二人で後ろの席に座る。無言の時間が流れる。私は隆宏の横顔をチラリと眺める。私は

(ダサくはなくなったけど、まだ何かひと味足りないんだよねぇ)

 そう思って彼のことを見ていた。


 隆宏が話しかけてくる。

「あの、今日はいろいろとお世話になりました。本当にありがとうございます」

「うん」

 私は気のない返事をする。


 この様子を見て、

(足りないのは色気だな)

 私はそう思った。思わず彼の指先を眺めた。細いけれど長くて形が良くて、男らしい。


 途端に、ゲイランでの出来事がフラッシュバックした。


(何考えているの。隆宏とセックスしたら終わる。絶対にダメ)

 悶々と考えるうちに、隆宏の自宅近くに着いてしまった。


 隆宏の家は少し路地を入ったところにあって、直接乗り付けることができないようだ。荷物の量が多くて、隆宏だけでは持ちきれない。しょうがないから私もいくつか紙袋を持ってあげた。


 今日は絶対に玄関先で帰る。私はそう思っていた。

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