通りすがりのドッペルゲンガー
通りすがりのドッペルゲンガー
南国の空は蒼く澄んでいて、雲ひとつない日にはどこまでも遠くまで飛んでいけるような気がしてくる。
「……いい天気」
つい独り言が漏れてしまうほどに気持ちの良い空だ。明日と明後日は激しい雨という予報だけど、今日のこの青空を見てしまえばそれも些細なことに思えてくる。
ショッピングセンターのテラスでひと休み。買ったばかりのレモンティーを一口飲んで息をつく。子供がはしゃぐ声。それから後ろの方で大人の男たちの騒がしい声。なにかトラブルだろうか。
振り向くとメガネの青年、というよりは二十代前半くらいの若い男の子が一人、老紳士にむかって必死で謝っている。男の子の手にはコーヒーのカップ、そして紳士のジャケットと男の子のズボンには大きな染み。ああ、これはシミ抜きしてもなかなか落ちないだろうな……。男の子の声は悲壮感に満ちていて、見ているこちらが緊張してくる。
「どうしよう……」
途方に暮れた男の子がつぶやいた。日本語だ。観光客かな?
いつもならこんなトラブルに首をつっこんだりしないんだけど、もしかしたらその男の子の顔立ちに惹かれたのかも知れない。なんとなく若い頃の弘樹に似ていたから、放っておけなかったのだ。
「あの……大丈夫?」
私が日本語で話しかけると、
「ごめんなさい! 弁償します!」
男の子は慌てふためいて言った。
「僕、高田隆宏といいます。言葉が通じなくて」
高田と名乗ったその男の子は泣きそうな顔をしていた。老紳士はシンガポール独特の鈍った英語を話している。日本から来た観光客には聞き取れないのも無理はない。
通訳というほどでもないけれど、老紳士が何を言っているのかくらい私にもわかる。どうやら、高田青年が走り回る子供を避けようとして、老紳士とぶつかったらしい。彼はまだ若いんだから、なんとも鈍くさい話だ。それでよく聞いてみれば、走っていたのは老紳士の孫。老紳士もコーヒーとズボンを弁償する、と言っている。それなら話は早い。
紳士が笑顔で立ち去るのを見届けて、私は高田青年に話しかけた。
「よかったわね。ところで高田さんはどうしてここに? 観光かしら」
「いえ。僕は留学です。S大学の大学院で経営学を学んでいます」
「へぇー、留学生だったんだ。じゃあ将来は日本で起業するのかしら?」
彼は少し困ったような顔をした。
「それがまだよくわかっていません。日本やシンガポールでビジネスをするのもありですけど、どこかに就職するかもしれませんし」
「まあそんなものよね……。まぁとりあえず、今はそのズボンのシミをなんとかしましょうか。放っておくと取れなくなるでしょ?」
近くにあるなじみのクリーニング店に彼を連れて行って、ズボンのシミ抜きをしてもらった。ズボンの生地が厚手だったので完全には落ちなかったけれど、かなり薄くすることはできた。
高田青年は、律儀にも近くのカフェでコーヒーを奢ってくれた。
「すみませんでした。僕のミスで日比野さんの時間を無駄にさせてしまいました」
「別に気にしなくていいのに。こっちの英語、特にお年寄りが話す英語は独特だから」
「はい。気をつけます」
噛み合うようで噛み合っていない会話。彼と話していると、なんだか昔の弘樹を思い出してしまう。
「この御礼はかならず」
「ううん、いらないわよ。ただの通りすがりだし」
「そういうわけにはいきません。これが僕の連絡先です」
「あら、私の連絡先も知りたいってこと? それってナンパ?」
もちろん冗談。けれど彼はそうは思わなかったらしい。
「ち、違いますよ! 僕はただ日比野さんに迷惑をかけたので御礼したいだけです」
「ま、いいわ。教えてあげる」
私は自分の電話番号とメールアドレスを教えた。
「それじゃあ私はそろそろ帰らないといけないから。これで失礼するわね」
「はい。ありがとうございました」
「御礼」って何をするつもりなんだろう。それで連絡先を聞き出したりして、もしかして本当にナンパ?
***
「ただいま」
帰宅すると、いつものロボットが出迎えてくれた。弘樹がよこしたメールによると、弘樹は夕食を外で食べる予定だそうだ。ということは今日も私はひとりぼっちだ。
何不自由のない生活をさせてもらっているのはありがたいけれど、私のことをもっと考えてほしいものだ。夜中に起こされて、それからバックで思う存分突かれて、朝までいっしょに寝る。その数時間だけが二人で過ごす時間だなんてあんまりだ。弘樹も昔はこんなのじゃなかったのに。セックスだけならゲイランのあの青年の方が……。いけない、そんな考えは絶対にダメ!
一人分の夕飯の支度を始める。弘樹は忙しいから仕方がない、と自分に言い聞かせながら。
料理をしていると、スマホが震えた。弘樹からのメッセージで、帰りは深夜になりそうだという内容だった。私は、今夜は友達と食事に行く約束をしてしまったので、私も遅くなるかもしれないという返信を送った。もちろん本当は友達との食事の予定なんか入っていない。これから入れるのだ。
「もしもし、こんばんは」
私は昼間の高田青年に電話していた。
「あれ、どうしましたか? 先ほどはどうも」
「いまから晩ご飯食べに行かない?」
「今から? 僕とですか!?」
驚く声が聞こえてくる。
「ええ。嫌だったかしら」
「とんでもないです! ただ意外だったもので……」
「ふふ、私もたまには誰かと食べたくなるのよ。どうせ家にいても一人だから」
「じゃあ行きましょうか。どこにします?」
私は彼に案内してもらうことにした。
彼が選んだのは、日系の牛丼屋だった。シンガポールにもあるんだなぁ。私は知らなかったよ。
「この店のはすごくおいしいんですよ。それに値段が安いんです」
確かに店内を見回すと、あたりまえだけどいろいろな人種の人がいて、けれども日本と同じように、みんな牛丼を食べている。大きな違いは客席の配置。カウンター席じゃなくてファミレスみたいになっている。
注文はレジのところでするようだ。
「日比野さんは何にします?」
「んー、じゃあ私はこの『特盛』にするわ」
「僕はこの『大盛り』で」
彼はさっそくタッチパネルでオーダーした。
「会計は、私が払うわ」
「え、それくらい僕が払いますよ」
「そんな細かいこと気にしないの」
席に着くと、私は彼に尋ねた。
「ねえ、高田くんは日本人?」
「はい。両親ともに日本人で、僕も日本で育ちました」
「へぇー、それなのにこの若さで外国に出ようなんてすごいわね」
「ありがとうございます。日本にいると、就きたい仕事の就職に不利だってことがわかったんです」
彼は照れくさそうに言った。
「高田くんって、どういう勉強がしたいの?」
「マーケティングの勉強をしています。今は東南アジアに拠点のある企業を中心に研究しているんですけど、将来的には世界に展開していくような企業を志望していて、そのために東南アジアで実際に働くことが必要だと考えているんです」
「そうなんだ。夢があっていいじゃない。でも……大変ね」
「いえ、べつに苦労はしてません。シンガポールに来れば、いくらでもチャンスがあるってわかっていますから」
彼は楽しそうに将来の話をしてくれた。
「じゃあ将来は起業とかも考えているのね」
「はい。でもまだわからないことも多いですけど」
「そのくらい熱意があれば、たぶん大丈夫よ。がんばって」
「ありがとうございます」
店員さんが注文した品を持ってきた。
「はい、こちらが『大盛り』の牛丼ですね。そしてこっちが『特盛』の牛丼です」
彼が目を輝かせている。私にもそんな時期があったかな。
「まぁ、器がすこし違うけれど、見た目はだいたい日本と同じよね。」
「そうですけど、やっぱりちょっと違うんですよ。いただきます!」
彼は早速、箸で牛肉を口に運んだ。
「うん、おいしい!日本の味だ」
「良かったわね」
彼に続いて、牛肉を口に入れる。
「ほんとに美味しいわね。高田くんが気に入るのもわかるわ」
「日比野さんは、どうしてシンガポールに来たんですか?」
「うーん、いろいろあるんだけど……。夫にくっついて来ただけっていうのが一番簡単な説明かな」
「あ、日比野さんの旦那さんってどんなお仕事を?やっぱり金融ですか」
「ん、金融ではないわね。ロボットとか作る仕事をしているのよ。アメリカにある親会社の、シンガポールにある子会社に勤めていて」
「ああ、そういうのもありますよね。最近、よくテレビでやってますもんね」
「あはは、そうかも」
「僕は海外で仕事したことがないので、そういう話を聞くと憧れます」
「高田くんは海外に興味があるの?」
「はい。いろんな国を見てみたいです」
「へぇ、若いなぁ」
「日比野さんはどうなんですか?」
「私は専業主婦になっちゃったから、そういうのはもう昔の話ね」
私は肩をすくめた。すると彼は真剣な顔で言う。
「そんなことありませんよ! 日比野さんはまだまだ魅力的ですよ!」
おや、仕事の話をしていたはずでは?「魅力的」とはこれいかに。
「あら、ありがとう」
私は気がつかないふりをして答えた。
「ありがとう。楽しかったわ」
「あの、またご一緒してもいいですか?」
「ええ、いいわよ。次はどこに連れて行ってくれるのかしら」
「僕、シンガポールに来てから地元の食べ物ばかり食べていたんです。それでそろそろいろいろな国の料理も食べてみたいと思って」
「そう、じゃあ今度は私がエスコートする番ね。まかせておいて。何が食べたい?」
私たちは次の食事の約束をした。いつものランチ会やパーティーの気取った会話とは違う、素朴で全然洗練されていない会話がとても楽しかった。
それにしても似ているな。彼のことを見ていると、不器用でやさしかった昔の弘樹を思い出してしまう。似ていると言うよりも、瓜二つ。いやいや、そんなことあるわけがない。私の頭がおかしくなってしまったのか。昔のことだから、きっと私の記憶の方がはっきりしないんだろう。
「ところで高田くん、私のことをさっきから日々野さんって呼んでいるけれど」
「あっ、すみません。失礼でしたか」
「そんなことはないけれど、こちらの習慣に従って、カナでいいわよ」
「あ、わかりました。じゃあカナさん」
「ふふ、何か変な感じ」
「僕もタカヒロでいいですよ」
「タカヒロ、たしかにそうだけど、ちょっと言いにくいわね」
「こっちの友達は、僕のことをヒロと呼んでいます」
「んー、じゃあタカ、でどうかしら」
「えっ? ヒロじゃなくてタカなんですか? なんだか言いにくそうですね」
「うーん。それもそうね………。じゃあよろしくね、ヒロ君」
そう言って私たちは別れた。
ヒロ君。懐かしい呼び名だ。彼は自分のことをそう呼ぶように言ってきた。偶然? それ以外にはありえないから、偶然には違いない。それでも、何か信じられない奇跡が起こっているように私には思えた。胸の奥深くで眠りについている微かな想いが、そうであってほしいという願望さえ、私の心に囁くのだった。
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