クラゲの夜
私が隆宏、つまり高田青年のことだけれども、彼を食事に誘ったのはそれから数日後のことだった。
彼にメールを送って、有名なベトナム料理店「ホアンキエム」に招待した。ここはシンガポールでもかなり高級なお店である。こういうお店には待ち合わせのための別室がある。私はジャスミン茶を飲みながら彼の到着を待っていた。
彼がやってきた。時間五分前、まあ合格かな。
「こんばんは、ヒロ君」
「あ、日比野さん、じゃなかったカナさん。お待たせしました」
スーツ姿だ。一目で誂えた品だとわかる。ふーん、意外と決まっているじゃない。
「ヒロ君、いい服を着ているわね」
「ええ、せっかくなので、フォーマルっぽい格好にしてみました」
「素敵よ」
「ありがとうございます」
私たちは乾杯をしてから、前菜を食べ始めた。
「ヒロ君は、どうして留学することになったの?」
「実は……日本で一度就職したんです」
「へぇ、そうなんだ。シンガポールの会社?」
「いえ、日本に本社がある企業です。半年ほど勤めたけど、そこにいても将来があるようにはとても見えなくて。海外のほうがもっと学べることが多いと思ったので、思い切って来てみたんです」
「すごい決断力ね」
「どうしてシンガポールに? 言葉もわからないのに」
「海外で働きたかったので、英語を勉強しながら働けるところを探したんです。そうしたら一番良さそうだったので」
「へぇー、じゃあ最初からここなのね」
「そうですね。最初は不安だったけど、実際に住んでみると暮らしやすいですね」
「そうよね。私もこの国にずっと住んでいるけれど、それなりに良いと思うわ」
「はい。カナさんは旦那さんの仕事の都合でしたっけ。大変じゃないですか?」
「慣れたらどうってことないわよ。私はもともと商社勤務だったしね」
「なぁるほど」
料理が運ばれてくる。お店の人がテーブルの上に食器を置いていった。これは宮廷料理のひとつで、バイン・ラー・チャー・トム。エビの蒸し物を餅状の米粉で巻いたものが、いい香りの葉っぱに包まれている。同じ皿に、はんぺんのようなエビのすり身が添えてある。それぞれヌクマムにつけていただく。
「これ、おいしいです」
「でしょ、エビと米粉の相性が抜群で最高なのよ」
「奥深い感じがます」
「ね。お酒との相性もすばらしいのよ」
私は白ワインを一口飲んだ。辛口のリースリング、アルザス産。
「んー! やっぱり最高!」
「カナさんは本当に幸せそうですよね」
「まあねー。毎日充実しているわ」
でもヒマでヒマでしょうがないんだけどね。
「うらやましいです」
「そう? 私は幸せって自分で作るものだと思っているの」
「なにかコツがあるんですか?」
「えっとね、ヒロ君はどういうときに『自分は幸せ』だって感じる?」
「そうですね……。ご飯がうまいときとか、好きなことをしているときとか」
「うん、それもそうね。そういう瞬間は幸せよね」
「カナさんは違うんですか?」
「私はね、自分のしたいことをして、それが相手に喜んでもらえると幸せなの」
「あぁ、そういうことですか」
「そうそう。そういうこと」
飲み過ぎたのかな。すこしぼーっとしてきた。
「ヒロ君も幸せになってほしいなぁ」
「え?」
「私が幸せにするから」
「あはは、ありがとうございます」
「ヒロ君も幸せにならないとダメだよ」
「そうですね。頑張ります……」
四皿目の料理が運ばれてくる頃には、私も隆宏もほろ酔いになっていた。隆宏はさっきから口数が少ない。お酒を飲んでいるせいかもしれないけれど、緊張しているようにも見える。
「ねえ、ヒロ君」
「はい」
「ヒロ君は将来の夢ってある?」
「将来ですか……。うーん、あまり考えたことがないです」
「じゃあ、今一番やりたいことは?」
「あ、それはあります」
「なになに?」
「じつは僕は、日本に残してきた人がいるんです」
「えっ? それってもしかして恋人のこと?」
「はい、そうです。正確には元恋人ですけど」
「そう……」
「その人ともう一度やり直したいなって思っています」
「……」
「だから、僕、留学が終わったら、一度日本に帰ってみようかと思います」
「……そっか。それは素敵な目標ね」
「ありがとうございます」
「……あのね、ヒロ君」
「なんでしょう」
「もしも。もしもなんだけど。その元恋人がヒロ君との復縁を拒んできたら、ヒロ君はどうするの?」
「うーん、それは悲しいけれど、それでもあきらめません」
「ふーん、そうなんだ」
「はい。その人に嫌われても、自分だけはその人の味方であり続けようと決めています」
「あはは、すごい決意ね」
「はい。たとえどんな結果になっても」
「そう……」
「カナさんは?」
「え?」
「もしそんなことがあったとしたら。カナさんだったらどうしますか?」
「私? 私はね……」
なんて答えればいいんだろう。
「もし元彼に新しい相手がいたら、もちろん応援するわ。私はすっぱりと諦めて新しい人を探す」
「そうなんですね」
「恋愛は出たとこ勝負。今日のヒロ君が昔のヒロ君じゃないように、今日の彼女も昔の彼女じゃないのよ」
「そう……、ですよね」
一通り食事が終わって、デザートと一緒にフォーチュンクッキーが出てくる。クッキーの中に小さな紙切れが入っていて、そこに書かれた内容が占いなのだ。
クッキーを軽く砕いて、中から紙を取り出す。
「カナさん、なんて書いてあります?」
「これはね、『今すぐ行動しましょう』って書いてあるわ」
「本当ですか? すごい!」
「ふふ、占いは当たるわよ」
「じゃあ僕も早速」
「あら、なんて書いているのかしら」
「『あなたは愛されています』だって」
「あはは、それもすごいわね」
「そうですね」
「まあ、いい内容だし信じてもいいんじゃない?」
「ええ、僕も嬉しいです」
会計を済ませて店を出ると、隆宏はスマホで何かを調べているようだった。
「ヒロ君、何をしているの?」
「わっ。いや、何でもないです」
「そう」
「カナさん、今日はごちそうさまでした。ありがとうございます」
「いいのよ。また行きましょう」
「はい」
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「ええと、カナさん。御礼というわけではないのですけど」
「うん?」
「よかったら、ちょっと一緒に来てほしいところがあるんです」
「どこに?」
「内緒です」
隆宏は私の手を握った。手を引かれて、私たちはタクシーに乗り込んだ。
***
「着きましたよ」
そこは夜の海の砂浜だった。後ろから離陸する飛行機の音が聞こえる。チャンギ空港の近くなのかな。
せっかく連れてきてもらった所だけれど、なんということはない砂浜だ。真っ暗で何も見えない。
「ただの砂浜に見えるけれど、ちょっと失礼しますよ」
そう言うと、彼は後ろから私を抱きしめるように、手で私に目隠しをした。
「わわっ、ちょっと」
「静かに……」
隆宏が耳元でささやく。
「暗闇に目を慣らして」
「わかった」
「ほら、周りを見て」
目を開けると、海の上に一面に広がる光の粒が見えた。おびただたしい数のクラゲが光って泳いでいる。
「きれい……」
「でしょう。このあいだ見つけたんです。オワンクラゲがこんなにたくさんいるのは珍しいんですよ」
「すごい、幻想的ね」
「今日は新月ですから、僕が今まで見た中でも一番きれいです。もう少しここで待っていましょう」
「ええ」
すると、海面が少し盛り上がってきた。
「あれは?」
「ああ、あれはオワンクラゲの群れですよ」
「ほんとうだ! あんなにいっぱい」
「ほら、あそこを見てください。大きな塊になっています」
「…………」
光の波が揺らめいている。
「すごい、何これ」
「綺麗でしょ、思った通りだ。喜んでもらえてうれしいな」
私たちは水面を覆い尽くすような無数の発光体を見た。空からの光に照らされて幻想的な風景だ。たくさんの個体があって、一つ一つにがバラバラに光っているように見えながら、時折集まって巨大な光の球を形作るのが見える。まるで生きているみたいに。ひとつとして同じ光り方をしてなくて、「まるで虹のような」という表現がよく似合う美しい輝きをしている。見ていると不思議と癒される。
「ここは僕の秘密の場所なんです。カナさんに見せたくって」
「ありがとう、素敵だったわ」
「本当に来てもらえて良かった」
「あのね、ヒロ君」
「なんですか?」
「あ、やっぱり何でもない」
「変なの。そろそろ帰りましょうか」
「はい」
隆宏が手を差し出してくるので、私はその手を優しく握り返した。
「送ります。タクシーを呼びますね」
***
タクシーを降りて家に帰ると、リビングの明かりがついていた。弘樹はもう帰っているようだ。恐る恐る玄関の扉を開ける。
「ただいまー」
「おかえり。どこに行ってたんだい」
「古い友達と偶然再会してね、食事してきたの」
「へえ、楽しかった?」
「ええ、すごく」
「そうか、それは素晴らしいね」
部屋着に着替えて、一人でベッドに横になる。昔好きだった音楽をなんとなく聴いていたら、心にぽっかりと穴が空いたような寂しい感覚。
隆宏のことを思い出して、にわかに腹立たしい気分になる。
なんだ、隆宏。ちゃんといい服持ってるんじゃない。かっこよかった。じゃあ何なの、この前のダサい格好。ありえない。あれってズボンもシャツもウニクロよね。別に全身ウニクロで悪いってことはないけれど、そういう量産品で揃える場合こそセンスが出ちゃうのよ。ほとんど公害だわ。あんまり酷いから、これほど磨き甲斐がありそうな男はそうそういない、と言っておくわ。
それから、なに。私にあんな素敵なものを見せておいて、そのあと何の連絡もなし? どういうことなの? もしかしてただのクラゲ好き? クラゲマニアなの? それなら一生クラゲと暮らしていなさいよ。私を誘うんじゃなくて、ムラサキカムリクラゲのサキちゃんと海を見に行けばよかったんだわ。ちょっと待って、サキちゃんって何その名前。酷いものね。まったく、彼は女性を大切にする基本がなっていないわ。
隆宏からのメールはその日の深夜に届いた。
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